戦闘の痕跡が残るそこは、閑静な住宅街を模したもの。辿り着いた鵠佑が感じ取ったのは、懐かしさと寂しさだった。見慣れている日本の街だのに、生活の、人間の気配がない。それが、郷愁の念にも似た、何とも言えない物悲しさを感じさせた。
アスファルトが陥没し、捻れ剥がれた破壊の痕跡。蹲み込んで触れながら、立香は何かに思い至ったように呟きを漏らした。
「もしかしたら、李書文がいるかもしれない。これ、震脚の痕だと思う」
思い当たる名前に、鵠佑も記憶を辿る。第五特異点で出会った武術家の姿に至るまで、時間は然程かからない。その一方で、アルトリアを一度見遣ってから、胸に浮かんだ疑問を口にする。
「けれど、李書文ってランサーじゃないのかな。聖杯戦争だったら、同じクラスは召喚されないよね?」
そんな鵠佑に、ああと立香は笑顔を見せた。それから肩幅に脚を開いての、自然体。だらりと下げていた両手を持ち上げて、自慢げに視線を向ける。
短い呼気と、鋭い踏み込み。突き出す拳が空を切る、小気味良い音が響いた。
「李書文は、拳法だけで戦うアサシンのクラスで召喚される事もあるんだ。ちょうどうちにいて、八極拳をね、教えて貰ってる」
形だけ、だけどね。照れ笑いをしながら、何度も見てきた痕跡に似ていると、立香は抉れたアスファルトを指し示した。そして、もしもそうだとすると、きっと恐ろしい相手だとも静かな声で語る。
その一方で、周囲を見回してみたものの、地面を除いての痕跡はない。血が流れなかったのだとすれば、それは良い事だと、他人事ながらも鵠佑は思う。この場に集められたのが、異なる世界のカルデアのマスターならば。それならば、皆が無事にいて欲しいとそう思うのが、この少年の変わらない気質だ。
安堵の顔を見せた鵠佑に、立香は何故かと理由を問う。思ったままを答える少年の言葉に、立香は悪戯な顔で笑った。お人好しと言われるでしょうと、自分の事を棚に上げて。
ざくりと、地面を踏み締める音は、その時。不意にふたりの背後で響き、柔らかな女の声がそれを追う。
「ほーら、やっぱりいた。ね、だから言ったじゃないですか、マスターさん。こう言う美味しい話には、群がる輩がいるって」
甘ったるい声は、ひどく蠱惑的な響きになって、男女問わずにその鼓膜を舐め回すよう。瑞々しい肢体は少女の清らかさと、女の艶かしさが同居する芸術品のそれだろう。長い髪を揺らめかせ、精神を撫で回すような視線を向けながら、
「みんな、みーんな、始末しましょう。聖杯なんて、もう滅多に手に入らないんですから。大丈夫ですよ、マスターさん。貴女はたくさん頑張ってるんですから、私がちゃーんと褒めてあげます。他の誰が認めなくても、私は貴女を
カーマ。か細い声で少女が名を呼び、はいと笑顔で女が頷く。かさかさに乾いた唇を、そうと優しく、甘く吸って。艶やかな黒髪に指を通し、撫で梳いて甘やかすように。
それに甘えて懐く少女もまた、確かに、カルデアのマスターだろう。鵠佑の直観は、そう告げている。見た事のない黒い礼装に、痩せ細った身体を包んだ見知らぬ誰か。
ゆらりと揺れる陽炎のように、カーマが一歩を踏み出した。アルトリアが槍を構え、ジャンヌもまた、それに続いて地を踏み締める。
「マスター、アレは危険だ。いざとなったら、令呪を」
アルトリアの声に、余裕はなかった。立香の表情も引き締まり、敵の出方を見定めようと意識を集中させている。にたりとカーマが笑ったのと、ジャンヌの双眸が鋭さを増したのは、同時。
「──っ、マスターはだめだ!」
咄嗟に、その行動を先読みしたように鵠佑が叫ぶ。ジャンヌの舌打ちと共に、カーマが振るうヴァジュラの一撃が空を駆ける。投擲が巻き起こした衝撃波に、周囲の窓ガラスが次々と砕けて散った。
迎え撃つアルトリアの槍が、膨大な魔力放出を伴ってブロック塀ごと周囲一帯を薙ぎ払う。激突の折に巻き上がった火花に、闇夜のような薄暗さが、一瞬、真昼のそれへと変化する。堪らず立香は両腕で顔を覆い、突風と石飛礫を受け止めた。
ジャンヌが地を蹴り、爆ぜるようにカーマを狙う。手元に引き戻したヴァジュラを盾に、旗の一撃を受け止めながら、神の化身が楽しげに笑う。ジャンヌの膂力に押されながらも、それすら楽しんでいるように。
「いいじゃないですか、そんなに頑張らなくたって。どうせ皆、
堕落に引き込むようなカーマの言葉は、サーヴァントよりもマスターに投げかけられるよう。鵠佑も立香も、意図して合わせた訳ではなくとも、ふたりで同時にサーヴァントを呼んだ。ちょうど、カーマの誘いに対する拒絶のように。
「アヴェンジャー!」
「ランサー!」
アルトリアの雄叫びは、ラムレイの蹄音をかき消すような鋭さと強さがあった。ジャンヌの雄叫びは、カーマの白笑を塗り潰すような憎悪と憤怒に満ちていた。
中空へと舞い上がったラムレイが踏み潰すように前足を叩きつけ、アスファルトごと地面を陥没させた。すんでの所でそれを躱したカーマへ、ジャンヌが直剣で斬り付ける。柔肌を裂かれる痛みに眉を顰めながら、追撃を厭うように鎧を蹴り飛ばし、飛び退って間合いを離すカーマ。巻き起こった紅蓮の炎は、その身を焼き損ねて電柱を飴細工のように溶解させた。
「ちっ……ちょろちょろと、目障りな!」
身を翻して間合いを離し、アルトリアの一撃を警戒するように、カーマは己が主の元へ。少女を優しく抱き締めて、頬擦りをしては口付けを交わす。立香の制止に、ラムレイの嗎が轟いた。
異音は、その時。乾いたそれは、爆竹に似ていた。
鮮血は、それよりも少しだけ早く散る。鵠佑の肩を覆っていた礼装が裂け、身体を強く引かれたように重心が崩れる。悲鳴をあげる事もなく、鵠佑はただ、困惑したように飛び散った赤を見つめていた。
「やったか?」
「いいや、肩を撃ち抜いた。第二射、撃て」
「了解」
「上腕部への着弾、確認」
「第三射を?」
「必要ない、まだ無理だ。こちらガンマ、第四地点へ移動する。以上」
何故なのかは、知らない。ただ、現実がそうであるだけで、理由などはわからない。それを知ろうとも思わないし、知りたいとも思わない。ただ、そういうものだと認識して、何もせずに捨て置いた。
何故、私は喚ばれたのか。
ジルの願いが、聖杯を核に
復讐者としての存在は、心地良いものではなかった。この精神を苛み続ける、狂おしいばかりの怒りと憎しみ。人という種に対しての、憎悪ばかりが意識を染めて、忘れる事は未来永劫、有り得ない。私の霊基は、そういうものとして産み落とされた。
そも、私は英霊の座に登録されていない。それはそうだ、ジャンヌ・ダルクは人々を恨む事がない。だから、竜の魔女など生まれない。特異点における、泡沫の夢に他ならない。私はそういうものだった、はずだ。
けれど、この身は、この霊基は、私という存在は在る。存在しないはずの存在が、確かにここに存在している。あのマスターのサーヴァントとして、確かにここに、私はいる。
何故、アレは違うのか。
人への憎悪は、消えはしない。それは、人から成った英霊も、神も悪魔も変わりはない。生者も死者も分け隔てなく、私の憎悪は変わりはしない。変わりはしない、そのはず、だった。
マスターへの憎悪は、ない。いや、あるのかもしれないが、薄い。オルレアンで、尽く、私の邪魔をした男。忌々しいはずの子供を見ても、何の感情も湧き上がらない。それが、ひどく苛立った。
あるいは、召喚されたマスターとの契約が、影響しているのか。そうだとすれば、この感覚は何なのか。飛び散る赤は、アレの中身だ。崩れる身体は、まだ生きている。それを安堵したのだろうか、私は。
わからないし、わかる気もない。
今はただ、敵意のある連中を、誰も彼も殺せばいい。皆が死んで、真っ平になったなら、それで少しは気が晴れる。アレがこのまま死んだなら、私は何処かへ消えながら、きっと笑っているのだろう。
きっと、たぶん、そのはずだ。
最初に反応したのは、意外にもカーマのマスターだった。不意の音に怯えるように、年相応の悲鳴をあげて傍のカーマへと縋り付く。それを優しげな声であやしながら、カーマは弓に矢をつがえ、きりきりと音を立てて引き絞る。
二度目の音と共に鵠佑の上腕が爆ぜ、ふたりの間で揺れていたカーマの狙いは自然と鵠佑へ向かう。そうなりますよねえ、甘ったるい声で、嘲笑うように付け加えながら。
その矢が放たれる寸前に、旗の石突きが地面を穿つ。粉砕したアスファルトを散弾の如く薙ぎ払い、ジャンヌが駆けた。倒れ伏した鵠佑を引っ掴んで、敵に背を向け一目散に、主の言葉を聞きもせず。
背後で忌まわしげに舌打つカーマにも、その前に立ちはだかるアルトリアにも、それらのマスターにも興味はない。ただ、遠距離からの狙撃をされた事にだけ、獣のような判断力でジャンヌはその場を脱する事を決断した。
担ぎ上げたマスターの身体は、サーヴァントの膂力を持ってすれば薪のように軽い。数ブロックも距離を取った上で足を止めると、足元のマンホールを力任せに、それこそ苛立ちを込めて蹴り飛ばす。轟音と共に、ひしゃげた蓋が近くの民家を突き破った。
「……まあ、ここよりはマシでしょうね」
真っ暗な穴を見下ろして、ため息混じりにジャンヌが漏らす。担いだ鵠佑をぶつけぬようにする程度の気遣いを見せながら、躊躇もなく、闇の中へと飛び込んでいく。浮遊感と落下感は、硬い地面の感触で直ぐに掻き消えた。
下水道というには、澄んだ空気。金属質の床を何度か踏み確かめてジャンヌは異質を認識するも、鵠佑の呻き声に思考を中断する。主の身体を投げ捨てるように転がすと、掌にはべっとりと、生温かい血液が染み付いていた。
「治療用のスクロール、あるんでしょう。さっさと使いなさいな、失血死するわよ」
わかっていると、荒い呼吸の合間に返る声。利き腕を負傷しているからか、礼装のポケットを探る左手はひどくおぼつかない動きだった。ジャンヌの目が闇に慣れた頃合いで、ぼんやりとした光が血濡れの鵠佑を照らす。傷口の修復が終われば光は直ぐに失われ、また、周囲は闇に包まれた。
それでも、弱い光源に浮き上がった様相は、およそ下水施設とは思えないものだった。鵠佑もそれを認識しているのか、がさごそと礼装の懐を漁り始める。少しの間を置いて、眩い光を放つ球体を掌にした姿が闇の中に浮かびあがる。軽く放ると、光源は頭上に留まり鵠佑を追従し始めた。探索用の追尾照明だと、不快そうに目を細めるジャンヌへ、歩きながら説明めいた言葉を投げてやる。
照明が暴き出す周囲の光景は、ジャンヌの違和感の通りに異質なものだった。何処までも続くような廊下と、無数の実験室。研究施設と呼ぶ他にないその光景は、控えめに見てもカルデアと遜色のない様相だった。設備は稼働しているのか、手近な部屋へと踏み入るとその区画だけが通電する。部屋の入口で立ち止まる鵠佑を他所に、ジャンヌは気にした様子も見せずにその先へと進んでいく。
手近な端末へ触れ、適当なボタンを押下しては切り替わる画面を眺めて、興味がなければ読み飛ばす。読み書きの力は確かに便利だと、文盲であったジャンヌ・ダルクを夢想して、即座に思考から切り離した。不機嫌さが滲み出ているその肩越しに、鵠佑もまた恐る恐るといった風にディスプレイへと視線を向ける。見慣れない単語ばかりであるからか、待ってと短い言葉で端末の操作を制止する。
「SCP……特別収容プロトコル……?」
読みあげる鵠佑の声は、怪訝そうなもの。未知のものに触れる時の、ひと欠片の好奇心と、同量の恐怖心がない混ぜになったそれだ。
超常的な物品・場所・存在の取り扱い方法と、それを取り仕切る組織の存在。理解しようと文面を読み込む鵠佑に、魔術協会や聖堂教会と似たようなものだと、ジャンヌは興味なさげに吐き捨てた。
「人の手に余るものを、集めて管理していたって所かしら。カルデアだって、似たようなものでしょう。サーヴァントも特異点も、こういうモノと何ら変わりがない。……ああ、そういう事」
聖杯もまた、人の手には余るもの。ならばこの組織が管理を試みてもおかしい話ではない。それが特異点の発端だろうと、ジャンヌの思考は直ぐに行き着く。そして同時に、行き着いたそれが答えだろうと、端末の操作を止めようとした。
こんな場所で見るはずのない、見慣れた名前が表示されるまでは。
戸籍名:亘鵠佑
所属:人理継続保障機関フィニス・カルデア
思考は停止して、肉体もまた停止する。結び付かない文字列を認識するまでに、時間がかかった。この名前が、何故、この施設の端末に表示されている。オブジェクトとは、何を意味する言葉なのか。表示される文字列を読み込もうとするものの、入力される情報が正確に処理できない。文頭から文末まで、途中を飛ばしながら。
困惑の思いを消せないまま、ジャンヌは無意識のうちに傍のマスターへと視線を向ける。普段の少年の様相とはまるで別人の、表情すら失って佇んでいる
銃撃が止んでから二十秒。ごとりと重たい物音は、二度。外套を翻し、エミヤが地を蹴りながら投影を繰り返す。直後、炸裂した手榴弾の破片を投影魔術によって展開された複数の盾が食い止めた。マスターの無事を問う声は、爆音で麻痺した少年の聴覚には歪んだ音となって届く。
「アーチャー、だめだ、耳がやられて聞こえない! 悪いけれど、対応任せた!」
故にマスターは、叫ぶ。自分のサーヴァントであれば、任せられる。その信頼を受けて、エミヤは一度頷いた。
ふたりがこの施設の内部に入り込むまで、然程の時間は要さなかった。表面上の無人街を探索の価値なしと断じ、地下へ。研究所らしい実態の存在を確認すると、その詳細を調査する。そこまで辿り着いた所で、彼らは正体不明の敵勢力から襲撃を受けた。
幾つか負った銃槍を確かめ、エミヤは内心、驚いていた。この連中は、
「
それに何より、人の身では勝てぬであろう存在との戦いに、この連中は精通している。カルデアの情報に限らず、彼らは魔術協会、そして聖堂教会の情報を既に保有していた。ならば、サーヴァントが如何なるものか、その知識も有しているというわけか。あと少しの時間があればその精度まで調べられたのだがと、エミヤは小さなため息をひとつ漏らした。
四人から、六人。数を把握させないように時間差で、継続的に銃撃を加える。逃げ込んだ部屋ごと消し飛ばさんとする勢いだが、恐らく狙いはサーヴァントではなく、マスターだろう。単純ながら、適切な攻撃ではある。エミヤが主へ視線を向けると、机に強化の魔術を施し要塞としている少年の姿が確認できた。
「──っ! いかんマスター、逃げろ!」
だが。それすら、奴らは見越している。スパルタ兵の盾を用いて、小火器の銃弾は防げよう。如何なる火器を持ち出したとしても、投射武器である以上、ロー・アイアスの護りを持ち出せば崩す術などありはしない。
だからこそ、奴らは人類の悪意を武器として用いる。
エミヤの掌中には、投影によって作り出された捻れ狂う螺旋の偽剣。部屋の壁を突き破り、炸裂する壊れた幻想。銃撃程度では崩れない壁も、その一撃には巨大な穴を穿たれた。エミヤの行動、その真意を知らずとも、彼が無意味な行為をする男だと少年は思わない。故に、一目散に、新たな出口を通って隣の部屋へと転がり込んだ。
直ぐにそれを追うエミヤは、続く第二射を躊躇なく解き放つ。振り返った主が、白霧に埋め尽くされた先の部屋を見遣ると同時、従者は走れと今一度叫ぶ。姿の見えない敵からの銃撃を防ぎつつ、毒吐く声は誰にも届きはしなかったろう。
「神経ガスまで持ち出すとは、信じられん連中だな……!」
部屋の中へ充満し、此方へと流れ込んでくる致死の白霧の向こう側。確かに、弓手の騎士が持つ、鷹の如き双眸は見た。室内の明かりを反射して、赤く爛々と輝くかのような、丸眼鏡のガスマスク。ハンドシグナルを皮切りに、第二射を躊躇なく撃ち込む連中の姿を。
部屋に漂う乾いた空気は、次第に重さを増していくばかりだった。モニタに表示される文字を、鵠佑は無言のままで読み解いていく。時折聞こえる端末の操作音だけが、部屋の中に弱々しく響いた。
ジャンヌは何を言うでもなく、主との距離を置いてその様子を眺めていた。興味がないというよりも、あの場に留まるには、何を言えば良いのかわからなかったのだ。だからこうして、離れた所から丸めた背中を見ているしかできない。
亘鵠佑は、人間ではない。
この施設で管理されている『キャベツ畑』から収穫された、人間もどき。名も知らない博士によって
この施設は、そうした超常の管理場であり、そして同時に人の手を離れた超常の処分場でもあるらしい。記載された鵠佑の解説書には、続きがあった。世界の破滅の引金と成り得る故に、終了計画を実行すると。つまりは、この特異点そのものが、そういう連中の妄執の果てなのだろう。ジャンヌは顔も知らぬ誰かを想像して、直ぐに頭の中を空にした。
あの子供は、どんな心地でいるのだろう。抱くのは、そんな疑問。世界の全てから切り離されて、孤独に晒されているのだろうか。それならば、良い気味だ。ひとり胸中で嘯いてから、吐き気にも似た不快感を覚えてジャンヌの表情が歪む。その理由を考えても、彼女にはわからなかった。ひとつだけわかった事は、先ほど覚えた疑問の答えだ。
彼女の裡に燻る人間への憎悪は、決して消えない。復讐者たるジャンヌは、如何に素晴らしいものを知ったとしても、在り続ける限りは憎み続ける。人も英霊も、神も悪魔も。人類を礎とする存在は、あるいはそれこそ、成り立ちを持つ真作と呼べる存在は、余す事なく大差なく。
贋作、偽物、紛い物。素性が故の劣等感は、贋作英霊たる彼女の心を支配する負の感情だ。彼女は恨み、憎み、妬み、羨んでいる。真作のみで構築された、この世全ての存在を。
だから、それ故に。人に良く似た、人もどき。贋作人間が、この世に在るとするのならば。負の感情を抱かなかった、その理由はそれなのだろう。
だが、しかし。ジャンヌには、それ以上をどうしようもなかった。それはあくまで己の都合、己の立場の話でしかない。そんな話をされた所で、彼女の主には何の関係もない事だ。それがわかっているからこそ、そこからどうすればいいのか、それがジャンヌにはわからなかった。
元より彼女は同族を持たぬ、一代限りの孤独な
「………………来た。立ちなさい、マスター。迎え撃つには、そんな所で座り込んでいるわけにいかないでしょう」
故に、その気配は、その殺意は、ジャンヌにとっては心から喜ばしいものだった。人間から向けられる害意ならば、全ての思考を怒りによって、憎悪によって塗り潰せる。敵を感知する能力はなくとも、殺し合いの空気は知っている。張り詰めていく感覚は、それが近付いている事の兆候だと、オルレアンの死地で存分に味わった。
旗の石突きが床を打ち、眩い火花を周囲に散らす。ふとジャンヌの胸に湧き上がった小さな疑問は、互いの立場がそのまま答えとなった。マスターと、サーヴァント。殺されるのを防ぐのは至極当然の関係なのだから、これは道理だ。そう自分に言い聞かせ、ジャンヌは緩く吐息を漏らした。それに従わなかったのは、少年だ。
呆けているのではなかった。むしろ鵠佑の思考は、今までにないような猛烈な速度で駆け巡り、これから起こるであろう戦いを回避する手段を模索している。己を殺害しようとする者たちにさえ、血を流して欲しくない。そう願ってしまうのは、この少年の本質なのか、それとも主人公という役割が故なのか。自分自身にもわからないまま、ジャンヌの再度の呼びかけに、鵠佑はようやく椅子から腰をあげた。
「戦闘は仕方ないかもしれないけれど、人殺しはだめだ。これだけは曲げないよ、ぼくは誰にも死んで欲しくない」
あまりに幼稚な子供の戯言に面食らった後、ジャンヌの双眸は憤怒の色に染まった。その視線を受け止めながら、鵠佑はだめだと念を押す。口論が始まるのを止めたのは、他ならぬ敵対者の起こした銃声だ。轟音を伴って、あるいは儚げな音を伴って、部屋の壁が崩され窓ガラスが砕け散る。
音速を超えて飛翔する金属片は、質量にすればたったの数グラム。それほどまでに小さな欠片でさえ、人体を抉り、引き裂き、穴を穿つ破壊力を秘めている。数発の被弾は、赤い鮮血を散らした。人としか思えない贋作の、人と変わらぬ中身が舞って、壁や床を汚して濡らす。痛みに悲鳴をあげてさえ、鵠佑の視線はジャンヌに否を命じていた。
その愚かさを見ているだけで、虫唾が走る。怒りに思考が塗り潰されて、叫びたくなるほどの激情に心が蝕まれる。それでも、ジャンヌは後退を選んだ。無様な主を掴みあげ、放たれる弾丸を旗のひと振りで薙ぎ払い、手近な壁を粉砕しながら、ひたすらに逃げた。
背後で叫ぶ男たちの声を聞きながら、ジャンヌは今度こそ吼えた。理由もわからず苛立ちのままに、言葉にならぬ憎悪の意思を、何処かにぶつけようとするかのように。