※この作品はR-18です。

Fate/Grand Order SCB   作:しゃくなげ

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第5話

 短い詠唱と共に防壁のルーンを展開し、クー・フーリンが弓手の狙撃を食い止める。タイミングをずらしての第二射を、マシュが踏み込んで真正面から叩き落とす轟音が響いた。

 双剣による斬撃の合間、弓手が距離を置く時には、いつの間にかその手に矢が握られている。攻撃の起点を見抜き切れず、マシュの足はどうしても止まってしまっていた。

 付かず離れず、一撃を放っては距離を取り、一斉掃射でその場に縫い止める。戦いの主導権を握らせまいとする弓手の手練は、デミ・サーヴァントとして起動したばかりのマシュにとって容易に崩し難い大きな壁だ。

 速く、重たく、鋭く。それでいて淡々と、業務のように消化される戦闘行為。忌々しげに悪態を吐くクー・フーリンの様子は、マシュにはまるで、弓手そのものが気に入らないように見えていた。

 

「ったく、相変わらず歪んだ性根が滲み出る戦い方だなおい! お嬢ちゃん、暫く防戦一方になるぞ、気を抜くなよ!」

 

 発破をかけるような言葉に頷きつつ、何度目かの狙撃を受け止めるため、大盾の下端を地面に打ち込み固定する。着弾の衝撃で洞穴の地表が砕け、散弾のような石飛礫が岩壁を抉り取った。

 粉塵が立ち込める中で、応戦するように炎のルーンが解き放たれる。灼熱を凝縮した炎の矢を撃ち出すものの、マシュの支える遮蔽物から身を出せばそこを狙い撃ちにされる。不利な情勢に変わりはなかった。

 

「坊主、聞こえてんだろ、お前が見ろ! ヤツは勝つために戦っちゃいねぇ、これはただの時間稼ぎだ!」

 

 クー・フーリンが、怒鳴り声で鵠佑に命じる。魔術礼装による補強がなされたマスターの返答は、マシュの耳にも確と届き、伝達の齟齬を未然に防ごうとするカルデアの技術力を証明していた。

 

「クー・フーリンさん、時間稼ぎとは、どういう事でしょうか!」

 

 ひと息で三射を同時に放つ弓手の技巧は、達人のそれという他にない。寸分違わぬ一点を射抜く衝撃に、盾よりもマシュの両肩が悲鳴を上げていた。そして、その頃にはもう既に、弓手は足場を離れて次の狙撃の態勢を整えている。放たれる矢を、無我夢中で食い止めた。

 そんな中でも、マシュは叫ぶ。この冬木でひとつでも多くの事を学ばなければいけないと、理由もわからないままに感じていた。カルデアにいた頃には、感じた事のない衝動だった。

 無限とも思えるほどに撃ち出される矢を弾き、受け止め、流しながら。弓手の一挙手一投足から視線を外す事もできずに、ただただ叫んだ。

 

「オレたちゃ完全に押さえ込まれてる、これだけ優勢なんだってのにヤツはそれきりだ。命を取りに来る気配も見せねぇで、何の意味がある」

 

 クー・フーリンの言葉の意味を、盾を構え直しながら、必死になって考える。答えがわかっているはずなのに、言葉にできない。その余裕を、ほんの一瞬の間を、弓手は決して与えてくれない。

 踏み出そうとしたマシュの足を、重たい一撃が留まらせる。放たれた矢は着弾と同時に炸裂し、小規模な爆発を巻き起こした。暴走した魔力が解き放たれたのだと、そう理解するのに要した時間を弓手は見逃さない。

 

「ふたりとも、退がって! 左右から来る!」

 

 マスターの声に従うように、クー・フーリンが真っ先に大地を蹴って飛び退った。構えを解かぬままで後退した所へ、挟み込むように飛翔する双刀。ぞくりと、うなじの毛が逆立つのを感じた。

 もう二歩半ほど前にいたなら、この大盾でも守り切れない背面からの一撃となっていたが、マシュが想像するのは痛みや恐怖ではなく自分が倒れた後の事だった。

 

「良く見てた坊主、褒めてやる! 来いよアーチャー、不意打ちだけしかできねぇのか手前(テメェ)は!」

 

 火炎を呼ぶルーンで応戦しながら、クー・フーリンが怒鳴りつける。それすら意に介さず、弓手はその役割を示す文字の通りに、ギリギリと音を立てながら手にした黒弓を引き絞った。

 

「マスター!」

 

 弓手の狙いを見抜くと、精一杯に叫びながら、マシュは再び前へと踏み出す。射線を遮る壁となって、マスターを庇いながら弓手の二刀の間合いへと。着弾を厭わず、攻撃を厭わず、愚直なほどに自らへと敵の攻撃を引き付ける。

 それが自分の、シールダーというクラスの役割なのだと、実感を持ってはっきりと認識できた。誰かの生命を護る、そのために名も知らぬ英霊から与えられた力なのだと。

 胸中の恐怖は、消える事はない。今でも手は震え、気を張っていないと座り込んでしまいたくなる。それがマシュの本音である一方で、その本音に縋り付きたくないのも本心だった。弱い心を傍らに退けて、一歩、もう一歩を力強く踏み出してゆく。

 弓手の狙撃が止まった時にはもう既に、斬撃の間合いへと踏み込まれた後。それでも、構わなかった。打ち付けられる二刀を感じながら、マシュの心には微かな安堵があった。目を逸らさずに、敵を見ていられる。次の攻撃に合わせ、盾を突き出し応戦ができる。

 ここで自分が折れない限り、オルガマリーもマスターも狙われない。自らが傷付くよりも、あのふたりが傷付く方が耐えられない。だからこそ、誰かを守護し得る限り、この身はこうして立っていられる。それが、マシュの胸に湧き上がった安堵の正体だった。

 

「──ふむ。悪くないな、良い眼になった」

 

 不意に聞こえた柔らかな声に、マシュの動きが止まる。見開いても見えるはずがないと言うのに、その顔を探そうとしてしまう。拮抗していたはずの押し合いが、明らかに緩まっていた。

 まるで、ここまでのやり取りが、訓練や授業だったかのよう。それをマシュが問い質すよりも先に、弓手の胸をクー・フーリンのルーンが抉っていた。

 

「ったく、お嬢ちゃんも無茶しやがる。……お前も未練なく消えちまえ、あとはオレたちが終わらせるさ」

 

 ああ、そうだな。マシュの瞳には、弓手の唇が動いたように見えた。優しげな男の顔は、瞬きをひとつ挟む頃には虚空へと消えていた。

 締め付けられるような感覚に、マシュは自らの胸を押さえる。それを悟ったのか、クー・フーリンは威勢良く、その背中を平手で打った。

 

「ひゃん!」

 

「胸を張れ、くよくよすんな。そんな顔してたら坊主も心配するし、何よりアーチャーのヤツが未練たらしく出てきちまうぞ」

 

 促されるままに振り返ると、駆け寄ってくるオルガマリーと鵠佑の姿があった。怪我ひとつないふたりの姿を見て、嗚呼、とマシュが嘆息する。

 

「そうさ、まずは誇れ。お前さんが護り抜いたマスターだ、いい顔してるじゃねーか」

 

 洞窟の奥を見据えるクー・フーリンの瞳は、この先に待っているモノこそが本番なのだと、言外に告げている。それでも、今のひと時は浸って良いと許すようでもある穏やかさもあった。

 マシュの無事を喜ぶ鵠佑に、重なる勝利を褒め称えるオルガマリー、通信越しのロマニも感心するばかりの勝利の余韻。それはとても嬉しい事のはずだったが、マシュにとっては、思ったよりも重要な事ではなかった。

 ふたりの生命を、消し去られなかった。ふたりの生命を、護り抜けた。その事実の方がずっと大切で、何よりも誇らしい。つまるところ、マシュの精神は、そういうものだった。だから、ふたりの無事を確かめて、それで十分に満足できたのだ。

 

「さあて、それじゃここらでちょいと作戦会議といこうか。その後は、アーサー王とのご対面だ」

 

 クー・フーリンのかけ声で、ほんの僅かに緩んだ空気が再び引き締まる。

 行く手を阻むものは、全て打ち倒した。騎士王が待ち受ける大空洞までは、この特異点を生み出した大聖杯までは、もう目と鼻の先だった。

 

 

 

 黒い鎧を纏った騎士王は、ただ静かに、聖剣と共にそこに在った。冷たい黄金色の双眸で、眼前に集った者たちを物言わずに見つめていた。

 鍾乳洞の奥底に開けた、巨大な空間。大聖杯を目前にして、カルデアの三人はその守人たる騎士王と邂逅した。立ち込める瘴気の如き濃密な魔力は、礼装の防護がなければひと呼吸だけで鵠佑の意識を絶えさせるほどの、神代めいた強さがあった。

 立ち眩みにも似た感覚に、さしものオルガマリーも眉を顰めて言葉少なに佇むしかない。視線を巡らせれば、クー・フーリンの鋭い眼光が騎士王を捉え続けているのが見える。

 

「あなたが、アーサー王ですね。特異点の原因解明のために、ぼくたちは、大聖杯を調査しなくてはなりません。……できるなら、退いてくれませんか」

 

 傍にマシュを伴って、鵠佑が一歩を踏み出す。右手の甲、一画を失った令呪を翳すように見せながら、宣戦布告のように問いかけの言葉を投げた。恐怖感という感情ではなく、眼前の存在が強大すぎる故の、生物としての本能からその足は小さく震えていた。

 少年の申し出に返答はなく、ただ、騎士王は目を細める。その視線はマスターではなく、その隣で大盾を構えるサーヴァントへと向けられていた。間近で見なければわからないほどに小さく、マシュの肩が竦むのを、オルガマリーも確認した。

 

「ほう、面白いサーヴァントがいる」

 

 凛とした声は、ロマニが告げた通りに少女のそれだ。自分よりも小柄な少女の姿をした、伝説の騎士。日常であれば信じなかったかもしれないが、この場に満ちる──否、騎士王から発される気迫に圧倒されている鵠佑は、信じざるを得なかった。

 冷や汗が流れ落ちる背中に、つとオルガマリーの指先が触れる。衣服の布地を強く握るその仕草は、無意識下の行動だったろう。それでも鵠佑の震えは、オルガマリーのその無意識のお陰で止まっていた。

 確かに騎士王はとてつもない存在だが、恐ろしいのは、自分ひとりではない。自分の背後で、女の子が怯えている。そういう時にこそ、守らなくてはならない人がいる時にこそ、鵠佑は静かに奮い立つ性分の持ち主だった。

 クー・フーリンと騎士王とのやり取りを聞きながら、伝えられた作戦を、その手筈を頭の中で繰り返す。騎士王が霊核に負ったという傷の修復が終わらないうちに、自らの全てを出し切り、相手の全てを引き出す。ひと呼吸すら惜しい、一分一秒を争う電撃戦だ。

 

「構えるがいい、名も知れぬ娘」

 

 騎士王の纏う気迫が変質したのを、その場の誰もが肌で感じた。今まで叩き付けられているような鋭いそれが、ただ在るが儘の、王者としての風格だったのだと、鵠佑も、マシュも、オルガマリーも思い知った。

 気迫で殺されると言うのは、この事だろう。頭の片隅、何処か奥の方で、他人事のように分析している自らの声を聞いた気がした。どくどくと脈打つ心臓の鼓動さえ煩く感じてしまうほどの、臓腑が締め付けられるような緊迫感。

 それに押し潰されてしまわないように、震える拳を握り締めて、鵠佑が息を吐く。マシュが即座に盾を構え、クー・フーリンもまた詠唱を開始する。気圧されたようにオルガマリーは鵠佑の背に隠れ、蒼白の顔色のままで騎士王を見つめていた。

 その守りが真実か、どうか。告げる声と、担ぐように持ち上げられる黒い聖剣と。マシュが慌てて前に踏み出した時には、大気の炸裂する音と共に、騎士王が一直線に飛翔していた。

 

「──この剣で、確かめてやろう!」

 

 アレは、魔力放出でカッ飛ぶ化け物だと称した、クー・フーリンの言葉の意味を知る。およそ、人の跳躍ではない。ジェット機、あるいはロケットのような、爆風にしか思えない超加速。

 

「ひ、あぁっ……!」

 

 振るわれる聖剣が易々とマシュの守りを打ちのめし、ただのひと振りで、少女の悲鳴を引き出した。推進力をそのまま叩き付ける一撃は、技術も技巧も必要ないとばかりの、力任せの斬撃。それでも、人体を容易く両断し得る事は、盾を支えるマシュにも容易に想像できた。

 自動車事故のような轟音が、幾度も、颶風のように巻き起こる。その太刀筋を見る事は、今の鵠佑には能わなかった。礼装による視力強化も意味をなさないほどの速さ。軌跡だけを辛うじて追える程度の、起こりすら見えない剣。そんなものが存在するだなんて、想像もし得ないほどの領域。

 そんなものを一方的に打ち付けられて、尚もマシュは立っている。だから、逃げ出すような真似はできなかった。あの、小柄な少女をどうにかして助けたい。その一心で、流れ落ちる汗も拭わずに、鵠佑は騎士王の隙を必死に探る。

 

「どうした、光の御子が詠唱を終えるまで、亀のように待つしかないか!」

 

 大上段に振りかぶった騎士王が、笑う。慌ててマシュが掲げた大盾へと、断頭台のギロチンが如く、鉈のように重たい一撃が振るわれた。

 堪え切れない痛みと恐怖に悲鳴が上がり、大地を砕く破壊音が空を裂く。剣圧か、それとも放出された魔力の起こした突風か。マシュの両足が岩肌を引き裂きながら地中へ沈み、無数の礫が鵠佑の胴を打ち据えた。

 

「ならば、貴様はそこで見ているがいい。先に彼奴を討ち取ろう!」

 

 その言葉で、マシュは悟る。地面に打ち込まれた足を引き抜こうと踠きながら、クー・フーリンの名を呼んだ。逃げて、と。そう続けるよりも先に、騎士王は爆ぜるような勢いで、既に彼へと肉薄していた。

 

「クソっ、マズい!」

 

 引き抜いたオークの剣と、身体強化のルーン。首を刎ねられる事だけは避けんとばかり、クー・フーリンは振るわれる剛剣に、破壊の嵐の只中に飛び込んだ。エーテルで編まれた肉体がひしゃげる音は、離れていた鵠佑たちにさえ聞こえるほど。

 冬木の地に訪れて、初めて。鵠佑も、オルガマリーも、ここに来て初めてクー・フーリンの悲鳴を聞いた。斬撃によって裂かれた肉体から、赤い血飛沫が宙に舞う。

 重力を無視するように吹き飛ぶクー・フーリンを追おうと、騎士王の姿勢が前傾のそれへと移り変わったところで、マシュの叫びが響いた。背後から盾を打ち付け、次の一手を食い止めようと、行く手を阻む壁となる。そんなマシュを打ち払うように、騎士王もまた聖剣を振るった。

 

「マシュ、耐えて、少しだけでいいから! もう少しで、完成する!」

 

 右手の令呪に爪を立てて押さえながら、鵠佑が叫んだ。マシュが物言わずに背中だけで応じ、振るわれる剣に合わせて盾を支え、突き出し、がむしゃらに叫ぶ。

 マシュが戦っている隙に、クー・フーリンの元へとひとり駆けたオルガマリーは魔術治療を始めていた。傷の治りも半ばだと言うのに、クー・フーリンは激痛に苛まれながらも、その身を起こす。

 

「お前さんも、肝は小さいけどよ……しっかり、やるじゃねえか。良い女に出会えたのは、ああ、今回は幸運だったぜ」

 

「バカな事を言う暇があったら、さっさと宝具を展開してどうにかしなさいよ! 作戦通りに、まるで事が進まないじゃない!」

 

 涙目になって叫ぶオルガマリーに、へいへいと軽い調子で受け流すクー・フーリン。アイツはそんなに容易くないと、ため息混じりに本音らしい言葉がその口から漏れた。

 

「だが、ま……そろそろ、仕掛ける頃合いだ。──我が魔術は炎の檻、荊の如き緑の巨人」

 

 石突きが、七度。詠唱に合わせて地を打ち、楽器の如く澄んだ音を奏でる。目に見えない魔力の渦が、クー・フーリンの足元へ、打たれた箇所へと集い始める。立ち込め始めるのは、杜の、薪の、焚火の匂い。

 

「ほう、来るか。さて娘、私を止めねば御子の宝具は不発と化すぞ。どう立ち向かい、どう守る!」

 

 いち早く察した騎士王の言葉に、マシュは奥歯を噛み締めた。ぎしり、と身体の奥で、骨肉が軋む音を立てる。行かせてはならない、食い止めなければならない。ただ受けるだけでは、護る事は叶わない。それならば、どうするか。

 

「わたしが戦って、止めてみせます! アーサー王、ここから先へは行かせません!」

 

 答えは簡単で、踏み出せば良い。盾を振るい、打ち付け、支え、逃さないと意思を示す。そうしなければ、ここで全てが終わってしまう。簡単な答えながら、実行が難しいそれを前にして。マシュの心は既に決まり、ただの少女から守護者のものへと変わっていた。

 

「よく吼えた、受けて立つか。ならば相手をしてやろう!」

 

 騎士王の言葉の半分以上は、斬撃の音にかき消された。打ち据えられるだけに留まらないように、マシュの背筋に力が篭る。一歩、肩を当てがい体重をかけて、弾き飛ばされぬように前へと力強く踏み出した。

 その攻防を、鵠佑はひたすらに見ていた。その場の判断はサーヴァントに任せ、見逃してはならないものを待ち続けた。

 十全なら、ヤツは無限に等しい魔力を生み出す化物だ。そう告げたクー・フーリンの顔は、記憶の中でも獰猛な肉食獣のような、牙を剥くような笑みに彩られていた。

 

「けれど、霊核に傷がある今なら!」

 

 何処かで、少しずつ綻びは訪れる。その瞬間こそが、好機だ。だから、決して見逃すな。お(・)前(・)の(・)目(・)で(・)も(・)、(・)ヤ(・)ツ(・)の(・)剣(・)が(・)見(・)え(・)る(・)瞬(・)間(・)を(・)。

 

「──来ました、クー・フーリンさん!」

 

 見えた。黒い軌跡だけでなく、打ち付けられる聖剣の、振るわれる聖剣の切っ先が。見える瞬間が、来た。

 鵠佑の声に呼応するように、石突きが地を打つ音が大空洞に響いた。聖剣のひと振りに吹き飛ばされたマシュが中空で身を翻し、二本の足で大地に立つ。未だ戦う意志は健在だと、そう示すように盾を構え直す。

 見開かれた騎士王の双眸は、盾を構えたマシュを、その背後に移動した鵠佑を、そしてクー・フーリンを捉えていた。

 

「──面白い。貴様、こうなるように誘っていたか」

 

 肩で息をし始めたマシュへ、その意図を解した騎士王は笑った。傲岸不遜に、暴君の貌を見せて。

 盾持ちを先頭に、一直線に並ぶ理由などひとつしかない。相手の思い通りになるのは癪だったが、こうもあからさまに挑まれた勝負を避けるのも、また同様だった。

 不意、大空洞に明かりが灯る。見上げるほどに巨大な篝火が、炎によって編まれた巨人の上体が、身を焦がすほどの熱風と共に立ち上がるのをクー・フーリン以外の全員が見上げていた。

 

「因果応報、人事(じんじ)の厄(やく)を清める杜(もり)──倒壊するは、『焼き尽くす炎の檻(ウィッカーマン)』!」

 

 高らかに響く詠唱の終わりと共に、くびきから解き放たれたかの如く。ドルイド信仰における儀式の巨人が、その一歩を踏み出した。展開された魔法陣が、赤熱するほどの猛火。洞窟の岩肌を焼き焦がしながら、巨躯は騎士王を目指して突き進む。

 

「良かろう……その挑戦、応じてやろう。万物一切、我が剣で塵芥へと還してくれよう!」

 

「──誰が、終わったと言ったよ」

 

 騎士王の眉が、訝しげに歪む。それも、刹那の事。直感する、クー・フーリンの言葉の意味を。黄金の双眸は、盾を構えるマシュでも、杖を構えるクー・フーリンでもなく、ただの、ひとりの少年へと向けられていた。

 より正確に言うのであれば、高々と掲げられた、残(・)り(・)一(・)画(・)の(・)令(・)呪(・)を(・)宿(・)す(・)鵠佑の右手へと向けられていた。

 

「キャスター、宝具を解放しろ!」

 

 鵠佑の叫びに合わせて、マシュが大盾を大地へと突き立てる。既に魔力は四肢の隅々まで行き渡り、カルデアスの展開に支障はない。後はこの手で、この盾で、伝説の聖剣を受け止めるだけの事。

 やってやるさ、任せろ。唇の動きだけで、クー・フーリンが少年の命令に応じる。大地を震撼させて尚も歩みを進める、炎の檻。それを呼び出した魔法陣には、再び膨大な魔力が満ち満ちていた。

 騎士王の目には、魔法陣から産み落とされるその様が、地の底から這い出てきた亡者のようにさえ見えていた。

 岩をも溶かす灼熱を撒き散らし、赤子が立ち上がるかのように、左右の腕で身体を支えて。大空洞の天井にさえ届くほどの図体を、緩慢な動作で持ち上げていく。二体の巨人が、黒い騎士王を捕らえんと、その進撃を開始した。

 

「卑王鉄槌。極光は反転する──」

 

 騎士王の声は、そんな状況下において尚、強さがあった。肩幅に足を開くのは、不退転の構え。胸の前へと掲げた剣が、紫電を纏い闇を纏いて、光を呑み込む穴と化す。

 霊基が軋む感覚を覚えながら、残された魔力の残量を知りながら、王者の精神が騎士王に退く事を許さない。星の聖剣は反転し、禍々しくも神々しい、矛盾した存在へと成り果てる。収束する極光が、塗り潰されるように黒へと移り変わっていく。

 

「──光を呑め!『約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガーン)』!」

 

「真名、偽装登録──行けます、先輩!」

 

 そして、マシュもまた、持てる全てを注ぎ込む。この冬木の地で手にした、皆を護る宝具(ちから)へと、想いも魔力も、何もかもを。紫電を伴い渦巻く魔力、陣は敷かれ壁となり、生命を護る眩い光の盾と成る。

 聖剣から放たれるのは、一切合切、全てを呑み込む黒い奔流。一体目の巨人が伸ばした腕を蒸発させ、その胴を突き破る剣閃。膝から崩れ落ちた巨躯が、粒子に還り散っていく。その姿はあまりにも呆気なく、語り継がれる伝説に違わぬ、騎士王の力を体現していた。

 それを盾に、尚も進む二体目さえも、騎士王の聖剣は呑み込んでゆく。一歩を踏み出す巨人の腕が、肩口から崩れてずるりと落ちた。二歩目を踏み締める巨人の背が、蝕まれるように朽ちていく。三歩目を持ち上げたところで、とうとう巨人が膝を突いた。

 伸ばした腕が騎士王に届く事はなく、まるで何事もなかったかのように、虚空へ融けて消えていく。仕留め損ねた、と忌々しげに毒づきながら、クー・フーリンが鵠佑の前へと踏み出してゆく。

 残るマシュのカルデアスが、展開された一枚の障壁が、最後の砦だった。彼女が支えきれなければ、鵠佑もオルガマリーも一瞬で蒸発する。膨大な魔力の奔流は焼けるように熱く、同時に凍えるほどに冷たい。何もかもが矛盾する間に立つ今となっては、盾を持つ手に伝わるその痛みだけが、生きている証だと言えた。

 

「う、わ、ああああぁぁぁぁぁ!」

 

「勝てると思うか、小僧ォ──!」

 

 マシュの叫びを掻き消すようにして、騎士王が咆哮する。マスターの存在を見てすらいなかった双眸は、今、確かに討ち倒すべき存在として鵠佑を認識していた。

 ガラスにヒビが走るような、悲痛な音。マシュの展開した障壁の片隅が、歪み、軋み、悲鳴をあげる。走り始めた亀裂は放射状に、身体を蝕む病のように広がっていく。

 

「ここから先は、意地のぶつかり合いだ。お嬢ちゃんと奴(やっこ)さん、どっちの根性が勝るかだ。お嬢ちゃんが勝ったなら……そこから先はお前が上手くやれよ、坊主」

 

 その、ほんのひと時の、ごく僅かな時間を縫って。気合いを入れるように背中を叩き、にかりと歯を見せてクー・フーリンが笑った。その背後から、おっかなびっくりといった風でオルガマリーが顔を出す。頷く鵠佑の顔とマシュの背中を交互に見比べ、小さくひとつため息を漏らした。

 

「本当に、上手くいくように祈ってるわよ。そうしなきゃ、わたしたち、ここで全滅ですもの」

 

 鵠佑も聞き慣れ始めたオルガマリーの詠唱は、誰にも気取られないように密やかに紡がれる。最後の力を振り絞るマシュの雄叫びが聞こえ、鵠佑は彼女の元へと顔を向けた。

 

「──坊主、耐え抜いたぞ、お嬢ちゃん。見立て通り、誰かを護るって戦いには強いな、あの娘(こ)は」

 

 クー・フーリンの言葉と共に、障壁が粉々に砕け散る。騎士王の放った魔力の奔流は、マシュのカルデアスを破壊しながらもそこで力尽きたように、盾持ちの少女を吹き飛ばすだけに留まった。

 悲鳴と共に地面を転がり、地に伏せたままでマシュが騎士王を見上げる。その姿から、彼女もまた無事であるのを知れて、鵠佑は胸を撫で下ろした。

 クー・フーリンが炎の矢を撃ち出しながら、騎士王に向かい駆けてゆく。身体強化のルーンを用いて剣を振るうも、容易く弾き飛ばされて岩壁に叩き付けられた。苦痛に喘ぐ呻き声が一度、破砕音に入り混じる。

 彼がぼやいていた通り、槍兵ならばまだしも、魔術師のクラスでの近接戦闘は騎士王の相手にすらならない。その事実を、まざまざと見せつけるかのような光景だった。半ばから断ち切られたオークの刀身が鼻先を掠め、オルガマリーは腰が抜けたようにへたり込む。

 

「すみません、逃げます、所長……!」

 

 敗戦を意味するその光景に対して、鵠佑は踵を返して背を向けた。魔術礼装の身体強化に任せた駆け出しは、風のように速く鋭い。大聖杯に、騎士王に背を向けて、渾身の力で地面を蹴る。足を踏み出すほどに加速して、大空洞の入口へと逃げ出した。

 距離にしてみれば、目測で数百メートル。この速さなら五秒もかからずに逃げ果せるであろう距離だが、油断をするなと頭の片隅で自分自身が警笛を鳴らしている。刹那、呆気にとられた騎士王は、すぐに憤怒の表情を見せて鵠佑を追った。

 

「逃げられると思うな、貴様ッ!」

 

 吼えるような、怒声。踏み出す一瞬、騎士王は歯を食い縛り、魔力放出によって巨大な弾丸と化した。その背を見つめながら、よろめきつつもマシュが立ち上がる。盾を用いて身体を支え、倒れてしまいそうな両足に力を込めて。

 クー・フーリンもまた、杖を頼りに身を起こし、マシュへと続く。我に戻ったオルガマリーが慌てて治療をしようと立ち上がるのを、視線だけで緩やかに制してみせた。

 

「オレじゃないだろ、まずはお嬢ちゃんだ。もうじき坊主も追いつかれる、間に合わせろよ!」

 

 勝負は、大詰めだ。マシュの回復を急がせながら、鵠佑を追った騎士王の背中へとクー・フーリンは視線を向ける。生きろよ、と。その唇が声もなく、ただ一言を呟いた。

 

 

 

「まあ、ざっと説明した通りさ。兎にも角にも、宝具を撃たせるところからオレたちの戦いは始まる。そして──」

 

「──わたしが防げなければ、わたしたちの戦いは、そこで終わる」

 

「あと一度の宝具使用が限界だと言うのは、貴方を信じるしかないわね。それで、そこから先はキミを信じるしかない。……作戦と言うには杜撰で粗末だけれど、そうするしかないのも事実、か」

 

「そうは言うがね、一番楽なんだぜ、アンタは。坊主の足を速くして、腰抜かしてへたり込んで、あとは適宜ご自由にだ。裏方よりも、スプリンターをやってみたいか?」

 

「バカ言わないで、令呪がないんだからわたしが走っても追いつかれて死ぬだけじゃない!」

 

「わはは、違いねえ! 坊主、お前さんも死ぬなよ。オレも、こんな所で敗退するのは嫌だからな」

 

「はい、頑張ります。……マシュ、大変な役目をお願いするけれど、君なら大丈夫だって信じてる。だから……どうか、よろしくね」

 

「お任せください、先輩。不肖マシュ・キリエライト、シールダーとして、先輩のサーヴァントとして、全力でお護りする所存です!」

 

 

 

 心肺機能と、身体機能。魔術礼装とオルガマリーの魔術による二重の補強を用いて、走力だけに特化した今、鵠佑の全力疾走は短時間ながらサーヴァントのそれに匹敵する段階へと引き上げられた。

 それでも、逃げ切れない。騎士王のひと飛びは、数十メートルの距離を瞬きすら挟まずに一足で詰め、瞼が落ちる頃にはその倍の距離が縮まっている。常人が見たならば、瞬間移動にさえ見えただろう。

 直線ではダメだ、判断するよりも先に足が動いていた。慣性の法則を無視するような、直角に等しい急旋回。身体が持っていかれそうになるのを、体幹の筋肉が悲鳴をあげながらも堪えて留める。同時、背中に感じる、冷たい悪寒。コンマ数秒前に自分がいた場所を、雷撃のような一閃が斬り裂いていた。

 

「ちいッ!」

 

 騎士王の声は、背後から。もう、追いつかれた。強化の魔術も、そろそろ時間切れ。けれど見えた、剣が、太刀筋が。向こうだって、魔(・)力(・)切(・)れ(・)は(・)目(・)前(・)だ(・)。目まぐるしく巡る思考の中で、鵠佑は振り返り様に最後の令呪を騎士王へと突き付け、叫んだ。

 

「──来い、シールダァァァアアア!」

 

 呼ぶ。最後の一画を用いて、己がサーヴァントを、この場に。眩い閃光が視界を焼く刹那、振り下ろされる聖剣を見た。そして、同時に。それを真正面から受け止める、少女の姿を。

 騎士王は、ここに来て初めて、驚愕の表情を浮かべた。斬撃を止められた事ではなく、敵の策に乗せられた事実に。聖剣を受ける厚い装甲は、それを支える少女の意志を示すように、無傷。折れず、朽ちず、生命を護る力となった。

 

「諦めてへたり込んだヤツよりも、見苦しかろうが走って逃げる方を優先する。逃げるって事は負けを認めてないって事だ、いつかは戻って来て戦うって事だ。アレの直感を誤魔化すには、オレだったらそーする」

 

 クー・フーリンの言葉を思い出しながら、鵠佑は今までの加速を踏み潰すように足を止め、騎士王と相対する。身体にのしかかる疲労も意に介さず、己のサーヴァントと共に、迎え撃つべき敵を見据えた。ここから先は、彼女を信じ、意地を張るだけだ。

 

「負けない、負けない、負けないッ! わたしは、絶対に、負けません!」

 

 踏み込み、打ち上げ、叩き付け。受け止め、打ち払い、叩き落す。マシュの一撃一撃が、鉄槌めいた斬撃を、その全てを食い止めていく。小さな背中を見つめながら、鵠佑は拳を強く握り締めた。

 

「足掻くな、目障りだッ!」

 

 騎士王の聖剣が、城門を打ち崩さんとする破城槌の如く、莫大な魔力放出を伴って繰り出される。触れれば身体が両断されるであろう、鋼鉄の竜巻。されどその鋭さは、確かに、少しずつ衰えていた。宝具を放つ前には見えなかった剣が、鵠佑にも、マシュにも、僅かながら見えている。

 衝撃を受け続けるマシュの肉体は悲鳴をあげ、ひと振り毎に骨が砕けそうな痛みを訴えるも、瞳に宿した光は消えない。掌の皮が裂け、血が流れるのを知りながら、痛みも気にせず構え、支え、全力を込めて盾を振るった。

 耳を劈く衝撃音を響かせて、とうとう、騎士王の剣が弾かれる。なんと、無様。声なく漏らす騎士王の双眸にもまた、意地の炎が灯るよう。弾かれた剣を今一度、大上段へと掲げ直す。

 

「叩き斬る、消えるがいい!」

 

 それは、消えゆく蝋燭の火が、激しく燃え上がる様に似ていた。立ち上る陽炎のように、剣の周囲が歪むような錯覚。あるいはそれこそ、視認すら可能となるほどの魔力放出。全身全霊の一撃を、騎士王から引きずり出した。マシュもまた、応じるように盾を支え、前に出る一歩を踏み出す。

 事実上の、一騎打ち。だから、こそ。眼前のサーヴァントを討ち滅ぼさんと、騎士王自身が決めたから、こそ。か細い勝利の糸は繋がって、ひとつの流れとして引き寄せられる。

 最初に見開かれたのは、今まさに、聖剣を振るおうとした騎士王の双眸。ぐらりと揺らぐ身体を踏み出した足で支え、そして同時に剣を下ろす。

 

「──なる、ほど」

 

 振り返り、後方に佇む影を見て、騎士王は小さな呟きをひとつ漏らした。アイルランドの光の御子、その姿を認識し、とうとう聖剣を地に突き立てて支えとする。倒れる無様は晒すまいとするそれは、誰にも知られぬ、騎士王だけのささやかな意地だ。

 人差し指を突きつけた、拳銃めいた仕草。悪いな、と。クー・フーリンがぽつと漏らし、騎士王が笑みを見せた。

 

「──フ。知らず、私も力が緩んでいたらしい。最後の最後で手を止めるとはな」

 

 嘯く声は、今までの鋭さを失っていた。鵠佑からは見えなかったが、クー・フーリンの一撃が、限界を迎えた霊核に駄目押しをしたのは明白だった。

 私ひとりでは、同じ末路を迎えるという事か。言葉の真意を見抜けずにクー・フーリンが問い質すも、騎士王は何も答えなかった。いずれわかる、ただそれだけを呟いて、粒子と化して消えてゆく拳を握る。

 

「小僧、中々に面白い策だったが、二度目はないぞ。次に相見える事があれば、その護り……否、弄した策ごと叩き斬ろう。──万全の私を倒さぬまま『騎士王に勝った』などと吹聴されるのは、癪だ」

 

 虚空へと還る最中、騎士王は鵠佑に告げると不敵に笑った。思わぬ発言に目を丸くしたものの、かける言葉が思いつかず、鵠佑も頷きながらはいと応じる。彼女は負けず嫌いなのだろうと、おぼろげながらに直感した。

 

「グランドオーダー……聖杯を巡る戦いは、まだ始まったばかりだ。行くがいい、名も知れぬ少年、そして娘。その目で、事のあらましを確かめよ」

 

 王の命を下しながら、騎士王が消える。あとに残された各々は、その言葉の意味を図りかねて一様に無言のまま。静まり返った大空洞の只中、残された大聖杯へと視線を向ける。クー・フーリンの身体が解け始めたのは、それとほぼ同時だった。

 強制帰還を喚きながら、クー・フーリンの肉体もまた輝く粒子へと散っていく。次はランサーとして、と言い残して、彼の姿も虚空へと消失した。通信越しのロマニが三人を称え、管制室に復旧した職員たちの僅かばかりの歓声が聞こえた。

 勝利を喜ぶカルデアの空気とは、まるで裏腹に。困惑した表情を浮かべたオルガマリーが、思案するままに何事かの独り言を漏らす様を見て、鵠佑はおずおずと声をかけた。

 聞き覚えのある声が彼らの耳に届いたのは、まさにその時だった。

 

 

 

 突如として現れたレフ・ライノールの態度は、少なくともカルデアの味方のそれではない、冷酷なものだった。困惑するロマニ、絶句する鵠佑を嘲笑する彼に、マシュだけが警戒心を露わにする。そんな中でさえ、レフに救いの光を見出したのはオルガマリーだった。

 とっくに、限界だったのだ。カルデアに異常事態が発生し、特異点へと強制的なレイシフトを受け、マスターたちは多数死亡。何より、一手間違えれば死に繋がるサーヴァントとの連戦で、オルガマリーの精神は疲弊しきっていた。

 レフの元へ駆け寄る彼女を止める事など、できなかった。マシュや鵠佑の呼びかけにも、ロマニの声にも、オルガマリーは足を止めなかった。振り向く事すら、しなかった。

 交わされるふたりの会話が噛み合っていないのは、傍目に見ている鵠佑やマシュにも察する事ができた。この状況下でようやく見えた光に縋ろうとするあまり、オルガマリーだけが判断を誤っていた。

 救いを求める少女を、レフは獣の如き瞳で見下し、嘲り笑いながら冷酷に告げる。カルデアの肉体はとうに死に果て、ここにいるのは残留思念でしかないのだと。最早、オルガマリーの帰る場所など何処にもないのだと。

 心を砕き、踏み躙る言葉を、凶相を浮かべたレフは哄笑と共に投げかけた。否、嘲るだけではない。空間を捻じ曲げ、真紅に染まるカルデアスを、オルガマリーの眼前へと突き付けた。

 その上で尚、レフは笑う。嘲弄し、貶め、辱め。必死に抗い叫ぶ少女には目もくれず、別れの時だと無慈悲に告げた。

 

「最後に、君の望みを叶えてあげよう。君の宝物とやらに触れるといい」

 

 見えない力に引かれるように、オルガマリーの身体が浮き上がる。困惑する彼女の顔に絶望が浮かんだのは、その行く末に気付いたからだ。

 カルデアス。高密度の情報体。次元が異なる。ブラックホールと変わらない、或いは太陽か。

 羅列される言葉が意味するものに気付いた鵠佑を、その身が動く寸前で、マシュの細腕が抱き締めていた。少女の身体とは思えない、万力のような力から抜け出そうと身をよじるも、虚空に向けて手を伸ばすしかできなかった。

 

「ダメですマスター、あの男に近付いてはいけません!」

 

 行けば、確実に殺される。オルガマリーを助ける手立ては何処にもなく、無意味に、犬のように死ぬしかない。それが残酷なほどにわかってしまったからこそ、マシュは鵠佑を繋ぎ止める錨となる選択をした。

 

「放して、放してよ! 助けてくれたんだ、所長は、あの人は、ぼくを助けてくれたんだよ! この傷だって、治してくれるって約束なんだ! こんなのダメだ、ダメなんだよ!」

 

 背中の傷を治してくれた。あれは、彼女自身が生き残るために必要な行為だったからなのかもしれない。それでも、身体が死を受け入れ始めたところを救ってくれたのは、鵠佑にとってまぎれもない事実だった。

 古傷を治すと約束してくれた。あれは、彼女が手ずから治してあげると、笑顔で約束してくれた事だ。短い時間ではあったけれど、確かに互いを認め合った、鵠佑にとって大切な約束だった。

 

「誰もわたしを評価してくれなかった! みんなわたしを嫌っていた!」

 

 悲痛な嘆きは、鵠佑たちの頭上から投げかけられていた。もう、手を伸ばしても届かないところで、オルガマリーは幼子のように泣きじゃくっていた。

 ちがう、そんなことはない。たとえこの場でそう叫んでも、今の彼女には届かない。

 この冬木で、はっきりと理解できた。きっとこのまま友達になれる、嫌ってなんかいない。どんなに声を枯らしたところで、その言葉は届かない。

 手を伸ばさずとも触れ得るほどに近付いた絶望に塗り潰されて、オルガマリーの心には、もう誰の声も届いていなかった。

 ノイズ混じりの音声、机を殴打する音が、鵠佑とマシュの耳に届く。狂気に満ちた見世物が見えているのだ、カルデアのロマニにも。砕けんほどに奥歯を噛み締めて、マシュの瞳はレフを射殺さんばかりに見据えていた。

 

「ただの一度も、誰にも認めてもらえなかったのに──!」

 

「レフさん、止めて、止めてください! お願いだから、所長を助けてあげて! あんなのダメだ、あれは、とてもひどい事なんだ!」

 

 最期の絶叫に応えるように、鵠佑は言葉にならない声で叫んだ。粒子と化して崩壊する、オルガマリーを見上げながら。

 終ぞ少年の懇願を聞き入れる事なく、オルガマリーの消滅を見届けたレフは、書類の整理でも終えたかのように小さく首を回して吐息を漏らした。

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