黒いジャンヌの頭の中を、ままならない事態への怒りと焦り、そしてそれらを忘れさせるような憎悪が塗り潰していく。
ファヴニールを駆り、フランスという国を竜の巣へと塗り替えて、世を滅ぼす準備が整ったという矢先。突如として現れた忌まわしい
呪詛を帯びた身であれば直ぐに消えるだろうと見捨てた竜殺しは、何をどうしたのか今一度立ち上がり、このファヴニールを脅かしている。人類では打倒し得ない真なる竜が、恐怖を覚えて、ただの一騎のサーヴァントに遅れを取っている。
援護を命じたヴラドは、己が戦いに興じるあまり、下らない矜持にしがみついて命令を拒む始末。配置したサーヴァントが徐々に追い詰められ、脱落していく報告を聞く度に、ジャンヌは改めて神というものを呪った。
「ジャンヌ、来ましたぞ!」
結局のところ、自身の陣営で最後まで信頼できるのは、このジル・ド・レェに他ならない。黒いジャンヌにとっての輩は、どこまで行っても、それだけだった。今も尚、ジルはジャンヌを助けようとする。黒も白も、変わらずに。
邪竜の背を駆け抜けて、氷のような刃を握り、首級を上げんと迫り来る敵。牙を剥く猛獣のような、獰猛な笑み。暴れる足場を物ともせずに、一直線に、解き放たれた矢のように。剣を抜いたジャンヌの首へと鋭い一撃を放ちながら、サーヴァントは高らかに叫ぶ。
「貴様の御首、貰い受けに参上した。牛若丸と覚えて貰おう、そして死ね」
「雑魚が、戯言を……っ!」
力に任せて剣を振るい、旗を薙いで跳ね飛ばさんとジャンヌが吼える。一歩早く飛び退った牛若丸が、更に間合いを詰めんとファヴニールの背を蹴った。
二度目の激突を食い止めるのは、ジルの放った無数の海魔。舌打ちをひとつ漏らし、己に伸びた触腕を切り捨てながら牛若丸が真横に飛んだ。
「この、ちょろちょろと目障りなっ!」
風に揺れる羽毛が如く跳ね回り、一箇所には止まらず、己が視界から消えるような足運び。人外めいた身軽さを見せる牛若丸に、ジャンヌの口から苛立たしげな言葉が漏れた。
「そうであろうよ、竜の魔女。貴様、動かぬものしか燃やしていまい。
嘲るようなその言葉に、業火のような激情がジャンヌの思考を支配する。お前も奴らと変わらないと、そう言外に告げられたようで、怒りが沸点を容易く超えた。
睨むだけで焼き尽くす、呪詛の塊、怨嗟の炎。その一撃を叩き込む寸前で、切り刻まれた海魔の骸がジャンヌの視界を塞いだ。旗を振るい叩き落とす頃には、牛若丸は既に、側面へと回り込んでいる。
慣れている、乱戦での殺し合いに。身をもってそれを知ったところで、即座に覆すような術をジャンヌは持たない。生前の経験が、覆し得ない差となってのしかかる。
灰燼に帰した海魔を打ち砕き、憎悪に染まった瞳で射殺すように、敵対者を焼き払わんとジャンヌが追う。ジルの放った海魔ごと、目につく全てを焼き殺し、手の届く全てを打ち殺す。憎悪に駆られた戦いは、彼女がこの特異点で為してきた事と変わらない。
つまりは、牛若丸の言葉の通りだ。絶大な力を手に入れたものの、その扱いは本能のまま。裏を書いて陥れ、じわりじわりと嬲って殺す戦いには、どちらのジャンヌも慣れていない。
「良いわ、先に手足を斬り飛ばしましょう! その後で、灰になるまで燃やしてあげます!」
炎で捉えきれないならば、捉えられるようにするまで。渾身、力任せの一撃を与えんとジャンヌも牛若丸と同様に間合いを詰める。端正な顔に浮いた薄笑いを見る度に、耳鳴りにも似た激情が沸き起こる。
白刃による一閃を旗で叩き落とし、同時に対の腕で剣を振るう。尋常ならざる膂力には、さしもの牛若丸も退かざるを得なかった。
もう一撃、あと一撃。逸る心は、獲物を狩る肉食獣のそれと似ているのかもしれない。敵の弱点を見抜き、逃げ先を予測して、そこに先回りするように身体を持って行く。意識ばかりが先行して、まるで鉛の中を泳ぐようなもどかしさがあった。
黒い髪を斬り飛ばした、違う。腕を落とすはずの一撃は、鎧に阻まれ致命にならない、違う。もっと深く肉を抉り、骨を砕いて悲鳴を上げさせ、その上で焼き殺す。ならば未だ、この程度の傷では足りるはずもない!
「ジャンヌ、なりませぬ! それこそ敵の術中、お退き下さい!」
牙を剥いて雄叫びを上げ、闘争の高揚と身を焦がす憎悪に染まったジャンヌへ、何かを察したかのようにジルが叫んだ。霊核を穿つはずだった最後の一撃が止まり、牛若丸は即座にその場を飛び退る。
「そうとも、だがもう遅い。初陣の一騎打ちでは、誰もが
怯えたファヴニールの咆哮が、その言葉の真意を物語る。宙へ舞い、とんぼを切って、邪竜の背を足場のように。だが、ジャンヌの視線は我が物顔で駆け抜ける牛若丸ではなく、見下ろすはずの地上にあった。
ファヴニールの炎を、掲げた旗で引き裂き逸らす、忌々しい
だが、ジャンヌが何よりも、ひと際怒りを覚えたものは、見覚えのある少年の姿だった。
「邪悪なる竜は失墜し、世界は今、洛陽に染まる──」
もう、間に合わない。ファヴニールの慟哭めいた叫びが、それを如実に表していた。掲げられた大剣から、光の奔流が立ち上る。
全ては、この為の陽動だったと知らされる。あの女を殺そうとする余り、ファヴニールへの指揮を忘れた。ほんのひと時、五分にも満たない攻防が、決定的な失態だった。
「
力強い少年の叫び声は、一画を消費しての、駄目押しの一手。竜殺しの大剣が、そのひと言で纏う奔流を増幅させる。天を引き裂くに足る、光の柱と化した一刀。竜の魔女の敗北を知らしめる、絶対的な裁きの光。
「撃ち落とす! 『
任せろと、笑顔で語る男が憎い。それを信じ切った、無垢な子供がもっと憎い。あれを守る愚かな己も、さっきの女も、国も人も何もかも、目につく全てが尽く憎い。憎くて憎くて憎くて憎くて、あまりに憎くて許せない。こんな事が、あってはならない!
ジャンヌはその感情を言葉にする術を持たず、喉が張り裂けんばかりに吼えた。言葉にならぬ声をあげ、言葉にならぬ罵声を吐いて。その手を引いて、ジルが叫ぶ。
「ご案じ召されるな、未だ我らは意気軒昂! 新たなサーヴァントを召喚するのです、ジャンヌ! この戦争は終わっていない、我らの戦いは未だ終わりません!」
ファヴニールが、沈む。黄昏に染まる剣気によって巨体を引き裂かれ、悲痛な叫び声と共に。再び見えた天敵の手で、虚空の塵へと還って消えた。
フランス全土を蹂躙し、数多の人々を恐怖に陥れた災厄の化身は、やはり此度もまた勇者の手により消えて逝く。
後に残るものはなく、戦争の終結を思わせる静けさだけが訪れていた。
黒いジャンヌとジル・ド・レェが、朽ちた城へと逃げて行く。ファヴニールを失って尚、この戦争を巻き返すために。
その背中を、追わなければならない。この特異点を修正するには、避けては通れない戦いがある。鵠佑の心は、もう、その事実を受け入れている。即座に走り出さなかったのは、躊躇や戸惑いからではなかった。
「ジークフリートさん、それに、ゲオルギウスさん。おふたりは、ワイバーンの掃討をお願いします。フランス軍からも、もうこれ以上、傷つく人を出したくないんです」
たとえ、修正されれば消えてしまうのだとしても。誰も彼も、全ての人を救うのが難しいのだとしても。そこで割り切れるほど、切り捨てられるほど、大人になりきれない子供の願い。
竜退治の英雄たちは、少年の願いを笑顔で受け入れ、即座に駆け出した。未だ生き残っている翼竜が、多くの兵を襲う前に。その後ろ姿を一度だけ、目に焼き付けて振り返る。目指す先の廃城を、最後の舞台を確かめるように。
「いやはや、こんな場所で、これほど満足のいく演奏ができるとは思ってもいなかった。新曲だからね、いっそ『マリア』とでも名付けるか……いや、今のはナシだ、召喚された時に聞いたら死にかねない。というかもう、ケツが痒くなってきたぞ!」
いつもと変わらないアマデウスの軽口も、今では少しだけ、寂しさを感じる。彼女がいなくなった事も、これから訪れる別れにも、言いようのない寂しさがあった。それを笑い飛ばしてくれたのは、他ならぬアマデウス本人だ。
「……とまあ、戯言はここまでとして。いかに名曲でも、続け過ぎては食傷だろう。ここから先は君の役割だ、僕のような役立たずの出る幕じゃない。音楽家は、音楽家。対する君は──そうだね、正義の味方、というやつだ」
アマデウスからの思いがけない言葉を受けて、瞬きをふたつ挟んだ後に、照れ臭そうに鵠佑は笑った。目指したものには遠く及ばないとしても、そういうものに近付けた、そんな気がして。
先の仕草を見ていたのか、アマデウスは親指を立てて、頑張れよと付け加える。こくりと頷き、真似るように同じ仕草を返して、頑張りますと答える声。駆け出す鵠佑の背に向けて、アマデウスの声が投げかけられる。
「音楽は、魂に刻まれる! あの調べは、この僕の全霊を込めた新曲だ。君の心に、魂に、しっかり刻み込んだろう。辛い時、苦しい時、きっと思い出してくれよ!」
それは、これ以上にない激励の言葉。誰に話したとしても、きっと、この世の誰もが信じないであろう。あのモーツァルトが、直々に生み出した新曲を、餞として贈られたなど。
目を閉じれば、いつだって思い出せる。たった一度、ただの一度、聞いただけ。それでも心に刻まれた、確かに魂へと刻まれた。きっと支えにしますと、心の中で呟いて、決戦の地へひた走る。
ジャンヌ・ダルクが、牛若丸が、風魔小太郎が、そしてマシュ・キリエライトが共にいる。恐怖も緊張も忘れてはいないが、今は傍に避けていられる。共に戦う仲間の存在が、鵠佑の背中を押してくれていた。
朽ちた廊下を駆けるのは、ジルを伴う黒いジャンヌ。その背を射程に収めた小太郎が、戦いの口火を切った。苦無の投擲は慈悲もなく、背後から心臓を穿たんと放たれる。
それを受け止め防ぐのは、うねり蠢く無数の触腕。眼球が飛び出さんばかりに両眼を見開き、ジルの叫びが廃城に轟いた。
「この、匹夫めが! 貴様の如き有象無象に、我がジャンヌを傷つけるなど叶わぬわァ!」
吐き出された腐蝕液を、前へ踏み出したマシュが大盾で受け止める。喉を焼くような腐敗臭を物ともせずに、飛びかかる海魔へと叩きつけ、薙ぎ払う盾の一撃で壁面へと打ち付けた。
汁気の多い果実が潰れたような、嫌な音。ぎいぎいと耳慣れない呻きを上げて、痙攣と共に力なく崩れ落ち、そして塵へと還っていく。
眼前の一匹を潰すまでに、生み出される海魔は七匹。無制限と感じるほどに、ジルの宝具は魔物を生み出し、瞬く間にその数を増していく。溢れ返るという言葉が相応しい勢いで、悍ましい肉の海が広がっていく。
「最早、ジャンヌの手を煩わせるまでもない! 知性も持たぬ海魔の波で、圧殺してくれましょう。誇りも名誉も大義もない、無価値な戦で死に腐るがいい!」
その言葉を裏付けるが如く、既に廊下は怪物たちで埋め尽くされた。邪竜の炎を防ぎ切ったマシュとジャンヌの護りがあっても、無尽蔵の飽和攻撃など、防ぎ続けるものではない。圧倒的な数の暴力は、ファヴニールとはまた別の恐ろしさがあった。
それでも、ジルを見据える鵠佑に怯えの色はない。何より強いと信じ得る、堅牢な護りを敷いた上で、静かに傍の牛若丸へと視線を向けた。
鵠佑にとっての幸運は、召喚に応じてくれた英霊たちが、皆一様に日本で生まれた存在であった事だ。誰もが誰も、数多くの偉業を成し遂げ、伝説に謳われる英雄たち。
綺羅星のような彼らは国も人種も区別なく、誰もが皆、人知を超えた力の持ち主に変わりない。だからこそ、誰もが誰も、強力無比な力を持つからこそ。彼らの活躍を知っている事が、マスターとしての強さに変わる。
「牛若丸……向こうまで、八艘あれば届くかな」
その言葉の意味を、マシュとジャンヌは理解しなかったろう。日本で育ったからこその、かの人の逸話を知っているからこその、ごく小さな、鵠佑だからこその強さだ。
即座に意味を介した牛若丸が、笑顔のままに頷いた。
無論、勿論、滞りなく、何ひとつの問題もなく。そう物語る瞳は爛々と、今か今かと待ちわびるよう。
「なれば今こそ、この牛若丸が遮那王流離譚をお見せ致しましょう。彼奴めは主殿のご所望通り、壇ノ浦・八艘跳にて──」
──殺してしんぜよう。
その、猛獣めいた感情は、冷徹な言の葉は、胸の内へと秘めたまま。
牛若丸が、跳んだ。マシュの盾を最初の踏み台に、醜く荒れ狂う肉の海原へ。猿の如き身軽さで、彼方の敵を討ち取らんと。
現れる船は、壇ノ浦の合戦そのまま。違いと言えば、屋根壁の有無と、海水か悍ましい肉玉か。どちらの差異も問題はなく、故に駆ける足は止まらない。
一艘、二艘、
「……っ! ジル、ダメよ、退きなさい!」
黒いジャンヌの叫びは、届かない。否、届いたとしても遅かった。
「ぬぅ、お、……お逃げください、ジャンヌぅぅぅ!」
肉眼で捉え切れぬ姿は、疾風か怒濤か。八艘の船を渡り、死神が如き荒武者が牙を剥く。薄緑を抜き放ち、己が間合いへジル・ド・レェを引き込んだ。
「ふふっ、手足は邪魔だなあ──『
斬撃、一閃。諸手を即座に斬り飛ばし、宙に舞った魔導書を返す刃で斬り捨てる。崩れ落ちるジルではなく、未だ戦う意志の揺らがないジャンヌへと、素っ首を刎ねんとばかりに牛若丸が斬りかかる。
魔導書を破壊され力を失った海魔の群は、蹲るように丸まって、端から崩れ落ちていく。拓けた道を、黒いジャンヌと切り結ぶ牛若丸の元へ、マシュが、ジャンヌが、駆け付ける。
剣撃の音の合間に、黒いジャンヌの咆哮が響く。獣のような、言葉にならない、憎悪と憤怒を綯い交ぜにした咆哮が。
力任せに振るわれる剣を、マシュの盾がどうにか防ぐ。人体を両断する膂力で振るわれる側を、渾身の力を持ったもうひとつの旗が受け止める。
あと少しだと、誰もが思うであろう光景。既に手駒は失われ、多勢に無勢。だと言うのに、誰の胸にも安堵はなかった。追い詰められるほどに、傷を負うほどに、黒いジャンヌは凶暴さを増していく。まるで、怨みの念を力に変えているかのように。
「これは、憎悪によって磨かれた、我が魂の咆哮……!」
直感する、いけないと。ダメだ、逃げてと、力の限りに叫んだ。駆け出そうとする鵠佑を捕まえるのは、小太郎の腕。即座に飛び退き、主を安全圏へと逃す迷いのない忍の姿。
「『
解き放たれた呪いの旗が、荒れ狂う怨念の嵐を巻き起こす。炎と呪詛を振り撒いて、黒いジャンヌがケタケタと、壊れたように笑っていた。
その光景を、何故、こうして見ていられるのか。痛みを微塵も感じないから、最初、鵠佑は自分が死んだのではないかとさえ思った。身体の隅々まで感覚は繋がって、何ひとつの支障はなく。無傷であると理解したのは、それからわずかな間を置いての事だった。
「主、殿……ああ、良かった……ご無事でしたか」
すぐ傍から聞こえたのは、今にも消え入りそうな小太郎の声。傷付き倒れたその様に、何があったのかを理解する。サーヴァントがマスターを庇うのは、至極当然。だから、風魔小太郎は、当然のようにそうしたまでの事だった。
「これで、残っているのはお前だけ。ええ、そうよ、私は奴らとは違うもの。無力な相手を焼くだけしかできない、無様で情けない存在ではありません」
鵠佑の健在を見て、死刑を執行するかのように、ジャンヌが一歩を踏み出した。憎悪の光を瞳に宿し、それでいて、静かな声で言葉を紡ぐ。甲冑の擦れる音が響き、一歩、また一歩と距離が狭まっていく。
「立ちなさい、立って、戦いなさい。立ち向かうお前を虫けらのように踏み潰し、灰も残さず燃やしましょう。──私は、お前たちを乗り越える。お前たちを踏み躙り、このフランスを今一度、地獄の底に叩き落とす!」
きっとそれは、歪であるが、彼女なりの矜持の形だ。邪竜の上で投げかけられた、牛若丸の一言が、棘のように胸の内を刺している。それに対する、ひとつの返答に違いなかった。
磔にされた、無力で哀れな小娘を、笑いながら焼いたもの。フランスという忌むべき国と、私は違うとジャンヌは叫ぶ。付け入るならば、その隙だと鵠佑は思う。竜の魔女のそのこだわりは、この局面を覆すための、か細い糸のような突破口。
挑戦めいた、嘲笑。鵠佑もまたそれに応じるように立ち上がり、黒いジャンヌへと、右手の甲を突き付けた。残りは、二画。刻まれた令呪を見やり、口の端を釣り上げて、魔女が笑う。
「いいわ、やってみせなさい。お前と私、どちらが上か、教え込んであげましょう。それから、這い蹲らせてやる。私の力が上なのだと、思い知って、目に焼き付けて、犬のように死ぬがいい」
「上も下も、ないよ。ここに来るまで、たくさんの人に助けて貰った。皆がぼくを、護ってくれた。多くの人が、支えてくれた。ぼくの道は、皆が作ってくれたんだ。だからぼくは、前に進む。お前を倒して、明日を、皆に取り返す。受けた恩を返すんだ、お前なんかに、負けられない!」
立って。もう一度だけ、力を貸して。この絶望に立ち向かう、何もないぼくと戦って。
言葉にせずとも、想いは伝わった。消費された一画と、石突きが床を打つ音でそれを知る。黒いジャンヌもまた、踏み越えてきた背後を振り返り、その双眸を見開いた。
「ええ、勿論です。共に戦いましょう、マスター。何より、彼女には……私が立ち向かわなくては、なりませんから」
優しげな声と、少しはにかんだ笑みと、引き締まった表情と。そのどれもが眩しくて、どんなに傷を負っていても色褪せない。彼女が頑なに否定をしても、やはりその姿は聖女のそれだと、憧憬めいた想いが鵠佑の胸には確かにあった。
ふたりのジャンヌが相対し、向かい合う。忌まわしげに睨み付ける黒と、凛々しく見据える白と。どちらからともなく地を蹴るなり、轟音を伴って、互いの旗がぶつかり合った。
「死に損ないが、いつまでも! 我が事ながら、その惨めさに吐き気がする!」
魔女の叫びを受け止めながら、聖女は籠手を纏った右の拳を鈍器同然に打ち付ける。蹌踉めくそこへもう一撃。振りかざした旗を、力任せに打ち付けた。
常人ならば昏倒したであろうその攻撃も、魔女を討つには至らない。二本の足で踏み止まり、歯を食い縛って打ち返す。拳を、旗を、剣を振るい、眼前の敵を力で叩きのめすかのように。鎧がひしゃげて留め具が砕け、切れた肌から鮮やかな赤が流れ出た。
互いに、一歩も譲らない。腹部を抉らんと突き出された魔女の旗は、身を翻した聖女の衣服と薄皮を裂くに留まった。聖女もまた返す石突きで顎を砕こうと旗を振るい、剣の一撃で受け止められた。
膂力で見れば黒のジャンヌに、耐久力で見れば白のジャンヌに、僅かながらに上がる軍配。それも大きな差異にはならず、ふたりのジャンヌは血に濡れながら、意地を張り合うように踏み留まる。
「目を覚ましなさい、ジャンヌ・ダルク! 私と貴女は、別のもの。私は、フランスを、人々を決して恨まなかった! 貴女は、いったい、何なのですか!」
その問いかけに、続く言葉に、魔女の動きに困惑めいた怯みが生まれる。
過去を思い出せるのか、家族を覚えているのか。願いは、祈りは、懐かしい日々は。ジャンヌ・ダルクという、聖女ではない少女の話。当人であれば知っているはずの、何でもない日常の風景。
「煩い、煩い煩い煩い煩い!」
そのどれにも、竜の魔女は答えない。それとも、答えられないのか。叫び、吼え、喚き散らしながら、癇癪を起こしたように振るわれる旗。鎧を砕くその一撃を受けても、聖女の意志は揺るがない。
きっかけは、マリー・アントワネットの言葉だった。貴女なんて知らないと、そう言ってあげればいい。そのひと言こそが、ジャンヌ・ダルクにとっての、全ての鍵であった。
「貴女は知らない、知るはずがない! だって、貴女は──」
「黙れ! 黙れ、黙れェェェェェエエエッ!」
絶叫を上げたのは、ジル・ド・レェだった。
左右の腕を落とされて尚、噛み付かんばかりに、彼にとっての、かつての光を見据えていた。流れ落ちる涙を拭う手も持たず、それでも構わぬと、口の端から泡を飛ばしながら、神を呪う男が叫ぶ。
「貴女は、ジャンヌは、恨んで然るべきなのです! 貴女を裏切り火に焚べた。このフランスという国を! そうでなければ、報われぬ。そうでなくては、救われぬ! 貴女には、何の罪もなかったというのに……!」
だから、私は
そうして、ジルはその場に崩れ落ちた。嗚咽を漏らし、涙を流して、立ち尽くす竜の魔女を見つめて。失われた手を伸ばし、救いを求めるかのように。
ふたりの戦いは、自然と止まっていた。肩で息をしながら、ジャンヌが告げる。何処か悲しげに、それでも告げなければならない事を。
「……貴女は、聖杯によって産み落とされた、彼の願った私の形。──この特異点が修正されたなら、何もなかったかのように消えてしまう泡沫の夢」
贋作、偽物、紛い物。ジャンヌ・ダルクという存在では、決して成り得ない
胸を焦がす憎悪も、身を焼くような憤怒も、全ては誰かの願いの産物。何ひとつ自分のものではないのだと、そう告げられたかのような、酷く空虚な感覚が竜の魔女の心を抉る。
膝から下の力が抜けて、崩れて落ちるようにへたり込む。手にした旗が床に落ち、がらがらと音を立てて転がった。呆然としたその顔には、先までの怒りも怨念もない。何もなくなったかのように、人形めいた顔だった。
ジル・ド・レェが、消えていく。現界する魔力を失い、末端から塵のように崩れて解けて、消えていく。
何がしかの言葉をかけようとして、ジャンヌは何も言えず、口を噤んだ。
竜の魔女は、微動だにしない。うわ言のように何かを、言葉にならないそれを繰り返す。
多くの人を殺して回った、恐るべき敵であったというのに。その姿が、まるで今にも泣き出しそうな子供に見えて、鵠佑は拳を握り締める。
敵であると、わかってはいる。躊躇せずに今すぐに、殺してしまうのが正しいのだろう。
それでも、できない。亘鵠佑には、そうした強さがない。
「立て。立って、戦え。倒すべき敵は、まだ立ってる。ぼくはまだ、生きている。立ち上がって武器を取れ、終わってなんていないんだろう!」
憎むべき敵なのだとは、わかっている。救いの手を差し伸べようだとか、そんな気持ちもない。それでも、こんなのは、酷すぎる。そう思ってしまうほどには、ただの、優しい少年でしかない。
あの言葉は、あの刹那に彼女が見せた矜持は、誰の願いにもなかったはずだ。敵対し、殺し合う相手だとしても、そのくらいは漠然とわかる。それを、踏み躙ってはならない。だから、虚ろな瞳を真っ直ぐに見た。
「乗り越えるって、言ったろう! ぼくはそれを止めてやる、だから立て! 身体が壊れて動けなくなるまで、全力で戦ってやる! 子供ひとり殺せないのに、フランスを滅ぼすだなんて笑わせるな!」
何ができるわけでもない、ただの、脆くて弱い人間でしかない。それを理解した上で、溢れる思いをぶつけるように、叫ぶ。消え逝くジルも、佇むジャンヌも、意識を取り戻したマシュたちも、誰もが鵠佑を見つめていた。
竜の魔女は、答えない。ただ、黄金色の瞳が、ゆっくりと瞼で隠される。無言の間は長くはなく、甲冑を軋ませる音がその返答。見開かれた瞳には、確かに、意志の光が戻っていた。
「──ええ、殺すわ。殺して、燃やして、灰すら残さず焼き尽くす。いいえ、それでも生ぬるい。存在そのものが焼き切れるまで、殺して燃やし尽くしてくれる!」
きっと、愚かだと怒られるなと、頭の片隅で鵠佑は思った。それでも、憎悪を向けられたとしても、彼女のあんな姿を見ているよりは、ずっとずっと良いとも思う。
旗を構え直したジャンヌが、鵠佑を庇うように前へと立った。竜の魔女もまた、酷く緩慢に旗を拾い上げ、それを敢えて待っていた。
「……ごめんなさい、馬鹿な事をしてるってわかってる」
ジャンヌはその謝罪には答えずに、ただ、柔らかな笑みを見せた。終わらせましょうと、そのひと言を最後に添えて。立ち上がった竜の魔女と、最後の決着を付けようと。
されど、それは叶わない。正しくは、叶わなかった、叶わぬものにされてしまった。
最初に異変を察したのは、カルデアのロマニだった。計器の示す異常な数値を、混乱したように読み上げる声。
最初に真相に気付いたのは、消え逝く最中のジルだった。あの男が告げた言葉の意味を、今になって理解した。失敗した時には、君も彼女も使わせて貰う。あの時のひと言が、この異変の根源に違いはない。
「これは何なの、ジル、いったい何が起きているの!」
その問いかけに答える前に、ジルの霊基が分解され、組み替えられて、形を変える。それでは足りぬと告げるように、竜の魔女もが解け始めた。大気が震撼し、地響きが城を崩す。足元に走る亀裂が広がって、瓦礫が奈落へ落ちていく。
悲鳴と共に、竜の魔女が煌めく粒子に還って、呆気ないほどに消え失せた。彼女を形作っていた、オルレアンの聖杯が音を立てて床を打つ。蹌踉めきながら立ち上がったマシュが、それを格納する様を、倒れそうになる鵠佑もどうにか視界の片隅に見た。
目が眩むような紫電、立ち込める濃密なオゾン臭は、英霊を召喚する時のそれに似ている。ただ、何もかもの規模が違っていた。通信越しのロマニが撤退を命じるも、満足に動けるものなど数えるほどしかいない。ジャンヌの手を借りて、マシュを抱き起すので精一杯だった。
目に見えない、波のような衝撃が廃城の建材を吹き飛ばす。地に伏した鵠佑の視界に、異形の何かが入り込んだ。見た事のない、知る事のない、人が触れ得る事のないもの。
「なんだ、これは、そんな馬鹿な! この反応、本物の悪魔だと言うのか!」
ロマニが叫び、管制室のスタッフへ指示を飛ばす。その声が霞むほどに、眼前の光景は異常で、何よりも絶望的だった。
天を衝く、巨大な肉の柱。そうとしか見えない何かが、閃光を放つ。ただの一撃で周囲一帯を薙ぎ払い、城壁を両断し、彼方の山を消し飛ばした。圧倒的な力を前に生きているのは、彼女の旗が護ってくれたからに他ならない。
傷だらけになりながら、ジャンヌは荒い呼吸の合間、背後の鵠佑を振り返る。ほんの僅かなその瞬間が、別れの時だと告げるように。
「マリーの言葉と同じになってしまうのですが……マスター、マシュ、どうか、これからも笑顔の貴方たちでいて欲しい。私があれを引き受けます、貴方たちはカルデアへと戻ってください。……必ず、私が討ち倒しますから」
帰れませんと、マシュが叫び首を振る。こんなものを残して行けない、外の皆も集まれば、きっと打倒できるはずと。しかしジャンヌはそれを拒み、マスターを護り切れないと、淡々とした声で答えた。
勝たなくては意味がない、そう諭すジャンヌの瞳は、強い意志を宿すもの。何も言えないまま、鵠佑もマシュも、彼女を見守っていた。旗を手放し髪を解いて、そっと跪くその様を。
「この旅路は、とても、とても得難いものでした。貴方たちと出逢えて、良かった。……声が、聞こえたのです。私が何故、このフランスに喚ばれたのか。貴方たちを護り、そして、礎となるのだと。それが、私がここにいる理由なのです」
アレを討つ術を、伝えるために。聳り立つ肉柱を見据えながら、ジャンヌは緩く、肺の中身を吐き出した。これこそが、私が召喚された理由なのだと。この宝具を見せる事こそが、私の役割だったのだと。
それが、ジャンヌの最後の言葉だった。
歌うように紡がれる詠唱は、彼女と共にあった旅路の中で、一度たりとて聞く事のなかったもの。このオルレアンの旅路において、一度たりとて使われる事のなかった宝具。
我が終わりは此処に。我が命数を此処に。我が命の儚さを此処に。
その一節で、この空気で、今から彼女が何をしようとしているのかを予感するのは容易い。だからこそ、鵠佑は無言のまま、両手を持って己が口を押さえ付けた。決して言葉を紡がぬように、痛みを覚えるほどに、力任せに。
言ってしまいそうだった。言ってはならないひと言を、告げてしまいそうだった。このまま見守っていたのなら、この手に残った最後の一画を用いて、やめてと、そのひと言を願ってしまいそうだった。だからこそ、声を殺して泣きながら、その後ろ姿を目に焼き付ける。
目を背けては、ならない。戒めのように、刻み込むように。その思いが、胸の中で燻り燃える感覚。己に力があったなら、もっと多くの英霊を連れて、万全の状態で戦えたなら。もしもを考えるのは簡単で、そして同時に、決して実現する事は叶わない。
これは、自分の無力さが招いた結果なのだと、他ならぬ鵠佑自身が理解していた。申し訳なさと、情けなさと、寂しさが混ざり合って流れて落ちる。傍でそれを見守るマシュも、切なげな表情で視線を落とし、言葉を挟む事すら忘れて佇むばかりだった。
「『
紡がれる、初めて聞いた宝具の真名。ロマニの通信はレイシフトの開始を告げ、この旅路を共にした、ジャンヌ・ダルクの生命の煌めきが炎に変わる。何もかもを見せ付けられて、鵠佑の意識は闇へと引きずり込まれるように落ちていく。
最後の刹那に見たものは、とても、とても美しい──真っ赤に燃える、天を焦がす炎であった。