人理継続保障機関フィニス・カルデア、トレーニングルーム。実戦訓練をするためのシミュレータではなく、専ら肉体鍛錬のためのエリアへと、ロマニはいつものように現れた。
腕時計に目をやると、午前七時を回ったばかり。早朝という事もあって利用者の姿はまるでなく、そのせいで、ひとり身体を動かす少年の姿はどうしたって目に付いた。
運動靴が床を擦る音は、止まらない。
珠のような汗で肌を濡らして、少年は真っ直ぐに駆ける。壁際で折り返し、すぐにまた全力で踏み出した。駆け抜けるフォームは、指導者がいない割には綺麗なもの。こうして走ると思った以上に足が速いのだと、ロマニはその時、またひとつ新しい情報を得た。
床材とソールが擦れる音が、響く。
何を言うでもなく、少年はただひたすらにトレーニングエリアを走り続ける。ロマニは少し離れた所で、やはり何を言うでもなくそれを眺めていた。
オルレアンの特異点が修復されてから、なのか。それとも、冬木の特異点が修復されてからなのか。どちらにしても、早朝から身体を鍛えようとする彼の姿をロマニが知ったのは、最近だった。
医学的な根拠に基づいたトレーニングとは、言えない。恐らくは、学校の授業でやった事を思い出しながら続けているのだろう。体力の限界が訪れたのか、最後に壁に手をつくと、鵠佑は肩で息をしながら天井を仰いだ。
「おはよう、鵠佑くん。前よりも往復できる回数が増えたね、体力が付いている証拠だ」
「おはよう、ございます……ごめん、ドクター……ちょっと待って……」
ゆっくりで構わないよと笑って、ロマニは呼吸を整える鵠佑の元へと歩み寄った。一方の鵠佑は、拾い上げたペットボトルの中身を喉を鳴らして飲み下していた。最後にひとつ、大きな息を吐き出して、ロマニへと向き直る。
「ここの所、ずっとかい。メディカルチェックの数値がね、あまり良くないんだ。率直に言ってオーバーワークだと思うよ、もう少し休みなさい」
まずは、何を差し置いても医療班のトップとしての忠告を口にする。眉尻が落ちるのを見やりつつ、これでも一応ドクターだからねと軽い調子で言ってロマニは笑った。
理由は、問わなかった。何故かは聞かずともわかっていたし、それを責めるつもりもなかった。
目の前の少年は、己の無力さを嘆いた上で、それを超えて強くなろうとしている。その精神に、前を向いて歩こうとする純粋な少年の心に、人理の存亡がかかっている。
本当に責められるべきなのは、そんな思いをさせている大人の方だ。いつだって消し去れない思いを隠して、ポケットから取り出したチョコレートバーを差し出した。
「美味しいよ、これ。ボクのお気に入りなんだ、元気が出てくる。コーヒーを買ってくるから、食べながら話でもしないかい」
驚いたような鵠佑の表情を見ながら、おごりだから安心して欲しいと、ロマニは笑った。鵠佑もそれにつられて、タオルで汗を拭いながら笑った。
ふたりの会話は、取り留めのない内容ばかりだった。学校で、どんな事を学んだのか。カルデアに来て、どんな事に驚いたのか。オルレアンで見た景色や、英霊たちの戦う姿。
話し出せば、止まらなかった。ロマニはそれを聞いて、頷き、時に質問を返しては相槌を打つ。自分でも話を組み立てられなくなるほど、思い付くままに言葉を紡ぐ。
知って欲しい事が多すぎて、何処まで話したかもわからない。それでも話せば話すだけ、次第に口数が減っていく。話したいのに話せない、そういうものが奥底に、確かに存在しているのを鵠佑も理解していた。
「……君は、ボクを責めないね。あの時、どうして帰還させたのかって」
やがて鵠佑の話が止まった所で、ロマニはゆっくりとした口調のまま、初めて自分から話題を振った。ふっと寂しげに笑うと、鵠佑は一度だけ頷く。
「城の外には、胤舜も健在だった。ジークフリートやゲオルギウスだっていたから、まだ戦えた。どうしてあんなに無理やり帰還させたのかって、そう言われると思ってたよ」
観測手であったカルデアのスタッフは、恐らく誰もが知っている。ジャンヌの宝具が展開された時点で、アレと戦うまでもなく、特異点は修正されていた事を。
それを鵠佑に伝えなかったのは、ロマニの判断だった。マスターを失わないための強制帰還が正しい選択だったという言い分を、事前に作りたくなかった。少年の抱いたものを理解してしまったから、ロマニは自分が恨みを受ける事を良しとした。それが実現する事は、なかったのだが。
「……ぼくは、自分の目でしか物事が見えてないですから。サーヴァントに指示をする時みたいに、三人称で見てくれる人がいないと、ひとりでなんて戦えないです。だから、……ぼくが責めるべきは、弱い自分だけなんです」
そういう子だよ、あの子は。だから、あの子の荷物を下ろさせる事なんて、誰にもできないのさ。
レオナルドの言った通りだったと、ロマニは髪をかき混ぜながら思う。他人に責任を求めずに、自分を罰していくタイプだと、深夜の工房でコーヒーカップを傾けながら、万能の人は呟いた。
そして同時に、ロマニはまたひとつを理解する。
そういう人だからこそ、数多の綺羅星の中で、似通う存在だったからこそ、彼女に憧れたのではないか。自分と似ていたからこそ、自分の遥か先を行く人だからこそ、この少年の心は、彼女に惹かれたのではないか。
組み立ててみれば思ったよりも単純で、きっと納得のいく理由ではある。だから余計に、ロマニの罪悪感は大きくなった。せめて、最期を看取らせてあげれば良かったのかもしれない。
そんな弱気を気取ったのか、床を見つめるロマニの視界に入り込もうと、鵠佑は膝を曲げて床の上へしゃがみ込む。見上げるような形になりつつ、笑顔と、いつもの仕草を見せた。
「笑おう、ドクター。悲しい顔をしていたら、ジャンヌも、マリーも、悲しむからさ。ぼくは、笑うよ。笑顔のままで、きっとこれからも頑張るからさ」
そのひと言を聞かされて、ロマニもまた、ぎこちなくも笑顔を見せた。気遣おうとしても、いつの間にか気遣われて、励まされた。一本取られた気分だと、そんな軽口をひとつ、叩く。
「ああ、笑おう。君に無理をさせてすまないと、そう思うのは忘れないけれど。ボクも、カルデアの皆も、精一杯笑うよ。君が無事に帰って来るのを、きっと笑顔で迎えるから」
一緒に、これからも、頑張ろう。その思いを胸にしまって、ロマニは少年と固い握手を交わす。世界の命運だなんて重責も、生命を落としかねない恐ろしい戦いも、多くの人との辛い別れも、何もかもを押し付けてしまう不甲斐なさを思いながら。
この少年が、何故選ばれたのか。神にでも聞かねばわからないであろうし、神に聞いたとしてもわからないかもしれない。わかる事と言えば、彼がただ優しくて、そして強い意志を持つというだけ。だからこそ、この役目を与える事に心が痛む。
そんなロマニを励ますように、鵠佑は笑った。何度も見せたいつもの笑顔を浮かべながら、ロマニに感謝の言葉を送る。無垢な瞳に見つめられて、またひと言、すまないとロマニが零す。
「何もかもを終わらせたら、その時は、一緒に美味しいものでも食べに行こう。もちろん、ボクのおごりでさ」
それしか思い付くものがないんだと、困ったようにロマニが言う。それで十分ですよと、鵠佑も短く返した。嘘偽りなく、心の底から、そう思っていた。
頬を濡らしながらのロマニのそれは、ほんの少しだけ不恰好で、それ以上にとても優しい笑顔だった。