語りかける女性の声は、静かで柔らかなもの。海のように深い理性と優しさを感じられる、心安らぐものだった。
だから、鵠佑は最初に、ほんのひとひらの淡い期待を抱いた。少なくとも、黒いジャンヌの召喚したサーヴァントたちの中では、話が通じそうな人だと。それも、彼女の口から否定されるまでは、だったが。
「……だめなんですか、どうしても」
「ええ、理性が消し飛ばされてしまっているの。だからごめんなさい、まだ若いマスターさん。私は、あなたたちの味方になる事はできそうにない」
協力する事は、共に戦う事は、叶わない。眉を落として首を揺らすその姿に、鵠佑は痛ましげに顔を歪める。言葉が通じる相手を殺めなければならないと、突き付けられた現実が故に。
聖女マルタ。祈りだけで竜種を屈服させた、古の聖人だとロマニは言う。
理性を奪われ狂化しても尚、
「男でしょう、迷う暇などあるのですか! あなたはこれから何を成すの、若き人!」
叱咤の声が、森の闇を裂く。見据える先に佇む聖女の姿に、ようやく鵠佑は納得ができた。
試練とは、きっと、こういうものだ。この女性を、討ち倒して行かなくてはならない。それを感覚的ながら受け入れて、ゆっくりと一度息を吐き出す。
「かの“竜の魔女”は、
脳裏に浮かぶ光景は、いつだって忘れられない心の傷。泣きじゃくるあの顔は、幾度も夢に現れた。同時に胸に湧き上がるのは、決意にも似た強い思い。
「──世界を、救います。皆の涙を止めるために、皆の笑顔のために! 正義の味方に、なってみせます!」
それがたとえ、この
力強い鵠佑の宣言に、マルタの表情は最後に笑みを一度だけ見せてから、引き締まったものへと変わった。少年が立ち向かい、乗り越えるべき試練足らんとするかのように。
「よくぞ言いました、若き人。我が
マルタの呼びかけに応じるように、聞いた事のない咆哮が木々を揺らす。闇の向こうに爛々と燃え盛る、一対の目玉がはっきりと見えた。彼女が調伏したという、巨大な竜の瞳。身を竦ませるようなその声にも、鵠佑の戦う意思は揺るがない。
「さあて、これがドラゴンライダーというものか! どうするんだいマスター、全員で一斉にかかれ、ってやつかい? 僕は役に立たないけれども、まあ君が言うなら従いはするよ、うん」
アマデウスがゆっくりと後ずさりながら、念のためという風に問いかける。マリーが肩越しに振り返って嗜めるように射すくめた事で、彼は渋々ながら半歩だけ持ち場に戻っていった。
「それは、ダメだと思います。あの人は、僕たちを試すと言ったから……僕が、しっかりと戦う必要がある。──たぶん、僕が同時に見られるのは三人です。前に出て戦うのは、三人まで」
タラスクを背に、マルタは杖を携えたまま動かない。仕掛けるには十分な隙だと言うのに、まるで鵠佑の準備を待つように。それがわかっているからこそ、鵠佑もまた精神を統一するように瞼を落とす。
霊子が渦巻き、エーテル体を仮初めの肉体へ。影から現へと現界する、少年の声に応えた三人目の英霊。十文字槍を携えた僧兵は、ふむと小さな声を漏らす程度の反応を示した。
「だから、胤舜さん、お願いします。マシュ、ジャンヌさん、あのタラスクを食い止めて欲しい。この人が近付けたなら、その時はぼくらの勝ちだ」
「うむ、任されよ。無益な殺生は好まぬが、こればかりは譲れぬ事だからな。なにより、お主の覚悟に泥を塗る真似は、僧侶だからとすべきでない」
彼我を一瞥した上で、よく通る朗らかな声が告げる。それを合図に、大盾を担ぎ、マシュが前へと踏み出した。その傍にジャンヌが寄り添い、ふたりの聖女が睨み合う形となる。アマデウスの口笛と、それを嗜める潜めた声。
戦さ場の喧騒が止んだのもつかの間と言うように、夜更けの森には各々の声が、音が、息遣いが満ちていく。その全てに意識を向けられるような強さは、鵠佑には養われていない。だからこそ、自らの采配に託すように、鵠佑はじっと三人の後ろ姿だけを見つめた。
「武芸者同士……というでもないな、名乗りは不要だろう。うむ、敵に真名を明かすなど、まったくもって無意味とはわかっているが──そちらの名乗りを無碍にするのも、些か寝覚めが悪い」
木々の合間から差し込む月光を、槍の穂先が反射する。唐突な申し出にも顔色を変えず、マルタはただひと言、どうぞとだけ促した。そこから二歩、マシュやジャンヌの護りを越えて、槍兵の英霊は涼やかな笑みを浮かべた。
「流派、宝蔵院流槍術。二代目、胤舜である。推して参るぞ、聖女殿!」
高らかな名乗りが口火を切り、返答めいたタラスクの咆哮が森の大気を震撼させる。マシュの肩がわずかに竦んだものの、すぐにそれを打ち払うように、彼女は前へと踏み出した。
三人の後ろ姿を見守る鵠佑の傍へ、マリーが歩み寄って笑顔を向ける。大丈夫よ、そう口にする姿こそは少女のものながら、鵠佑にとっては王妃としての威厳すら感じられた。
「わたしとアマデウス、それにコタローが貴方を守るわ、マスター。それが、わたしたちの役割ですものね。……大丈夫、ゆっくり呼吸をなさって。ジャンヌもマシュさんも、それにあのランサーさんも、とっても強いんですもの」
だから、怖い事なんて何もないわ。天真爛漫な王妃をフランスという国が愛した理由の一端に、ほんの一瞬だけ触れた気がして、鵠佑の表情に笑顔が戻る。二度目のタラスクの咆哮で、すぐに真剣なそれへと変わったが。
竜種の巨体から繰り出される攻撃は、単純なものであっても大木を易々と薙ぎ倒し、城壁を打ち砕くのになんら不足のない破壊力を秘めていた。振るわれる尾の一撃を受けようとしたマシュの身体が吹き飛ばされ、文字の通りに宙を舞う。
榴弾めいた石飛礫を、マリーの展開した硝子の盾が防ぎ、弾いて鵠佑の身を守り切る。任せてねと笑顔で告げる王妃に自らの生命を預ける事に、最早ひとつの躊躇いもなかった。
「マシュ、無理しないでいいから、なるべく相手の視線を引きつけて! ジャンヌさん、マシュの援護、お願いします!」
ふたりの返事は、どちらも力強い。マシュの身体も鎧に守られて、大事はない様子だった。鵠佑が胸を撫で下ろしたのと、胤舜の姿が視界から消えたのは、ほぼ同時だった。厳密には、強化された視力を以ってしても、捉えられなかった、と言うべきか。
最短距離を、最速で。マシュに目を向けたタラスクの尾を掻い潜り、土煙さえ巻き起こすような跳躍を、二歩目の軸足で急制動。剣では届かないが、槍ならば。そう思わせるに十分な、達人の目測。
「さて、我が槍どう受ける!」
制動に従おうとしない慣性を、胤舜はただのひと欠片も持て余す事なく、練る。足首から生まれた力を膝へと渡し、肉体の要となる腰へ。みきりと軋む背筋を用いて、取りこぼす事なく肩から肘へ。
複雑な肉体操作をひと呼吸でやってのけるまで、如何程の修練を要するものか。防御能わず貫き通す一閃は、まるで銀の流れ星に見えた。ぞくりと粟立つ肌の原因が、あまりの美しさに見惚れたからだとは、鵠佑自身にさえわからなかった。
「冗談。そんな鋭い一撃、私の力では受けられないわ。だから、私は──祈りを!」
マルタが、応える。言葉の通り、彼女は槍を受ける様子も、あるいは捌く様子も見せなかった。
だと、言うのに。胤舜は何かを察し突きを止め、槍を掲げて盾とする。何もない空間が、真白の焔を噴いたのは、その時だった。爆発を至近距離から浴びながら、胤舜が風車のように槍を回し、襲い来る炎を散らしてゆく。
追撃を試みた胤舜が跳躍し、わずかに遅れてその場をタラスクの爪が抉り飛ばした。着地しなに唸りを上げて、今一度、十文字槍を構え直す。
「祈る、か……ふうむ、なるほど。いや、これは一本取られたな、そういうものか!」
高らかに笑いながらも、胤舜が鵠佑を振り返る。わからぬよな、そう問われた気がして何度も頷き、鵠佑はマルタと胤舜を見比べた。
「よろしい、ならば見ておけ、マスター! マシュ殿、ジャンヌ殿もだ!」
「胤舜さん、私も行きます! マシュさん、ここは私たちに任せて、マスターの防護を!」
ジャンヌの声を背に、今一度、胤舜が駆ける。突風のように、撃ち出された矢のように、敵を討たんと一直線に。タラスクが振り下ろした前足を紙一重で躱し、その巨爪さえも足場として、木々の合間を駆け抜ける。
一方で、自らにかけられた言葉に、マシュは迷っていた。ふたりの背を見ながら、自分も行くべきではないのかと、心の内でそう思う。そして同時に、マスターの防護をすべきであるともわかっていた。タラスクの攻撃はその巨体が故に、後方に構えている鵠佑を巻き込みかねない。
何を基準に判断を下せば良いのか、それがどうしても決められない。行くのか、それとも残るのか、眼前の選択肢はどちらも正解に見えてしまう。だからこそ、指示を仰ぐ。自分と同じ、素人でしかない、彼に。たったひとりの先輩に、その意思を問うように。
「──行って、マシュ!」
鵠佑の言葉に、迷いはなかった。傍でマスターを援護しているマリーもまた、笑顔で頷き、肯定する。
「心配いらないわ、マシュさん。わたしだって、サーヴァントですもの。マスターを護るくらい、できるのよ!」
それで、マシュの心は決まった。マスターの傍で、マスターだけを護っていれば良いのなら、きっとそれは気が楽だろう。他のものを見なくとも、ひとつの役目に従事して、それをやり遂げれば良いのだから。
けれど、鵠佑はそうさせなかった。
辛い道だとわかった上で、酷い事だと知った上で、戦う事を命じた。長い目で見れば、その選択は悪い事なのかもしれない。それでも、マシュにとっては、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
歴史に名を残すような英霊と、同等の信頼を受けている。彼らと並んで戦って欲しいと、そう命じた鵠佑の胸中が、痛い程にわかるのは。あの日の夜の泣き顔が、今も記憶に焼き付いているからだ。
「──マシュ・キリエライト、行きます!」
力強い声で叫び、マシュが地を蹴り駆ける。先に仕掛けたふたりの背を、全速力で追いかけて。嵐のような石飛礫と衝撃を、手にした盾で弾きながら、さながら黒い突風のように。
その一方で、先んじて仕掛けていた胤舜が、マルタを目掛け一足飛びに跳んだ。槍の穂先が風を切り、落ちる木の葉をふたつに割って斬り飛ばす。
先ほどの間合いまで、あと一歩。その一歩を阻むかのように、焔が再び吹き荒れた。胤舜の踏み込みを先読みしたのか、先の爆炎よりもずっと強い、炎の壁にも等しい様相。手段はわからずとも、誰が起こしているのかはわかる。
「あの爆発、外的なものではない……そうか、マルタは祈りだけで奇跡を起こした聖女! その攻撃すら、祈るだけで起こすのか!?」
戦況を確認していたロマニが、驚愕の声を上げる。魔力の流れは確認できず、ただ、結果だけがそこにあると告げるように。タラスクの咆哮を伴って、三度。爆炎が胤舜を包み込み、飛び退るその身を打ち据えんと竜種の尾が振るわれる。
「シールドエフェクト、展開! 前に出ます!」
「おお、助かる! すまぬなマシュ殿、うむ、良い護りだ!」
その一撃を受け止めたのは、ふたりに追いついたマシュだった。大木をなぎ倒す巨体の力を、真正面から、たったひとつの盾を用いて食い止める。衝撃波が土煙を巻き上げ、森の木々を揺らすも、その護りは砕けない。
後ろ姿に見える強い意志の正体は知らずとも、胤舜は、それを心強いと判断した。同時にマシュは、胤舜の判断を踏ん張るための糧とする。吹き飛びそうな衝撃を押さえ込み、歯を食い縛って堪える。英霊たる胤舜のひと言は、十二分に、護りを固める原動力になってくれた。
「ならば、好機とは今まさにこのこれよ。行け、ジャンヌ殿!」
「──っ! いけない、タラスク、退いて!」
ふたりの叫びが交差し、ひとつの影が宙を舞う。胤舜の槍を足場として、城壁にも匹敵するマシュの護りを飛び越えて、巨大な尾を駆け上がる。仲間を鼓舞するその旗を、槍のように携えて。
「逃がしません、覚悟なさい!」
タラスクは異物をふるい落とそうと身動ぎ、はたき潰そうと爪を振るうも、ジャンヌの足は止まらない。甲殻を蹴って一撃を躱し、あるいは地を這うように身を低くしてやり過ごし、吐き出す炎を物ともせずに突き抜ける。
強い対魔力によって弱まった炎など、駆け抜けるジャンヌの足を止める理由にはならない。熱さも痛みも苦しさも、
狙うは、一点。浮かぶ色は憎しみではなく、忠誠だろうか。旗を握る手に力を込める、ほんの刹那の間に、ジャンヌはふと夢想する。護ると誓った人がいて、その敵を射抜く、煌々と光る竜の瞳。
腰だめに構えた旗を、その切っ先を、ジャンヌが躊躇なく抉り込む。硬い果実を潰すような感触と、苦痛による竜の絶叫。振り飛ばされぬように力を込めて、更に一歩、踏み込み抉る。これには堪らず、苦痛の源を振り払おうとタラスクが首を振って地団駄を踏んだ。
「タラスクっ!」
叫ぶ声は、その顔は、切なげで苦しげなもの。狂化を施されていながらも、聖女はやはり、聖女であった。己を守護する存在が、苦痛に叫び、必死に助けを求めている。そんな様を見せられて、どうして冷酷に戦えよう。
深々と眼窩を抉られ血の涙を流すタラスクを救わんとしたところで、マルタは己の過ちを悟り、同時にそんな甘さが残っていた事に、ささやかな喜びを見出していた。
「もう、試練の役目も十分であろうよ、聖女殿。お前は、立派にやり遂げた……拙僧は、そう思う」
ただの一度、視線を外した。ただの一瞬、意識を逸らした。それだけでも、達人というものには、十分に過ぎる時間だったのだろう。寸分の違いなく己が霊核を貫く穂先に、ああ、と力ないため息がマルタの口から漏れた。
「嗚呼……本当、損な役回り、だったわね……ごめんなさい、タラスク。貴方はもう、おやすみなさい」
マルタの言葉が合図だったかのように、タラスクの弱々しい鳴き声が、夜の森にこだまする。地響きを立てて崩れ落ちる巨体を、鵠佑はただ、沈痛な面持ちで見つめるしかできなかった。
「御然らばです、若き人。きっと……きっと、世界を救ってくださいね」
祈りましょう。
最初にそう言い出したのは、マリーだった。
「あの人たちが、安らかに眠れますようにって、祈るの。それとも、サーヴァントの
思いがけない提案に面食らっていたものの、真っ先に賛同したのは、鵠佑とマシュのふたりだった。マリーの疑問を否定して、その隣へと並ぶ。諸手を組み、あるいは合わせ、瞼を落として魂の平穏を祈った。
「いいえ、変だとは思いません、マリー。私も、そうしたい。行くべき道を示してくれた彼女たちに、祈りを捧げたいと思います」
やや遅れて、ジャンヌもまた十字を切って祈りを捧ぐ。ひと時の鎮魂を、聖女と竜に。既に死した過去の存在であったとしても、仮初めの生であったとしても、安らかな眠りを祈りたい。その思いは変わらないと、穏やかな声が静かに告げる。
「そうさな、宗派も信仰も異なれど、祈ってはならぬ道理もなし。道標を示してくれた御仁を悼むのは、悪い事ではなかろうよ」
「柄ではないけれど、まあ、うん。僕も、マリアの意見を尊重するとしよう。……葬送曲は、必要ない?」
各々が、それぞれに。祈りの形は数あれど、聖女マルタとタラスクの、せめてもの平穏を願う。人里離れた森の奥という事もあってか、静まり返った空気は、鵠佑とマシュにとって神聖なもののように感じられた。
リヨンへ行きなさいと、マルタは告げた。
黒いジャンヌが従える、邪悪なる竜を討ち倒すもの。竜殺しの英雄を見つけるのが、鵠佑たちに与えられた使命だった。
狂化しても尚、ひたすらに強い克己心で理性を保ち、世界を救う術を伝えてくれた。その精神性の一端を垣間見て、鵠佑は自身が抱く英霊と呼ばれる存在への憧憬が一段と強くなったのを感じていた。
「さあ、少し休んでから、出立しましょう。マスターは、睡眠を取らぬわけにもいきません。急ぎたくとも、休息すべき時は立ち止まるのも必要です」
そんな少年の胸中を、誰かが知る事はない。ジャンヌの声を皮切りに、踏み消された焚火を熾し、野営の準備を再開する。それで良いと、鵠佑もまた思う。記憶の片隅に息衝く想いは、誰に知られる必要もないと、鵠佑自身がわかっている。
「あの、胤舜さん。少しだけ、教えて欲しい事があるんです」
簡素な寝床を整えながら、鵠佑は胤舜へと視線を向ける。ほうと小さな声を漏らして、胤舜は不敵な笑みと共に腰を下ろした。目線の高さが合うと、胤舜は良いぞと促した。
「さっき、マルタさんと戦ってた時……あの、あまりに速くて、ですね。見ておけって言われたけれど、何を見たらいいのか、全然わからなかったんです」
「ははは、素直なのは良い事だ、うむ。足らぬを知るは賢き者への一歩と言うしな。……そうさな、俺はあの、マルタ殿のあれがあったろう。こう、いきなりぶわと焔が噴き上がった」
胤舜の説明に聞き入りつつも、時折混じる形容しがたい表現に、何よりそのおどけた仕草に、鵠佑もつい笑ってしまう。あれですねと相槌を打ちながら、確かに表現し辛いと、鵠佑も内心で頷いていた。
「あれな、マルタ殿が祈った途端に来ただろう。隙も起こりも見えなかったが、狙われたのは俺だけだった。戦いの場で遊ぶような人ではないからな、ならばどんなに速くとも、一度にひとりと踏んだわけだ」
無謀な突撃ではないのだぞ、などと付け加える胤舜の顔は、どこか得意げで快活さに満ちている。ひとつひとつの解説を受けて、鵠佑は感嘆の声と納得の言葉を交互に繰り返すばかりだった。
「なんて言うか、凄い、としか言えないです……どこを見てたら良かったのか、やっぱりわからないや」
「まあ、こればかりは積み重ねというやつよ。ひと目で全てを把握できたなら、苦労もない。お主は、そうさなあ……まずは、ひとつに囚われる事のないよう、多くのものを見るといい。今日もひとつ学んだろう、人生とはその積み重ねよ」
もう少しだけ話を聞こうとしたところで、休眠を促すマシュの声に、問答は打ち切られた。鵠佑にわかった事は未だ少なく、自身の未熟さの他にない。それでも、受けた言葉を忘れぬように、胸の奥に刻もうとする。
押し寄せる睡魔に支配されて、鵠佑は大きな欠伸をひとつ漏らした。元より張り詰め消耗していた精神が、ふっと緩んだかのように。揺れる炎を見ていたはずが、すぐに寝息を立て始める。
その寝顔は、やはり年相応の少年のそれだと、この場の誰もが感じていた。
意識を手放したマスターを見つめながら、ようやくマシュは人心地をついた。先の戦いで半ばから折れてしまった樹木を腰掛けに、緩々と肺の中身を吐き出していく。
デミ・サーヴァントとなってから、休眠の必要はまるでなくなった。だからこそ、余計に自分たちに合わせようとする鵠佑を見て、マシュは胸の奥が痛む感覚に悩まされていた。
あの特異点を超えてから、可能な限り、マシュは鵠佑と共に訓練に励み続けている。自身の至らなさを認識している者同士、そうしなくてはならないという強迫観念のようなものを実感していた。そして、戦う力を持たない鵠佑こそが、特にその感覚が強いのも感じている。
昨日も、今日も、きっと明日も明後日も、恐らくはこの旅路が終わるまで。自分のマスターは無理をし過ぎているし、無理をし続けるに違いない。そして、その原因は自分の力不足に他ならない。
乱暴に掻き混ぜられたような、渦を巻く胸の中。そこに没頭していたせいか、マシュは名を呼ばれた事にすら気付けなかった。
「とっても難しいお顔ね、けれどいけないわ。せっかくの美人なんですもの、もっと笑いましょう!」
膝を折って目線を合わせるマリーの姿に、慌ててマシュは顔を上げた。謝ろうとするものの、マリーは笑顔でそれを制し、そのまま隣に腰掛けると穏やかな眼差しを向けて首を振った。
「マスターを心配しているのがね、なんとなくだけれど、わかるわ。それから、ふたりがとても頑張っているのも、わかってしまうの」
「………………はい。わたしは、その、サーヴァントとして、とても未熟です。だから、先輩の力になりたいのですが、まるで力になれなくて……」
「いいんじゃないかい、別に役に立たなくたって。僕なんか、さっきから何もせずに眺めているだけだよ? しかし、君のマスターは実に聡明だ。僕を前線に送り込まないのは、素晴らしい慧眼だと思わないか」
ふたりのやり取りに、アマデウスが茶々を入れる。窘めようとするマリーとの距離感が、マシュにはとても不思議なものに見えた。そして同時に、とても微笑ましいものにも見えて、くすと小さな笑いが漏れた。
「そう、それよマシュさん。その笑顔が、やっぱり一番素敵だわ!」
マリーに褒められて、マシュの頬が上気した。ほんのりと目尻を赤らめながら、小声でそうでしょうかと伺いを立て、マリーが満面の笑みで肯定する。ぱちぱちと焚火の爆ぜる音が、合いの手を入れるように時折響いた。
マシュがふたりの関係を尋ねると、アマデウスは簡潔に、マリーは楽しげに語り始める。お互いの会話に注釈を入れつつも、生前の、幼い頃の約束にまで話が及ぶと、アマデウスがお手上げの仕草を見せて降参した。
そんなやり取りが、外の世界を知らなかったマシュには、とても美しいものに見える。恋愛感情こそ失われていても、互いへ向けている好意は変わらない。親愛の情というものなのだろうかと、本で読んだ知識を元に、マシュはぼんやりと思案を巡らせた。
「あら、今度は私たちが悩ませてしまったかしら。困らせてしまって、ごめんなさいね」
「い、いいえ、困ってなんて! わたしはただ、その……おふたりが、素敵だなあと思ったんです。こう、温かい、と言いますか……」
自分の想像が間違っていないかは、わからない。それでも、マシュにとっては初めて見た仲良しのふたりというものが、不思議と心地良く感じられる。見ているだけでも口角が持ち上がる彼女たちの姿を、微笑ましいと呼ぶのだろうか。興味は尽きず、そして同時に、ほのかな憧れもあった。
他者と仲良くなるというのは素晴らしい事だと、いつかの無菌室でロマニが語ったのを思い出す。その時は額面通りに受け取っていたけれど、今のマシュには、彼の言葉の意味が心から理解できた。
王妃と音楽家の関係は、澄んだ水面のように綺麗で、きらきらと輝いている。まるで宝物のようで、愛おしさにも似た、胸が温かくなる感じがした。
自分をそこに置き換えて、マシュは少しだけ想像する。ちらと揺れた視線は、まだあどけなさの残る寝顔を自然と捉え、すぐに夜の闇へと向けられた。頬が熱くなったのを感じ、動悸を逃すように息を吐く。
その理由を未だ掴みきれないまま、何を話したら良いのだろうと、思考実験にも似た空想は繰り返される。綺麗な形にまとめるにはまだ経験が足りないと、マシュが認めるまで時間はかからなかった。
「ふふふ。その悩み顔は、なんだかとっても素敵に見えるわ! わたし、わかってしまったかもしれない。けれどきっと、これは、わたしが教えてはいけない事ね」
あなたが、自分自身で見つけなくてはいけない。優しく語りかけるマリーの顔は、年相応の少女のものではなく、慈愛に満ちた母親のそれだ。
不思議そうにするマシュに、考え込むマリー。そうねと呟きながら思案する表情を、無言のまま、それでもにこやかに見つめるアマデウス。
いつもなら入るであろう彼の横槍がなかった事が、きっと、マリーが大切な事を語ろうとしているからなのだと察するのは容易かった。自然と姿勢を正し、背筋を伸ばすマシュ。やがてマリーは笑顔を伴い、マシュの名前を一度だけ、呼んだ。
「辛い時こそ、苦しい時こそ、笑いましょう。素敵な女性の笑顔は、素敵な男性の支えになるの。あなたの笑顔が絶えてしまったら、皆が悲しくなってしまう。わたしも、そんなのは嫌だわ。だから、きっと、いつの日も笑っていてくださいね」