冗談でしょうと、私は無言で頭を抱えた。最初は、遅れてるから次に来るのが重くなるだろうなって言う感覚で……その可能性を欠片も考えなかったのだ。
体調には特に変化も無くて、変な気候が続くのがこの海の普通だから、それのせいだろうって……思い込んでいた。それに、安定期に入る前なのに飛んだり跳ねたりは当たり前で、求められると拒めない生活が続いていて……。
もしそうだったとしても、無事に育つなんて思う筈も無かったと言うのが本音。初期なら気付かないままに喪われるなんてのは、よくある事だもの。
だけど漸くその現実を受け入れたのが今。それは久々の陸で1人優雅に美味しい物をと思った矢先に来た、過去に経験の無い吐き気。
数えてみればもう、4ヶ月は来てない。お腹は目立ってないけど……。
今回だけでこの症状が落ち着くならば良いけれど、違うならば確実に……。誰に気付かれなくても、少なくともベックには気付かれる。
そうなれば考えるまでも無く、私は船を降ろされる。私やこの子の命を案じて、そう決断するしか無いだろう。
産むなと言うとは思えないわ。あの船の人達は総じて子供が好きだもの。
でも、自衛の出来ない対象者を乗せる事もしないと分かっているから……。こぼれそうになる涙を堪えて、私は息を吐き出した。
レストランで注文した食事は、もう食べられそうもない。言うなら、早い方がいい。
この島は比較的気候も治安も安定してるから、ここで話せば恐らくはこの島に残されるだろう。荷物も多いのだから、早く纏めてしまわなくてはならない。
……でも、離れたくない、な。
離れたくない気持ちと、この子に逢いたい気持ちを天秤に掛けたら、逢いたい気持ちが勝っているのは分かる。けど、1人残される事に不安が無い訳でもない。
せめて、ベルメールさんの所へ帰らせて貰えたりしないかなと、甘えが頭を擡げる。ベルメールさんの所なら、ドクターも居るし、ノジコも支えてくれるだろう。
強くならないといけないのに、私は弱くなってる気がする。よく、女は弱く母は強いなんて聞くけど、私はまだ女なのだろうか……だから、こんなにも弱いのだろうか。
船に帰る気にならなくて1人でフラフラと歩いていたら、突然腕を掴まれてその犯人を見上げる。突然腕を掴んでおきながら、犯人は眉間に皺を寄せていた。
「ナミ、どうした。お前なら躱せただろう」
躱す事を前提に掴もうとしないでほしい。とか言ったら怒られるだろうか。
「……ベック、ごめん。なんか調子悪くて。シャンクスの居場所わかる?」
「相当だな、ナミから体調が悪いなんて言葉、初めて聞いたぞ」
「体調が悪いんじゃなくて、調子が悪いだけで」
「同じ事だ。案内してやるから大人しくついてこい」
そう言って歩き出すベックについて行こうとするけど、バランスを崩して倒れそうになる。咄嗟に受け身を取ろうとした私を、ベックが支えてそのままの勢いで抱き上げるから、何事かとその顔を見る。
「……大人しくしていろ」
ベックから言われれば、私も大人しくするしかない。シャンクスには甘く、ベックには懐いてると言われる事の多い私だけど、私はベックに怯えてシャンクスに懐いてるのだと思ってる。
ベックは怒らせたらいけない人。本当に怖いんだから。
運ばれた先は船じゃなくて居酒屋で、私を抱いたまま入るベックに羞恥心は無いらしいと知った。視線が突き刺さるけど、ベックは気にした様子もなくシャンクスの元へ向かい、当然のように私をシャンクスの膝に落とした。
咄嗟に受け身を取った私をベックが何故か凝視していたけど、なんだと言うのか。シャンクスはシャンクスで、不思議そうに私とベックを見比べている。
「お頭、俺は言った筈だ。ナミの体力や体調を考えろと」
「……ベック、何かあったのか?」
怒り心頭な様子のベックがシャンクスを睨むので、シャンクスの膝に落ち着いている私までその冷気に包まれる。なのにシャンクスは、本当に分かりませんと言うような様子を見せてベックの怒りを煽ってしまう。
「ナミがフラフラと歩いていたから話を聞いたら『調子が悪い』と言われて、その後倒れそうになった。あれほど無理はさせるなと言ったのに……」
「お前はナミの親か。これに関しては、恋人たる俺にすべての……」
シャンクスの言葉は途中で止まった。ベックが微笑みを浮かべた事により。
シャンクスは即座に私を抱いて立ち上がると、そそくさと移動しようとしてベックに肩を掴まれている。本気で逃げれば逃げられるだろうけど、逃げたら後が怖い。
そんな雰囲気を感じて、私まで小さくなる。怒られるのは私じゃないのに。
「……恋人が、聞いて呆れる。ナミがうちの掌中の珠だって事は、お頭が1番よく分かってるんじゃねェのか?」
ベックはふうと煙と共に溜息を落として、シャンクスは元いた椅子に腰掛ける。私はベックが怖くて、シャンクスに抱きつく事でせめて視界にベックの微笑みが入らないようにしていたら、ベックから声をかけられてしまった。
「お頭に話があったんだろう。体調が悪くても、話しておかないといけないような事が」
……気付かれてる?
そう思ったら、肩が勝手にビクリと反応してしまい、疚しい事があると、告白したような形になってしまう。どうしよう。
「……ナミ、確かに少し熱いな。どうした?」
シャンクスまでそんな事を言うから、私はシャンクスの肩に顔を埋めて小さく呼吸を繰り返した。それを擽ったそうにしていたシャンクスだけと、嫌がらないからそれに甘えて少し気持ちを落ち着ける。
私が顔をあげると優しい瞳とかち合ってしまい、顔が赤くなるのがわかる。それにより少し顔を俯けてしまうのは、想いを自覚してから現在まで変わらない。
「……ベック、俺は悪くないと思わないか?襲いたくなるのも、分かるだろう?」
「抑えろ。思春期のガキじゃねェんだから」
そんな会話が聞こえて不思議に思って2人を交互に見るけど、どちらも私を見てはいない様子だったので、話が終わるのを待って口を開く。単刀直入に、簡潔に伝えなければ。
「シャンクス、あのね……。私、この島に残りたい」
「…………は?」
シャンクスが惚けたような顔で私を見る。私は声も、体も、瞳も揺らさないように呼吸を整えてから、ゆっくりと言葉を繰り返す。
「私、船を降りたいの。この島がダメなら、他の島でもいいか「巫山戯ているのか?」」
シャンクスは笑顔だった。それなのにこれまでに感じた事のないレベルの怒りを、本気でぶつけられている。
怒ったところを見た事はあったけど、こんな……覇気ではなく殺気で人を殺して回りそうなものは、初めて体験する。意識が飛びそうになるのを耐えて、震える体を抑え込む。
それと同時にシャンクスから離れようと体を動かしたら、それを許さないと言うようにその腕に閉じ込められた。その腕は、怒りによるものか、他の何かによるものか分からないけど震えている。
それを感じ取ったら、少し呼吸が楽になった気がした。言葉が足りなかったと反省して、私は口を開く。
「嘘でも、冗談でもないし、巫山戯てなんていないわ。私は、船を降りたい」
この子を無事に産む為には、それしか無いというのは分かりきってる。シャンクスの子供だとなれば、産まれた瞬間に手配書が出回ってもおかしくはないし、そうなれば守れるのは私だけ。
「理由は?」
「守りたい人が、出来たから」
シャンクスの手が私の首に向けられる。本能的なのか、覚悟を確認する為なのか、突然降りたいと言われた衝撃からなのかは分からないけど、手にゆっくりと力を込められて行く。
もしかして殺したいと思う程に、愛してくれていたのかと嬉しく思う自分と、この子を守らなきゃと言う想いが交錯する。その中で私はシャンクスの手を掴んで、抵抗していた。
「お頭!」
「黙れベック……」
シャンクスの手に力がこもる。私は意識が遠のきそうになりながらも、怒りの視線を向けてくるシャンクスを見る。
声は音にはならない。それでも私は私を見ているシャンクスに、言葉を伝えようと唇を動かす。
〝産みたい〟と。その瞬間シャンクスの瞳が見開かれて、手から力が抜けた。
突然入ってきた酸素に振り回されて、咳き込む私をベックが回収した。そして、シャンクスから引き剥がして庇うように抱き締めてくれているけど、話はまだ何も終わっていない。
「ナミ、それは……」
シャンクスの戸惑ったような声は、確かに震えていて、呼吸を整えるのに必死な私は上手く声を出せないので、何度も頷く事でそれに応える。
「……そうか、間違いは、無いのか?」
私は頷き続ける。それによりシャンクスは黙り、ベックがまさかと呟いた。
ベックが私を抱き締める腕に力がこもり、少し息苦しくなる。そんな状態でベックがシャンクスに言う。
「……そういう事なら、俺も降りる事をすすめたい。だが、アンタ次第だ」
「ベック……。そう、だな。覚悟を決めるか」
シャンクスはそう言うと立ち上がり、声をあげた。降りろと言われるのだと、私は自分から言い出したのに怖くて体が震えるのを止められない。
縋るようにベックの服を掴むと、頭を優しく撫でてくれる。私はいつも、こうしてベックに甘やかされているのだと、こんな時痛感させられてしまう。
「……皆、今後は負担を増やす事になる。悪いとは思うが、俺は喪って後悔する事だけはしたくない!頼む、協力してくれ!」
その言葉で皆も事情が分かったのか、1瞬の静寂の後で割れんばかりの声が響いた。〝当たり前だ〟〝みずくせェ〟〝今までと何が違うんだ〟そう声は言う。
「ナミ、悪かった。痛みは無いか?」
気遣うようなシャンクスの声が聞こえて、首筋に指が触れる。恐らくは跡が残ってしまっているのだろう。
それでも、そんな事よりもと思い、思わず顔をあげると、現実とは思えない状況に首を傾げる。現実的に考えて、妊婦なんて乗せていられる筈がないのに、期待してしまう。
「……1緒にいても、産んでも、いいの?」
「当たり前だ、馬鹿。俺の側を離れるな」
私はベックから手を離すと、その手をシャンクスに伸ばす。それをシャンクスは掴んで抱き寄せると、その腕の中に閉じ込めるようにする。
「俺の側に、ずっといてくれ……ナミ」
「うんっ!」
もっと色々と返事の仕方はあったと思うのに、私は頷いてそう言うのだけが精一杯。夢のような幸福に包まれて、私はただ甘えるようにその胸に顔を埋めていた。
そこに囁くように、次から言葉を選べ、本気で殺すところだったと言葉が落ちる。それにえっ?と声を出せばシャンクスは、優しげな笑みを浮かべて唇を動かした。
笑ってるのに、少し怖く感じるのはどうしてなのか。音にならなかったそれは、確かにこう言った。
『手放す位なら、殺してやる』
でもね、年齢だけを考えたら私を遺してシャンクスが死ぬと思うんだけどと小さく音にならないような小さな声で呟けば、シャンクスに唇を奪われてその合間に笑いを含んだ声が耳に届く。俺が死ぬ時には、殺してやるから安心しろと。
私は慰めの為に言ってるのだと判断して、微笑みを浮かべた。まさかのその言葉が本気だったと知るのは、遠い遠い、未来の話。