消えた過去からこんにちは 作:雪解けの宵王
「ふわぁ……んむむ」
けたたましいアラームの音で目が覚める。今日は四月の十四日。四月も半ばで上がり調子の火曜日の朝は、昨日のほど良い疲労のおかげで身体の具合もばっちりだ。きっかり六時間の睡眠から起床して、僕は軋むような音を立てるベッドからひょいと降りる。
「おはよう。お父さん、お母さん」
それから、ほんのり寝惚け眼のまま朝の挨拶を口にする。二人に向けて放たれたそれは、返ってくることなく虚空へと消えていった。
飾られた写真はいつもと変わらず微笑んでいる。
「ふぅ……よし」
日課の二人への挨拶を終えて、僕は早々にリビングへと足を進める。一人きりの家には、いやに足音が響く気がした。
「あ」
「あ……おはよう、光明君」
すっかり慣れた朝の準備も終えて、僕はそこそこの時間に家を出る。今から学校に向かえばまず遅刻することはないだろう。
そんなことを考えながら鍵を鞄にしまって、ふと視線がかち合った。向けられた赤には物凄く見覚えがある。思わず漏れた間の抜けた声に、祈ちゃんは一足早く挨拶を口にした。
「おはよう、祈ちゃん」
思わぬ出会いへの驚愕から復帰して、僕も同じように言葉を重ねる。歩みを止めて微笑んでいた彼女に並べば、自然と足は同時に動き出した。
「ここに住んでたんだ」
差し込まれるのは意外そうな祈ちゃんの声。家の前を通っていたのは偶然だったらしい。
……教えていないのだからそれはそうだ。昨日は公園で別れたのだし。
「うん、立地も良いところでしょ」
「ふふっ、そうだね」
返す言葉に祈ちゃんは楽しそうに笑う。春先のこの季節には特徴的な赤いマフラーで口元を隠して微笑む姿は、やはり可愛らしい。口には出さないけど本当にそう思う。
「通学路にあるなら……毎日一緒に登校できるねっ」
そう言って祈ちゃんは更に笑みを深めた。眩しいぐらいの笑顔から、祈ちゃんの楽しいという気持ちが爛々と伝わってくる。流石にこれを断る気持ちは湧いてこなかった。ぐいぐいと歩み寄ってくれる祈ちゃんが、今までの交友関係と違って新鮮だ。
「まだ慣れないこともあるだろうし、お願いしようかな」
「うんっ」
僕の返事に祈ちゃんの声は弾む。何と言うか、その感情を向けられるこっちが照れてしまうほどに彼女は光り輝いていた。でも悪い気はしない。彼女にとってこの距離感が自然だったのだろう。そして、多分僕にとっても。
「そろそろ着いちゃうよ」
「ん」
視界に映る同じ制服を身に纏った人が増えてきた頃。祈ちゃんは僕にそう口にする。一応挨拶のために一度訪れているので分かっていたけど、それは口にしなかった。短く返事をして、気持ち前を進む祈ちゃんに追従するだけだ。
「そういえば、祈ちゃんはどのクラスなの?」
遠目に校門が見えてきて、思い出したように僕は紡ぐ。僕と祈ちゃんは同じ様な色合いの制服で身を包んでいるけど、詳しい所属はまだ知らないのだ。昨日は学校とは関係ない話ばかりしていたので。
よくよく考えると同い年であるかも確認していないので、もしかすると祈ちゃんの方が
「その辺りは少し事情があって……私はまだ所属するクラスが決まってないの」
「と言うと?」
しかし、返ってきた答えは予想していなかったものだった。話を聞く限り、何でも体験入学制度という帰国子女用のプログラムを利用して、まだ正式には学校に所属しているわけではないらしい。昨日は僕の話ばかりで全然知らなかったけど、どうやら祈ちゃんもちょっと特殊な事情持ちらしい。
「そっか、じゃあ祈ちゃんとは特殊仲間だ」
何となく零した感想に祈ちゃんは笑う。やっぱり笑顔が綺麗だな。そう思いながら、僕は祈ちゃんを伴って学園の玄関を潜った。まだ下駄箱は用意されていないのだ。
「それじゃあ祈ちゃん、僕はこれから職員室に行くけど」
「じゃあそこまで着いてく」
上履きに履き替えてから僕は祈ちゃんに振り返る。問いかけた言葉には間を置かず答えが返ってきた。ふと、疑問が頭を過ぎる。
「そういえば祈ちゃん」
「何?」
「いや、授業を受けてないなら祈ちゃんは普段学校で何をしてるのかなって」
進み始める足と同時にその疑問を祈ちゃんへと投げた。昨日はお昼頃にあの山にいたけれど、長い学校の時間を祈ちゃんはどうやって過ごしているのだろうか。
「体育の授業を遠くから眺めてたり、あとは本を読んだり?」
「結構その辺りの制限は緩いんだ」
「うん、食堂も使っていいし、基本的に行動を制限されるような規則はない、かな」
授業を邪魔するようならその限りではないと思うけど、と祈ちゃんは締めくくる。そりゃそうだ。
……勉強は大丈夫なのだろうかと心配になるが、この様子を見る限り問題はなさそう。編入を決めかねている要因は分からないけれど、まぁ祈ちゃんにも色々あるのかな。その辺りを訊く時間は職員室の札が見えてきた今、残念ながら存在しない。
「光明君」
「ん、どうかした?」
「お昼は食堂でまた
一旦祈ちゃんともお別れだなと思っていると、呼び掛けが一つ。振り返るのと同時に投げかけられたのは、期待が籠った問いだ。言葉の裏に潜む祈ちゃんの希望が透けて見える。もちろん、僕にそれを断る理由は無い。
「いいよ」
「ふふ、ありがとう」
「気にしないで。僕も祈ちゃんと話したいことはいっぱいあるからね」
それじゃあ、と祈ちゃんと手を振って別れて、僕は一人職員室の入口へと向かう。僅かな緊張を流してノックを二回。これが僕の学園生活の幕を開ける音だった。
「失礼します」
「霊君、入ってきて」
開幕から失礼ではあるけど、大人よりも少女に近い先生の声に従って僕は教室のドアを開ける。一斉に刺さる幾重もの視線には、分かっていても少し驚いてしまう。それを飲み込んでから足首ほどの高さの壇上に上がると、改めて新しいクラスメイトたちへと向き直った。
「えっと、今日からこのクラスに編入してきました。幽霊の霊に
滑り出しは順調だ。クラスを見渡して見える反応を見る限りではそう思う。新しい風を期待してか、皆の顔は続きを望んでいるように見えた。時折聞こえてくる可愛いという声には聞こえないふりをしたけれど。
尤も、自分を高校生と言うには色々と幼過ぎるという自覚はある。
ただ、最優先事項は僕の記憶についてだ。
「あー……っと」
それはさておき、自己紹介の引き出しが早くも底をついた。最近100m走で10秒を切ったという陸上選手も驚きの
何を隠そう、目覚めてからほとんど勉強しかしていないので、趣味という趣味も持っていないのだ。記憶が無い今の僕は驚くほど薄味な人間だった。自分で考えて悲しくなってくる。
「一つ、皆さんに知っておいてもらいたいことがありまして」
なので、直前まで言うかどうか迷っていたことを伝えると心に決めた。一瞬間を置いて呼吸を整えてから、僕はゆっくりと口火を切る。期待に疑問の色が混じった気がした。まぁ、どの道知られるのは遅いか早いかの違いなのだ。今言っても問題はあるまい。心の中でおちゃらけて、上手く緊張を抑え込んだ。
「実は数年前まで鈴ヶ丘に住んでたんですけど、ある理由で記憶喪失になって、そのことを全然覚えてないんです」
友達同士でひそひそと話す声が小さなざわめきに変わる。いきなりのカミングアウトだ。僕もそうなることは流石に分かっていた。
「
だけど、僕は最後まで続ける。深々と頭を下げながらの、これ以上ないぐらいインパクトがある──と思う──自己紹介に、教室には困惑の空気が弾けた。横に立つ先生も少し困り顔だ。
「えっと、その……あと、あんまり前の学校では友達もいなかったので、記憶とは関係無しに仲良くしてくださると助かります」
頭を上げての締めくくりに、妙な静寂が支配する教室に今度はそこそこの笑いが戻ってきてくれた。自虐ネタ──これは事前に用意していた──はウケがいいという話は本当だったらしい。自分で乱した空気はこれでどうにかなったようだ。
気の良い人の賑やかしに思わず笑顔になる。
「それじゃあ、霊君はあそこの空いてる席に座ってもらえるかな」
「はい、分かりました」
ほっとしたような表情の先生の言葉に、僕は若干申し訳ない気持ちを抱きながら頷いて、隅の方にある指定の席へと歩いていく。隣の席は……夢の中の住民と化した男の子が一番に目に入った。朝のホームルーム中に居眠りとは、さては寝不足だろうか。もう一方の女の子に改めて挨拶をしながらそんなことを思う。
まぁ起こすのも悪い気がするし、彼はこのままでもいいか。
「これで連絡事項は終わりっと。皆、みっ……霊君が困ってたら助けて上げてね」
僕が席に着くのを確認してから、先生はそう言ってにっこりと笑う。とても優しい笑みだ。クラスメイトたちも間延びした返事をズレたタイミングで重ねていった。
このクラスなら僕も楽しくやっていけそうだ。そう思うのと同時に
学校に辿り着くまで5話もかかっちゃったのウケるな。