「まさかこんなところで君に会うとは」
「色々あったんだよ」
阿部はすっかり痩せてあれだけ逞しかった昔の面影はもう何処にもなかった。動きもぎこちなく、時折なにかに取り憑かれた様に独り言を呟いていた。
「人を救おうと夜逃げをして必死に働いていたら事故で体が使えなくなっちまって、挙句の果てには救ったと思ったヤツが何者かに襲われてその後なんの音沙汰もねえ。俺を笑ってやってくれ」
阿部の話によると道下は親が某大企業の社長で、その会社の跡継ぎにさせられかけていたそうだ。いつの間にか結婚相手も決まっており、彼自身が大学の受験に失敗し浪人したことも拍車をかけ話はトントン拍子に進み、困った彼は阿部に相談したそうだ。そしてもちろんその先は知っての通りだ。
「俺は日雇いの工事現場の仕事にありついてなんとか食っていける所まで持ってきたんだがな。高所作業中に滑って落下して、どうにか一命は取りとめたが右半身が思うように動かんくなって記憶にも障害が出ている。もう満足に歩くことも出来ない」
阿部は淡々と話した。
「こんなとこにいても寒いだけだ。うちに来ないか?どうせ俺も一人だよ」
「いや、遠慮しとくよ」
しかし阿部はまた立ち上がろうとしてその場に崩れ落ちてしまった。なんとか立ち上がったがフラフラと足を引きずって歩く阿部は痛々しかった。道をゆく人々はそんな阿部に見向きもせずまるでそこに誰も居ないとでも言うように通りすぎてゆく。
「阿部。やっぱり俺はお前を放っておけないよ」
その後俺は阿部を背負って彼の住むアパートへ行った。
阿部は本当に独りだった。親戚すらおらず、彼の住む部屋はゴミで溢れかえり几帳面な彼の住処とはとても思えなかった。
「すまんな。ちらかってるから適当にものを避けて座ってくれ」
俺は卓袱台の前にあった座布団を引き寄せ、そこに座った。阿部は壁にもたれかかりまた煙草を吸おうとしていた。
「煙草はそれくらいにしておけよ。体に悪い」
「そうだな」
呟きながら阿部は懐に煙草をしまった。
「飯は食ったか?なんなら作るぞ」
さっきスーパーで買った酒とツマミと食料が入った袋を指さす。
「いや。腹減ってないからいい」
「まあまあそう言わずに食って呑めよ。俺だって独りなんだ。たまには人と呑みたい」
仕方なさそうに阿部は俺の差し出した缶ビールを左手で受け取りそれを脚で挟み、プルタブを開けた。しかし、阿部はビールを口につけようとしなかった。酒豪の彼にとってビールなど水も同然のはずなのに。
「どうしたんだ。飲めよ」
俺の問いかけにも反応しない。俺の知ってる阿部ならば一気に飲み干し俺の分のビールを飲もうとしていたくらいなのだが。
「乾杯」
阿部は細い声でそう呟いた。そして震える左手に握った缶を唇に近づけ中に入っている液体を口にふくんだ。ゲホゲホッという咳と共に缶が床に落ち、ビールが零れる。
「美味いな」
そう言って阿部はパタリと横に倒れ意識を失った。
それからというのも毎日俺は阿部の家へ通った。何度も何度も。日に日に彼は弱っていくのは痛い程わかったが、頑なに病院に行こうとしない為、病状は更に深刻化していった。最初の頃は玄関で迎えてくれたが、半年が経つと居間から出ることすら困難になっていた。それでも俺は阿部を看病し続けた。例え体が不自由だったとしても心だけは安らかでいて欲しいと思ったからだ。
俺の行き先がアパートから総合病院に変わったのは阿部と再会してそろそろ一年が経つ頃、十月の話だ。ある日俺がアパートを訪ねた時のことだ。いつもは玄関前で呼び鈴を押せば阿部は一言なにか言ってくれる筈なのだが、その日は何も無かった。そして寝ているのかと思ってドアを開けると(鍵はかかっていない)頭から血を流した阿部がそこにいた。
元々悪かった病状は更に悪化し遂にはベッドから起き上がれなくなった。
そして、十二月三日。
よく覚えている。その日の俺は忘れていただろうが、俺が初めて「狩り」をした日の三年後にあたる日もその日でもあった。
仕事を午前で上がった俺はいつものように病院へ向かった。受付の看護婦には顔が売れていたので、別段何も言われず俺は病室へ通された。
「ああ。良司か」
ベッドで顔を横に向けた阿部の顔はガリガリに痩せ細り、もう動かない右腕には点滴の針が刺さっていた。青色の毛布の下がどうなっているのかは想像したくもない。
「今日は雪が酷くてとうとう帰れと言われてね」
俺の言葉に阿部は「そうか」とだけ言うと窓の方を向いた。何となく催促されている気がして俺はカーテンを開けた。外の景色は真っ白で、隣にある公園には子供たちが作ったのだろうか。雪だるまが一体ポツンと立っていた。
「少し換気をした方がいいから開けてもいいかな」
彼の返事を聞いて、俺は鍵を開けて凍りついた窓を引いた。ベキベキと氷が剥がれてゆくと同時に北国の冷たい風が病室に押し入ってくる。
「今日も寒いな」
それから数時間、俺たちは将棋をした。と言っても阿部はベッドから動かないので、俺は指示通りに彼の持ち駒も動かした。いつもは勝率は五分五分だったが、この日に限って俺は負け続けた。
「次、俺が勝ったら良司のケツに一升瓶突っ込むぞ」
「いやいや、そんなことしたらケツが裂ける」
俺はらしくない阿部の冗談に違和感を感じた。彼は随分と人ができており、間違っても人を傷つけるような冗談は言わない。
「人ってモンは常に愛されることに飢えているんだよ。良司」
「どうしたんだいきなり」
「俺が何を言いたいか君は分からないかい」
「いいや、全く」
阿部は左腕を使ってベッドから上半身を起こした。が、それのせいだろう。すぐに咳き込みだした。
「大丈夫か?」
俺はとっさに彼を支えた。そのせいで俺の膝に載っけていた将棋盤と駒が音を立てて床に転げ落ちた。
「俺と再会した時のお前の目はまるで守り人が居なくなった灯台のようにとても暗かった」
「ど…どうしたんだよ」
俺は彼の言葉に冷や汗をかいた。
「それがこの一年でだんだん明るくなってきたな。俺はその輝きの名前を知っている」
恋ってヤツだ。お前は俺が好きだろ
「だが、すまないな良司。俺はアイツと生涯添い遂げると誓ってしまったんだ。残念ながらお前がアイツを俺から遠ざけてもお前は俺を手に入れることは出来ない」
俺は膝がガクガク震えるのを感じた。そして、腕にだんだん力が入らなくなることに気づいた。
阿部は俺の腕をそっと背中からのけて静かに横になった。
俺はそのまま後ろに仰け反りフラフラと後ろに机に体の支えを求めた。
「勿論、お前は〈アイツ〉を知っているだろう。お前の初めての獲物、俺の最愛のヤツ、道下正樹。身長は百七○センチくらいでかわいい顔をしている」
「やめてくれ…」
しかし、俺の制止を聞かずに阿部は言葉を続けた。
「ホテル○○で一九××年十二月三日に近所に公園で出会った男に強姦された。ホテルのフロントに出したチェックイン表の名前と住所は偽りのもので、警察も真面目に操作しなかったから犯人はまだ捕まってない。そりゃそうだ。女ならともかく男が強姦されたなんて奴らの知ったことではないだろう」
だが、俺はそうじゃない。
「あの日正樹が病院に運ばれたと知った時、俺は勿論面会を求めた。しかし、アイツの両親に拒まれた。俺せいでこんなことになったのだろうと。それ以来、俺は正樹に会ってない。だが、あの親達から肛門裂傷が酷いということは聞かされていた」
俺は彼がこのあと続ける言葉を予知することが出来た。何故なら答えはひとつしかないからだ。だが、俺は分かりきった答え合わせを拒もうとただ、やめてくれ、やめてくれ、と連呼した。
「ホモセックスをやり慣れたヤツの肛門すら破壊できるデカブツなんてそうあるものじゃない。それに、正樹はやらないか、と言われて誘われていたという目撃情報がある。その誘い方は俺の決め台詞だ。そんなもん真似して使う奴なんざたかが知れてる」
つまり、あの日道下正樹を狩ったのは日高良司、お前以外には有り得ない。違うか?
俺はその場でとうとう尻餅を着いてブルブルと震えていた。脚は子鹿のように痙攣し、口を金魚のようにパクパクさせている俺を阿部はベッドの上から睨んでいた。その眼光は穴に篭もることを忘れた人食い熊のように鋭く、正にいま己を射抜こうとした狩人を追い詰め、逆にその命を刈り取ろうとするかのようだった。
「阿部さん、大丈夫ですか?今、すごく大きな音が聞こえましたが」
不意に扉が開いて看護婦が駆け込んで来た。
「心配させてすまない。日頃の疲れのせいだろう。日高くんが突然腰を抜かしてしまってね。今日はこれから吹雪になるだろうからそろそろ。と、話していたところだったのだがね」
阿部が看護婦に答えた。
その看護婦が呆然と座っている俺の肩を支えた。
「ええ、大丈夫です。すいませんが、散らかしてしまった盤と駒を片付けておいて頂けませんか」
もう意識が上の空を向いていた俺は手紙の最後につけるテンプレートな挨拶のように台詞を言い放つと部屋のドアに向かってたどたどしく歩き出した。
「随分と盛大に転げたから外科で診てもらった方がいいだろう」
「いや、そんなに痛くはないからこのまま帰るよ。失礼します」
からくり人形のようなぎこちない礼を看護婦と阿部にむけるとそのまま現実へと歩もうとした。そんな俺の背中にに阿部は、
「勘違いしないでくれたまえ。俺はお前が贖罪をしようとしていることは十分に知っている。そのうえでこれからもお前は俺を想ってくれて構わないし、何より俺はお前以外頼れない。だが、俺はそれ程よく出来てはいない。だから俺はお前をお前の望む方法で救うことはできないし許すこともできない。次、此処に来る時まで覚えておくと良いだろう」
と、言葉を寄越してきた。
俺が返事を返すことはなかった。そして、その時に彼の顔を振り返って見るべきだったと時々思う。
翌日、眠気が起きず徹夜明けの午前六時半。居間の電話が乾いた音で鳴り響いた。
電話の内容は阿部高和の訃報であった。