提案があるとエミヤが唐突に口にしたのは、レイシフトを終えた直後の事だった。どういう事かと尋ねる少年に、いつもの気難しげな顔のまま、赤い弓手は静かに語る。
「今から君には、私をアーチャーと呼んで欲しい。私も同様に、君をマスターと呼ぶ。馬鹿げた妄想かもわからないが、そうすべきだと、霊基が訴えている……などとは、詩的に過ぎるかな?」
ふっと口端を持ち上げる、皮肉げな笑い。その真意が何であれ、エミヤの警戒を理解して、少年は頷いてから、この呼び方は慣れないなと嘯いた。
「まるで、聖杯戦争だね。アーチャー、君は他のマスターとサーヴァントがいると見ているのかい」
「そうだな、わざわざ八つの聖杯が一ヶ所にある事も、まるで誘われているようにしか思えん。ひとつは余分だが、この街並みが冬木のそれを模しているのも意味があるのだろう。……少なくとも、今まで修正してきた特異点でない事は確かだ」
言い終えるのと、同時。エミヤはいつもと変わらぬ態度のままに、干将・莫耶の夫婦剣を投影する。視線の先には、ボロ布で素性を隠した、何者か。
敵か味方かもわからぬそれは、何を言うでもなく立ち止まる。その傍に浮かび上がるようにして現れたのは、鷹の翼を羽織った少女。手にした杖をひと目見て、キャスターであると、エミヤもマスターも判断する。
「誰何をしたい所だが、構わないかな。流石にその格好では、話し合いが希望だと言われても信じ難い」
エミヤの声に、返答はない。双剣を握りながら、小さくため息を吐く。傍のマスターが自身のサーヴァントを一瞥するのと、布がはためく音が聞こえたのは、秒の間もない同時の事だった。
「キャスター、四番、六番、十二番」
男の声と、任せたまえと、楽しげな少女の声。エミヤの斬撃、十文字に振るわれる左右の剣が眩い障壁に阻まれて、止まった。踏み込みは鋭く、速く。肉薄する敵の構えを見て、エミヤは即座に双剣を手放した。
短い呼気、アスファルトを踏み締める音、総身の筋肉が軋む音すら聞こえそうな錯覚。濃密な危機感に従い、エミヤは左右の腕で己が胸を防御する。放たれたのは、拳打か、掌打か。骨を砕かんとする衝撃に、重たい身体が浮き上がり、両足が空を掻く。驚愕しながらも、歴戦の英霊は冷静なまま。魔術回路を励起させる、そのひと言を口にする。
「トレース・オン!」
防御を弾かれた両手に、再び生み出される鋼の刃。それを振るうよりも先、男は即座に飛び退いて距離を取った。留め具を裂かれた布地が落ちて、その素性が露わとなる。
変哲のない男だった。整ってはいるが、特徴のない顔立ち。反面、肉体はがっしりとした、逞しい筋肉質。黒を基調とした衣服には、確かに見覚えのある、カルデアの所属を示す意匠が刻まれている。
だが、知らない。
エミヤも、彼のマスターも、この男に見覚えはなかった。そも、カルデアにおいて、マスターと言えばこの少年だけのはず。エミヤの思考は、その大前提を何処かへ捨てて、目前の敵へと集中を始める。
「あー……流石に、真正面からだと分が悪いかな。ちゃんと倒すなら、先に魔力切れにさせないといけないよね。……ああ、けど、アーチャーは単独行動ができるのか。やっぱり、実際に試すと難しいなあ」
呟きながら、男は己の獲物を観察するようにして、ふたりの様子をじっと見つめる。隙だらけではあったが、その傍のキャスターは、一切の油断なくエミヤのマスターだけを見据えていた。
下手に動けば、彼が死ぬ。そうさせてはならないと、サーヴァントとしての使命以前に、英霊として、かつての人間としての意識がそうさせる。だからこそ、エミヤはただ、目の前の敵を見送るしかできなかった。
それじゃあ、また。まるで友人に語りかけるような気軽さでひと言を残して、男は夜の闇へと消えて行く。その姿が見えなくなるまで、ひと時も気が抜けなかった。
「どうして、どうして、皆カルデアの制服なんですか? カルデアのマスターって、私だけだったんじゃなかったんですか?」
うわ言のように呟く声は、か細い少女のもの。アーチャーのマスターも、キャスターのマスターも、見知らぬけれどカルデアの制服を着た、見た事のないマスターだった。
双方の戦いに割って入ろうかとした矢先、上空への撤退を懇願されて、イスカンダルは渋々ながら、マスターと共に空を駆けていた。天井までは余裕を持たせつつ、街並みを空から見下ろして思案する。ここで、何が起こっているのかと。
「マスター、シャッキリせんか。聖杯が八つもあるのだ、マスターが同じだけいても仕方なかろう。うん……ならばこれは早い者勝ち、言わばカルデア間の聖杯戦争というやつかもわからんなあ!」
がははと豪快なイスカンダルの笑い声に落ち着きを取り戻して、少女はその言葉を反芻する。ほんの少しの、無言の間。何かを考え込むように、征服王の主は、無人の街を見下ろしていた。風はなく、そのおかげで、何処かで聞こえる激突音が聞こえるほどの静寂。先の戦いだけではない、何処かで未だ、見知らぬ誰かが戦っている。
「もしも、本当に、カルデア同士での戦いだったら。あの人たちも、ううん、この特異点にいる人たちが、皆カルデアから来たなら……私は、誰とも戦えません」
カルデアの人ならば、傷付け合いたくない。
真剣な面持ちで語る少女の気質を思い出して、イスカンダルは頭を掻いた。聖杯の奪い合いとなれば、見事な益荒男たちが鎬を削る鉄火場となろう。それに心踊らない征服王ではなかったが、この娘にはちと辛いかと、気遣いをする程度には悩みもした。
ひとまずは、このまま様子を見てはどうか。無血で解決できそうならば、その時、介入すれば良い。そんなイスカンダルの提案は、彼のマスターにとって、とても魅力的なものだった。
甘っちょろくても、良いんです。皆がカルデアに、自分の家に帰れたら、それが一番ですから。夢を見る乙女のようなその言葉を聞きながら、イスカンダルは愉快そうな笑みを見せた。
ビルを飛び越え駆け抜ける、流れ星のような戦車を見た。地を這う蜘蛛のように、闇に潜む男を見た。その強襲を防ぎ切り、主を護り抜いた赤い外套を見た。
幾つかの戦局を確認して、確信に至る。セイバーの直感は正しい、これはそういうものだと、少女は胸中で結論を下す。傍に佇む騎士王は、ただ静かに、夜の街並みを見据えていた。
「情報が、足りないですよね。カルデアに連絡が取れれば……せめて、アサシンも一緒にいたらなあ。色々、調べて貰えたんですけれど」
ないものはないかと、切り替える声は明るい。サーヴァントと向かい合い、マスターは静かに言葉を選ぶ。どうしようかと問うのではなく、指針への同意を得るように。
「聖杯は気になりますけれど、まずは情報収集をしようと思います。アー……セイバー、戦術的なミスだと思ったら、きちんと教えてくださいね。キャスターのマスターは好戦的なので、十分な注意を」
「問題ないよ、マスター。どんな敵であろうと、君を護るさ。……行こう、この特異点の修正に」
セイバーの声は、穏やかなまま。人理修復の旅路で、己が主の思想は知っている。故にその指針も、彼にとって驚くようなものではなかった。
いつだって、彼女が求めるのは正解だ。それが一番美しいからと、楽しげに笑っていた。刹那の逡巡は掻き消えて、騎士王が一歩を踏み出した。銀に輝く甲冑を鳴らし、戦場へと舞い戻るように。
不意に訪れた静寂の中、甲冑が小刻みに擦れる音だけが密やかに響く。鎖で雁字搦めに縛られたような、忌まわしげなジャンヌの表情を、アルトリアだけが見ていた。
ビルの入口から、ゆっくりと、それでいて力強く。一歩一歩を踏み出しながら、
「……戦いを、止めるんだ。この人たちも、手を止めてくれている。本当に敵なら、ぼくが殺されているはずだ」
優しげな顔立ちに似合わない強い言葉だと、そんな事を立香は思った。ジャンヌは小声で毒吐くと、そのまま不愉快そうに、鵠佑の背後へと退いて行く。
迷いはあったものの、立香もまた、アルトリアへと声をかけた。武器を収めて欲しいと、停戦の提案を受け入れるように。サーヴァントたちの間で暫しの睨み合いがあったものの、再びラムレイに跨る姿を見て、立香は内心で胸を撫で下ろした。
緊張の糸が緩んだ所で、立香と鵠佑は同時に、肺の中身を吐き出した。その様が面白かったように、互いに小さな笑いを見せる。
「……あー、ええと。まずは、急に襲いかかってごめんなさい。ぼくは、亘鵠佑です。礼装でわかると思うんだけど、カルデアのマスターです」
「藤丸立香、同じくマスターをやってます。立香でいいよ、鵠佑……くん?」
呼び捨てにすると、クラスメイトと被りそうだから。そんなひと言を付け加えつつ、立香は右手を差し出した。鵠佑もまたそれに倣って、握手を交わす。互いに、少なくとも敵ではないと、そう認識していた。
少なくとも、面識はない。お互いに記憶を呼び起こしてみたものの、どちらのカルデアでも見た事のない顔だった。それどころか、その名前に聞き覚えもない。
「平行世界とか、そういうやつなのかな。どっちも、人類最後のマスターみたいだし。サーヴァントは違うけれど、ドクターとかマシュとか、ダ・ヴィンチちゃんも同じだもんね」
互いの状況を説明し合って、行き着いた結論はそれだった。立香の言葉に頷きながら、鵠佑は通信機の無事を問う。立香のそれもやはり通じないと知ると、困ったように眉尻を落として、鵠佑は盛大なため息を吐いた。
「手持ちの物資でやりくりしながら調査するしか、なさそうだね。……あ、そうだ。彼女は、見ての通りなんだけれど、オルレアンのジャンヌ・ダルク」
「……ちょっと」
易々と真名を明かす鵠佑に、ジャンヌは抗議の声をあげる。敵じゃなさそうだし良いじゃないかという呑気な言葉に、彼女はふんと鼻を鳴らして外方を向いた。
立香もまた、アルトリアをちらと見遣る。騎士王の小さな頷きは、ジャンヌの脅威を軽んじたのではなく、先の一画に対する礼節のそれだった。
「彼女は、アルトリア・ペンドラゴン。ランサークラスとして現界して……ロンドンの、って言ったら、わかりやすいかな?」
「馬上から失礼する。どうぞ、よろしく」
ひとまず、互いに互いを味方であると、そう判じての簡単な自己紹介。ジャンヌとアルトリアは波長が合わないのか、互いに何を言うでもなく、ただ主の傍に付き従うばかり。
それでも、戦いが始まるよりは良いと鵠佑が思った矢先、何処かで激突音が轟いた。大気を震撼させるようなそれに、四人の緊張が高まる。真っ先に駆け出す鵠佑を追い抜いて、アルトリアが前を行く。
「そう急くものではない、先ずはサーヴァントを走らせるのが定石だ。貴公は、我がマスターと共に来るといい!」
行こうと、立香もそれに続いて駆け出す。僅かに遅れて追従するジャンヌを見遣ってから、鵠佑もまた、夜の闇へと駆け出した。
Fate/Grand Order
SCP Containment Breacher