人理継続保障機関フィニス・カルデア、ロマニ・アーキマンの私室。第五特異点──北欧神話大戦イ・プルーリバス・ウナム、定礎復元より七日後。
時計の針は二十時を過ぎて、昼勤の職員たちにとっては自由時間が訪れた頃合いだ。テーブルの上のソーダは、ひとり分。気楽にしていて構わないよと鵠佑に告げて、ロマニは手にしたタブレット端末を慣れた様子で操作する。
鵠佑はそんなロマニへと曖昧な返事をしながら、ミントの香りがする液体をゆっくりと飲み込んだ。喉の奥へと良く冷えた心地良さが流れ落ちて、鼻に抜けるような爽やかな香りが清涼感を与えてくれる。甘さが少し控えめのそれを、もうひと口。美味しいですと素直な感想の言葉に、ロマニは得意げに笑ってみせた。
色々試行錯誤したんだよと、完成までの道のりが決して平坦ではなかったという事を前面に押しながら、ロマニは端末上に保存したデータを再生し始めた。その内容は、主として鵠佑とジャンヌとの会話ログだ。
「なんと言うか……少しずつ打ち解けているようで、安心したよ。セプテムやオケアノスでは、君たち、ひと言も口を聞かなかったろう? ……ロンドンでのやり取りは、素直に言って驚いた。君の指示が出る前に、彼女が自らジャック・ザ・リッパーと戦闘を始めた事にも驚いたけれど」
時系列に従って再生される音声は、ロンドンでの一件を起点として、会話が成立し始めた事を示している。気まずそうな鵠佑の表情は、互いの壁を自覚していた事を言葉にせずとも語っていた。
「……彼女への苦手意識は、薄れたかな?」
「……あはは。やっぱり、わかっちゃいますよね。……うん、セプテムの頃と比べたら、ずっと薄れたと思います。まだ、名前は呼べていませんけれど」
彼女も、名前で呼ばれるのは嫌がると思います。鵠佑の気弱な呟きは、流れて消えていく煙のように、静寂に塗り潰された。関係は改善しているものの、良好には未だ遠い。ロマニの記述を覗こうとはせずに、鵠佑は手遊びのようにグラスを緩やかに回した。
咳払いを、ひとつ。ロマニは神妙な面持ちで、鵠佑の事を真っ直ぐに見つめる。鵠佑もまたそれに倣って、ふたりで正面から視線を交わす形になった。
「これは、答えたくなければそう言ってくれて構わない。とても私的な問題だろうから、立ち入られたくない時は、そう答えるべきだとボクは考えている。……今のジャンヌへの苦手意識は、オルレアンでの……あの特異点で、君を助けてくれたジャンヌの存在が、原因かい?」
予想外の問いかけに驚いたように、鵠佑の目が僅かに開いた。それから、少しの無言。何かを思案するように、鵠佑はグラスをテーブルに戻した上で、指の先で
「……あれ、もしかして、見当外れだった?」
「あ、いえ、完全にそうというわけでもないんです。確かに……あの人の顔で、あの人の声で、あの人とは正反対の事を言われるのは、苦手ですし」
それから自分の内面を覗き込むように、鵠佑はまた黙考をする。黒い髪をかき混ぜては、困ったように眉尻が落ちた。ロマニは急かす事もなく、ただ、少年の言葉が形になるのを待った。ゆっくりでいいんだよと、なだめるような言葉を添えて。
やがて鵠佑は、緩やかに肺の中身を吐き出してから、ロマニの顔を真っ直ぐに見つめた。指の先が小刻みに擦れ合うのは、ストレスを逃そうとする仕草のひとつだろうと、そんな思案を挟める程度には時間を要した。
「ぼくは、彼女が、嫌いなのかもしれない」
苦しげな顔で、鵠佑は呟くように胸の内を漏らした。理由はわからないし、原因もわからない。そう口にして、ゆっくりとかぶりを振る。誰にでも笑顔を向けて、子犬のように懐く少年の意外な一面に驚くあまり、ロマニは言葉を失った。
「何故か、何もないのに、好きになれないんです。最初は、ジャンヌの事を思い出すからだと、そう思った。あの宝具を見ているだけで、オルレアンでの最後を思い出したから。だからだろうって、思ってました」
「そうでは、ない? ……驚いたな、君にも、人の好き嫌いがあるだなんて」
悪い事なんだって、わかっているんですけれどね。ばつが悪そうにしながらも、鵠佑はロマニの問いに首肯する。切なそうなその表情を見て、ロマニもそれ以上の問いをかけられなかった。
いつも以上に重たい沈黙が、ロマニの部屋を埋め尽くす。ロマニも鵠佑も、互いに抱いているであろう違和感が発言を押し留めているように感じられる。結局、部屋の扉がノックされるまで、ふたりの話が再開される事はなかった。
「あのぉー、これって、何が目的なんでしょうかねぇ? 良妻的には、ご主人様以外の殿方とふたりきりっていうのは問題があると言いますかぁ……」
その甘ったるい声色は、意図的なのか無意識なのか、どちらにしても男心をくすぐるものだとロマニは思う。話を聞きたいだけだからそんなに警戒しなくてもいいよと、そう伝えるので精一杯だった。
鵠佑との会話が途切れて、空気が重苦しくなった頃合いで現れた彼女──玉藻の前は、ロマニにとっても鵠佑にとっても救いの手だったに違いない。不穏な雰囲気を払拭するように、鵠佑は彼女と入れ替わりでトレーニング施設へと戻って行った。残された玉藻の表情は、いつまで経っても半目の訝しむそれのままだ。
「いやさ、君は、ええと……召喚されて、今日で三日目だよね。カルデアに馴染めているか、とか、マスターとの関係はどうか、とか……まあ、そういう確認だ。本人がいると言い辛い事もあるだろうし、ボクが担当してるんだよ」
はあ、さいですか。玉藻の返答は、そんな具合に少しばかりそっけない。ロマニ本人に興味がないのか、それともこのやり取りに興味がないのか。会話は中々続かずに、途切れ途切れとなってしまう。
これはまた、苦手なタイプが来たものだ。頭を抱えそうになって、誤魔化すように飲み物の好みを問うてみる。玉藻はロマニの胸中を見透かしたように、助け舟めいた提案として、熱めの緑茶を要求した。両掌を上向かせ、ため息混じりに首を揺らすジェスチャーは、芝居がかった大袈裟なものだ。
「まあ、皆様良くしてくださいますし、
玉藻の言葉を聞きながら、ロマニは湯を注いだ急須を傾ける。湯呑みに緑茶を注ぐ合間は、玉藻が気ままに言葉を紡ぐ時間だった。何かが気になったものの、未だ形にはならない。茶菓子にごま団子を添えて差し出しながら、ロマニは玉藻の言葉をもう一度、頭の中で再生した。
違和感の正体は、すぐに知れる。ただ、それを問うても良いものかの判断が難しかった。ちらと視線を向けると、玉藻は長い睫毛を伏せたまま、緑茶を堪能しているように見える。しかし、頭上で小刻みに動く狐の耳は、警戒中の動物のように周囲の音を忙しなく拾っているようだった。
ジャンヌとはまた違った形で、彼女も何処か、壁がある。ふたりの共通点と言えば、カルデアへの不信よりも先に、マスターとの関係が芳しくない事だろう。
悪いお方ではなさそうですし。玉藻はそう言っていたものの、その言葉選びは良好な関係とは思えないものだ。悪くはないが、良くもない。そこに行き着く真意を測りかねて、ロマニはおずおずと、小さな挙手をしてみせた。
「……ちょっと、気になったんだけれど。君は、自分のマスターに、不服とかがあるのかな?」
「……みこっ? あらやだ、私とした事が。いやですねえ、もしかして、そんな風に見えてましたぁ? いえいえそんなぁ、私、あのマスターが気になったので様子を伺いに来たわけですしぃ」
場違いに明るい声で聞き返し、玉藻はごま団子に手を伸ばす。どうでしょうねえと嘯きながら、口内の甘味を堪能してばかりで回答はない。否定をしないその態度が答えなのかもしれないが、その真意はわからない。はぐらかされているのだと理解して、ロマニは弱ったようにため息を吐いた。
そんな様子を見て、玉藻は目許に意味深な表情を浮かべたまま、口元を隠して笑った。こんこんと狐の鳴き真似をするように、何処か戯れているような声色で。
「ご安心くださいまし、如何なマスターであっても契約は契約にございます。必要とあればこの玉藻、きちんとお役目は果たしますので」
人理修復に協力する事は、厭わない。それは約束すると、玉藻はロマニを見つめながら頷いた。貴方の心配事はそれでしょうと言われたような気がして、ロマニはほんの僅かに視線を逸らす。事実かもしれないが、あまり認めたくないものだった。
机の上のタイマーが電子音を奏で始めたのは、その時だった。玉藻はゆるりと立ち上がり、わざとらしく足音を立てながら扉へと向かう。豊かな毛並みの尻尾を揺らして、最後に一度だけ、肩越しに振り返りながら笑みを見せる。優しいような残酷なような、ひどく曖昧な笑みを。
「如何に綺麗に創られたとしても、硝子玉は硝子玉。私もそれなりに宝石とか大好物ですが、光っているなら何でもかんでも、とはいかないのですよねぇ」
レオナルドの淹れたコーヒーを飲みながら、ロマニは張り詰めていた意識が緩んでいくのを感じていた。時計を一瞥すると、日付が変わってから七分が過ぎた頃だった。
ジャンヌとのやり取りは、今回もやはり会話にならず、無言の重圧に耐えるばかりの時間だった。部屋の様子で全てを察したレオナルドが労いの差し入れを提供するまで、ロマニは机に伏してぐったりと、まるで死人か二日酔いの有り様だった。それを揶揄われて、仕方がなかったと抗議する。
子供のような言い合いができるこの時間は、ロマニにとって数少ない、何も考えないでいられるひと時だった。ソファに身体を預けたレオナルドは、ロマニの愚痴を聞き流しながら、ひとり黙々と何かの図面を描き上げていく。それは何かと問われても、今は内緒さとはぐらかしてばかり。ならばと覗き込もうとするロマニの胴を、ぐいぐいと足の裏で押し返した。
「しかし、ジャンヌではなくあの子に原因があったとはね。加えて、本人にさえ理由がわからないときたものだ、これは難しい問題だぜ」
レオナルドの言葉に、ロマニはコーヒーを啜る仕草で応える。憔悴した様子を見かねたというレオナルドから、話したまえよと散々に問い詰められて、渋々ながら鵠佑の状況を伝えてしまった。医師としてどうなのかという思いもあったが、随分と気が楽になったのは紛れもない事実だった。
ジャンヌの壁は、崩れない。カルデア局員と打ち解ける事はなく、鵠佑との距離も縮まったとは言い難い。あるいはそれこそ、鵠佑が彼女を拒んでいるという状況が、ジャンヌを頑なにさせるのか。思考速度が鈍ってくると、薬が切れてきたと実感した。
「鵠佑くんは、どうしてジャンヌを拒むんだろう。……それこそ彼女に対する恋愛感情とか、そうしたものが関係あるとは思うかい?」
ロマニの唐突な言葉に目を剥くと、レオナルドは鼻で笑った。少し休んだらどうだと、呆れまじりにため息まで漏らしてみせる。足を組み替えるその様を見遣りながら、そんなに変かなとロマニは問うた。
「そんなに安い理由であるものか、彼が『嫌い』と明言した唯一の特例だぜ。あの子に関しては、まずそれはないと断言していいだろう。ジャンヌと他の英霊との、決定的な違いが何処かにあると私は思うのだけれど……ふーむ、難しい問題だ」
レオナルドは、ペンを走らせながら唸り声をあげる。決定的な違いが、何処かにある。ロマニもその言葉を基に考えてみたものの、鈍った頭では答えなどまるで出なかった。
ショックだったのかもしれないと、今更ながらにロマニは思う。実に四つの特異点を修復するまで、一度として鵠佑は胸の内を明かさなかった。強力な英霊を召喚した事に、戦力の大幅な増強が成功した事に喜ぶあまり、見落とした事があったのではないか。
気分が悪い方に落ち込みかけた所で、不意にロマニの視界をタブレットの液晶が覆った。距離が近すぎて焦点が合わずに、なんだいこれはと、間抜けな言葉を漏らすしかない。ロマニのカップを取り上げながら、レオナルドはこほんと咳払いを挟む。
「
第六特異点──神聖円卓領域キャメロットの発生が確認されたのは、ふたりきりの部屋の中で密やかに発表されたレオナルドの発明品がロールアウトした翌日の事だった。
会話ログ番号、八十二。第六特異点──神聖円卓領域キャメロット。ロマニ・アーキマン、並びにレオナルド・ダ・ヴィンチのプライベート通信。
「結論から言おう、ロマニ。やはりあの子は異常だ、間違っている。行動の全てが、利他的に過ぎる。最初は優しさとも思ったよ、いや、あの子にとっては優しさのままなのかもしれないけれどね」
「砂漠の彼らに、水と食料を与えた事にあるのかい、それは。それとも、身を挺して子供を庇った事に?」
「いや、そうした局所的な問題じゃない。むしろ、もっとこう抽象的な……思想的なもの、と言うべきかもしれないね。名も知らない誰かを護るために自らの血を流す事を厭わないのも、度が過ぎれば確かに異常だ。けれど、私はあの子の冷静な行動こそが異質だと思う」
「聞かせて欲しいけれど、念のために。この回線を使っているという事は、誰かに聞かれていないだろうね。鵠佑くんの前で話すとか、そういうのはやめてくれよ、レオナルド」
「ははっ、私だってそのくらいの分別はあるさ。大丈夫、あの子はマシュに護られたままで寝ているよ。……あの子はね、目の前の誰かも、目の届かない誰かも、そのどちらにも意識を割いている。自分の身体や安全を投げ打って無茶をするくせに、人理修復に支障が出ない事をきちんと見越して判断を下しているようだ。私の推察を送信した、目を通して欲しい」
「……なるほど、計算の上だとしたら、これは確かに今後の活動に支障が出る寸前で留まっている。けれど、鵠佑くんの様子や行動からは計算で動いているようには見えない。つまり、これを無意識のうちに、それも完璧にこなしていると」
「考えてもみたまえよ、スクロールで治せるからって、他人のために重傷を自ら進んで受ける者はいない。そんなだったら死を覚悟して、誰かを救う代わりに即死した方が痛みも苦しみもないだけ、ずっと楽なはずだ」
「しかし、そうすると人理修復という大きな目的に支障が出る。目の届く誰かを救おうとして死んでしまっては、目の届かない多くの人を救えない」
「故にあの子は、半死半生を狙って身を投げ出す。これまでの旅で、魔術的な治癒の効力を身体に覚えさせたのだろうね。このくらいの傷なら治せる、だからこの人を助けよう。……生物的に考えても、明らかに間違っているだろう、そんなの」
「………………ジャンヌとの関係は、相変わらずかい」
「ああ、そちらは、うん。険悪とまでは言わないけれどね、良好でないのは確実だ。ジャンヌは、あの子の指示をきちんと聞いているよ。これからはもう少し、ふたりの関係に注意してみよう。また何かあったら、連絡をする。今日のところは以上だ」
人理継続保障機関フィニス・カルデア、ロマニ・アーキマンの私室。第六特異点──神聖円卓領域キャメロット、定礎復元より四時間三十二分後。
氏名:亘鵠佑
国籍:日本
年齢:十七歳
性別:男性
彼はまた、傷だらけの身体で帰ってきた。名も知らない誰かを救い、そして顔も知らない誰かの明日を救うために。休む事もせず、嘆く事もせず、不平も言わずに、不満も漏らさずに。
何が君をそうさせるのか。そう尋ねてみても、答えは出ない。彼自身でもわかっていない、無意識のうちの行動なのだから当然だ。身体に刻まれた傷の痛みを思うだけで、胸が痛む。
ベディヴィエール卿の旅路に涙を流して、卿の人生を救おうとして。彼は、卿の果たせなかった聖剣返還を成すために、此度もまた特異点を直走った。
けれど、どうか、気付いて欲しい。君のその生き方は、卿のそれと大差がないんだ。何ひとつの落ち度もないのに、あの爆発事故を生き延びたからと言って、そんなにしなくてもいいんだ。
本当に悪いのは、
途中まで書きかけたレポートを、ため息と共に削除する。これではただの日記に過ぎない、あまりに感傷的に過ぎる。そう自分に言い聞かせて、ロマニは無言のままに実行ボタンを押下した。
鵠佑の生い立ちを調べ始めたのが、四時間ばかり前の事だ。時計に目をやると、夜明けと呼ぶに相応しい時間になっていた。今日も徹夜だったなと他人事のように考えながら、自身の乱雑な筆跡に視線を落とす。
亘鵠佑には、肉親がいない。
物心がついた頃には、しゃくなげという児童養護施設で、平凡に、慎ましやかに暮らしていた。肉親こそいないが、幸いにも健やかに真っ直ぐに、優しく穏やかな少年として鵠佑は成長をしていった。
ならば、それならば、彼は
彼は、日本ではなく北米で保護された子供だった。街を彷徨っていた幼児を、日本人旅行者が見付けて大使館へ。ひとつひとつの詳細な情報はなく、辿れる範囲の記録しかない。それでも、彼の経歴はこうして見ると異質なものだった。
頭部の古傷に関しての記録はないが、検査を積み重ねていく中で推察する事は不可能ではない。ただ、その結論はやはりと言うか、これもまた異質なそれだ。
彼は、至近距離から、大口径の拳銃で撃たれている。それも恐らくは、物心すら付く前に。何故かは、わからない。理由はわからないが、まかり間違っても、これは凡そ正常なものではない。弾丸は直撃を免れて、頭蓋骨を僅かに削り、皮膚を引き裂いたのだろう。幼な子が受けるものではないそれを、どう理解すればいいのか、ロマニにはわからなかった。
「……っ! あ、ちょっと待ってくれるかな、開けるから!」
思考の迷路に囚われかけたロマニの耳に不意のノックが届いて、心臓が竦み上がった。慌ててタブレットの資料を閉じながら返事をすると、部屋の施錠を解除する。他者の過去を詮索して覗き見る行為には、それなりの後ろめたさが伴う。
罪悪感が顔に出ていたのか、開いた扉の向こうにいた少女──マシュ・キリエライトは、ロマニの顔を見るなり、不安そうに眉尻を下げて彼を見上げた。
「あの、ドクター、もしかして……お疲れだったでしょうか。それなら、わたしは日を改めますので」
良いんだと慌てて取り繕い、ロマニは髪をかき上げる。マギ・マリのサイトを見ていたせいで寝不足なのさと笑うと、マシュは盛大なため息を吐き出した。健康管理が大事だとは、ドクターの言葉です。そんな可愛らしい抗議をしながら、マシュは勧められるままに椅子へと腰を下ろした。
「それで、今日はどうしたのかな、マシュ。こんなに朝早くからボクの部屋に来るだなんて、珍しいじゃないか」
悪い夢でも見たのかと、ロマニが問いかける。マシュは返事をするでもなく、俯き、何かを考え込んでいる様子だった。
あの、その。そういった言葉を発しても、肝心の内容には中々踏み込まない。ゆっくりで良いからとマシュに言葉をかけた上で、紅茶を淹れようと付け加えた。立ち上がるロマニの背中へと、マシュの声が投げ掛けられた。
「オルレアンでみた、夢の話。覚えているでしょうか、ドクター」
「ああ、あの……無菌室の? 昔の事が夢に出て来るのは、久しぶりだね」
インスタントのティーバッグを収めたマグカップに、熱い湯を注いでいく。淹れ方としては三流も良い所だろうとは思うが、ロマニはそうするくらいしか紅茶を淹れる術を知らなかった。
湯気のたつカップを手に、おまたせと告げて振り返る。ロマニの視線を受けると同時に、マシュがゆっくりとかぶりを振った。
違うんです。短い否定の言葉が、何を意味するかは読み取れない。彼女の前にカップを差し出しながら、なにがだいとロマニは重ねて問いかける。
「あれは、カルデアの無菌室ではありません。オルレアンでは、意識するほど記憶していませんでしたが……今朝の夢は、未だに覚えています。あれは、わたしの記憶ではないんです、ドクター」
マシュの視線が、ロマニを見上げる。真っ直ぐに見つめられるのが何故か恐ろしく思えて、ロマニはカップの中の液体に視線を逃した。
突拍子もない夢だと言えば、それで片付く問題だ。無菌室で育ったマシュならば、何かで得た知識を基にして、見ず知らずの無菌室を夢にみる事があるかもしれない。確かに一般的な話ではないが、マシュの生い立ちを考えれば、あり得ないとは言い切れない。
そう自分に言い聞かせている事に、他ならぬロマニ自身が気付くのはすぐの事だ。突拍子もない話ならば、自分の仮説だって無理がある。そうわかっているから、もうひとつの心の声に耳が向いてしまう。
曰く、サーヴァントとマスターは、互いに互いの夢をみるという。
正常とは言えない足取りと、歪さが垣間見える精神性と。彼がそういうものでないという確証は、何処にもない。彼もまた、自分の知らない何処かの施設で、この少女のように創られた存在であったなら。
それこそ突拍子もない、ごく短い妄想に囚われたロマニの名を、マシュが不安げな面持ちで呼ぶ。ああと返答をした後は、咳払いをひとつ挟んで、ロマニはカップの中身をひと口啜った。
「マシュ、良ければ夢の話をもう少し詳しく聞かせて貰えるかな。例えば君の記憶が創り出した、ただの虚構かもしれない。けれど、今朝の夢にはそうだと思えない何かがあるんだろう?」
ロマニは、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。頷き、記憶を辿るマシュの瞳を、じっと真っ直ぐに見つめながら。