※この作品はR-18です。

雨が降る、   作:寝不足/

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3ー2

 電車の過ぎ去ったあとは、木枯らしもはたとやんで、しんしんと降り積もる雪の夜に似たわびしさが後にひいた。先ほどの全てを飲み下すのに少々の時間を要しながら、ホームの階段を降りる。

 来た道を左に逸れて、またどこを目指すわけでもなく歩き出した。

 純情な水結晶が一つ、タイルに落ちる。ぽつぽつと二滴、三滴と降り始め、暗雲がようやく出た陽を遮ってしまう。

 それをぼんやりと眺めて、半ば勝手に口が動いた。

 

「………あ」

 

 雨が降ってきた。小降りだが傘を持っていない小豆には武が悪い。近くの軒下に待避しつつ、雨空を窺う。

 発達した積乱雲が太陽に反抗して、むやみやたらと嬌液を漏らし続けている。

 この様子だと止まなそうだ。

 参ったなと思いながらも、仕方が無いので覚悟を決めて走り出す。出来はじめの水たまりに運悪く脚を突っ込み、制服が淫らに濡れ、肌にべたつく。防寒対策で着込んでいたので、被害が甚大だ。

 帰ったらまたシャワーだな、どうでもいいことを考え、腕を振るう。

 しばらく小走りを続けていると、振りきった腕がそのまま背後で止まり、強引に脚を止められ、蹴躓く。おもいきり尻餅をついてしまった小豆の頭上に、跳ねっ気のある鈍い音が雨を切り裂いた。

 

「……茶柱くん」

 

 すっかりびしょ濡れになった私に恋人は優しく跪(ひざまず)く。片手に傘を持って追いかけてきてくれたのか。

 

「風邪引きますよ、先輩」

 

 何一つ変わらない笑顔で、何一つ変わらない哀しみを漂わせながら、手を差し伸べるその瞳に、私はどう写っているのだろうか。

 

「……うん」 

 

 握った手の感触が、凍えるほど冷たいことに胸が震えた。

 劣化していく剛悪の罪科に、私は今日も心痛める。

 あれは、私が茶柱くんと知り合ってから、数ヶ月経った日の事だった。

 十月。雨の日だった。

 茶柱の家で勉強を教えていた私は軽く息をついて、「休憩しよっか」――そういって教科書をみる少年に微笑んだ。

 エメラルドの瞳はそのまま、首だけがこくりっと頷く。

 

「もう、真剣なのは良いけど、片付けないとお紅茶(ちゃ)だせないよ?」

 

「僕は紅茶よりコーヒー派です」

 

 しれっと屁理屈をかます後輩の頬を、パン生地のごとく引っ張り上げ、キッチンへお湯を沸かしにいく。

 家から持ち出した菓子(クッキー)を取り出し、皿に添える。鮮やかな有田焼の大皿が菓子に艶のある輝きを当てる。これを選んだ人間の趣味の良さがわかる。

 

「……」

 

 沸騰し始めた水に映る、どこか物言いたげな自身を眺めながら、小豆は小さく息をついた。

 茶柱と出会ってわかったことがある。彼は人並みに勉強ができない。『保健室登校』という特殊な事例を考慮しても、言い逃れできないほどだ。

 彼自身それを自覚しているらしく、勉強を教えるようになったのも、彼から直接懇願されたからである。あの容姿に本気で頭を下げられると、是非もない。

 以来、こうして週末茶柱の家で一対一(マンツーマン)で指導している――のだが……。

 沸いたお湯で紅茶を注ぎ、茶菓子とともに少年の待つテーブルに運ぶ。直後に、時計の3時を告げる鐘が鳴った。

 

「はあ~甘い物だぁ」

 

「こぉら、読みながら食べない。行儀悪いよ」

 

 肌身離さず教材を持つ茶柱を軽くあしらえて、手許のカップをすする。インスタントだが濃厚でクリーミーな現代技術に感謝しつつ、菓子をひとつまみする。

 眼前の少年は貪るように菓子を平らげていき、終いには顔をリスのように膨らませていた。かわいい。

 

「おいひいでふ~」

 

「わかったけど、ほっぺに付いてるよ」

 

 頬についた砂糖を指で掬い、自分の口へと運ぶ。きょとんと首を傾げる姿に胸撃たれそうだ。あどけない仕草に妙な新鮮味を覚える。

 攫うように菓子を食べ尽くす茶柱を一瞥し、紅茶を一仰ぎする。そんなに急がなくても逃げないのに、頬杖をついて、ため息混じりに微笑する。

 何気ない日常が愛おしい。永らく忘れてしまった感情が蘇えるようだ。ありふれた時間という概念が、自身に夢のような錯覚をおぼえさせる。

 茶柱に視線を移すと、相変わらず黙々と菓子を頬張りながら教材を一枚、また一枚と捲る。

 

「こら、食事中は本を読まないっ」

 

「ええ~、でも先輩からもらったこれ、わかりやすく解説が書いてて、とっても見やすいですよ。先輩の勉強熱心さが良く伝わります」

 

 熱心なのはどちらか、と心の中で反論しながら手許のカップを啜る。

 

「もう、そんなにしなくても本は逃げないよ……ねえ、茶柱くん」

 

 小豆の群青色の瞳がまっすぐ茶柱へと向けられる。

 

「教えて欲しいの。なんで学校に……授業にでないの? 勉強が嫌いなわけでもなさそうだし、特に重い病気も持ってないよね」

 

 茶柱を指導していく上で、彼のずば抜けた記憶力と思考力には目を見張るものがあった。

 勉強を進んで取り組む積極性も、小豆に直接頼んできたことから悟られる。保健室登校という特殊な環境は、よほど理由が無い限り受け入れられない。最初は、ただ彼が人を寄せ付けない性分なのかと思った。だが彼と過すに連れ、それも間違いだということに気付いた。

 三度目のカモミールティを表情も変えずに飲みながら、私は彼の返答を待つ。

 茶柱は視線を伏せ、ゆっくりと椅子に腰を預けた。

 

「うちって貧乏なんですよね、シャレにならないくらいに」

 

「え、それって―――」

 

「奨学金制度は無理です。返すあてなんかないし、―――それに」

 

 次に彼が吐いた言葉を、私はひどく後悔した。

 

「それに、そもそもお金を出してくれる母(、)がいないんで」

 

 返す言葉が見つからなかった。軽はずみに聞いたつもりは断じてないが、それでも小豆の良心は深く抉られた。

 

「ああ、気にしないでください。今は家計も安定して、こうして勉強する余裕が出来ましたし……だから、先輩が気にするほどのことではないです」

 

 そんな心情を伺ってか、茶柱は微苦笑を浮かべる。儚げな笑顔だった。口角は上がっているのに、瞳はどこか虚ろで、弱々しげに見えた。

 

「まあ、その……母の死んだときは苦労しましたけど……」

 

 どこか嘲笑めいた声で、吐き捨てたその言葉が、小豆の耳に滴る。

 

「……どんな、おかあ、さん……だったの?」

 

 聞いてはいけない。そうわかっていても、聞かずにはいられなかった。彼は小豆から視線を逸らし、やがて、短い吐息が空を切った。

 優しい人でした―――と、少年は語る。

 

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