真白の壁に、真白の光。
生活感はまるでなく、寝台と、小さな棚がある程度。
唯一の住人である幼子は、外に出る事を知らず。定期的にやってくる白衣の者たちを、ただぼんやりと見上げるばかり。
互いの間に会話はなく、白衣はボイスレコーダーに何事かを吹き込む程度。注射針が皮膚を破る時も、幼子は声ひとつ漏らさなかった。
────と、白衣の声が静かに響く。名前ではなく番号で呼ばれる幼子は、投与された薬剤の効能で、次第に意識を途切れさせていく。
小さな口を開いて、あくびを一度。やがて眠りに落ちる子供を見やり、白衣は幾つかの記録を残していく。
鳥籠の中にも似た、冷たく無機質な無菌室。幼子が過ごすには歪に過ぎる、実験場の如き空間。唯一の生物も静かな寝息を立て、胎児のようにシーツの上で丸まっていた。
何もない。部屋の中には、およそ、人間らしさが存在しない。子供を育てる空間としては、何ひとつとして相応しくない。
そう認識した所で、何が変わるわけでもない。この、これは。誰が知る事もないこの光景は、所詮は、ただの夢でしかない。
だが。
こんな記憶は、自分にはない。こんな夢を見る事など、あるのだろうか。
不意に浮かんだ疑問に手を伸ばした所で、意識は現実へと浮上していった。
ただひとり、鳥籠で眠る、名もない幼子だけを置き去りにして。
朝の空気は、苔むした土の香りが入り混じる澄んだもの。
わずかな休眠から目覚めたマシュは、カルデアで味わう事のない空気を肺いっぱいに吸い込んで、その味わいに新鮮な驚きを感じていた。
木々の合間から差し込む陽の光は、さながらカーテンのように降り注ぐ。手を伸ばせば触れられそうな、そんな錯覚を覚えるほどに。
短い夢想から醒めて視線を巡らせれば、野営の痕跡を消す小太郎と、アマデウスと何かをやり取りしている鵠佑の姿が目に留まる。
「なるほど……うん、なんとなくわかってきた。オペラもまあ、似たようなものだからね。感情を揺さぶるのに音楽を使うのは、今も昔も変わらないなあ」
アマデウスは含み笑いを見せつつも、鼻歌を披露している最中だった、らしい。鵠佑が感心した様子で拍手を贈るのを、満足気に見下ろしていた。
「おはようございます、マスター、アマデウスさん。あの、おふたりは何をされていたのでしょう?」
声をかけられて、肩を跳ねさせる程に驚いたのは鵠佑だった。目尻をほんのりと染めつつ、しどろもどろで何事かを説明するものの、マシュには今ひとつ理解ができない。アマデウスは愉快そうに、そこに助け舟を出してみせた。
「いやね、僕の音楽を聴きたいと、マスターが言うのさ。やはり、彼はわかっている。音楽家というのは、魔物やサーヴァントと戦うものじゃないのだからね。こうして旅の慰みに、一曲奏でるのが本来の役割というやつさ」
もう少し練りたいからと付け加えて、アマデウスはその場を後にする。軽快な鼻歌はテンポが良い、マシュにとって心地の良い旋律だった。取り残された鵠佑が、照れ笑いを浮かべつつ黒い髪をかき混ぜる。
「うー、なんだか、恥ずかしくなるなあ。それよりも、おはよう、マシュ。よく眠れた、のかな……?」
「はい、問題ありません。サーヴァントとして起動しているせいか、数分ほどの休眠しか必要ないようです」
マシュの言葉に、安心したと鵠佑が呟きを漏らす。先に眠ってしまった事を詫びつつも、妙な夢を見ただとか、起きたら大きな虫がいただとか、他愛ない話を口にしては楽しそうに笑っていた。
そんな鵠佑の様子を見て、マシュもまた、安堵の気持ちに包まれる。慣れないレイシフト先の、異国の地。魔物や敵性サーヴァントに生命を狙われる中でも、彼が笑顔を絶やさずにいてくれるのが、心から嬉しいと感じていた。
「さて……準備が終わり次第、出発しようか。マルタさんが教えてくれた手掛かりを、無駄にしたくないものね」
そして同時に、この笑顔が消えてしまわないようにと、密やかに祈りもした。マルタが消え逝く様を、悲しげな瞳で見つめていた横顔が忘れられない。記憶を呼び起こす度に、胸の奥が締め付けられる気持ちになる。
「はい、わたしはいつでも万全です! リヨンまでの道中、先輩をしっかりとお護りします!」
ほんの少し前ならば、マシュは自分の感情に中てられて、沈んだ表情を見せていただろう。先輩と呼び慕う相手が、苦しんでいるのが見て取れる。そんな状況が、苦しくないはずがない。
けれど、だからこそ、マシュは笑った。今の自分にできる限りに、明るく、朗らかに。切なく、辛く、苦しく感じる時だからこそ、それを忘れようとするかの如く。
「あはは、今日も元気いっぱいだね。マシュが元気でいてくれると、ぼくも元気になれる気がする」
満面の笑みは、それこそ大輪の向日葵のように、見る者を勇気付ける力があった。異性を魅了するためではない、励まし、元気付けるための笑顔だった。
それを見て、ほんの僅かに言葉が止まるも、鵠佑の顔にも同じような笑顔が浮かんだ。お互いに、自分の笑顔にそんな力があるなどとはつゆ知らず。自分に向けられるその顔を、只々、尊く美しいものだと感じるばかり。
昨夜に聞いたマリーの言葉を、マシュはひとり思い出す。少しでも、僅かでも、マスターを支えられるのだとしたら。自分はどんな時でも、笑顔を絶やさないようにしよう。そう思うのに、時間も理由も必要がなかった。
どうか、願わくば。この旅路の終わりにも、この人が笑顔でありますように。ふたりの胸に浮かんだ思いは、奇しくも、同じもの。それを互いに知る事はなく、ただ胸の内に秘めておく。
馬車を見つけて来たと告げる牛若丸の声に、穏やかな時間に浸っていたのを実感して、ふたりは照れ臭そうに視線を逸らす。気恥ずかしさを隠すように鵠佑が駆け出すまで、さほど時間はかからなかった。
かつてのリヨンが如何なる街であったのか、鵠佑にはそれを知る術がない。力のない少年にできる事と言えば、生ける屍者が徘徊する廃墟に、かつての街並みを想像する程度だ。
煉瓦が崩れ、黒煙が上がり、どす黒い血痕が草木を濡らして染め上げる。戦さ場の臭いを知るジャンヌでさえも顔を顰めるほどの有様は、未だ若い少年少女の心をかき乱すのに十二分の力があった。
どれだけの虐殺が行われたかを知る術はなく、どれだけの外法が行われたかを知る術もない。
人であったはずのモノを屠り、蹴散らし、薙ぎ倒して、自らの目的の為に踏み躙る。絶望のような暴力に晒された被害者たちを、尚も残酷に苛んで。
折れそうになる心を、奥歯を噛み締めて押し留める。ただ一点。導きの御旗を掲げ、死地を突き進む女性を見つめ、溢れそうになる全てを押し留める。
棄てられ、裏切られたにも関わらず、皆を救おうとするその姿。ジャンヌこそは頑なに認めようとしないが、こうして共に旅をして鵠佑は理解する。彼女の姿は、まさしく人を導く聖女のそれだと。あるいは、それこそ
その姿が美しいから、子供のような憧れを抱いた。自分もあんな風になりたいと、彼女のようにならなくてはならないと。いつかの幼い頃、ブラウン管の向こう側に見つめていた、存在しない英雄を見るように。今はただ、その背中を追いかける。
そうやって、無我夢中で足を前に出していく。鵠佑にできる事は、それ以外に何もなかった。
目を背けるのも、憐れむのも、何かが違う。そんな曖昧な、感覚的なものでしかないが、無知だった少年は被害者の死を受け止めようと考える。
目の前まで差し迫っている危機にも逃げ出さず、ただ、声の限りに叫んだ。死臭と腐臭に満ちたこの街で、壊れたように歌い続ける怪人を、真正面から見据えながら。
敵を倒し、道を拓いて。自分の心に負けないように、拳を固く握り締めて。追い詰められた怪人を、真正面から見据えながら。
少年の願いを受けて、胤舜が駆ける。崩れた壁を足場に使い、敵の霊核を穿たんと。放たれる刺突を掻い潜るその姿を捉えるのは、十重二十重の苦無の颶風。振るおうとした爪を弾かれ、怪人はたたらを踏んで後退った。
踏み出すのは、ジャンヌ。豊かな髪を揺らめかせ、力強く地を踏みしめて。手にした旗を突き立てるように、鋭い呼気を叫びと変えて。抉り、鋭く、鋼のように。
「もう時間がないぞ、急いでくれ! その先の廃城だ、サーヴァント反応はそこから辛うじて確認できる!」
深々と身を貫いた旗を引き抜きながら、敵であったサーヴァントにさえ、ジャンヌは安らぎを祈る。囁きめいた言葉をかき消すのは、ロマニの通信だ。
先程から、このリヨンに向かっているという超極大の生命反応。逃げるべきだとロマニは警告し、消え逝く怪人もまた、それと同じ事を告げた。世界の果てまで逃げたなら、生き延びられるかもしれないと。
それは恐らく正しくて、そうすべきなのだと鵠佑も思う。そして同時に、そうしてはならないとも。
今ここで逃げたなら、竜殺しは二度と見つけられなくなる。きっと、それこそが破滅の引金だ。考え、決断を下すのに戸惑いはなかった。
「行こう、今ならまだ間に合う! 城にはジャンヌさんとマシュのふたりで、他の皆は退路の確保をお願いします!」
指示を出すと言うほどの、大それた事は何もしていない。ロマニの探知した竜殺しの反応は弱々しく、きっとそれは怪我のせいだろうと推察するのは容易い。それならば、護り抜けるふたりの力が必要になると考えた末の人選だ。
ジャンヌとマシュの力強い返事を受けながら、鵠佑は真っ先に、砕けた石畳を駆け抜ける。急かす声を聞きつつ、人気の失せた廃城の中へ。未だ活動を続ける屍人を屠る、戦いの音を背に受けながら。
「先輩、後ろへ! まだ、安全とは限りません!」
鋭く踏み出したマシュが、崩れ落ちた天井の瓦礫を弾き飛ばす。盾に砕かれた石飛礫が壁面を削り、がらがらと大きな音を立てた。鵠佑が感謝の言葉を述べようとした所で、マシュの瞳は既に、次の脅威を捉えていた。
柱の陰から躍り出た、何か。身の丈ほどもある大剣が振り下ろされるも、肩で支えた盾を打ち付け、全身で受け止める。想像とは異なる衝撃の軽さにマシュの顔へ驚きの色が浮かんだところで、制止を呼びかけるジャンヌの声が廃墟の内に響いて消えた。
よろめく巨躯を支えようと鵠佑が手を伸ばし、ジャンヌもまた同じように動いていた。全身に深手を負いながら、尚も自力で立とうとする男は、両者の支えを固辞するように片手を持ち上げる。大丈夫だと、静かな声がそう告げた。
「なるほど、確かに敵ではなさそうだ。不意打ちをするような真似をして、すまない」
言いながらも、男は──
眼前の人の痛みを和らげる事すら叶わない無力さに、鵠佑の眉がわずかに落ちる。それもすぐにかき消して、肩を貸すようにジークフリートへ身を寄せた。頭ひとつ分の差を持つ巨躯を支え、小さく一度息を吐く。
「マシュ、ジャンヌさん、先に皆の所へ! あの、ぼくが支えます、肩を貸しますから。あなたの力が必要なんです、どうか、一緒に来てください!」
先に駆け出したふたりを追うようにして、一歩。小さな呻き声を聞きながら、体重を支えて力強く踏み出してゆく。見下ろすような背丈の少年に支えられて、ジークフリートがささやかな笑みを浮かべた。
「……君は力強いな、重たいだろうに」
言いながらも、歩調を合わせてジークフリートも前を見やる。魔力も既に限界まで目減りしているのを感じながら、せめて情けない姿など見せまいと、痛む身体に鞭を打ち、強く歯を食いしばった。
声をかけられた鵠佑は、上目に長身の英霊を見つめながら、大丈夫ですと力強く頷いてみせる。事実、魔術礼装での筋力強化があるおかげで、相応の質量を持つであろうジークフリートを支えるのも無理はなかった。
それにと付け加えながら、鵠佑は今日までのカルデアでの日々を思い返す。ただひたすらに、闇雲に、無我夢中だった日々を。走り込み、錘を持ち上げ、身体を動かし続けた日々を。
自分のやってきた事は、無駄ではなかった。目に見える進歩など数える程もないけれど、こうして、誰かを支えられるだけの力を手にしている。それが密やかに誇らしく、そして嬉しかった。
「鍛えてますから」
だからこそ、ほんの少しだけ自慢気に。子供の顔で鵠佑は短く告げて、崩れた城門を潜る。城壁の何処かが倒壊する音を耳の端に留め、額の汗を拭おうとしたところで、突如巻き起こった突風に思わず腕で顔を覆った。
「……何を見つけたかと思えば、瀕死のサーヴァント一騎ですか」
呆れと嘲りの入り混じった声は、ふたりの頭上から降り注ぐよう。聞き慣れ始めたジャンヌの声と、全く同じはずのそれが、何故か酷く腹立たしいと鵠佑は思う。
天から舞い降りた強大な竜の姿を見上げて、その場の誰もが息を飲み、拳を握り締めていた。カルデアでモニタリングしているロマニでさえ、ひと時、言葉を発するのを忘れるほどに。
ファヴニール。ワイバーンとは比べものにならない、規格外の生命体。真の竜種を駆り、黒い聖女がケタケタと哄笑する。滅びを命じるその声は、万物を見下ろすその瞳は、至極、どこまでも楽しげなものだった。
雷光のように蘇るのは、生前の記憶だ。
この力を以って、せめて救える人を救おうと。頼まれた願いを引き受けて、それだけのために生きた。善悪の区別なく、それこそ、願望機のように。
それをなぞるのであれば、なるほど、彼は確かに俺に頼んだ。一緒に来て欲しいと、この有様の俺を見て、それでも真っ直ぐに願ってくれた。ならば、その願いを叶えるのは、きっと道理なのだろう。
そして同時に、いつかのあの日の、最期の願いもまた閃光のように蘇る。この胸に抱いた、小さな、ひとひらの、俺だけの願い。
呪いの痛みは深部に至り、魔力もとうに枯れ果てて、きっとこの俺は消えるのだろう。そう自覚してから鈍化していた、ささやかな願い。それを揺り動かされ、心に熱がともる感覚があった。
どうして消えなかったのかは、わからない。だが、きっと。きっとこの身は、この時のため、この地に踏み留まっていたのだろう。そうであって欲しいと、胸の内の熱が言う。
天を舞うのは、懐かしい邪竜。アレが喚ばれたのだとすれば、俺が喚ばれるのは必然だ。
名も知らぬ少年は、必死にサーヴァントたちへ指示を飛ばす。盾持ちの少女と、旗持ちの──頭上のアレとはまた異なるジャンヌ・ダルクが、宝具の真名を解放した。
城塞を飲み込む竜の炎を受け止めて、ふたりは尚も、逃げ出さずに立ち向かう。己がマスターを、己が仲間を、そしてこの俺を護ろうとして。数多の英雄を殺戮した邪竜を前に、退く素振りも見せないで。
ああ、そうだ。この、これだ。俺は、こういうものに、なりたかったのだ。
失われていた指先に、力が宿るのを感じる。剣を握るこの手に、もう一度、血が通うのを感じる。
頼まれたから、願われたから。だから、彼を救うために応える。それも確かに、俺と言う存在にとっては道理ではある。生前の俺の生涯は、そういうものだったから。
だが、今は。サーヴァントとなった、生涯を見渡して、死に際の願いさえも知っている今ならば。
「あなたの力が必要なんです」
そう、頼むよりも先に、この少年は言った。俺を必要として、真っ直ぐに見つめながら。世界を救うなどと、夢物語にも等しい思いを、その小さな身体に背負って。
だからこそ、死の間際、ようやく抱いた願いを思い出した。
誰でもない、俺自身の思いで、そういう者の力になりたい。この少年を助けるような、正義の味方になりたい。
否──なるのであれば、それは、今だ。
ほんのひと呼吸、それだけあれば十二分。踏み出す脚の隅々まで、しっかりと感覚がある。身を蝕む痛みより、清々しい、澄んだ思いが優っている。
名乗りを上げた、いつかのように。晴天に君臨する、忌むべき者に向けて。ああ、とても、とても、胸が踊る。
全力には、程遠いかもしれない。だが、わかる。我が名を聞いたファヴニールが、怯え、慄いているのが伝わってくる。
不思議と、口元に笑みが浮かんでいた。戦いを楽しいと思った事などまるでない。ならば、これはきっと喜びだ。闘争でも、勝利でも、殺戮でもない。
名も知れぬ少年を救う、俺自身の願いへの喜びなのだ。
「──邪竜、滅ぶべし!」
大空は、何処までも青く。この心のように、何処までも晴れ渡っていた。
その一撃は、大地に在りながらも空を破り、巨大な翼を斬り飛ばしたとも。
鋼を砕く竜の鱗を貫き穿ち、薄絹の如く引き裂いたとも。
大樹もかくやと言う太首を、花を手折るように刎ね飛ばしたとも。
あるいは、それこそ一太刀で、巨大な竜を両断したとも伝えられる。
その全ての伝承が、事実であったのかもしれない。そう、鵠佑に感じさせるに足る一撃であった。
魔剣の煌めきを見て、ファヴニールが怯える悲鳴をあげた。逃げるように翼を広げるその様は、天地万物の支配者ではない、一個の生命体のそれだ。
決して勝てぬ、決して抗えぬ災厄ではない、生命が惜しいと怯えて逃げる、殺す事の叶う生物だった。このフランスを救えると、そう確信させる希望の光にも似た光景だった。
炸裂音が響き渡り、猛烈な勢いで濃密な煙が巻き起こる。喉に引っかかるような饐えた匂いは、火薬を燃したそれに似ている。咳き込む鵠佑にジークフリートが無事を問い、小太郎の声が背後からそれに続く。
「主殿、直に牛若丸が戻ります故、撤退を!」
そこでようやく、鵠佑は周囲のそれが煙玉によるものだと認識した。ほんのひと時の気休め、あるいは無意味か否かもわからないが、小太郎の判断力には確かな心強さがあった。
「皆、後退してください! アレが降りてくる前に、距離を取って!」
故に、鵠佑は小太郎の言葉を素直に受け取り、指示を飛ばす。どれだけ自分を高く見積もったところで、戦場での判断能力がサーヴァントに勝っているとは思わなかった。その性分が小太郎の言う仕えやすさであると、本人は知る由もなかったが。
上空のファヴニールは、ジークフリートの魔剣を警戒して未だに高度を下げようとはしない。竜の魔女を名乗るジャンヌが、苛立ちを乗せた声で怒号を飛ばす。それに押されるようにして、ワイバーンたちが次第に旋回を始め、緩やかに地上を目指し始めた。まるで、死体を啄むハゲタカのように。
だが、彼らの牙が獲物の骨肉を喰い千切るよりも、溌剌とした牛若丸の声が響く方がずっと早い。
「主殿ー、お待たせしました! さあさ各々方、お乗り召されよっ!」
遠雷のような蹄の音を伴って、軍用であろう大型の幌馬車を操り、牛若丸が街の外から高らかに。太い脚が石畳を蹴り進む音は、馬たちが近付くにつれて地響きにも似たそれへと変わっていく。
「そうらお前たち、回れ右っ!」
号令と共に手綱を引いて、牛若丸が高らかに笑う。慣性を巧みに扱って大きく車体を旋回させるその様は、まるで映画の中だと思わせるのに十二分の、人間離れした光景だった。
騎兵の名をまざまざと見せつけられたようで、思わず鵠佑はその場で自分の目を擦っていた。それも、甲高い
「凄いね、今の。映画のドリフトみたいだった!」
「ははっ、この程度の芸当であれば、幾らでもお見せ仕りましょう。ほら、なにせ私、天才ですから」
涼やかな笑みと、淀みない言葉。その絶対の自信を頼もしく感じつつ、邪竜を退けたジークフリートへと今一度、鵠佑は肩を貸した。駆け寄ってきたジャンヌが反対側を支え、マシュが他のサーヴァントたちを誘導する。
煙幕が薄れ始めるよりも先に、牛若丸の鋭い声と鞭の音が響く。乗り心地はお世辞にも良いとは言えなかったが、誰ひとりとして欠ける事なくリヨンを出発できたのは、鵠佑にとっては嬉しい事だった。
「さあて行くぞ、今日は息が切れるまで駆け抜けよ! 脚を止めれば、たちまち竜に喰われるぞ!」
まるで、牛若丸の命令に返答するように、馬たちの足並みが激しさを増す。破れた幌が風に煽られはためいて、どれだけの速度を出しているのかを見せつけるよう。一糸乱れぬ足音は、四頭立てという事を忘れさせた。
激しく上下に揺れる車体は、ぎしぎしと軋む音こそ立てるが、頑強さを感じさせる造りをしていた。頭上の骨組みから垂れ下がる吊革が、上下左右に激しく踊る。そのひとつを掴み、鵠佑は遠ざかるリヨンの街へと視線を向けた。
ちょうどその時、ワイバーンの群が煙幕を羽ばたきで搔き消しながら姿を現した。ふむと小さな呟きは、胤舜のもの。乗り口から後方を一瞥すると、槍を担ぎ立ち上がる。
「これは、ふむ。揺れる上に足場も悪い、ひとつ、技が試せるというものか」
言葉は軽く、声も柔い。その目はいつもと変わらずに、凪いだ水面の静けさと、刃の如き鋭さの同居する武人のもの。言葉の裏側を見た上で、鵠佑はそっと頷いた。
「大変だとわかってますけれど……ワイバーン、お願いします!」
「ああっ、ずるいですよ胤舜殿! 牛若も、竜狩りは試してみたい!」
手綱を操りながら、牛若丸が拗ねたように叫ぶ。予想外の言葉に鵠佑が笑うのと同時に、胤舜は車内から姿を消していた。幌ではなく、その骨の上。ごく僅かな足場を頼りに、追撃者の姿を見やって不敵に笑う。
「拙僧は、馬を駆る事に慣れておらぬからなあ。ここはお役目と諦めて貰うぞ、牛若丸!」
馬車の中の鵠佑は、ふたりのやり取りを耳に挟みつつ、思ったよりも近付いていたワイバーンの咆哮に一度だけ肩を竦ませた。声の圧力に負けないように、迫るその姿を真っ直ぐに睨みつける。
視界の怪物が上昇し、幌に遮られて姿が消えた。攻撃の瞬間を予感しつつも、内心の恐怖や不安は、未だ薄いままだった。それ程までに、鵠佑は信頼している。自分に力を貸してくれる、サーヴァントという存在を。
薄い幌の向こう側、肉を穿つ一撃を、音だけで聞く。アマデウスが口笛を吹き、感嘆の声を漏らした。同時に心臓を穿たれた亡骸が石畳へと墜落し、塵に還って消えていく。
次々と咆哮が轟き、羽ばたきの音が増していく。そしてまた、振るわれる槍が肉を割いて上げさせる、断末魔の叫びもまた同様に。
このままなら、無事に撤退できる。マシュの言葉に頷きつつ、鵠佑が思案を巡らせるのはジークフリートの容態だった。
ジャンヌが言うには、彼は強力な呪詛に侵されている。解呪の手段は、聖人を探す他にない。フランス中を巡る事にはなるが、そうするのが最短の近道なのもわかっていた。ひとまず安全なところまで後退した上で、この先の行動を考えよう。
拙いなりに思案に耽り、だからこそ鵠佑は見逃した。追撃するワイバーンの数頭が、突如として進路を変えた事も、その行先にフランス軍がいた事も。
真っ先に気付いたのは、ジャンヌだった。揺れる馬車の中、離れていく戦場を真っ直ぐに見つめ、ほんの一拍。肩越しに振り返ると、困ったような笑みを鵠佑へ向ける。そこでようやく、鵠佑も彼女が何を見ていたのかに気付いた。
「……申し訳ありません、マスター。私は、彼らを見殺しにする事ができない。すぐに追いつきます、皆様は先に!」
床板を蹴って、ジャンヌが跳ぶ。金色の三つ編みが揺らめいて、その身が石畳の上を転がりながら、見る間に遠ざかっていく。手を伸ばしても届かない位置に、瞬きひとつの間に離れていく。
思考に要した時間は、短い。突然の出来事に目を見開いたマシュを振り返って、鵠佑は笑った。
「頼みがあるんだ、マシュ。君が、ぼくらの守りの要だ。すぐに帰るから、それまで皆を守って欲しい」
「──っ、先輩、待って!」
言葉の意味を解したマシュが手を伸ばすも、指先が空を切る。乗り口の縁を足場にして、鵠佑もまた飛んでいた。全く同時に、影のように、もうひとり。赤い髪を揺らしながら、小太郎がそれに続いた。
石畳に打ち付けられる痛みを覚悟していた鵠佑を、容易く受け止め抱えたままで、風のように小太郎が駆ける。驚きに何かを言いかける若い主人へ、風魔忍軍の頭目は、柔い笑みを投げかけた。
「飛び出したのがジャンヌ殿でなくても、きっと、主殿はこうしたでしょうね。僕も、貴方の事がわかってきました。そうした主君に仕えられるのは、心地良いものです」
すぐに追いつきます故と、それだけ付け加えて石畳を強く蹴る小太郎。一足の運びが加速を重ね、馬車が見えなくなるまであっという間。先を行くジャンヌに襲いかかっていた翼竜の眼球を目掛け、弾丸めいた速度で苦無が疾る。
痛みと驚きで動きを止めた刹那、頭蓋を砕くのは鎖分銅。首に巻きつけ強く引き、自由を阻害。ジャンヌの旗がその身を穿ち、見事な連携で一匹目を仕留めてみせた。
「ふたりとも、急いで! 向こうもサーヴァントを出したみたいだ、急がないと追いつかれる!」
地面に降ろされた鵠佑もまた、周囲を見渡し、叫んだ。ロマニからの通信を中継しつつ、追いつかれてはいない事に安堵する。ワイバーンたちの断末魔を聞きながら、目指す先のフランス軍へと、最初の一歩を踏み出した。