緩やかに訪れる夕暮れは、何もかもを染め上げる。空も、大地も、山も、森も。きっと海も茜に染まり、赤く燃えているのだろう。
見た事のない海を思いながら、マシュは密やかに目を細めた。刺すような光が目を焼いたせいで、瞼を閉ざしても尚、赤い太陽の残光が浮かんで来る。何も見えないはずなのに、残った光がぐねぐねと蠢くように感じる。
やがて瞼を開くと、マシュは吐息と共に視線をずらす。傍の鵠佑は物を言わず、地べたに腰を下ろし石壁に身体を預けたままで、何処かをぼんやりと見つめていた。
彼は、何も言わなかった。悲しむ事も、泣く事も、怒る事もない。ただ、ジャンヌとゲオルギウスの言葉を聞いて、頭を下げるだけだった。ジークフリートの解呪を頼み、それきり誰とも言葉を交わさずに、ここで遠くを眺めるばかりだった。
隣に座って、無言の時間を過ごす。涙を見せない鵠佑の様子に、マリーの死が悲しくないのだろうかと考えて、マシュは直ぐにその考えを改めた。彼の纏う空気は、無機質なものではない。理論的ではない、感覚的なものでしかないが、そう思う。
最終的に、アマデウスの見せた姿と似ているものなのだと結論を出すまでには、もう少しの時間を要した。彼は胸に深い悲しみを抱きつつ、他者に意識を向けられる余裕がまだ残されていた。鵠佑には、まだそれだけの余裕がない。それが大人と子供の違いなのだろうかと、マシュの想像は脱線を繰り返す。
取り留めのない空想が、辛さから目を背けているが故の行為だと、マシュもおぼろげに理解はしていた。彼も何かを考えて、意識を麻痺させているのだろうか。傍の少年を時折見やりながら、意識はぐるぐると巡って廻る。
笑いましょうと、そんな言葉がマシュの口を不意に突いた。突然声をかけられて、鵠佑も驚いたように視線を向けていた。ゆっくりと息を吐いて、吸う。マリーの言葉を思い出しながら、この時、マシュは初めて鵠佑の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「笑顔が消えてしまったら悲しいと、マリーさんは言っていました。きっと、苦しくて辛いから、笑顔なんて作れないです。それでも、そんな時こそ笑ってと、笑顔でいてねと……マリーさんに、言われたんです」
言葉を紡ぐ声は震えても、溢れそうになる涙を堪えてマシュは笑った。仲間を失った苦しさを背負いながら、ぎこちなくても精一杯に。泣き出しそうにも見えるその笑顔を前にして、ほんの少しの間を置いてから、鵠佑も笑った。
「……そうだね、そうだった。ぼくらが笑顔を忘れたら、いけないや。皆が不安になっちゃうものね、ぼくたちは最後まで笑っていなきゃ。……ありがとう、マシュ。自分の事ばかりで、大切な事を忘れてた」
腐っていたらダメだと、呟く声は自分に言い聞かせるように。両手で頬を強く打ち、目を覚ませと自分を叱咤する鵠佑の姿は、傍目に見ているマシュからすれば無理をしているようにしか見えない。それでも、無理をしてでも立つのが、彼の目指しているものなのだろう。そう思うからこそ、止める真似はしなかった。
同様にして、マシュ自身も己を奮い立たせようと顔を叩く。まるで、鵠佑のそれを真似るように。振り返らずに前を見て、多くのものを背負い込み、多くの人のために歩く。そういうものになろうとしている少年の、その背中を追いかけて。
解呪を終えて、ジークフリートが立ち上がったと伝えるために。ジャンヌがふたりを探しに来たのは、その頃だ。ファヴニールへの切札が、今、ようやく鵠佑の手元へと巡ってきた。
夕日は山の陰へと隠れ、空には既に星の海原。浮かぶ月を見上げた後、地上へ、傍の後輩へと鵠佑は視線を戻す。
明日の朝が、決戦だ。強い覚悟と意志を秘めた、その言葉を口にした。
暁の空が、地平線の向こうから白み始めた。夜空に瞬いていた星々は消えて、朝日が大地を照らし出す。
雲はなく、晴天。空を走る光の帯さえ、美しさを覚えるよう。澄み渡った青空は、夜明けの出撃を静かに見下ろしていた。
無人の荒野を疾駆するのは、ただふたり。風のように、
「結局、馬たちを逃しました。馬車があれば道中が楽だと言うのに、主殿は、動物にまでお優しい」
穏やかな牛若丸の声は、非難をするものでも、揶揄をするものでもない。ただ、己が主人の性質を、思った通りに告げたまで。
決戦の地、オルレアンへの出立に際して、鵠佑は馬車の使用を選ばなかった。特異点が修正されれば、なかった事になったとしても。何も知らぬ動物たちを、死地へ連れ出す事への抵抗があったからだ。
不便をかけると知りながら、謝罪の言葉と共に皆へ了承を得ようとする少年に、誰もが笑みを浮かべて頷いた。生きた時代、生まれた国、死生観に宗教観。そうした差異は多々あれど、皆が鵠佑のささやかな優しさを良しとした。
「僕は、その優しさを美点だと感じます。戦乱の世を生きた我々とは、また違う。平和な世界の優しさを、それを育める時代も含めて、未来は良いものであったと」
それに答える小太郎は、いかなる時も主人の側へ、影のように付き従ったが故の言葉を漏らした。忍として主に仕え、殺し、殺され、また殺し。屍の山を、血の河を、数多の死に濡れた道を歩んだ者として。
その瞳で、このオルレアンの戦いで、ずっと見て来た主のそれを。弱さにもなる優しさを、好ましいと静かに語る。だからこそ、特異点の修正を成し遂げようと、人理焼却を食い止めようと、未来を取り戻す事に尽力すると言外に。
斥候として駆けるふたりの目に、やがて、黒いジャンヌの居城が姿を現した。ワイバーンの群が飛び交い、ファヴニールが鎮座する、竜の巣と呼ぶに相応しいその様相。
城壁こそ崩れ落ちていようとも、ひと目で理解し得る難攻不落。邪竜は既にふたりを捉え、大気を破るかの如き咆哮を轟かせる。待ち切れないとばかりに飛び立った翼竜を見やりつつ、牛若丸も小太郎も、まるで臆した様子はない。
「先打ち抜け駆けは、とも言うが……流石にこれは、主殿の号令を待つべきよな。いや、実に惜しい。彼奴らの素っ首を斬り落とし、献上仕りたい所だが」
猛獣めいた、牙を剥くような獰猛な笑み。闘争を求める牛若丸の言葉を聞きつつ、小太郎は敵の首魁を探した。黒い鎧に銀の髪、血塗られた旗を掲げる魔女を。その傍に侍り従う、痩せぎすの騎士の成れの果てを。
「直に戦は始まりましょう、その時に殺せば宜しいかと。……ああ、いますね。やはり、こちらに気付いている」
どうですかと小太郎が問い、容易いと牛若丸が答える。一太刀あれば十分と、傲岸不遜に笑ってみせるその様は、坂東武者の
開戦を待ち侘びる姿を横目に、小太郎の瞳が異物を捉えたのは、まさにその刹那。今まで交戦したサーヴァントとは異なる、見慣れぬ姿の男がひとり。竜を操るジャンヌにではなく、ジル・ド・レェへと何事かを語りかけ、すぐに踵を返して消えてゆく。
読唇を試みる間もない、ひと言程度の何か。舌打ちをこぼした小太郎の頭上へ、影がひとつ被さった。我先にと羽ばたいたワイバーンの一匹が、唾液を垂らして牙を剥く。獲物の姿がここにあると、低く悍ましい唸りを上げて。
小太郎は、不動。敵陣の配置を、サーヴァントの展開を、無言のままに記憶する。襲い来る翼竜を迎え撃つは、地を蹴り宙へと舞った牛若丸。たなびく髪が風に揺れ、白刃が竜の胸を裂く。
一太刀を浴びせ、その身を足場に今一度。二度目の跳躍で頭上を取れば、踊る刃が首を刎ねた。力なく墜落する胴体へ、猫のように着地しながら牛若丸は笑った。
「ふむ……これだけ斬れば、流石に慣れるか。最早、此奴の鱗も紙切れでしょう。主殿は、褒めて下さるでしょうか?」
主殿は、動物にまで、お優しいから。もう一度、ひとり繰り返す牛若丸の呟きに、小太郎は暫しの黙考を挟んだ末に首を振った。翼竜の首級は喜ぶまいと告げられて、牛若丸はがっくりと肩を落とし、瞬きを挟む頃には二匹目のワイバーンへと襲いかかっていた。
ただ、ふたり。たったの、ふたり。竜からすれば、肉袋でしかないはずのものが、竜を喰らわんと刃を振るう。宙を舞うワイバーンへと飛びかかり、首を刎ねては墜ちる前に足場に用い、次の敵へと標的を変える。人の技とは思えぬそれを、坂東武者なら天狗の仕業と呼んだのだろう。
「主殿が到着されました、行きましょう!」
足元からの呼び声に、牛若丸は残念だと嘯きながらとんぼを切った。着地の隙を狙う一匹へ、放たれた苦無が深々と突き刺さる。どうと音を立てて墜落する頃には、ふたりは既に駆け出していた。
小太郎からの報告を、戦に慣れた牛若丸とジークフリートが策へと変える。選択肢は正面突破のみだとしても、何処を落とし攻めるのか、激突の寸前で算段を組み立てた。
鵠佑はそれに従って、自分に何ができるのかを考える。戦ごとの知識はないが、この旅路で少しずつ、培ってきたものもあった。英霊たちの気質と人を、別け隔てなく見つめる瞳は、その最たる例と言えるだろう。
カルデアからの補給物資、ロマニが預けてくれたものに、武器の類は含まれていない。そういう戦いは鵠佑には向いていないし、何よりそんな戦いは必要がなかった。戦うために与えられたものと言えば、精々が、魔力を回復させるための補充液だ。
この戦争の目的は、言葉にすれば簡単なもの。ジークフリートを、いかにしてファヴニールへとぶつけるか。誰に何の役目を頼むか、それを考えるのが、鵠佑の最初の戦いだった。ただの少年でしかない、力を持たないマスターの戦いとは、そういうものだった。
「マシュとジャンヌさんは、ジークフリートさんの護衛をお願いします。この三人で敵陣を抜けて、一気に邪竜を討たなければ、消耗戦ではこっちが不利だ」
「ああ、ファヴニールは任せろ。……俺は攻撃に全力を注いで、なるべく早く終わらせようと思う」
面倒をかけてすまないと、ジークフリートの謝罪に、マシュもジャンヌも笑顔で応じる。護り抜いてみせますと告げるマシュの言葉は、力強さと頼もしさがあった。
互いに握手を交わす様を見ながら、鵠佑は胤舜と牛若丸、そしてゲオルギウスにワイバーンの掃討を命じる。切り込み隊としての役割に、目を輝かせたのは牛若丸だ。
「小太郎くんは、ぼくの護衛を。迷惑をかけないように頑張るけど……何かあったら、お願いするね」
各々が戦場の役割を受け取って、皆がそれぞれに笑み、頷いて、言葉を交わす。戦争寸前の、嵐の前の静けさに似た、最後の平穏な時間。だからこそ、と言うべきなのか、最後のひとりが得意げな顔で歩み出る。
「そして、最後は僕というわけだ。うん、わかっている。指揮者としてはやはり素人だけれど、大トリを僕に任せると言うのは悪くないよ。無論、出来ているとも」
皆の視線を集めて、アマデウスが笑った。常の軽口はなく、ただ、指揮者へと委ねるように。無言のままで、鵠佑に視線を向ける。鵠佑もまた、それに頷き、子供のような笑顔を見せた。
「ありがとう。それじゃ、うん……とびきりの演奏をお願い、アマデウス」
脳裏に焼き付いている光景が、言葉と共に蘇る。ブラウン管の中で戦う、誰にも負けない憧れの。
彼の戦いはいつだって、音楽を伴うものだった。どれだけ恐ろしい敵であっても、その旋律が伴えば、きっと勝てると思えるような。その記憶はいつだって、今もまだ、色褪せない。
故に、だからこそ、それは鵠佑にとっては必要不可欠なものだった。
いつかの森の、野営を終えた明け方のひと時。ヒーローに憧れる少年が、役に立たないと笑う音楽の神へ、贅沢な願いを口にした。アマデウスはそれを快諾し、ふたりきりの約束とした。
テレビの中のヒーローのように、勇ましい旋律と共に戦いたいと。きっと、それは子供のような。それでも、アマデウスという英霊を、何より輝かせる願い事。
「ああ、良いとも、今回ばかりは任せたまえ。このオルレアンで、他ならぬこの僕が書き下ろした、とっておきの新曲だ。英雄が邪竜と戦い、そして勝利を掴み取るのに相応しい、最高の音楽を提供しよう!」
人も、英霊も、主も、従者も。誰も彼もが、迫る竜の群を見る。滅びをもたらす邪悪なものを、決して恐れず真っ直ぐに。
踏み出す足を鼓舞するものは、願いを叶えてくれた、アマデウスの紡ぐ音。剣を、盾を、心を、皆が思い思いに掲げて駆ける。
突撃する英霊たちと、死地を目指して駆け抜けながら、ただの少年が雄叫びをあげる。竜の魔女を、災厄の邪竜を、無数の眷属を見据えて。
「行こう、皆。ぼくらの明日を、取り返そう!」
最初に足を止めたのは、胤舜であった。数多の翼竜を伴って、荒野に佇む人影に魅入られたように。鋭く踏み込み槍を穿って、霊核を貫かんと。
佇む幽鬼はその一撃を、手中の杭槍で受け止め弾く。吹き荒ぶ風に白髪が揺れ、鋭い牙が口元から覗いた。貴族を思わせる上質な黒衣を、血の匂いに染めて、以前に鵠佑たちを襲った時とまるで変わらぬ有様で。
「足を止めるな、駆け抜けよ! 此奴は俺が引き受ける!」
胤舜の声に、止まりかけた足を再び動かして、一団は突き進む。牛若丸とジークフリートが、血路を開く斬撃音。それを聞きつつ、ふっと、似つかわしくないほどに朗らかな笑みを胤舜は浮かべた。
「何を笑う、槍兵」
「僥倖を、だ。お主、狂化こそすれ、武人であろう」
やり取りは、短いもの。二本の槍が空を裂き、瞬きひとつの合間に、七度。互いの手を読み合って、真正面から穿ち合う。激突音を響かせた後、ほらなと胤舜は笑った。
「槍を持った男がふたり、敵味方。俺は殺生は好まぬが、どうしても消しきれぬ思いはある。そして、お主もそれは持っていよう」
じりじりと、互いの間合いを推し量るような足運び。杭と十字の切っ先は、互いに互いの霊核を狙い、放たれる時を待つかの如く。
胤舜を狙って急降下した翼竜を穿つのは、十字ではなく杭だった。心臓を、喉を、頭蓋を、脳を。たったのひと突きで
「余が、貴様よりも、強い」
邪魔立てするなと、この男は己の獲物だと翼竜に吼える幽鬼の姿。胤舜の言葉を解したように、彼もまた笑う。牙を覗かせる、獣のように獰猛な笑みで。
「左様。男子たるもの、そこに行き着くは至極道理。腕に覚えのある者同士なれば、尚の事、必然よ」
そのひと言を皮切りに、地が、爆ぜた。互いの跳躍は、引き絞られた矢弓の如く。加速を用いて威力を増した一撃を、寸分の狂いもなく互いの切っ先に打ち当てる。
衝撃が大気を揺らし、突風を生んだ。慄いたワイバーンの悲鳴など、最初から聞こえていないように応酬が再開する。
突き、払い、打ち、弾く。胤舜が踏み込めば、黒衣を揺らして幽鬼は退がり、人外の膂力で薙ぎ払う。胤舜の頬が裂けて血が滴るも、同時に色褪せた白髪がひと束、落ちた。
「今のは、余の一撃が上手であろう」
「いやいや、薄皮一枚と髪ひと房ならば、俺だろう」
軽口を叩き、互いに笑い、その空気のままで殺し合う。再三の応酬の寸前に、ふたりはどちらからともなく槍を収めた。無論それは、戦いの終わりを意味するものではない。
「我が名はヴラド、ヴラド三世。ワラキア公国が君主、忌々しくもバーサーカーとして顕現した」
高らかな、名乗り。互いを敵と認めた故の、真名を晒しての一騎打ち。長所も短所も伝承も弱点も、何もかもを曝け出して。
それは、血を啜る化け物として召喚された男にとって、得難い瞬間であった。己を吸血鬼ではなく、武人として見抜いた、槍の使い手。冷たく凍り付いた肉体と精神に、熱い血潮が漲るようですらあった。
「流派、宝蔵院槍術、二代目胤舜。見ての通り、クラスはお主と同じ、ランサーよ」
名乗り、構え、そうして笑った。胤舜も、ヴラドも、互いに。余分なものは何もない、静けさにも似た感覚を、ふたりの武人が共有していた。
疾駆、一閃、捌いて返し、それを即座に打ち落す。技を用いて隙を穿ち、力を用いてそれを潰す。変幻自在に繰り出される槍の穂先は、まるで荒れ狂う竜巻のよう。
獣のように生き血を啜り、相手にならぬ有象無象を轢き潰し、只々持て余していた矜持。歪め貶められた吸血鬼ではない、国を護る武人。その己に戻ったようで、ヴラドの杭槍はひと際冴えた。
最初こそ、力を用いて薙ぎ払う、あるいは強引に突き穿つだけの一撃が、一合ごとに鋭さを増す。胤舜の二段突きに合わせるように、穿ち、戻して即座の追撃。ふむと小さく呟いて、それを三度。なるほどこれかと嘯く声は、楽しげに弾むものだった。
「うむ、冴えておる。狂化で忘れていた技を、思い出していく心地だ。そら行くぞ、次の一撃、どう受ける!」
頭上では、喚き散らすようなワイバーンの声が高らかに響いている。竜の魔女が操るそれらは、時に伝令としても使われていた。ヴラドはその意味を解するも、従う素振りは毛ほども見せない。
宝具を用いて即急に殺し、本隊を討て。
魔女の要求は、戦の目で見れば当然だった。ただひとつの誤算と言えば、狂化を施されたヴラドが、魔女の言葉を拒んだ事だった。
厳密に言うのであれば、忌むべき
「余は、吸血鬼ではない。吸血鬼では、ないのだ!」
胸が踊った。叫びと共に、繰り出される十文字槍の穂先を弾いて、一撃を、ようやく一撃を突き立てた。肩口の肉を抉られて、胤舜の追撃が鈍る。それを逃すまいと、ヴラドが更に杭槍を穿つ。
このオルレアンに召喚されてから、ただの一度も抱かなかった、武人としての昂揚。獲物を追い詰めるのではない、相手の技を上回り、己が技量を認めさせる。その瞬間が、今、ここにある。このクラスで召喚されて歓喜に打ち震えるなど、ヴラドにとっては、望外の喜びであった。
「いやはや、これ程とは! お主の技の冴え、恐ろしさすら感じよう。ああ、だからこそ、俺も見せようとも!」
真髄を。槍の究極、胤舜という男が行き着いた、果ての果て。初めての血は、最早、この武人が手加減できぬ相手であると認めざるを得なかった。
砕けちぎれたならまだしも、穿たれた程度ならば、腕は動く。構えを取れるならば、未だ勝敗はついていない。
ヴラドの敗因は、そこにある。容赦も情けも誇りもなく、宝具を用いて殺せば良かった。勝敗だけで物事を見るのであれば、そうしておくべきだった。
見たかったのだ。見た上で、己が技でそれを破り、勝利したかった。勝利したいと、思ってしまった。それが、ヴラドの敗因だった。
「これぞ槍の究極。生涯無敗を確立させた十一の式──」
それを、ヴラドの欲求を、魔女であれば愚かと蔑み罵ったであろう。武人に非る魔女ならば、決して理解し得ないからだ。
霊核を、穿つ。踏み込み、放ち、決して外す事はない。一撃の下にこの男を屠る、そう確信し得る、最高の一撃。苦痛を与える事のない、串刺し公には似つかわしくない、敬意すら込めた無痛の死を。
「──朧裏月、いざ参る!」
躱す動きは、目で追える。会心の初手を捌いたとて逃すには至らぬと、ヴラドは更に突きを放つ。己が刺突を受け流す、胤舜の槍を目にするまでは。
構えが、変わる。槍を盾のように掲げるそれは、受けに特化した、守りの構えだとわかる。そこからがこの男の宝具の真髄だと、ヴラドが理解する頃にはもう遅かった。
彼我の距離が失われるほどの密着ならば、槍を返し石突きによる殴打。堪らず薙ぎ払えば、裏へと回る足運び。わずかな距離が生まれた所へ、振り下ろされる縦の斬撃。十文字槍だからこその芸当に、ヴラドの舌打ちが一度。
未だ健在、深手はない。その判断を、裂かれた傷口からの鮮血が、思い直せと告げるよう。だが、武人としての、目覚めてしまった矜持が許さなかった。
突きには近すぎる、だからといって打てば捌かれ、間合いが変われば構えも変わる。構えが変われば技も変わり、どうしても対応が遅れてしまう。突きを捌いたが、腕を裂かれた。打ち返したが止められて、更に脚を穿たれる。
三段、胴と両肩を。払い打ち、側頭部へ。肩を穿たれた、前腕、腹部、なるほどあの槍は受け止める事も叶うのか。ここで退がり間合いを開けたとて、胸を穿たれる。ならばいっそ──否、牙を使うなど武人に非ず!
ヴラドの脳裏を思案が巡り、傷が穿たれ、有効な一手を矜持が止める。次の一手を打てば返され、更にそこから穿たれる。速く、鋭く、研ぎ澄まされた技の嵐。
肉体を破壊される痛みは、確かにある。だが、それだけだった。武人として戦い、競い合い、敗れる。その流れに余分なものも淀みもなく、恐怖も苦しみも、恥辱もない。
最早、ヴラドの目には、槍の穂先は見えていない。あるのはただ、陽光を反射する、閃光めいた銀の流星群だけだった。それを美しいと思いながら、ぞぶりと、肉を裂いて胸を穿つ音を聞く。
「……見事な、ものだ。ひたすらに技を練磨すれば、人はこうもなり得るか。…………嗚呼、しかし。これは、心地良い敗北だ」
霊核へ突き立てられた槍へ、その身を預けながらヴラドが漏らす。その手に握り締めた杭槍が、得物を握る指先が、煌めく粒子へと還っていく。
「なに、此度は色々と余分なものがあったろう。お主とて、宝具を用いていなかった。ならば俺の勝ちとは言えぬ、引き分けで良かろうさ」
消え逝く男へ、情けではなく餞を。次は、何も気にせず思い切りやろうと、胤舜は朗らかに笑った。
そうさなと、ヴラドもまたそれに応じて、笑う。オルレアンでの殺戮の、無為に過ぎた時間の果て。手のひらに収まってしまいそうな、ほんのひと掬いの、満ち足りた時間。それを噛み締めるように、ヴラドの姿が消えていく。
あとに残った胤舜は、小さな黙祷をひとつ捧げて、振り返る。
その、刹那。
皆が駆け抜けた先へと視線を向けたその時に、宝蔵院胤舜は確かに見た。空を引き裂く魔剣の煌めきが、黄昏色の閃光が、邪竜を消し飛ばすその様を。
大剣の軌跡が閃く度に、ワイバーンが見せるのは、明らかな怯えだ。
今まで数多の血肉を貪り食った翼竜はここに来て戦意を喪失し、眼前に迫る天敵から逃れようと必死に羽ばたきを繰り返す。
ジークフリートの大剣がすかさず翼を切り落とし、悲鳴と共に落下した一匹を両断する。邪竜への道を邪魔するものは、何であろうと斬り伏せた。
「前方、ファヴニールを確認しました! わたしとジャンヌさんで、炎を防ぎます!」
最前線を駆け抜けたマシュが大盾を構え、ジャンヌがそれに続く。土煙を巻き上げながらの急制動、決して臆さず邪竜の炎に立ち向かい、己が宝具を用いてこれを防ぐ。
迸る煌めきが光の壁へと変貌し、災厄を受け止める様を見上げる鵠佑の前で、聖女の掲げる導きの御旗が今一度はためいた。ひとりの宝具では防ぎ切れない炎であっても、ふたりであれば。城塞を呑み込む炎の渦が、光の壁を蝕みながらも力を奪われて霧散していく。
苛立つような咆哮を受けて、ジークフリートが邪竜の前へと躍り出る。海を割った聖人のように、翼竜の群が道を開けた。決して勝てない天敵に立ち向かう愚かさを、本能で理解しているかのような光景だった。
ファヴニールが二度目の炎を吐く前に、その喉元へと竜殺しの大剣が喰らいついた。鱗を引き裂き肉を割れば、どす黒い鮮血が地面を濡らす。更なる斬撃を厭うように振るわれる爪を、駆け出したマシュの大盾が受け止めた。
「牛若丸、これで上へ!」
叫び声と共に差し出された旗の穂先は、まさにカタパルトそのものだった。体重を預かるが早いか、ジャンヌは渾身の力で旗を振るい、牛若丸が加速を利用して空へと跳んだ。
ファヴニールの鼻先を斬りつけながら、動き回る巨体の上を難なく駆け抜け、その背を目指す荒武者の姿。大地を引き裂く剛爪を叩き折り、尚も気合いと共に大剣を打ち込む英雄の姿。そして何より、たった今、目で見たその光景を即座に奏でて紡ぐ、アマデウスの離れ業。
英雄譚に相応しい、竜と人の激闘。見ているだけでも眩暈を起こすような戦いは、鵠佑の人生において、何もかもが未知の世界だった。呼吸を忘れてしまったせいで、胸の痛みに軽くむせる。肺の中身をぎこちなく吐き出す鵠佑に、ロマニの声が唐突に届いた。
「鵠佑くん、こちらで宝蔵院胤舜の宝具展開を確認した、魔力の消耗が激しくなっている。そろそろ補給物資の注射器、青と白の筒を使って欲しい。……すまないね、こんな事を押し付けて」
指示に従い取り出した、最後の休息で送られたそれ。充填された薬液を見ながら、乱れる呼吸を整えようと、大きく一度、空気を吸い込む。
「大丈夫です、ドクター。ぼくは、大丈夫です。みんなが戦ってるんだから、ぼくも戦わなくちゃ、ぼくが一番頑張らなくちゃ、明日は取り戻せない!」
全力疾走をしているような体力の消耗は、生体エネルギーを魔力に変換しているからだと、知識がなくとも理解はできる。この身体は、魔術の行使もサーヴァントの維持も、まるで適していないらしい。生きるための活力を、礼装を用いて魔力へと変換するしか術がない。
カルデアで聞かされた説明も、ロマニが渡してくれた薬液の内容も、理論的で理解はできる。それを厭う事も、恨む事もない。鵠佑にとっては、この人理修復という旅路に適していない自分が、ただただ情けないというだけでしかなかった。
故に、躊躇はない。ロックを解除して、大腿部の静脈へ。突き立てるように勢いを付けて、力一杯押し当てる。軽い痛みと、衝撃。冷たい何かが流れ込む感覚に、ぞわりとうなじの毛が逆立った。
ロマニの説明は、実に簡単だった。肉体が必要とする、ビタミンだとかブドウ糖だとか、そうした諸々とアドレナリンの混合液。食事数回分の栄養素を血管に投入し、アドレナリンで心拍数を上げて全身へと巡らせる。生体エネルギーを、強引に回復させる力技だ。
心臓の鼓動が速くなり、耳鳴りと共に多量の汗が背中から噴き出していく。鵠佑の身体から倦怠感や疲労感が薄れるまでの隙を、ワイバーンが食い荒らそうと襲い来る。傍らの小太郎が苦無を放つのと同時に、赤銅色の甲冑が鵠佑の視界を覆った。
「退きなさい、竜たちよ。この少年に害なすならば、私は我が身を以って盾となる。お前たちが悪意と害意を撒き散らすならば、私はこのアスカロンを以って食い止めよう!」
言い聞かせるように穏やかな声と、堂々たる後姿。かつて悪竜を討った聖人は、空を覆わんばかりの翼竜たちに、一歩も退かず立ちはだかった。
一太刀で生命を奪う牛若丸とはまた違う、剣の軌跡と足運び。喰らいやすい
事実、ゲオルギウスが立ちはだかってから、ワイバーンたちは一歩も前に進めていない。彼を脅威と認めてか、脇を抜けようとする個体すらアスカロンを警戒し、その足取りを縫い止められていた。威嚇をするように牙を剥いて吼え立てるも、守護騎士を怯えさせるには至らない。
マシュに護られている時と同様の、強い安心感があった。立ち尽くすしかできない無防備さを晒しながら、下手に逃げ回るよりも全てを任せた方が安全だと思わせる力強さがあった。
「良いぞ、魔力が回復していくのをこちらでも確認した! 呼吸を忘れないようにしてくれ鵠佑くん、酸素を取り込むんだぞ!」
鱗の隙間を縫うようにして、ゲオルギウスの直剣が深々と肉を貫き通す。怯んだ隙を見逃すはずもなく、空を裂いて飛翔するのは風魔の手裏剣。首を深々と抉られた一匹が墜落する傍で、鎖鎌の分銅が頭蓋を砕き、炸薬の爆裂が肉を吹き飛ばした。
着地と同時に新たな苦無を取り出しながら、小太郎は笑みを覗かせる。自分へ向けられたその表情の意味を計りかねる鵠佑に、遠くを指差してみせる小太郎。指の先を視線で追うと、見覚えのある紋章がはためいていた。
「援軍ですよ、主殿。恐らくは、あの時のフランス軍でしょう。……僕たちの旅は、主殿の判断は、決して無駄ではなかった」
号令が聞こえる程の近間でも、視線が合う程の距離でもない。いかに五感が強化されたとしても、この戦場でどれだけの情報を拾えるかと考えるとそれは難しい。難しいが──鵠佑には、確かに彼の言葉が聞こえた気がした。
「目標、
轟音。放たれた砲弾がワイバーンの胴を引き裂き、血煙を巻き起こす。不意に横合いから殴り付ける砲撃は、翼竜たちに恐怖と混乱を振り撒き、戦局を傾けるのに十分な力を有するものだった。
最早、竜たちはファヴニールを残して、狩られる側へと転じている。フランス軍の攻撃は砲撃だけで止まらずに、弩兵と弓兵を用いた一斉射撃で矢の雨を降らせ、残存戦力の掃討を開始する。
ほんの刹那、視線が絡む。そんな、錯覚。痩せぎすの騎士を、確かに見た。
ジャンヌとのやり取りで、彼があのジル・ド・レェなのだと、鵠佑も把握はしている。彼が如何なる末路を迎えるのかも、このオルレアンで黒いジャンヌの傍に付き従うという未来も。
届かないとしても、どんな言葉を投げたら良いのかは、鵠佑にはわからない。それはもう既に遠い昔の過去で、覆しようのない話でしかない。
だから、鵠佑はそれについて、無理に考えるのはやめた。今はただ、彼が祖国を守るために、正体も知らぬであろう自分たちを助けてくれた。それだけで、鵠佑にとっては十分に過ぎた。
己にできる限りの笑顔と、親指を立てて見せる仕草。彼に見えたかは知らないし、伝わるかもわからない。自己満足と言えばその通りだが、それでも何かの形で、感謝の意を伝えたかった。
時間にすれば一分にも満たない、ごく短いやり取り。フランス軍が切り拓いた道へと向き直り、鵠佑は息を整える。注射の効力は絶大で、まだ走れると身体そのものが訴えていた。
「小太郎くん、申し訳ないけれど、アマデウスを運んであげて。今、多分、良い所だから。ゲオルギウスさん、ワイバーンはお願いします!」
力強く応じる声は、どちらも頼もしく心強い。小太郎に背負われている事にも気付いていないのか、アマデウスの細指が、まさに物語が佳境である事を示すように激しさを増した。
墜落するワイバーンの傍を抜け、横たわった骸を飛び越え、砲弾と矢の雨を潜り抜けて。目指す先には災厄の化身と、其を討ち倒さんと戦いを挑む竜殺しの勇者たち。その戦列に加わらんと、鵠佑たちは力の限り戦場を疾駆する。
一方で、フランス軍を指揮するジルは、ごく小さな笑みを浮かべながら駆け出した鵠佑たちを見守っていた。
かの少年が何者で、何故に聖女が彼を伴っているのかは、依然として知れない。されどそれは些末事だと、最終的に出したジルの結論はそれだった。
「
輩に護られながら戦場を駆ける少年の背に、勝利の祈りと、ひとひらの羨望を乗せた視線を向ける。
ジルの胸中には今もまだ、聖女に見た眩い輝きの残照があった。彼ではなく己が馳せ参じたいと思う心を抑え込み、第二、第三の砲撃を部下へと命じる。落雷のような轟音を、血路を拓く力へ変えて。
この局面に至り、数多の人々の目は、ただ一点。世界を滅ぼす、ただ一匹の邪竜の元へと向けられていた。