私は今日もいつもと変わらない日常が始まり、そして終わるのだと思っていた。ここ最近妙な胸のムカつきがあり、気になってはいるけど言うと過度に心配するであろう2人の顔が浮かんで、押し黙っている現状。
2人は私に対して、明らかに過保護である。でもそれが嬉しいと思えるのだから、私も贅沢な悩みを抱えていると言えるだろう。
指に光る指輪を見て、これを逆の手につける日がいつか来るのかなと少し考える。その時植木鉢の中で蜜柑の葉が揺れたから、何となく気恥ずかしくなって被っていた帽子を深く被り直した。
そんな訳も無いのに、蜜柑に揶揄われた気がして無言のまままだ青いその実をつついてから立ち上がり、背を反らせながらノビー!とした。その時目の前が白くなって平衡感覚を失う。
それには流石に不味いと思ったけど、植木鉢に入ってる蜜柑は支えにならず下手をすれば折れてしまうと判断する。そうして何も無い方へと身体を倒したら、その先には本当に何も無くて海へと落下して行く事になってしまった。
でもまぁ、泳げるから大丈夫よと自分に言い聞かせながら、着水する為に身を丸くした時聞こえた声。そして私は、誰かの腕の中にぽふっと収まった。
「無事だな、ナミ。……珍しいな、コラさんならよくあるが、ナミがドジするなんて」
「ちょっと立ちくらみして」
「……脳貧血になる要素はナミに無いだろ。ベポ、そのままナミを運んで来い」
「アイアイキャプテン!」
目の前はもう白くないので、状況把握は出来てる。どうやら落ちそうになった私をローがベポの持っていた物と入れ替えて助けてくれたらしい。
つまり、もう問題なんてないのだ。だからと思って大丈夫と言い募り降ろして貰おうとしたのに、ベポはローの言葉が絶対なのか離してくれない。
だから私はそのまま、医務室に運ばれてしまう。診察用のベッドに下ろされて、それに対して硬いわよねーと思う。
病院のベッドが硬いのは、心臓マッサージをしたり患者を移動させる時の負担を減らす為のものである為、寝ていて負担が少ないからでは無いのだ。硬いベッドの方が寝てて体に良いというのは、都市伝説であり実際は身体を包むようなベッドの方が体への負担は少ない。
ただし、柔らかすぎると寝返りが出来ず床擦れ等のリスクが出たり筋肉の硬直が考えられる。その為、ある程度の反発力は必要となるけどね。
後は体重や筋肉量によりちょうど良い硬さは変わってくるので、自分に合ったベッドというのは探すのが案外大変である。……と、現実逃避してみても現実は変わらない。
「ナミ、話を聞き流して逃げようとするなら、スキャンするとか、服を脱がせて触診するって方法もあるんだぞ?」
「触診するのに服脱がせる必要無いわよね!?」
「何言ってんだ。嫌がらせに決まってるだろ。……それで、最近変わった事は他にないか?」
前半の部分にはもう!と思うけど、後半のそれには僅かに動揺する。胸のムカつきって、報告した方が良いのかな。
でもなぁ、必要以上に心配するからなぁ……。そう思って伝えるのを辞めた私は軽い感じで笑う。
「何も無いわよ。ただ、ずっとしゃがんでたからそれが理由だと思うわ」
「……ナミの筋肉量と、最近は睡眠も栄養も足りてるから、脳貧血になり得ねェって言ってんだろ。通常の貧血と脳貧血は全くの別モンだ。いいか……」
そうして始まるロー先生の貧血講座を有難く拝聴しつつ、それなら確かに私が立ちくらみを起こしたのは謎だなと思う。因みにこの立ちくらみの事を脳貧血と言います。
どちらも重症の人は意識を失ったりする為、それが起きる場所によっては死に至るので楽観視してはいけません。例えば駅のホームでベンチに座ってて、立ち上がった時すぐに立ちくらみが起きたなら良いけど、数歩歩いてから起きたら……線路に落ちます。
他にも階段や尖った物が近くにある場合、怪我や死に至る可能性は十分にあるので、脳貧血だからとか、たかが貧血と侮らないように!さて、そんな訳で私も侮っちゃいないけど……ローの視線が痛い。
「うちのクルーが貧血になるのは、好き嫌いでもして何かを食わないとか、何かに集中して勝手に食事抜くとか、そんなんでもなけりゃ有り得ねェ。そういう食事の栄養管理は行ってる」
つまりは病院食と近い訳ですね。なので、栄養バランスは完璧です。
船なのに凄いわよね。まぁ、どうしても難しい時もあるけどさ。
「なら、なんでかしら?最近はちゃんと食事してるわよ」
「そうなんだよな。最近はコラさんと朝までじゃれてる事もそんなに多くねェから、体力切れって事もねェよな。そうなるといっ「ちょっと待って!なんで、夜の事が筒抜けなの!?」」
「……コラさんの顔見りゃ分かる。翌日は原型留めてねェからな」
その言葉で赤くなって蹲った私を、ローは憐れむように見て、その上で言う。これはもう既に、私で遊んでるとも言えるかもだけど。
「性行為の直後はナミから蜜柑の香りが強くなってるし、コラさんからも蜜柑の香りがする。その他にナミの動きが少しおかしくなるんだよな。コラさんとナミだと体格差があるから、身体にそれなりの負担がか「もういい!もういいです!!」」
半泣きでローを見ればブハッと吹き出して、人の頭を撫で回すその顔は医者の顔じゃなくて、悪戯好きな兄の顔だ。死んだという妹と私を重ねてるのかな。
それから話をしていたけど、埒が明かないとスキャンされて……ローが黙った。天を仰ぎ、眉間を押さえて、深く溜息を落としてから大人しくしてろと言ってそのまま簡易ベッドに寝かされる。
「待ってよロー、私……何か病気だったの?」
「……あァ、命に関わる病気だ。大人しくしてろ」
「そん、な……馬鹿な……こ、と……」
「俺に従ってりゃ、死なねェ。安心してろ」
ローの言葉に頷いて、掛けてもらったタオルケットを被ると、ローが部屋を出て行ったのが分かる。それまで大人しくしてたベポが慰めるように私の頭を撫でながら、キャプテンは世界一のお医者様だから大丈夫だよと笑ってくれた。
けど、なんの病気だって言うんだろう。胃潰瘍や盲腸なら痛みも伴う筈だし、胸のムカつきで死に至る病で、目眩とセットのものなんて……他にも症状があれば別だけど、症状が少なすぎるのよね。
初期症状だとしても、もっと他に。指先が痺れるとか、何か他にあれば……。
「ナミ、本当に思い当たる事無いの?俺は、何かわかっちゃったよ。……キャプテン、顔赤かったし」
「へ?」
ベポの言葉に顔を出すと、体起こしても大丈夫だよと言われて果実水を差し出される。蜂蜜入りのそれは、何だか妙に優しい。
「ナミは食事も冷めてから食べてたし、まだ初期だから気付かなかったんだね。でも、ナミなら冷静に考えたらわかる筈だよ」
その言葉により、まさかと思う。そして、いつから来てなかったか考えた時、顔が熱くなって……。
確かに〝命に関わる〟病気だわ。それも、2人分の命に関わるのだから、あんな言い方にもなるわよね。
「ナミは避妊とかちゃんとしてたし、考えてたの知ってるよ。それで、どうしたいの?」
「え?」
「ここは海賊船だよ。それを踏まえて……産むか、殺すかだよ」
その言葉に赤くなっていた顔から、血の気が引いたのが分かる。……そう、だ。
ここにいるのなら、私が……守らなければ、失われてしまうんだ。でも、皆を危険に晒して迄、産みたいと……言う事は許される、の?
勝手に震える身体に、ベポは焦らせてごめんねって言ってから、視線を合わせてくる。それはいつもの、ボーッとしたベポとは様子が違った。
「俺は勿論、キャプテンも、皆……ナミの決定を尊重するよ。だから、俺達を理由にしないで、ちゃんと考えて……それをコラさんに教えてあげてよ」
その言葉に、この声に、涙が勝手に落ちる。そんな私に慌てて抱き締めてくれるベポは、やっぱり体温が高くて、何だか甘えてしまった。
そんな時に痣だらけになったロシーが入って来て、私の様子にオロオロするから、ベポに視線を向ける。それだけでまたねと去って行くベポを見送って、ロシーに視線を向けた。
「ロシー、ローから、聞いた……?」
「あァ、その証拠にボロボロだろ?」
「……ロシーに、本当なら、どうして欲しいか聞くべきなのよね」
「ナミの中で、答えは決まってるなら……それを聞かせてくれたら良いよ。俺は、ナミが大切なんだ」
優しい声で、穏やかに笑って、ロシーは言う。丸投げするつもりは無いけど、ナミの答えを聞かせて貰えると嬉しい……なんて。
「え?」
「俺の意見で決めさせて、ナミが苦しんだりしたら、俺は自分を許せねェ。だから、ナミが決めてくれたらそれに従うよ」
私がここで諦めると、殺すと言えばロシーは笑ってそれを受け入れるんだとその顔は言ってる。そして同時に、私が産みたいと言えば、全力で支えてくれるつもりなんだって事も、伝えて来てるのだ。
私はそっと眼を閉じて、細く息を吐き出す。皆を理由にしないでとベポは言った。
つまり、単純に今の私がこの状況下において子供を育てる自信があるのか、子供に会いたいか、会いたくないかだと言う事。だから私は、心にある自分の思いを率直に伝える為に口を開いた。
「私……この子……っ!」
なのに、言葉が詰まる。私は、それでも怖いんだ。
今、私の言葉で多くの人の命が左右される問題に直面して、大切な人を喪う確率があるという事実に、声が出せなくなってしまう。言葉の代わりに落ちる涙をじっと見詰めて、ロシーはありがとうと笑った。
「ありがとう、ナミ。俺も会いたいよ」
「ロ、シー……!」
「ナミは皆を危険に晒すのが、怖いんだよな。それにしても、ナミが自分で気付かなくて良かったよ」
「え?」
「自分で気付いたら、ナミは俺達の負担になりたくないとか言って飛び出して、んで、俺とローが鬼みたいになって探し回って、無事に見つかれば良いけどよ、見つかんなかったら……世界滅ぼすぞ」
その言葉に、やるわねと思う。どちらもやるだろうと。
私は皆の負担になりたくないと飛び出して、途中で何かが私に起きたら……この2人なら、滅ぼすわ。改めてゾッとしてその顔を見れば、穏やかな顔で笑ってる。
普段はドジで、甘くて、優しくて、暖かいけど……イザとなった時、容赦が無いのもまた事実なのだ。大切な人を守る為なら、ロシーは鬼にも夜叉にもなると知っている。
「ロシー……護ってくれる?」
「当然だ。自分の妻子守れなかったら、両親に顔向け出来ねェしなァ。……まァ、その内墓参りだけは1緒に行こう。初孫の顔くらい、見せてやりたい」
墓なんてあったんだとその顔を見れば、頷かれる。性別もわからない新たな命が、小さく、でも確実にここに存在しているのだ。
そっと自分のお腹に手で触れて、私は静かに息を吐き出した。ドアの所で固唾を飲んで様子を見守ってくれてる優しい仲間達にも、今度こそ伝える為に。
「私、産みたい。この子に会いたいわ。……皆には迷惑かけちゃうけど、産ませて」
その瞬間真っ先に部屋の中へ飛び込んで来たイッカクが、ロシーを突き飛ばして私に抱き着く。そして私とナミの子だもの守り通すわと言えば、ロシーが俺の子だよ!と叫んでその場は大騒ぎとなる。
そんな様子に、1人で抱えなくていいと笑ってくれる皆に、私は幸せだなと思わされた。守るべき者である事実は変わらないのだから、気にしなくていいと抱き締めてくれる優しさに、輝く未来しか想像出来ずに私は声を上げて笑う。
命に関わる病は、世界一のお医者様がサポートしてくれる。これからの未来は、愛しい人が共に歩んでくれるのだから、不安なんて抱く必要はどこにもないのだろう。