ようやく二人が脚を止めたのは、普段誰も立ち入ることのない旧校舎の教室だった。古びた木造建築の建物は建て付けが悪く、細心の注意を払いながらそっと聞き耳を立てる。
あれ、私なんでこそこそ盗み聞きなんてしてるんだろう、そんな考えが頭を過ぎるが、いやいやと首を振る。
浮気なんて滅多なことはないと思うが、やはりあの二人がいるのはおかしい。胸の内で疼く、名前のない焦燥が余計に拍車掛けた。
小豆がひとり苦悶してるなかで、当の本人たちは話を進めていた。静寂のなかに異様な二人の影が立ち並ぶ。
「……で? 話って何よ」
切り出したのは梨花だった。苛立ちの混じった声音で少年を威嚇する。けれど少年は割れた窓ガラスを見つめているだけで、こちらに振り向きもしない。
「アンタ、『あの子』の
ひょろひょろの茶柱の体を心配に思ったのか、彼女なりに喝を入れておく。
「……」
だが少年は応えない。さすがにそれを不審に思ったのだろう。訝しげに眉を寄せる梨花は、少年にのしのしと近づいて額をとんっと小突いた。
「どうしたのよ?」
「……あの子は――」
次いで漏れた言葉は、いつになく力強く、開かれた瞳に宿る静かな確信を告げる。
「はあ、どういうことよ?」
「時間が無い……が、――るんだ」
途切れ途切れに聞こえる言葉の意味は、小豆にはわからない。それでも、想い人のやつれたような声に胸が鋭く痛む。
「そんなこといったって、他に人なんていないでしょ。あの子を
まるで駄々をこねる子どもをあやすように、梨花は好意もない少年に言い聞かせる。それはひとえに『あの子』のためであり、強いていえばこいつ自身のためでもある。
「――君に……はない」
「っ」
興味のなさそうな口調が余計に梨花を苛立たせる。反射的に少年の襟首を掴んだ。俯いた彼の顔を無理矢理に上げる。
「ふざけないでよっ! あのさ、私はしがない■■だけどさ。アンタに協力してやってんのは、あの子のためなのよ。アンタだってそのために生かされてるようなもんでしょ? それに――」
怒り狂うような叫びが誰もいない室内に響く。小豆も段々穏やかな状況ではないことを悟り始めて、にじり汗をかく。
「なんとかいいなさいよッ!!」
振り乱された少年に梨花の言葉は届かない。ただ嘲るように繰り返される少女の言葉を反芻する。
――そのために生かされている。
虫唾が趨る。冷笑な眼差しが梨花を捉える。筋肉が瞬間的に強化され、絡まっていた腕を引き離す。
ああ、そうだよ。
この世界にとってオレはちっぽけな存在でしかない。
いや、ここだけじゃない。あそこだって同じだったじゃないか。
憎い、すべてが憎い。力んだ腕が震え、茶柱は梨花をはね飛ばした。睡っていた憎悪がゆっくりと起き上がる。
「……るさいんだよ」
その瞳に表情はない。あるのは冷酷な殺意。
どうせその気持ちも、偽りのプログラムのくせに……。
「――っ!?」
なかから漏れる異様な殺気に、小豆は身震いをした。会話の詳細はわからない。だが、二人が揉めていることは明白だ。
間を割って入ろうと、咄嗟に扉を叩きつける。だが運が悪かった。もともと古びていた引き扉は、数ミリ動いたところで鈍い音を立てて静止し、それ以上動かなくなった。そして――。
「――え」
その隙間から、爆発染みた閃光がまたたいた。
なにかかが破裂したように、炸裂音が耳をつんざく。頭を塞ぎたくなるような轟音に、悲鳴を上げた。そのなかで、聞き慣れた少女の断末魔が轟く。
「――り、か……?」
まるで爆発の中心に彼女がいたかのように、短い声が届くことはない。白光が少女を包む。
意識が暗転した。
「……ぱい、起きてください先輩っ!」
悲鳴にも似た少年の叫びに、私は閉じていた瞼を持ち上げた。湾曲した音声が脳内に響いて、頭を軋ませる。少年に肩を支えられながら上体を起こす。
「……ここは?」
頭がぎんぎんと痛む。目眩を堪えながら辺りを見回すと、そこは普段誰も近寄ることのない旧校舎の教室だった。見慣れた栗色の髪が、心配そうな声音で囁きかける。
大丈夫ですか、後輩の肩を支えられてなんとか立ち上がった私は、まだ眩む視界を瞬いた。
「あれ、茶柱くん。なんでここに……?」
頭がぼうっとする。思考が廻らない。状況が掴めないまま、唯一わかる想い人の手を握った。
「僕は――鳥の絵を描いてたんです、先輩は?」
「えっと、あたしは――」
考えながら、疑問に思った。自分はいったいなぜここにいるのだろう。
目的があってここに来たはずだ。でも、それがなんだったのか。想い出せない。頭に靄がかかる、とでもいうのだろうか。
確か人を捜していて、それで――。
胸に引っかかったような違和感に眉を潜める。その答えを求めるように恋人を見やった。
朧気な記憶を必死に呼び覚ます。
「さっき――誰かと話してたよね」
掠れ出た記憶の片隅には、確かに女の声があった。妙な汗が頬を伝い、床に垂れ落ちる。
だが、次いで放たれた言葉が、少女の思考回路を完全に遮断させた。
「――なにいってるんですか?」
訝しげに眉を歪める彼の声音は恐ろしいほどに冷淡で、まるで意図的に阻害するように少女を見詰める。
「ここには誰もいませんでしたよ」
そんな顔を見たのは初めてだった。全身から恐怖という感情が底無し沼のように少女を襲う。眉唾を飲む音が鮮明に聞こえる。
いいようのない強制感を醸すその表情に、私は無意識に気圧された。
「……あ、ああ、そうだよね」
嘘だ。直感的にそう思った。だが、小豆はそれを覆せない。茶柱が優しげな笑顔を浮かべて、微笑んだ。肉欲に溺れた少女に抗う術はない。
「あなたは僕だけを見てればいい」
そうして少女は、その瞳に微笑み返すのだ。口が自然と動く。和やかに笑う瞳の奥に『私』はいない。
「――うん、わかった」