氏名:亘鵠佑
国籍:日本
年齢:十七歳
性別:男性
四十八人目のマスター適性者であり、レフ・ライノールの反乱における唯一の生存者。特異点Fより、デミ・サーヴァントとして起動したカルデア職員、マシュ・キリエライトと共に帰還。
オルガマリー・アニムスフィアの死亡による精神的ショックにより、現在は医務室にて療養中。PTSDの可能性およびその対応も含め、ロマニ・アーキマンが観察中。
覚醒次第、更なる事情聴取を執り行う事。
短い報告書に目を通し終えると、ロマニ・アーキマンは目頭を揉みながら、ゆっくりと白い天井を仰いだ。亘鵠佑、マシュ・キリエライトの帰還から──特異点Fの定礎復元から、既に三十時間以上が経過していた。
蛍光灯の明かりは、目にしみるものらしい。そんな考えに至る心の余裕があった事に、他でもないロマニ自身が驚いたのだが、それを口にする相手も今はいない。
数人の整備班を除いて、誰もが忌まわしい管制室から退去した後だった。
椅子の背もたれに体重を預けると、ほんの小さく軋む音。肩を回して首をひねると、頚椎の何処かでクラッキング音。
この場においてロマニの聴覚が捉える音と言えば、それだけのはずだった。
「随分と難しい顔じゃないか、ロマニ。そんなに根を詰めていると、将来ハゲるかもしれないぜ。……最後に眠ったのは、二十四時間前かな?」
仮眠くらいとれば良いのに、と付け加える柔らかな女の声に、ロマニは困ったような笑みを向けた。振り返れば、彼女の──否、彼の作品が具現化したに等しい美女の姿がそこにあった。
「正確には、三十三時間前かな。まだまだやる事が山積みなんだよ、レオナルド。すまないけれど、今日は話し相手になれそうにない」
ふぅんと気のない返事をしながら、腰を曲げてディスプレイを覗き込むレオナルド・ダ・ヴィンチ。僅かに椅子を引いてスペースを作ると、ロマニは片手を添えてどうぞと促した。
「──この子は、すごい幸運の持ち主だね。これだけの怪我をしながら、特異点から生還したんだろう? 仮に訓練を積んだマスターだったとしても、並大抵の事じゃないと思うぜ、私はさ」
コフィンの外装が突き刺さった傷跡の画像をしげしげと眺めながらの、感嘆の声。魔術治療の痕跡から逆算するに、臓器に達していてもおかしくないそれは、一歩間違えれば即死ものだと呟きながらキーボードをタップする。
横目でちらと様子を伺うレオナルドに、ロマニは肩を竦めて返答とした。否定でも肯定でもない、曖昧なそれ。目頭を揉みながら盛大なため息をひとつ零し、背もたれへと寄りかかる。
確かに、その事実は凄まじいまでの幸運としか言いようがない。そして、幸運である以外には、鵠佑が生還する要素は皆目見当たらない。だから、それ以上はわからないさ──ロマニの目は、無言で語っていた。
「今は鎮静剤で眠っているよ。普通の子供には、この二日間は辛過ぎる。……まったく、本当に、酷い話だ。今のままじゃ、我々はその二日間以上に酷い事を、彼に強いなくてはならない。子供に背負わせるようなものではないと、それを知りながらね」
遠くを見ながら、ロマニが呟く。最後に見た彼女の姿を思い出して、すぐにそれを頭の中から追いやる。感傷に浸る時ではない、そう自分を戒めた。
人理修復。二〇一六年から先の未来を、全人類の未来を、彼が背負うしかない。如何に過酷な事なのか、どれだけ残酷な事なのか。それを理解しながら、ロマニができる事と言えば、せめて彼に選ばせるだけだった。
地獄のような旅路を進み、世界の明日を切り拓くか。あるいは、そうでなければ、何もかもを諦めて永久の眠りに就くか。死と隣り合わせの旅路へとあの少年を送り出さねば、人類は滅亡する。選択肢なんかないようなものだと、ロマニは拳を強く握り締めていた。
デスクの空気は重たいものへと変質していたが、レオナルドはそれを打ち消すように、軽い調子で声を張り上げる。肩を竦めて首を揺らす、芝居掛かった仕草をひとつ見せた。
「まあ、私はなんだって構わないよ。マスター適性者が、ひとりも残らず全滅だなんて笑い話にもなりやしない。少なくとも、人類史は首の皮一枚で、辛うじて踏み止まっている。終わってしまっていないから、こうして君にコーヒーの差し入れも出来ると言うわけだ」
湯気の立たなくなった、冷めたコーヒーに満たされたカップを得意げな顔で差し出しながら、レオナルドは微笑んでみせた。その口からオルガマリーの名が終ぞ出なかったのは、ロマニに対するささやかな気遣いなのだろう。
私の、おごりだ。そのひと言を残して踵を返すレオナルドへと向けて、ロマニは片手をひらりと揺らす。ありがとうと投げかけた声が届いたのだろう、真似るように片手を揺らす後ろ姿を眺めながら、ロマニは苦味の強いコーヒーをひと息で流し込んだ。
外界から隔離されたカルデアでは、星空を仰ぐ事も、月を見上げる事もない。窓さえない厚い障壁に阻まれて、外の情報はその一切が遮断されている。
それ故に、マシュは本物の空を知らなかった。生まれてから一度とて、カルデアの外に出た事はない。先日の冬木の地でも、空を、景色を楽しむ余裕などありはしなかった。
マシュには、きちんと空を見上げた経験はない。いつか、そんな日が来たら。そのくらいの夢想はあるが、未だにそうした欲求というものは実感が湧いていなかった。
だからこそ、マシュは悩んだ。幾度も繰り返される事情聴取に疲れ果てたマスターが、小さな声で漏らした言葉。それを叶えてあげられないかと、必死になってカルデアの中を駆け回った。
「少しでいいから、空を、見たいね」
空を知らないマシュにとっては、その言葉は不思議なものであったけれど。彼にとって必要な事ならば、どうにかして叶えてあげたくなる願いだった。それほどまでに、悲しげなマスターの横顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
そもそも人類史が焼却されてしまった後なのだから、この施設の外なんて、存在していないに等しい。だから、外の世界に行く事は難しい。きっと、許可も降りないだろう。そのくらいは想像に難しくなかった。
最終的に、マシュはひとつの手段へと行き着いた。夜空や紅葉、新緑、日差し──そうした憩いは人間にとって不可欠なものであり、このカルデアにおいて、それらはシミュレータによって再現される。
真実ではないものの、何かの役に立つかもしれない。シミュレータの使用許可を取り付けて、設定周りも依頼するまで、丸一日かかってしまった。それでも、あとはマスターを連れて行くだけとなれば、自然と歩調は駆け足気味になっていく。
ノックは、二回。滑らかな作動音と共に開かれた扉の向こう、驚いた面持ちの鵠佑と向かい合っての一拍。す、と息を吸い込むと、マシュは決意を秘めた瞳で真っ直ぐに目の前の少年を見つめて言った。
「先輩、朗報です。つい先ほど、シミュレータの使用許可が降りました。外に出て、と言う訳にはいかないのですが……先輩さえ良ければ、これから夜空を見に行きませんか!」
よく通る、澄んだ声での申し出。廊下は誰の気配もなく無人で、だからこそ、その声は余計に大きく響いた気がした。自然と頬が熱くなる理由は、マシュ自身も知らない。ただ、嬉しそうにはにかんだマスターの笑顔を見て、自然と口角が持ち上がるのを感じていた。
「すごいね、シミュレータってそんな事も出来るんだ。いや、それよりも、うん。ええと、なんて言ったらいいのかな……ありがとう、マシュ。一緒に行こう、案内してくれる?」
一も二もなく頷いて踵を返すと、確認するように肩越しに視線を送るマシュ。その歩みを追いかけるようにして、鵠佑もまた、夜更けの廊下へと踏み出した。背後で、自動的に扉が閉まる滑らかな作動音が一度、響く。
かつ、こつ、と、床を打つ硬質の足音はふたり分。夜更けのせいか、道中における会話はない。無言で歩くだけのこの時間を、不思議とマシュは心地良く感じていた。
マシュの視界は、いつ何時でも明るい。カルデアの明かりは絶えず、昼も夜も眩いばかり。いつも共にいようとするフォウの姿は、今日に限って見当たらない。何処かで寝ているのだろうかと思いながら、人差し指で顎へと触れた。
そんな思案も、シミュレータルームの扉が見えてくれば、やがてマシュの脳裏から離れていった。あたかも、かの生物が、自由気ままにカルデアの何処かへ消えていくように。
「マシュ・キリエライト、到着しました。この度は、唐突なお願いでしたのにご対応頂きありがとうございます」
頭を下げて謝辞を述べるマシュに、技師らしいカルデア局員は片手を揺らしてにこやかに笑った。鵠佑もそれに倣って頭を下げてから、ふたりの後をついて行く。床を打つ足音は、三人分になった。
本当なら、こんな時間になっての使用はダメだからね。念を押す局員の言葉に頷く鵠佑と、神妙な顔で謝罪の言葉を口にするマシュ。それを聞いて、局員が思わずといった風に吹き出す。冗談だからと肩を竦め、不思議そうにしていたふたりへおどけてみせた。
自動ドアの開閉する、いつもの滑らかな動作音が、一度。未だカルデアに馴染んでいない鵠佑が、目的地に到着したのだと察するに、目の前の光景は十分な説得力を持っていた。
トレーニング用の戦闘シミュレータとは異なって、もっとずっと小規模なそれは、レイシフトの折に使用するコフィンに似て棺桶めいた様相だった。使い方はわかると思うから、そう告げると局員はシミュレータを起動し始める。
「夜空が見たい、だね。鵠佑くんは日本人だし、少し趣向を凝らしてみようかな……うん、こんな感じで……」
独り言を呟きながらホログラムの地球儀を回し、日本の地図を拡大していく局員の慣れた手つき。
シミュレータの蓋が閉じて閉鎖感に包まれるこの瞬間は、何故か、酷く恐ろしいものに思える。鵠佑の抱いた得体の知れない苦手意識は、すぐにやってきた浮遊感にも似た感覚で塗り潰された。
レイシフトの時もそうだが、最初に覚えるのは軽い目眩。ふわりと浮いた身体が、羽毛のように舞い降りて、地面に足を突く感触。頭を小さく振ると、ぼやけた視界は直ぐにクリアになった。
シミュレータによって再現された光景は、屋敷の中庭だった。眼前には明かりの灯らない日本家屋が鎮座し、背後には古い土蔵。どちらも人の気配はなく、シンと静まり返っている。
「これは──日本の……武家屋敷、でしょうか?」
すぐ隣から聞こえたマシュの声に、鵠佑は肩越しに振り返ると視線を向けた。頭上には、作り物とは思えない満天の星空。だが、マシュの視線はそれよりも少し低く、無人の家屋を見上げていた。
きっと、こうした光景が物珍しいのだろう。漠然とした感想は、自然と浮かんだ笑みに現れていた。緩やかな歩調で縁側へと歩み、板張りの床に指を這わせる。やがてその場に腰を落ち着けると、ぐぐ、と大きく背伸びをしてみせた。マシュもまた、鵠佑に倣い縁側へと腰を下ろして、頭上を仰ぐ。
「そうだね、うん、武家屋敷。立派なお屋敷だよ、とっても」
先の呟きへの返答をしながら、鵠佑はすぐ隣へと視線を向ける。眼鏡のグラスを隔てて視線が絡むと、好奇心からか、大きな瞳がまん丸になっているのが見えた。
虫の鳴き声まで再現された、日本の何処かの夜更け。興味津々のマシュからは日本のお屋敷の歴史や文化、果ては建築様式について聞かれたものの、鵠佑が返答できる事はまるでなく、眉尻を落として笑うしかできなかった。
マシュは勉強家だなあ、と。冬木で質問すると、細かな事でも容易く答えてくれた姿を思い出しつつ、素直な気持ちを口にした。マシュは照れた風にはにかんで、お決まりのように謙遜の言葉を口にする。
密やかながら、柔らかに流れていく時間。話の種が途絶えたのは、それからもう少しだけ経ってからのことだった。
暫しの無言は、少しずつ、重たいものになっていく。俯いたままの鵠佑が、絞り出すような声で漏らした。
「……あんなに泣いていたのに、助けてって言っていたのに。ぼくは、助けてあげられなかった」
その言葉が意味するものを知っているからこそ、マシュの視線は星々の煌めきから、暗い地面へと落ちる。眉を寄せる沈痛な顔を、さらさらとした髪が覆い隠した。
「この手をもっと早く伸ばしていたら、ぼくにもっと力があったなら、そう、あれから何度も何度も、思ってさ。……ああ、ええと、だめだ、ごめん。ちょっとだけ、泣くね」
眉尻を下げて、困ったように笑ったあと。縁側から立ち上がる鵠佑の背中を、マシュは黙って見つめるしかなかった。庭の半ばまで歩みを進めると、両手で顔を覆ったまま、鵠佑は天を仰いだ。溢れないようにしようとする、ささやかな、それでいて無意味な行為。
その姿を見てはならない気がして、思わずマシュは目を伏せた。子供のような、嗚咽と慟哭。冬木の地で見せた優しさも、戦いの中で見せた凛々しさも、何もなく。悲痛なものさえ感じさせる泣き声は、ただただ、作り物の星空へと吸い込まれていくばかりだった。
「──小さな頃に、さ」
ふたりの頭上に浮かぶ月は、見事なまでの真円。月明かりの下、ぽつと漏らした鵠佑の声は、穏やかでいて陰りのある曖昧なものだった。
泣き腫らした目は、時折マシュへと向けられるものの、何処か遠くを見つめたまま。それでも、泣きじゃくる後ろ姿を見ているしかできないよりは、マシュにとってはずっと心穏やかなものだった。
「正義の味方になりたいって、そういうものに憧れたんだ。ぼくは、テレビのヒーローが大好きでさ」
懺悔をするように跪いた姿で、紡ぐ言葉。幼い頃の憧れを、鵠佑は懐かしむように訥々と語る。今でもずっと抱いている、子供の頃の小さな夢を。
「せいぎの、みかた」
復唱の声に頷くと、鵠佑は考え込むように口を閉ざして夜空を見上げる。何度も何度も繰り返した、ビデオテープの光景を思い出すように。
鵠佑がしゃくなげに辿り着いた頃には、テープがもう随分と古くなっていたせいで、ノイズがちらつく画面だったのを覚えている。画質も音質も良好とは言えなかったが、それでも、大切な思い出だった。
「そう、皆の笑顔のために戦うって立ち上がった、正義の味方。冬木でやったこれもさ、その真似なんだよね」
親指を立てて見せながら、鵠佑は気恥ずかしそうに笑った。大きな瞳を丸くして、マシュもそれを真似る。嬉しかったですと、ひと言を付け加えて。
記憶に残る英雄の姿を思い、月に被せるようにして掲げる右手。自分もあんな人になりたいと、そう思ったのはいくつの時だったろう。結局、実行できた事なんて、仕草を真似るしかなかった。
「あんな風に、なってみたいと思ったけどさ。正義の味方って、
冬木で思い知ったのは、無力さ。戦う力を持たない限り、彼のようにはなれないという現実。そして何より、誰かの涙を見せつけられる悔しさと悲しさ。そういうものが、今でも胸の中に渦巻いている。
「わたしは、……わたしには、先輩のその夢は、とても素敵なものだと思えます。皆の笑顔のためになら、わたしも頑張れると、そう思います」
そう答えたマシュの言葉は、本心からのものだった。お世辞の類でもなければ、馬鹿な事を言うと笑うでもない。ただ、自分と似た年頃の少年が語る言葉を、綺麗な夢だと感じていた。
「ありがとう、そう言ってくれて、嬉しかった。わかってはいたんだ、昔から。正義の味方は物語の中だけで、現実にはなれるものじゃないって」
夜空の下で語る声は、やはり穏やかなもの。ゆっくりと、立ち上がる。座り込んでいるのをやめて、もう一度、二本の足で。
「でも、うん……やっぱり、借り物の言葉なんだけれどさ。『だからこそ、現実にしたい』って、こういう事なんだろうなあって、ぼくはそう感じたよ」
綺麗事でも、夢物語でも。憧れたものになってみたいと、打ちのめされたからこそ、強く思う。そういう気持ちが存在する事も、この状況になって初めて知った。
「もう、次はない。あんなことはさせない、絶対に。……今度こそ、正義の味方になってみせる。助けられなかった所長の分まで、ひとりでも多くの人を、助けたい」
誓うように夜空を見上げる眼差しは、冬木の戦いで見せたものよりも、ずっと強さを増している。怒りや憎しみではない、もっと澄んだ意志を宿すもの。
「だから、マシュの力を貸して欲しい。……悔しいけれど、ぼくはやっぱり、普通の子供で弱いからさ。この手じゃ、精々がひとりかふたりの手を取るのでやっとなんだ。きっと、君と一緒なら、もっとたくさんの手を掴めると思う」
大きな傷を負ったその上で、今一度、立ち上がろうと決意した者の顔。掴めなかった事を受け入れて、尚も誰かの手を掴もうと、覚悟を決めた者の顔。
普段の様子からはそんな風には思えない、優しい空気を纏う人であったのに。マシュは、手を差し伸べた鵠佑の穏やかな笑みにこそ、ひとりの男としての雄々しさを見た。
「はい……、はいっ! 任せて、任せてください! わたし、先輩のサーヴァントとして、全力を尽くします!」
だから一緒に、ふたりで一緒に──せいぎのみかたに、なりましょう。鵠佑の手を両手で包み、言葉と共に誓いを交わす。
外の世界を知らなくとも、多くの人を知らなくとも。彼の人の思いが至極綺麗で、そこにマシュは憧れた。だから、この人の盾となろう。そう心に決めるのに、迷いは微塵も懐かなかった。
仮初めの月下、柔らかな光を浴びながら、作り物ではない約束を。誰の目も必要ない、ふたりだけの密やかな誓いを。誰の目もない、ふたりだけの縁側で交わす。
互いに笑みを浮かべて、それ以上の言葉は不要だった。泡沫の夢はやがて醒め、何処かへ流れて消えて行く。シミュレータの蓋が開いてしまえば、現実へと舞い戻る事に変わりはない。
だが、それでも。今宵の、人の手により作り出されたひと時は、マスターとサーヴァントとしての在り方をふたりの心に深く刻んだ。
これから始まる、人理修復という途方もない戦いへ、どうして人の身で立ち向かっていけるのか。そんな、ひとひらの不安はいつまでも残り、きっとそれは消えはしない。だからこそだと、鵠佑は思う。
自らの足で立ち続けるために、小さな身体に力を宿す、道標となるのであれば。たとえ他人の言葉だったとしても、それが借り物だったとしても、今はそれで良いと思えた。まずは、自分に負けない自分になろう。見失ってはいけない、その思いを見つめていられた。
自分をマスターと認めてくれた少女との、この小さな約束は、ひび割れそうだった心を繋ぎ止めるひとつの救いになってくれた。
これ以上、誰かの涙は見たくない。皆に笑顔でいて欲しい。
数え切れないほど繰り返し見たその光景を、幾度も聞いて憧れたその言葉を、現実のものにしてみせる──正義の味方に、なってみせる。
子供の夢も同然の幼い誓いを胸に抱いて、鵠佑はマシュの手を握り返した。互いの決意を確かめ合うように、強く、力いっぱいに強く。
主人を持たない仮初の屋敷だけが物言わず、ただあるがままにその光景を見守っていた。
亘鵠佑には、魔術師としての素養がない。
天涯孤独の身の上なれば、継承する魔術刻印もない。家柄もなければ血筋もなく、魔術師と呼ぶ事も烏滸がましいほどに、ただの、普通の人間であった。
だからこそ、その胸中は複雑だ。周りにいた四十七人は、どう言った形であれ、誰もが魔術と関係のある存在だった。たったひとり生き残った自分だけが、このカルデアを訪れるまで、魔術の魔の字も知らなかった。
そんな状況で、全くの素人でしかないと言うのに、世界を救うなんて大それた役割を担う事になったのだ。重圧がないと言えば、それは無論、嘘になる。
「──さて、ざっくりとした説明はしたけれど、念のためもう一度だ。質はどうであれ、魔術師としての素養を持つ者なら、誰であっても聖晶石を用いた召喚システムを使えるのだけれどね」
君には、それは難しい。レオナルド・ダ・ヴィンチは、真剣な面持ちでそう告げた。
詳しい事は、魔術を知らない鵠佑にはわからない。ただ、自分の為に、かの天才が急造品だと与えてくれた黄金の触媒が、どれだけ貴重なものであるのかは理解できた。
「その呼符は、そんな君の召喚を手助けしてくれるはずだ。私の特製だからね、失敗するはずがない。……まあ、ちょっとばかり調整に苦労して、三枚しか用意出来なかったのはご愛嬌ってね」
茶化した言葉を背に受けながら、設置された召喚サークルへと向かう。これだけの手助けをしてくれているのだから、失敗するわけにはいかない。押し潰されそうになる重圧を感じながら、その意志だけは揺らがない。
つまるところ、この少年は、そう言った精神の持ち主だった。人の思い、誰かの思い。そういうものを叶えたい、あるいは応えたいと思う時には、常とは比べ物にならない意志の力を見せるのだ。
「ありがとう、レオ……ダ・ヴィンチ、ちゃん。無駄にならないよう、やってみます!」
手にした呼符からは、金属質の手触りと、仄かな熱を感じる。掌に収まってしまいそうなその一枚一枚を見やりながら、鵠佑はゆっくりと肺の中身を吐き出した。
高鳴る心臓は、緊張と、ほんのささやかな興奮が故。生まれてこの方、初めて魔術というものを行使するのだ。既に非日常の渦中にいると言っても、今まで以上にその興奮は強いものだった。
レオナルドから教わった詠唱は、一字一句を記憶した。魔術師でない鵠佑には、果たしてどれだけの効力があるかはわからない。ただ、自分の出来得る事ならば、出来るところまで努力をしたい。
それが、この少年の、小さな誠意だ。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に」
高らかに歌い上げるにも似た、召喚の詠唱。魔力のパスもわからない、そのメカニズムもわからない。だから、心を。出来る限りの、祈りにも似た想いを込めた。
「聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
燃え盛る冬木の街。死に絶えた赤い色。オルガマリー・アニムスフィア。瞼の裏に焼きついた、あの光景。手を伸ばしても掴めなかった、小さな手。流れ落ちる涙の雫。悲痛な、嘆きの声。
「誓いを、此処に」
胸の奥、楔のように穿たれている記憶。それを思う程に、意志は確固たるものになっていく。共に冬木を生き延びた少女と、月の下で誓った記憶が蘇る。
「我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
この手で、止める。あんな事は、二度とさせない。どれほど自分が無力だとしても、止めてみせる。夢も、希望も、明日も、愛も。全ての人が、笑っていられる世界を取り戻す。
この詠唱は、小さな子供が胸に抱いた、ひとつの誓いの現れだ。故に淀みは欠片もなく、純粋な祈りと呼ぶに相応しい。
人理修復、グランドオーダー。背負いきれるものではないその一端を、その身に負うと決めた。それを聞いて切なげな表情を浮かべたロマニにも、見ていて欲しいと笑顔で告げた。
ああ、安心した。そんな鵠佑を見て、ロマニは笑顔と言葉を返してくれた。召喚室へ向かう鵠佑に、マシュと揃って親指を立ててくれた。
その期待に応えたい、それが、鵠佑の願いだった。
人々の想いは、確かに今、ひとつになっている。
人類を救うため、ひとりの少年の祈りを礎として大きな願いになっている。
だから、そう、正直に言ってしまえば、失敗なんて起こらない。そうだね、私には最初から、その確信があったとも。
考えてもみたまえよ、あんな子供が、たったひとりだって言うのに、逃げ出さずに立ち向かっているんだぜ。
初めてのレイシフトに、初めての特異点。無残に殺された人を見るのも、絶望に打ちのめされるのも、初めてだったろうさ。
それでもね、あの子は立って、歩くと決めた。だからね、魔術師として素養がないだとか、才能がないだとか、ダメだとか、そういう理由は意味がない。もう、あの子は英霊を召喚し得るだけの資格がある。
簡単な事さ、至極、とても簡単な事なんだ。
だってさ、見ろよ、あんな顔して頑張ってるんだぜ。何も知らなかった子供が、世界を全部背負って歩いてみせると、私の作った触媒を握り締めている。
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ……!」
ああ、来るとも。私が保障しよう、絶対に、君の想いに応えてくれる。君を助けに、必ず誰かがやって来るよ。
だって、だってさ。英霊だって、心があるんだ。元は人間だった者だって、大勢いるんだ。
そんな奴らがさ、君みたいな子を、見て見ぬ振りなんかすると思うかい?
さあ、我々の手で紡ぐとしよう。
未来を取り戻す物語を、愛と希望の物語を。