消えた過去からこんにちは 作:雪解けの宵王
「はぁ、はぁ……ここが?」
「うん、光明君が言ってた公園だよ」
足取りが軽い祈ちゃんに手を引かれて、そう時間はかからずに記憶の公園まで辿り着く。息一つ乱してない祈ちゃんの横で荒れた呼吸を落ち着けながら、僕は遠くに見える噴水にピントを合わせた。やっぱり、まだ人のペースに合わせて歩くのはしんどい。
「あ……ごめん……私、少し気が逸ってたみたいで……」
「ううん、お願いしたのは、こっちだから、気にしないで」
振り返る祈ちゃんは今僕の様子に気が付いたようで、晴天の空を思わせる笑顔をどんよりと曇らせる。揺れる声調で気にしてないことを伝えても、彼女の暗雲が晴れることはなかった。でも、まさか普通に歩くだけで体力を消耗するとは思うまい。伝えてなかった僕が悪いのだから、本当に気にしなくていいのに。
「ん……」
「本当に気にしてないよ。案内ありがと、祈ちゃん」
いつまでも落ち込まれていると、とても申し訳ない。だから、しょぼくれる祈ちゃんの頭に手を伸ばしながら、僕はそう口にする。閉じた口から漏れ聞こえる声は、ほんの少しだけ和らいだ。
「あ……っと、ごめん、つい」
「ううん……もう少しだけ、こうしてもらっても、いい?」
それから遅れて、僕は自分が祈ちゃんの頭を撫でていることに気が付く。それは幼い子供を慰めるような手付きだった。無遠慮に女の子の髪に触れてしまっていたのを認識して、僕は強ばった手を離そうとする。けれど、祈ちゃんは何かを懐かしむような表情のまま、撫でることを所望してきた。
「えっと、うん……分かった」
予想外のお願いに僕は一瞬動揺したけど、それを飲み込んで止めていた手の動きを再開させる。今日は考えてもいないことがよく起こる日だ。少しだけ背が高い祈ちゃんの髪を梳くように撫でながら、僕はぼんやりとそんなことを思った。
「ありがとう、光明君」
満足気な顔の祈ちゃんのお礼を受けて、僕はゆっくりと手を離す。人が疎らとはいえ、公園のど真ん中での一幕だ。僅かに刺さる好奇の視線を感じながら、僕は今の奇妙な遣り取りに思いを馳せた。
自然に動いた身体と祈ちゃんが見せた郷愁の想い。きっと、これも前の僕が関係しているんだろう。しっかりと繋がれた手から感じる仄かな熱が、僕にそんな予感を与える。見えた公園とそう変わりのない風景が視界に映し出されているというのも、多分無関係ではなかったはずだ。
「前にも、今みたいに頭を撫でてもらったんだ」
ずっと小さい頃の話なんだけど、と祈ちゃんは僕が考えていることを補足するように話し始める。そんなに分かりやすかっただろうか。
「泣いてる私を慰めてくれて、長い長い私の話を文句一つ言わないで聞いててくれた」
繋がれる手に力が籠る。向けられる視線はとても熱い。いつの間にか足を止めていて、祈ちゃんは真っ直ぐにこちらに向いていた。身体と、きっと心も。目は口ほどに物を言うとは本当によく言ったものだ。
「幼かった私が欲しかったものをくれたあなたのことが────」
────好き。私、光明君のことが好きっ。
僕よりも背の高い祈ちゃんが紡ぐ言葉が、脳裏に浮かぶ小さな女の子と重なる。網膜に映る記憶の断片が、確かに重なった。その真正面から向けられる好意に、僕は。僕は────
「ゆっくりで、いいんだよ」
映像に続く何かを言おうと口を動かして、結局何も言えなかった。口を開けたまま逡巡する僕を見て、祈ちゃんは儚げに笑いながら僕の両手を握ってくれる。何かを求めて伸ばした手は、淡い温もりに包まれていた。
「ごめん……」
一歩手前で止まってしまった僕を、祈ちゃんは何も言わずに慰めてくれる。あの時、僕は何と返したのだろうか。見えた記憶の断片に、僕は歯痒い気持ちで満たされていった。
「ううん。さっきも言ったけど、また会えただけでも私は嬉しいから」
映像の中と立場が逆転して、祈ちゃんは真っ直ぐに想いを伝えてくれる。思い出を忘れてしまった僕と、今でも思い出を大切にしている祈ちゃん。その対比が僕の心を深く抉った。
「それでもまだ、悪いと思っているなら……」
絡め取るように、祈ちゃんの手が僕の右手を包み込む。それから、力を込めてしまった僕の指先をゆっくりと解きほぐしていった。祈ちゃんの白魚のような手が、慈愛を込めて僕の肌を撫でる。じっくりと伝わる感触は、辛うじて柔らかくてすべすべしていることが分かった。
「今も昔も、私はあなたのことをずっと想っているって……覚えておいてね」
照れを誤魔化すように、祈ちゃんの指が僕の手の甲をなぞる。そう言う彼女の笑顔はとても美しかった。夢みたいな言葉に、じわじわと顔に熱が侵食してくる。それは息をするのも忘れてしまうような一瞬だった。
「好きだよ、光明君。記憶があっても、無くても……ずっと優しいままのあなたが」
「返事は待ちます。心の整理もできてないだろうし」
乱した本人が言うのも変な話だけど、と祈ちゃんは照れを隠すように笑う。確かに、驚きと未知の連続で頭も心も追いついていないのは事実だ。一度時間をかけて咀嚼ぐらいはしておきたい。
でも、僕はそれ以上に────
「それでも伝えておきたかったのは、私のワガママ。光明君に記憶を思い出してもらうより、あなたのことが大好きな女の子がいるってことを知って欲しかった」
僕の思考を遮るように祈ちゃんは紡ぐ。潤んだ宝石はずっと屈折することのない光を放っていた。そこに秘められている想いの丈は、今の僕には想像もつかない。
「いの……」
「我慢できなかった。あなたの中から私が消えてしまうのが」
僕よりも祈ちゃんは早く言葉を重ねる。
「それだけは、本当に耐えられない」
そして、再度念押しするように、祈ちゃんは言葉の釘を打ち付けた。それは多分、彼女の根底にある想いそのもの。純粋すぎる熱を目の当たりにして、僕はひっそりと息を呑んだ。
「……記憶を取り戻す手伝いは、私もする」
可視化するほどの熱が、何もなかったようにふっと猛りを鎮める。まるで幻のようだ。でも、それは確かにそこにあった。きっと、僕は今の光景を忘れてはいけない。もう二度とは。
「でも、記憶が戻らなくても……今度は私が振り向かせてみせるからっ」
上気した顔のまま祈ちゃんは可憐に笑う。記憶に戻ってきて鮮烈に刻まれた彼女の姿に、僕は何処となく安堵の念を覚えるのであった。
────人が本当に死んでしまうのは、大事な人に忘れられてしまった時だよ。
少し前に亡くなったお婆ちゃんの言葉が脳裏を過ぎる。忘れてしまったものを取り戻すために
「えっと、あの……そんなに見つめられると照れちゃうから……」
「あぁ、その、ごめん」
ぼぅっと考え事に耽っていると、祈ちゃんの顔色が更に朱に染まった。大胆なことを言ったかと思えば、見つめ合ったままでいると照れてしまう純情さは可愛らしい。難しく考えていたのも解れてしまって、僕も自然と笑みが浮かぶ。
「あぅ……き、今日はこれぐらいにしておくね」
それではという言葉を残して、祈ちゃんは足早に帰路へと着く。去り際の表情は、彼女のこの時期には目立つマフラーと同じ色をしていた。多分きっと、僕もお揃いの色だ。
「祈ちゃん!」
僕は遠ざかっていく祈ちゃんに声をかける。もう細かい表情は分からないぐらいに離れた彼女は立ち止まってこちらへ振り返った。
「また明日、学校で」
「はいっ」
今後どうなるかは分からないけれど、祈ちゃんとは長い付き合いになると思う。
書き終わってから気付いたんですけど、もしかして英傑とかやってました?