グラりと足元が歪んだ気がした。それにより崩れ落ちるように倒れて行く体に対して、私は何かを考えるより先に腹部を守るように受身を取っていた。
その理由はその時は分からなくて、ただ、左肩に入れてあるエースのマークが燃えるように熱く感じたのは覚えている。倒れてる私を見付けたのはビスタさんでマルコを呼ぶ声で、意識が戻りそれを止めようとした。
けれども兄弟や姉妹の事になると理性を簡単に捨ててしまう兄を止める事は出来ず、止めそこねてしまう。それにより文字通り飛んで来たマルコに、問答無用で抱き上げられた。
その腕に縋るように自分の手を伸ばして、大丈夫ですからと繰り返せば咎めるような視線が私に降って来た。それに肩を竦めれば、その隙に診察室へと運ばれてしまう。
それは不味い気がして、大丈夫だと繰り返す私にマルコの気配が次第に剣呑なものに変わって行く。それでも、私は今診て貰う訳にはいかないと何となく分かってる。
最近の体調を思い、先程のそれを思えば、そして無意識で庇った腹部。そうなれば答えなんてひとつしか無い。
「軽い目眩です。恐らくは睡眠不足からく「ナミはいつから医者になった?」」
低いその声に体がビクリと震える。……これ、本気で怒ってるわ。
それに威圧されて降ろされた診察用のベッドで小さくなれば、上司の顔ではなく兄の顔になったマルコに頭を撫でられてしまう。私……でも……。
「何を隠してる?」
「マルコ……私、モビーから、降りたくない……」
「ん?」
何言ってんだコイツって顔で私を見てから、私の額に触れると少し真剣な顔になり近くの椅子に腰を降ろした。そして足を組みながら、じっと私を見て溜息を落とす。
どうやら大体の所を理解してくれたらしい。泣きそうになって見詰めると、天井しか無い筈の空を見上げて無意味な声を音として響かせる。
「あー……。うー……。あー……」
明らかに発声練習とかではなさそうなそれに、困らせてすみませんと内心で謝罪しつつ、泣きそうになるのを抑える。そんな私にマルコが言う。
「親父に相談してみるから……1人で抱えるなよぃ。それで、<ruby><rb>相手</rb><rp>(</rp><rt>あの馬鹿</rt><rp>)</rp></ruby>は知ってるのか?」
「私も、さっき倒れた時気付いたので……」
「なら、表向きは暫く貧血って事にしとくから、少し寝てろぃ」
「え?私貧血持ってな「不摂食に不眠気味な勢いでの過重労働。いつ貧血や他の症状が出ても誰も不思議には思わねェよぃ」」
「うぐっ……!で、でもちゃんと食事し「果物は食事じゃねェからなぃ?」」
「なんですって!?」
言葉を重ねるように遮られながらの会話の中で、驚きを示せばマルコが数秒固まり、微かに震える声で疑問を呈して来た。それに私は素直に頷く。
「……まさか、食事に〝蜜柑〟を含んでたのかよぃ?」
「うん」
そうしたら何故か頭にチョップが降ってきて、それにより蹲ると呆れた視線が私を貫いた。そして、貧血でいいなと呟きながら部屋を出て行く背中を無言で見送る。
それからよいしょっと体を起こして、足早に部屋へと戻ると荷物を纏めて行く。モビーから離れるのは嫌だけど、大切な〝家族〟に迷惑をかけるのはもっと嫌なのよ。
エースは実の父親を憎んでる。その中でそれと同じ父親と呼ばれる存在になる事を、是とはしない可能性が高い。
私は望まれて産まれてきたのかは分からないけど、愛されて育って来た。それだけは自信を持って言える。
だからこそ、この子が親に疎まれる可能性のある今……傍には居られない。私は実子を厭うエースを見るのも、疎まれる子の姿を見るのも嫌なのよ。
私にこの子と会わないなんて選択肢は無くて、だからこそ色々な観点からここには居られないと決断を下す。……皆を愛してるわ、だから、傍には居られない。
護られて、庇われて、皆が傷つく姿を見ながら居るくらいなら……1人で育ててみせるわ。日本と違って母子家庭手当とか幼児教育無料とか、そんなものは無いけど……それでも執筆しながら、それで育てる事は出来ると思ってる。
頼れる人は居ない。誰かを頼れば、そこから見付かってしまうから。
ベルメールさんやノジコ、ドクターとゲンさんが脳裏で優しく名を呼んでくれた。それに首を横に振り荷物を肩に掛けてから、クリマタクトを手に姿を消す。
買い出し船の1つを拝借して、それに飛び乗ると船を同じように消して離れて行く。少し離れてモビーを見上げれば、愛しさに胸が微かに痛んだけど……大丈夫、ある程度大きくなったら手紙で様子伺って、大丈夫ってなったら帰って来るから。
それ迄は……さようなら。私のもう1つの愛しい家族。
脳裏でシャンクスが頼って来いと笑うけど、頼ればすぐにバレると分かっていて頼る馬鹿は居ない。白髭の縄張り内ではそれこそすぐに連絡行っちゃうし……どうしよう。
シャンクスから聞いて来たって言って、レイリーさんを頼ってみようかな。奥さんのシャクヤクさんが居るから、少々治安が悪くても寧ろシャボンディ諸島は安全かも知れないし。
問題はここからそこへ向かうには、魚人島を超えなくてはならなくて、その場合……報告が行くだろうって所かしらね。どうしたものかしらと考えながら、とりあえず針の揺れ具合が大人しい島を目指して進む。
そうして視線の先に、シャンクス達の縄張りに該当する無人島が見えて来た。……何か問題が起きても、シャンクスなら許してくれるでしょと、少し縄張り内のその島へお邪魔しようと決める。
岩陰に船を泊めて、少しその船の中で丸くなって身体を休めると波の揺れにより眠気が誘発される。驚かせてしまったかなと、手紙の1枚も残さずに飛び出して来た事を微かに悔やむ。
でも、探さないでくださいって残したら本気で探されそうだし、見付かると騒がれそうだもの、仕方ないわよね。そうして私は身体から力を抜くと、直後に緩やかに眠りへと入っていった。
その内誰かに抱き上げられたのを感じて……。でも眠くて……慣れた温もりと香りに甘えるように抱き着いてしまう。
「……こんな風に甘えられたら、怒る事もできねェな」
「だから、怒らねェって約束でお兄ちゃんが頑張って探してやったんだろ。連れ帰るぞ、起きると騒ぐだろうからな」
聞き慣れた愛しい声が聞こえて、私の意識はゆっくりと浮上する。だってね、エースの声とサッチの声に思えたから。
「ん……えーす、すき。さっちも、いる?」
「こりゃ、随分寝惚けてんな」
サッチの楽しそうな声が聞こえて、私を抱いてる腕に力が入ったのが分かる。それにより意識が1気に覚醒し、自分を抱いてるのがエースだと理解すれば慌ててその腕から逃れようと足掻くけど、純粋に筋肉での戦いになれば私に勝ち目なんてある筈も無い。
でも、私、それならここに来た意味が無くなっちゃうもの。エースに疎まれるのは嫌だし、皆の足手纏いになりたくない!
それに今、寝惚けてなんか言った気がするし……!もうヤダ、離してー!
「エース、離して!」
「離したら逃げるだろ。分かってて離すかよ」
「私、帰らないから!」
「……帰らない、か」
何故か少し楽しそうに笑ったエースに首を傾げると、サッチまで嬉しそうに笑う。それに対して質問しようと唇を開いたらエースのそれが降って来て、当然のように口内を蹂躙される。
「はっ……エースッ!んっ……!」
逃げる事も話をする事も許されず、角度を変える度に深くなって行くそれは獣じみたディープキス。噛み合う唇が鳴らす粘着質な音が、羞恥を煽る。
「やっ!めて!」
全力でエースの顔を押してその唇を両手で抑え込めばエースが抑えている私の掌を舐めるので、ビクリと身体が反応してしまう。それにエースの瞳が確かに笑った。
「優しいサッチ兄ちゃんも、そろそろ見てらんないから、エースそろそろ辞めてやれよ」
「サッチィー!」
「よしよし、ナミは可愛いな。んで、俺達の迷惑になるだろうって逃げた事に間違いは?」
ここで嘘ついても無駄なのはわかり切ってるから、私は仕方ないかと溜息を落とす。そして、1度強く眼を閉じてから、覚悟を決めてサッチに視線を向けて正直に頷く。
「ありません」
「エースに、話してやれよ。理由も知らずにナミが突然消えたんだ。この馬鹿がどんな暴れ方したか考えてくれよ。寧ろそれが1番迷惑だ」
言われてみればその通りで、本気でごめんなさいと頭を下げていた。そんな私の頭を撫でてからゆっくり話し合えと言われては、黙ってばかりも居られない。
「エース、あのね」
「ん」
「私、船を降りないといけなくなって……お別れ言うのつらくて……」
「それで?」
「逃げ出したの」
「逃げんなって、何度も言ったろ。マジで犯り殺すぞ」
低く唸るように言われれば体がビクリと震えて、縋るようにエースに視線を向けてしまう。それにエースは困ったように笑うと、ゆっくりと静かな声で言葉を紡ぐ。
「ナミは〝帰らない〟って言ったろ。それは〝帰る〟場所が俺達の所だって認めてるって意味だから、正直嬉しい。でもよ、だからこそ分からねェんだ」
「え?」
「なんで、俺を連れて行こうとしなかったんだよ。船を降ろされるって言うなら、俺も連れて行けばいい。ナミとなら、いくらでもやり直せるぞ俺は」
真剣な表情に、真摯な眼差しに、私は何を返せるかな。私、エースが愛しいけど、だからこそ怖いの。
でも、ならば追いかけて来ないように、告げてしまおう。まだ産まれてない今なら、拒絶されてもこの子は傷付かないもの。
「エース……私……エースとの、子供がね、出来たの」
「……は?」
「だから……!1人で育てるつもりで……!「それこそ、俺を連れてけよ。出来るように抱いてんだから、できるの待ってたのに何してんの?」」
重ねるように言われた言葉に、今度は私がへ?と言う番だ。わざと……だった?
「俺は、ナミと本当に家族になりたかったんだよ。俺もナミも〝血縁〟には縁遠いから、欲しかった」
「でも、エースは〝父親〟に……」
戸惑う私にエースは成程なんて笑うと、そっと額にキスをしてから言う。困ったような空気を纏って。
「俺は確かに血縁の父親は邪魔だし……寧ろ憎い。でもよ、それよりずっとデカくて優しくて、暖かい親父がいる。俺も、そんな親父になりたいと思ってるんだ」
「エース……!」
泣きながら強くエースの首に抱きつけば、エースは私を抱き締めるその腕に力を強めた。そして、その状態で微かに震える声を届けてくれる。
「親父にも、兄貴達にも、俺が頼むからさ。1緒に生きよう。1人で抱え込まないでくれよ。……俺も、ちゃんとナミに話してなかったから悪かったけど、俺をもう……独りにしないでくれ」
それにありがとうと、ごめんなさいを繰り返しながら私は涙を流していた。こんな会話は、それこそ帰ってみれば杞憂以外の何ものでもない。
伯父と伯母を名乗る大人数の家族。そこに混ざって、とうとう俺もお爺ちゃんかと嬉しそうに笑う親父様に囲まれる未来が待っている事を、私達は理解して居なかった。
無事に産まれる保証もないのに、性別もわからない内から揃えられるベビー用品に、エースが辞めろと叫ぶ。そんな未来が待っている事を、私もエースも分かっては居なかったのだ。