最初に聞こえたものは、悲鳴混じりの懇願だった。次いで、翼竜の咆哮。疲弊した兵たちが食餌の如く食い荒らされ、その臭いに誘われて捕食者の数が増していく。
ワイバーンの牙は、何の感情もなく生命を奪う。戦いですらない一方的な捕食行動は、百年戦争を経験した兵ですら恐れ慄く悍ましさがあった。逃げ出す者が先に喰われたお陰で、辛うじて脱走兵が出ていないのが現状であった。
彼らを鼓舞してきた存在は、他でもないこの国の民が火に焚べた。故に兵たちは光も救いも道標もなく、終わりのない戦いで、ひたすらにすり潰されるしかない。絶望の二文字が、貴賎の区別なく人々の肩にのしかかっていた。
そんな戦火と混乱の最中で、尚も剣を握る者はいる。兵を率いて戦場を駆け、かつても今も変わらずに、祖国を守る者がいた。
「各員、隊列を組み直せ! 方陣を敷いて防衛せよ! 砲の準備が整うまでの辛抱だ、弩兵は彼奴の目を狙え!」
いつかと今日の違いと言えば、戦う相手が人から化物になった事だ。フランスを焦土にせんと虐殺を続ける、竜の魔女。かつて、共に戦った聖女の変貌は、ジル・ド・レェの胸をどこまでも深く抉る。救国の英雄は、それでも、戦いを止めなかった。
「元帥、ダメです! 最早、兵の士気が保てません! このままでは戦列が崩壊します、一度こちらの態勢を整えましょう!」
指揮官の声は、撤退を求める悲鳴に近い。幾度かの交戦で、ワイバーンの恐ろしさは誰もが理解していた。鳴き声だけで兵士の士気は低下し、鋭い爪に誰もが怯えの色を見せた。
だが、これは尋常の戦争ではない。怪物たちの行動原理は、富でも名声でも、ましてや土地や国への献身でもない。餌があり、腹が減る、ただのそれだけだ。生きた肉袋がある限り、特にならない追撃などありはしない。
あれは、そういうものなのだ。胸の内で呟きながら、ジルは忌まわしげに歯噛みする。戦場を駆け抜けた経験、物事を見通す目を養ったからこそ、その絶望が見て取れる。
「保てぬからと逃げ出した所で、待っているのは死だけだ! あの翼竜とて、傷付けば血を流して死ぬ。奴らを殺さぬ限り、我らもこの国も未来はないのだ!」
故に、指揮官の言葉を切り捨てる。死ぬとわかって地獄に突撃させる、冷酷な上官だと呪われようと構わなかった。
どうあれ死ぬのだとすれば、惨めな餌としての無駄死にだけはさせまい。一矢でも構わぬから、戦い、雄々しく死ぬべきだ。兵の運用と彼らの名誉を、秤にかけて思案する。最前列の歩兵隊が壊滅した旨を聞きながら、血が出るほどに忌むべき翼を凝視する。
その視界に、地獄の沙汰としか思えぬ光景の片隅に、奇跡が在った。あるいは、救いを求める弱き心が見せた、都合の良い幻なのか。
「元帥、何者かが戦場に乱入! 我が方の兵を護りつつ、ワイバーンと交戦を開始しました!」
慄き尻込みする兵たちが、壁のように視界を阻むも。急降下する翼竜の喉を穿った
「好機だ、砲兵隊の展開を急がせろ! ありったけの砲弾を叩き込み、この場の敵を撃滅する!」
かの者が如何な存在であったとして、この機を逃すわけにはいかない。伝令を飛ばし、報告を聞き、剣を手に。ひどく高鳴る胸の鼓動を、緩く息を吐き出して鎮めようと試みる。ジルの双眸に、確かな光が宿っていた。
乱入者は確実に敵を抑え込み、それどころか数匹を仕留めてみせたとさえ兵が騒ぐ。そして同時に、竜の魔女が出たという悲鳴も増え始める。
兵の混乱は、さざ波のように広がっていく。はためく御旗は懐かしい、かつての日々と変わらぬもの。それが、兵を護り竜を討つために振るわれるのは、不可解な事に変わりはない。
あの場に在るのが竜の魔女なのだとすれば、何故、兵を護るのか。竜を率いて殺戮をする、それが魔女たる所以であろうに。思案の海に溺れかけたところで、砲兵展開完了の報告を聞き、ジルは踏み止まった。
「目標、敵戦列! 彼奴らを殺す千載一遇、全砲一斉掃射!」
号令と共に轟いたのは、雷鳴じみた火砲の爆音。撃ち出された砲丸が鋼のような鱗を砕き、翼膜を破り引き裂いて、胴に巨大な穴を穿つ。ちぎれて飛んだワイバーンの骸が、体液を散らしながら落下する。
第二射、次いで第三射。耳をつんざく轟音に、その場の誰もの聴覚が、一時的に使い物にならなくなった。きぃん、と頭の奥で響くような不快感に顔を歪めるも、沸くような兵たちのの歓声を肌で感じ取る事ができる。
諸手を挙げて雄叫びをあげる兵の姿は、竜の魔女が蘇ってから、初めてフランス軍が手にした勝利の象徴であった。それらを掻き分け、はやる気持ちに突き動かされるように、駆ける。
「退け、退くのだ! 道を、道を開けよ!」
御旗が、見える。共に戦場を駆け抜けて、フランスを救った聖女の旗が。こみ上げる感情は、感動なのか、それとも自己嫌悪なのか。今のジルには、それすら判別がつかなかった。
「ジャンヌ……貴女なのですか、ジャンヌ!」
人の波を潜り抜け、その後ろ姿へと叫んだ。いつかの戦場とまるで変わらない、ひどく懐かしい背中。ただの田舎娘でしかないと笑っていたあの日と、まるで同じ。
振り返ったジャンヌ・ダルクは、己が名を呼ぶ友人の声に驚いた後、少し照れたように笑った。火刑に処された事など、まるで知らぬかのように。
それもごく短い、ほんの刹那の出来事。すぐに引き締まった表情になると、ジャンヌは誰に聞こえるかもわからぬ声で、それでも確かに友の名を一度だけ呼んだ。
「聞いてください。リヨンは既に、死に絶えています。ワイバーンとは比べ物にならない、恐ろしい敵がいる。我々への追手も、すぐに放たれるでしょう。このままここに留まれば、貴方たちも全滅を免れません!」
最前列の兵たちは、竜の魔女と変わらぬ顔で、自分たちを救った少女の言葉に戸惑いを見せた。ある者はその言葉を信じるべきかと仲間に問い、ある者はこの戦いこそが罠なのではと疑いを漏らす。
兵たちのざわめきの中で、ジャンヌの傍に佇む少年が、何事かを彼女へと告げる。どこか切なげな顔で返答をすると、ジャンヌと少年は何処かへと駆け出した。最後に一度だけ、穏やかな笑顔をジルへと向けて。
「元帥……あれは、いったい、どういう事なのでしょう。ジャンヌ・ダルクは、竜の魔女として蘇ったはずでは……」
「私にも、わからん。わからんが、一度退くぞ。水も砲弾も尽きた今となっては、補給をせねばなるまい。ああ、それから」
罠である可能性も考えはしたが、最終的にジルは、旧友の言葉を信じた。無論、建前としては先の戦闘での消耗を理由にしていたが、彼女が自分のよく知るジャンヌ・ダルクであるという確信があった。
新たな輩らしき少年は、優しげな、ごく普通の子供であった。名も知らぬであろう兵たちの無事を、ジャンヌと共に喜んでいたようにも見えた。殺戮者たる竜の魔女が連れるには、似つかわしくないほどの。
そんな子供が付き従うのであれば、それは魔女でなく、まぎれもない聖女であろう。共に戦った短い日々が、ジルの胸には確かに在った。彼女の言葉を信じる理由には、それだけでも十分だった。
「もう一度、竜の魔女について調べ直せ。シャルル七世を討ったのが、本当にジャンヌ・ダルクだったのか──」
フランス軍と別れてから、鵠佑たちはひたすらに走り続けた。頭上の空は茜に染まり、夜の訪れを示すよう。陽光を遮る森の中ではもう既に、暗い闇が訪れていた。
当然ながら体力の限界は、生身の人間が真っ先に迎える。鍛えたと言っても付け焼き刃、補助があると言っても無限ではない。刺すように痛む肺を休めるため、どうしても足は止まってしまう。
呼吸を整えようとする鵠佑へ、眉を下げた不安げな面持ちでジャンヌが歩み寄った。それを見て、慌てて大丈夫と告げる少年の姿に、ジャンヌは静かに首を振る。酸素が不足した鵠佑の頭は、彼女の仕草の意図を解するまでに多少の時間を要した。
「今日中の合流は、難しいと思います。この森の中を夜通し進むのは危険ですし、ここで野営と致しましょう」
「すみません、助かります……ああ、ドクターにも連絡して、あっちに伝えて貰わないと……」
呼吸を整えながら、ようやく鵠佑も返事をする。ふたりのやり取りを確認していたのか、ロマニは直ぐに通信に応じ、マシュたちが到着した廃砦の位置情報を転送してくれた。全員無事に到達したという連絡に、鵠佑は安堵のため息をこぼす。
「さて……野営となれば、食料と火の準備が必要になります。私は薪を、小太郎さんは食料を調達という役割分担で構いませんか?」
笑顔と共に問いかけて小太郎の了承を得ると、ジャンヌは胸を張って薪拾いを開始した。夜になってしまう前にと、手慣れた様子で枯れ木を見つけ、束に抱えて自慢気に笑う。こういう作業は慣れているのですと、そんな言葉も添えながら。
それは、戦場で見る英霊の顔とも、人々を導く聖女の顔とも異なる、田舎娘と自称するのに相応しい姿だった。ジャンヌに指示を飛ばされて、慌てて鵠佑が焚火の準備を始める。
その様子を見守りながら、小太郎は密やかに、そして楽しげに笑ってから頭上の枝へと飛び乗った。音もなく枝から枝へ、葉を落とす事すらなく飛び移り、ジャンヌの命令通りに食料調達へと赴いた。
「ええと……こんな感じで、良いですか?」
「むむっ……なるほど、思ったよりも慣れていますね。薪の組み方は、合格です。せっかくなので、火を熾すのもお願いしましょう」
何度も練習した成果が出てそれなりのものになったのは、ジャンヌの反応でそれとなく知れた。何処か残念そうな様子を見ると、それが正解だったのかは鵠佑にも判別ができなかったが。
焚き付けにするのは、小枝などの燃えやすいもの。十分に薪を熱してやらなければ、そもそも薪に着火できない。小太郎から教わった初歩的な知識は、確かに覚えている。覚えては、いるのだが。
「………………」
じっと見つめるジャンヌの視線と先ほどの表情で、機微を察するのが苦手であると自負する鵠佑にすら、それとなく知れる諸々。試しに大きめの薪をそっと手に取ると、小さな子供を見るようなジャンヌの柔い視線が、一段と強まったように感じられた。
点火剤も使用せず、支給品のライターを使って、薪の端を炙ってみる。表面が焦げるばかりで火は付かず、そしてジャンヌはソワソワと、鵠佑の背後で機をうかがうように無言になった。数回の試行の後、鵠佑はちらと背後を見やる。口を開くより先にジャンヌが屈み込み、慣れた様子で小枝を折り始めた。
「ふふ、それでは火は点きません。まずはこうした小枝を折って、燃えやすいようにしてあげてください。枯葉があればそれを混ぜるのも良いですね、薪を十分に熱するのがコツなんですよ」
組み上げた薪の隙間に火種を差し込みながら、ジャンヌは静かな声で着火の基本を教える。思わず盗み見たその横顔に目を奪われて、慌てて鵠佑は揺れる炎へ視線を戻した。そうなんですかと相槌を打ちながら、胸の違和感に吐息を漏らす。
「こういうの、あまりやった事がなくて、教えて貰えて助かります」
得意ではない嘘を口にして、鵠佑は手遊びに黒髪を掻き混ぜた。任せてくださいと得意気に言いながら、ジャンヌは薪の様子を確かめ、見るべき箇所を指差して解説を加える。
ぱちぱちと、爆ぜる音。徐々に大きくなっていく炎が周囲を照らし、木々の燃える匂いが鼻をつく。何を言えば良いのかわからずに、鵠佑はただ、赤々と燃える焚火を見つめていた。
がむしゃらに走り続けた旅路の中で、幾度も目にした、戦う聖女の後ろ姿。その姿に憧れて、ああいうものになりたいと、小さな願いを抱いたのは事実。されど今はまた別の、形にならない思いもあった。
「……マスター、ひとつ、お伺いしても良いですか?」
唐突なジャンヌの問いに、何かなと答えながら、鵠佑は瞬きを繰り返した。何故だかじっと見つめるのが気恥ずかしく、青い瞳を見られないまま、曖昧にその顔へと視線を向ける。
「いえ、その……先ほどは、私ひとりで対応するつもりでしたので。マスターが来てくださったのはありがたいのですが、何と言うか……何故かな、と」
もっともな疑問だと思って、鵠佑は笑った。
どうしてだろうねと呟く声に、ジャンヌは傍の少年をじっと見やる。頭上を仰ぎ、暫しの間をおいて、小さな唸り声まであげて。やがて視線を元に戻すと、はにかむように照れ笑いを見せた。
「そうしたかったんです。何もできない子供が、偉そうな事をって感じですけれど……ぼくが、あなたを、助けたかった。どんな些細な事でも、小さな力でも、何かをしてあげたかったんです」
ひとつひとつ、ゆっくりと。思い付く言葉は抽象的で、それは何故かと考えたなら、やはり答えには届かない。それでも、胸の中の感情を、言葉に変えて眼前の人に静かに告げる。何もできてませんけれど、などと、最後にそんな軽口で空気を掻き混ぜる事も忘れずに。
告げた上で、鵠佑はひとり、理解した。確証こそないけれど、別にそれで構わない。きっとそういうものなのだろうと、普段は形のないものが、ぼんやりと輪郭だけでも見えた気がした。それを胸の奥にしまい込みながら、ジャンヌの方をちらりと見やる。
ありがとう。短いひと言を呟く彼女は、聖女ではなく、ひとりの少女の顔をしている。その笑顔を見られただけで胸が踊る感覚に陥るのだから、人はつくづく不思議なものだと、他人事のように思う。
気まずくはないが、どちらも言葉を紡がない無言。またひとつ、火に焚べられた薪がぱちりと爆ぜる音が響いた。
「聖杯に願う事はないのですけれど……実は昔から、弟や妹が欲しいと思っていました。マスターのお陰で、ほんの少し、お姉ちゃん気分を味わえています。貴方には、焚火の準備を教えてあげられました」
失礼な事を言っていたらごめんなさいと、そう付け加えてジャンヌは笑う。鵠佑は首を緩々と揺らして、嬉しいですよと返した。大きく一度、薪が爆ぜる。木の実や茸といった食料を手にした小太郎が戻ったのは、ちょうどその時だった。
物見の結果を報告しながら、小太郎は散策の収穫を小枝に刺して焚火で炙り始める。ジャンヌが真っ先に手伝い始め、必然的に鵠佑もそれに倣う。誰のものが不恰好だとか、見た目の割に味は良いだとか、そんなささやかな雑談が始まるのも直ぐの事。
森の中での一夜は、ひと時の清涼剤となった。この血生臭いオルレアンの地で、様々な事を忘れられる、ほんの僅かで緩やかな時間。夜の帳の訪れまでの、短くとも、とても大切なものだった。
朝焼けの空を見上げながら、マシュはひとり、もう幾度目かもわからないため息を漏らした。
放棄された砦での野営は、何ひとつの問題もない平穏なものだった。そもそもがサーヴァントばかりの集まりであれば、呪詛によって消耗の激しいジークフリートを除き、長時間の休憩は必要がない。だからこそ、マシュは最低限の休息のみで、人間であるマスターの帰りを待っていた。
ロマニの通信で、互いの無事は知れている。だから心配する事などないのだけれど、それでも胸の中の不安は消えてくれなかった。日が昇るよりも前から、彼方の地平線を見て、ただただ彼の無事を祈っていた。
眠気はなく、疲れもない。今すぐ駆け出す事にも問題はなく、馬車での言葉さえなければ、なりふり構わず鵠佑を探しに行っていただろうとさえ思う。彼の頼みこそが、マシュをこの場に繫ぎ止める楔石だった。
君が、ぼくらの守りの要だ。すぐに帰るから、それまで皆を守って欲しい。
強力な英霊を召喚し、あるいはこのオルレアンで邂逅し、そして同時に敵対もした。自分よりもずっとずっと、比べ物にならないであろうほどに強い英霊と出会い、そして共に戦いながら、鵠佑はそう言った。そう、言ってくれた。
誰かの期待や信頼を背負うのは、とても怖くて、同時に誇らしい事だと知った。自分が如何に弱くても、あのひと言が、あの信頼があると知れたから、マシュは託された役目を投げ出さなかった。誰ひとりとして通さずに、誰ひとりとして傷付けずに。正しく、この砦に身を寄せた全員の盾となっていた。
そんなマシュの精神を、英霊たちも信頼した。特にマリーは最初の野営での会話もあってか、何かとマシュに話しかけてくれる。今朝もまたいつもと同様に傍へと現れて、にこやかな笑みと共に挨拶を。そんなマリーとのやり取りは、マシュにとっても心地の良いものだった。
「おはよう、マシュ。マスターの帰りを待っているのね、ずっとなの?」
「おはようございます、マリーさん。……あの、はい。なんだか、寝ていられなくて」
心配なのねと、マリーが問う。俯きながら返事をしようとするマシュの視界に、人差し指が映り込んだ。驚き戸惑っていると、そのままくいと額を優しく押し上げられる。
何事だろうと困惑するマシュを見つめたまま、マリーは無邪気な子供のように、幼子を見守る母親のように、輝かんばかりに笑ってみせた。
「殿方を待つ時は、特に笑顔が大切よ、マシュさん。辛くて苦しい時だからこそ、笑顔でマスターを待ってあげて」
言われて思い出す、森でのやり取り。焦るばかりで忘れていた、王妃からの助言。そうでしたと頷くと、少し困ったように眉を下げながら、それでもマシュは口角を持ち上げて笑顔を作る。少しぎこちなくても、マリーは朗らかに褒めてくれた。
会話が弾めば弾むほど、自然とマシュの表情も柔らかなものになっていく。マリー・アントワネットという人の持つ魅力は、きっとこういうものなのだ。
言葉を交わして笑顔を交わす、ただそれだけで心をこんなにも幸せにしてくれる。それが、マシュにとっては戦いのための力よりも、ずっと美しいものに見えた。
不意に、マリーが彼方を指差して声をあげる。マシュが慌てて顔を上げると、手を振り駆けてくる少年の姿があった。
「見て、マスターたちよ! おかえりなさいを言ってあげなきゃ!」
嬉しそうな言葉に頷いて同意を示しながら、マシュは一歩を踏み出した。最初は普通の歩みであったのが、次第に歩調を速め、最後は駆け足になっていく。数時間しか離れていなかったというのに、まるで何日もその笑顔を見ていなかったかのような錯覚さえあった。
「おかえりなさい、先輩……ジャンヌさんも、小太郎さんも! お怪我はありませんか、風邪などひかれていませんか!」
明け方の空の下、溌剌としたマシュの声が響く。挨拶もそこそこに、馬車を飛び降りた事への謝罪を述べようとするジャンヌを、マリーが笑いながら制した。責めようとする人は誰もいないと、静かに、そして優しい声で。マシュもその言葉を追いかけるように、笑顔で頷く。
照れたような、嬉しそうな、ジャンヌの笑み。それに一瞬目を奪われたものの、鵠佑はマシュの不安を拭おうと両手を広げて回ってみせた。傷ひとつないと、身体中で無事を伝える。その仕草が面白く見えて、マシュは小さな笑いを漏らした。
「ふたりが護ってくれたから、ぼくはただ、見てるだけだったよ。けれど、心配をかけてごめんね」
それは良かったと、マシュが胸を撫で下ろす。ジャンヌと小太郎の両名へ深々と頭を下げる様子に、マリーがくすくすと笑い声を漏らす。 自分の仕草がおかしかったろうかと、マシュがほんのり頬を染めながら、鵠佑に是非を問う。変じゃないよと答える声は、柔く、そして優しいものだった。
「えーと、遅くなったけど、うん……ただいま、マシュ。みんなも無事で、本当に良かった。次は、心配をかけないように気を付けます」
そうして、もう一度。嬉しそうな笑みと共に、マシュはおかえりなさいと繰り返す。その場の誰もが彼女の姿を、穏やかな瞳で見つめていた。
再会を果たした後は、状況の確認が始まる。ジークフリートの呪詛は未だ根深くその霊基を蝕んでおり、ジャンヌの洗礼詠唱でも単独での解呪には至らなかった。
「歯痒いですが、私ひとりでは力不足と認めざるを得ません。これだけの呪いとなると、せめて、ふたりの聖人が必要です」
治療を試みたジャンヌは首を振って、申し訳ありませんと呟くように言葉を零す。鵠佑が僧侶たる胤舜に問うてみても、聖人とは基督教のそれでなければならないと教えられるのが関の山だった。
頭を悩ませる面々に、ロマニの通信が割り込みをかける。確定的な情報でなくてすまないと付け加えつつ、ホログラム越しに身振り手振りを加えながら。
「そうだね……可能性はある。聖杯を持っているのが竜の魔女たるジャンヌ・ダルクならば、聖人が召喚されている可能性はある」
聖女マルタのように、抑止力めいた反動で。例として挙げられた名前に、最初の夜を思い出して鵠佑の眉が少しだけ落ちる。今は感傷に浸る時ではないと、誰に気取られる事もなく、拳を握って肺の中身を吐き出した。
保障もなければ、手がかりもない。それでも、ロマニの言葉に、その可能性に賭けるしかないのだと、この場の全員の思いが一致していた。
最初に手を挙げたのは、マリーだった。安全策とは言えないけれど、手分けをして探す方が良いのではないか。幾人かはその提案を一理あると受け入れていたが、ジャンヌだけは心配そうに言葉を選んでいた。
珍しく歯切れの悪いその様子を見て鵠佑も気になったものの、ジャンヌもマリーに問われた事で最終的には同意を示す形で落ち着く事となった。
「では、手分けして聖人を探しましょう。幸いに、というのも心苦しくありますが、現在のフランス領は半分以下にまで追いやられています」
鵠佑の同意を得て、マシュがこれからの方針を復唱する。誰からの異議もなく、グループの配分をどう決定するかという事に、次の問題は移っていく筈だった。
「思いついたわ、わたし! 今こそくじ引きをしましょう!」
マリーの高らかな宣言にマシュが困惑し、アマデウスは言われるがままにくじを作り始める。一度言い出したら彼女は聞かないのさ、嘯く顔はいつもと変わらず、何処か無理難題を楽しんでいるようにすら見えた。
紐の先が結んであるか、結んでいないか。そんなささやかなくじ引きの結果ですら、マリーは一喜一憂し、心から楽しんでいるようにさえ見えた。すっかりと仲良くなったらしく、ジャンヌとペアになったのが嬉しいのだと、目を輝かせてマリーが笑った。
「そして、僕はマシュ嬢とご一緒と言うわけか。……正直、君と離れるのは不安がある。いやさ、君に不安を感じない時なんてないのだけれど」
「もう、わたしに不安だなんて! ……アマデウス、マシュさんをお願いね。あなた、変な事を言ってはダメよ?」
嗜めるマリーに、アマデウスはいつも通りに肩を竦めてみせる。軽口を叩き合うふたりに、マシュはやはり眩しげな表情で見惚れていた。ああいうものになってみたいと、そう思う光景を前にして、マシュの瞳も輝いていた。
一方で、鵠佑もまた同行者たるサーヴァントとの打ち合わせに一段落を終えた所だった。カルデアで召喚した三騎の英霊はマスターである鵠佑と共に行動させた方が良いとはロマニの判断であり、戦闘不能のジークフリートを援護するにも都合が良い。結果として、この三組に別れての捜索活動が行われる事となった。
それぞれが出立前にもう一度、互いの無事を祈るように握手を交わす。マシュは不安げな面持ちでいながら、鵠佑の手をしっかりと握り締めた。気をつけて下さいと、そのひと言と共に。
最初に手を振るのは、やはりマリーだった。童女のように純粋な、輝かんばかりの笑顔を見せて。傍に立つジャンヌは、静かに一礼をすると真っ直ぐに前を向いて歩み出す。数歩を行く度に振り返って手を振るマリーとは対照的なその姿に、鵠佑もついつい手を振り返してしまう。
「じゃあね、アマデウス! 行ってくるわ! 帰ったら久しぶりに、貴方のピアノを聞かせて頂戴!」
朗らかなその声に応じる声は、ない。アマデウスは珍しくも片手をひらりと揺らしたのみで、何を答える事もしなかった。
三組が聖人の捜索を開始してから、数時間。太陽は既に頂天へと昇り、それまでに数える程度ながらワイバーンたちとの戦いがあった。
東方へ向かった鵠佑、北方へと赴いたマシュからの定時連絡は、どちらも芳しくない結果である事を告げるもの。その一方で、ジャンヌは中継を担当するロマニへ久しぶりの笑顔を見せた。
先ほど出会った避難民が、たったひとりで竜を討つ守護騎士を見たと、そう教えてくれた。そんな真似ができる人間を、この時代を生きたジャンヌは知らない。そうだとすれば、その騎士はサーヴァントの可能性が高い。
ふたりの足取りは自然と早くなり、見える街の輪郭に期待は高まっていく。きっとフランスを救えると、その希望を胸に抱いて王妃と聖女が道を行く。疲れも痛みも全てを忘れて、あとひと息だと逸る心を戒めた。
「そちらで止まってください。貴女がたは、何者ですか」
静かな声だった。ふたりの眼に映るのは、街の入口を塞ぐように仁王立ちとなる騎士の姿。赤銅色の甲冑で身を包んだ、ひとりの男がそこにいた。
「どうか、お話をさせてください。貴方をサーヴァントと見て、折り入っての頼みがあります!」
歩みを止めたジャンヌの呼びかけが、周囲に響く。ふむと小さく呟くと、騎士は剣の柄から手を離し、ゆるりと一歩を踏み出した。ふたりの様子を探るように見つめながら、敵意がない事を認めたように息を吐く。
「……私の言葉を、最後まで聞いてくれましたね。一歩とて進まずに、ただ止まってくれている。どうやら、狂化したサーヴァントではないらしい」
話を聞きましょうと、騎士は言う。表情の硬さは緊張ではなく、生来の生真面目さだろうと、ジャンヌは頭の片隅でそんな事を思っていた。彼の言い振りから、竜の魔女の敵対者である事も容易に想像がつく。
味方が増えた事を喜ぶマリーを、彼──ゲオルギウスは、困ったような、それでいて微笑ましい光景を見るような表情で見つめていた。互いの名乗りを終えた所で、通信越しのロマニが口笛を吹く。
「やったぞ、聖ジョージなら申し分なしの聖人だ! 彼が協力してくれるなら、ジークフリートの呪いも解けるに違いない!」
マリーとジャンヌも、言葉にこそしないが気持ちはロマニと同じだった。街を護る彼がいなくなったなら、人間の守衛ではワイバーンやサーヴァントの襲撃には耐えられない。未だに人々が残っている事は、街の外からでも確認ができる。
窺うようなふたりの視線に、大丈夫ですと頷いて彼は初めて笑顔を見せた。そのまま案内するように踵を返して、街の中へと歩を進める。ジャンヌとマリーが後に続くと、ゲオルギウスは通りしな、街を行く老婆から感謝の言葉をかけられた所だった。
守護聖人としての彼の活躍には街の誰もが賞賛を送り、感謝の念を表していた。ゲオルギウスは当然の事をしたまでと言って、市民たちの礼に首を振るばかりだ。彼の謙虚さにマリーは目を丸くし、ジャンヌは尊いものを見るように吐息を漏らした。
「もう、七割ほどの市民が避難を終えています。残りの住人も彼らに続く事ができれば、そこで私の役割は不要となりましょう。……暫時、お待ち頂けるのであれば、貴女がたと共に行くのも吝かではありません」
説明を受けて、マリーもジャンヌも、安堵の気持ちを覚えていた。少なくとも、この街から守護者を奪う形にならないで済んだ。互いの表情から相手が何を考えているのか、そしてその内容が自分のものと同じだと察して、ふたりが同時に笑いを漏らす。
言葉を交わせば、ゲオルギウスが如何なる人物であるのかは知る事ができた。市長からの依頼を受けて、彼はひとりで立ったと言う。只人が救いを求める、そのたったひと言だけを理由に、幾度の戦いを切り抜けたのか。街の人間からの信頼が、彼の戦いを物語るようであった。
マリーが彼を助けたいと言い出すまでに、時間はかからない。状況的にもそれが良いと判断したロマニが、同意をしようとした矢先だった。
「──っ、この感覚は……!」
ジャンヌが真っ先に、蒼白の顔で空を仰ぐ。ゲオルギウスが訝しげに眉を寄せ、マリーは経験から何が来るのかを察していた。通信機の向こうから、ロマニの慌ただしい指示が飛び交う声が聞こえた。
「ああ、なんてこった……竜の魔女だ、ファヴニールが、そっちへ向かっている!」
ロマニの通信は、絶望的な状況を告げる。撤退を提案するジャンヌの言葉を、ゲオルギウスはただ首を振って拒んだ。その場の誰にも、理由など、言わずともわかっている。
市民を残して逃げるわけには、いかないのだ。
ただ、請われた。ゲオルギウスはただそれだけのために、死ぬとわかっていても、ここに残る事を決めていた。
どうか、この街に住まう市民たちの、弱き者たちの、守護をして欲しい。市長が伏して請うたその願いを全うしなければ、聖人でありたいと願う事も許されない。それが、ゲオルギウスの理由であった。
わかってはいた。理解してはいた。ただ、どうする事もできないだけ。世界を救うという大事のために、眼前の小事を踏み潰す。それを自らに課す事はできても、他者に強いる事は許されない。だからこそ、ジャンヌも言葉を失うしかなかった。せっかく見つけた希望の光を、諦めなければならないのかと。
けれど。
「ゲオルギウスさまったら、頭も体も堅い殿方ですのね」
けれど、彼女は。
「でも、そんなところがたいへんキュートです。わたし、感動してしまったみたい」
マリー・アントワネットは違った。聖人でもなければ、戦に特化した英霊でもない。ただの、役立たずの、何の力もない、
「ですので──どうか、その役目をわたしにお譲りくださいな」
ジャンヌ・ダルクは、死なせてはならない。彼女は聖人で、ジークフリートの解呪に必要だ。それに何より、竜の魔女と戦うのは、彼女でなくてはならないのだ。
ゲオルギウスは、死なせてはならない。彼は聖人で、ジークフリートの解呪に必要だ。それに彼ならば、竜を退治した騎士ならば、きっとマスターを助けてくれる。
そう語り聞かせるマリーの声は、優しく、そして強い意志に満ちている。市民を守る事は、フランスの王妃ならば大切な使命であると、マリーは語る。それは、王妃であり、母親であり、偶像であり、何より気高い輝く者の言葉であった。
「マリー・アントワネットの名にかけて。この街は、わたしが必ず守りますから」
大事の前に、小事を踏み潰す。輝かんばかりの笑顔で、別れを告げるとは思えぬほどに朗らかに。マリー・アントワネットは、己が命を投げ捨てた。
ジャンヌが共に戦おうと縋っても、マリーはただ、首を振る。親友ができて嬉しかったと、宝物を自慢する子供のように、マリーは笑った。泣き出しそうな友人の頬へ、そっと手を這わせる。その仕草に、ジャンヌは睫毛を伏せて、もう一度だけ大切な友の名を呼んだ。
「ねえ、ジャンヌ。どうか、マスターとマシュに伝えて欲しいの、いつも笑顔でいてねって。それから、アマデウスには……謝っておいて欲しいわ。ピアノ、やっぱり聴けなかったって」
「マリー……!」
そうと手を離しながら、マリーは青空を仰ぐ。それから真っ直ぐな瞳で、ふたりの聖人を見つめた。
「ジャンヌ、それに、ゲオルギウス。マスターもマシュも、素敵な人なのよ。国も、人種も、言葉も宗教も関係ない。祖国でもない、自分たちの知らないこの土地で、このフランスで流れる血を、傷つく誰かをとても悲しんで、悼んで、そして必死にその血を止めようとしてくれたわ」
無垢な、少年と少女。とても短かった、それでも美しい記憶の糸を、マリーは密やかに手繰る。もっと話をしてみたかった、もっと何かを伝えたかった。その思いは、確かに未練は、残ってはいる。
けれども、それはそれで良いのだと、マリーは受け入れる。自身の役割はそれではないと、自身の役割はこれなのだと、いつかのように受け入れる。
「わたし、あのふたりと出逢って、お話をして、旅をして、とっても感動したわ。わたしたちの紡いだ人類史は、いつの日か、こんなに優しい人を育めるの! 顔も名前も知らない誰かのために、辛い旅を歩めるような、優しい人が未来にはたくさんいるんだわ!」
だから、どうか。どうか、あの人たちを助けてあげて。どうか、あの人たちの、優しい笑顔を護ってあげて。どうか、あの人たちを、元の時代へ、彼らの時代へ帰してあげて。
星のように煌めく王妃は、自らの願いを、ふたりに託した。涙の雫を振り切って、ジャンヌが頷き、親友へと背を向ける。ゲオルギウスは剣を抜き、立ち塞がる全てを斬り伏せてでも、彼らの元へ行こうと言った。
駆け抜けるふたりへと、マリー・アントワネットが見送るように手を振った。その呟きは、きっと誰にも拾われない。そんな、小さなひと言だった。
「
ロマニの通信を聞いて駆け出そうとしたマシュの腕を掴んだのは、アマデウスだった。ピアノを弾くしかできないと嘯く彼の細指は、信じられないほどに強く、マシュを掴んで離さない。
「離してください、アマデウスさん! 今ならまだ、まだ間に合います!」
どうして邪魔をするのかと、食ってかかる勢いでマシュが問う。それを受け流すのではなく、真っ直ぐに瞳を見つめて、アマデウスら問い返した。
「間に合って、何になる。僕を見ろ、竜殺しじゃない。ただの、役立たずの音楽家だ。君をお願いとマリアに言われた、何もできないサーヴァントだ」
「でも、だからと言って……!」
目を覚ませと強く言われ、マシュの言葉は一度途絶えた。瞳を決して逸らさずに、そして跪いて身を屈め、アマデウスは子供に聞かせるように言う。
「君自身を見ろ、竜殺しじゃない。君は、護るためのサーヴァントだ。それも、マリアを護るためじゃない。君のマスターを、いいや、人類史を護るための、だろう?」
溢れる涙を止める術を、マシュは知らない。手を伸ばせば届く所で、今、まさに光がかき消されようとしている。その歯痒さが、切なさが、苦しさが胸を抉って痛みを生んだ。
そして同時に、気付いてもいた。この苦しさを、この痛みを、彼が感じていないはずがない事に。マリーの傍には常にアマデウスがいた。旅の最中のやり取りから、幼い頃のプロポーズの話まで、たくさんの話を聞いた今だからこそわかる。助けに行きたいのは、彼もきっと、自分と同じかそれ以上なのだと。
それを堪える理由など、たったひとつしかない。マリーも、アマデウスも、大事のために小事を踏み潰す、その選択を取ったのだ。自らの命を、大切な人の命を、それを投げ打って同じものを選んでいる。
「僕たちは、マリアの選択を無駄にしてはならないんだ。彼女を救おうと誰かが欠ければ、このフランスは取り返せないかもしれない。そうなれば特異点は修復できず、人類史は焼け落ちる」
それを防ぐのが、本当の使命だ。言外に語った上で、アマデウスはその手を離す。それでも、全てを台無しにしても良いのなら、行くといい。ひと言を付け加えて、いつもの飄々とした笑顔を見せた。
その笑顔が余りにも悲しいと、マシュは思う。今、この場で一番辛いのが誰なのかをわかった上で、自分の感情に任せる事はできなかった。駆け出す事は、できなかった。
「ごめん、なさい……アマデウスさん、ごめんなさい……!」
両手で顔を覆いながら、しゃくり上げる嗚咽と共に、その言葉だけを繰り返す。無力でごめんなさい、こんな事を言わせてごめんなさい。子供のように泣きながら、ただただ、声を震わせて泣いていた。
そんなマシュに言葉をかけるでもなく、アマデウスが唐突に、口笛を吹く。驚いたように顔を上げたマシュに聞かせるように、音を紡いで形に変えて、その心を癒すかのように。
マリアに弾いた、ピアノの曲だ。一小節を聞かせてから、何でもないかのように告げる。せめてもの餞になるだろうと、楽しげな声で付け加えながら。
「思い出せよ、マシュ。君が、マリアに何を言われたか。……僕はほら、どんな音だって聞き分けられるし、言ってしまえば地獄耳でね。君たちの会話くらい、心拍音や呼吸音を聞くよりも容易いんだぜ」
澄んだ音色は空へと吸い込まれるように、流れて溶けて、消えていく。構う事かと口笛吹きつつ、アマデウスは踵を返して、今来た道を歩み出す。聖人はもう見つかったのだから、まずは廃砦まで戻ろうと。
止まらない涙を拭いながら、マシュはそれについて行く。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた感情の中で、アマデウスの言葉を反芻していた。
辛い時こそ、苦しい時こそ、笑いましょう。
まるで、いつか来る別れを予見していたかのような、マリーの言葉を。思い出してもすぐには笑えず、それでも、口の端を持ち上げようとしながら歩みを進める。
振り切って進むには、まだ、心が強くない。それでも懸命に、無垢な少女は試みる。たくさんの事を教えてくれた、彼女の願いを叶えてあげよう。ただ、その一心で。
最後に一度だけ、マシュは西の空を見た。目の錯覚か、幻なのか。空の彼方がきらきらと、まるで、硝子のように煌めいていた。