降り注ぐ雨が、悲しみに濡れた男を暗闇に隠す。傘ひとつ指さずに行き場もなく歩道を歩き続け、辛うじて精神を繋ぎ止めていた。
行き過ぎる車のヘッドライトが、孤独な影を作り虚ろな瞼が後悔を生成する。
最終的に行き着いた駅の改札で何度も足止めを喰らっては、駅員が訝しげな視線を送ってくる。
だが、そんなものどうでもよかった。終電など遠に過ぎ、階段を上がる酔い気味のサラリーマンをすり抜けて、ひとりホームへ向かう。
誰ともいたくない。いまはただ、そっとして欲しい。
星一つないベンチの上に腰を下ろし、茫然と雲を眺め視る。
男に失敗は赦されなかった。それは、彼の信念であった。かつて大罪を犯した。決して赦されることのない、くだらない正義を。
やり直しはきかなかった。タバコが吸いたい。オレはもう、前へ進めない。
いつからだろうか、こんなことになったのは。
あてどころの悪かった頭部は、血で溺れ、包帯が体中を縛り上げている。愛おしく可憐な四肢をボロボロにして、我が少女(ロリータ)は眠っていた。
あなたの所為よ。
かつてきいた嘆きが蘇る。その通りだった。
ため息をつく気力さえ衰え、無気力に瞳を据える。なんど自嘲してもしたらない。
弱々しげな言い訳を延々と頭に繰り返しながら、今日も息をする。
無人の線路が沈黙をつくる。このまま身を投げ出してしまおうか。そんなくだらない考えさえ、いまは鎮座している。
男の精神は限界だった。ぎちりっと、ベンチの板が軋む。
けれど、立ち上がったその刹那、なんとなく手に持っていた蒼い花弁が、男の意識を加速させる
「……っ」
こぼれ落ちた雫はきっと幻想、黄昏のように曖昧。だがそれでも確かなのは、こんな花が好きな少女がいたのだった。
そうして男――御手洗美鶴はかつての記憶を噛み締めた。
想えば、アイツとの想い出はいつも雨が降っていた気がする。
小学三年の夏。その日は気象庁が最高気温40度を上回ったといって、テレビが騒ぎ立てていた。
加えて雨による湿気のせいで夏休みの貴重な1日を失ったオレは、自宅のエアコンをフル稼働させ、漫画を読みふけっていた。
「……」
もう幾度となく同じ日常を繰り返し、つまらない毎日を送る。台詞の細部に至るまで読み憶えてしまった本を途中で放り投げ、あ~っと表情ない息を口に出す。
変わらない天井を見上げては、停滞した心が乾いていく。宿題などやる気にならなくて、ただ呆然と「日常」を垂れ流す日々。なんてつまらない。
子どもながらに冷め切った思考だったオレは、時間という圧倒的な退屈に埋め尽くされていた。
そんななか、あいつは現れた。
引っ越してきた隣人の挨拶で、母親の影もじもじと隠れていたことをよく憶えている。
チャイムが鳴り、気怠げな脳が起き上がる。ぐうたらに階段を降りて、返事をする。両親は共働きのため、日中はオレ一人なのだ。
玄関に放ってあったスリッパに脚を滑らせ、扉を開ける。
長話だと億劫だな、あくびをひとつしながら思案したのち――
目の前に人形がいた。
豊潤な花の香りがむさ苦しい玄関に入り込む。桜に似たそよ風に運ばれた天使の瞳が、まっすぐに向けられる。
「ほら、すみれ。挨拶しなさい」
母親が催促する。彼女は新しく隣に越してきたそうで、内容はあまり耳に入らなかった。
オレの目には、あいつしか映らない。
「……うぅっ、やだ」
すみれと呼ばれたその女の子は、母親の脚元を盾に覗き見るようにして、いやいやと首を振る。
ハーフだろうか。色白というものを生まれて初めて見た。
日本人離れした菫白の長髪は、母親のものとは違う。子どもながらの想像でいう、氷のお姫様。
色素のない瞳は、職人が丹精込めた芸術品のように美しく、オレは少しのあいだ、呼吸するのも忘れてしまっていた。
三白眼が大きく見開かれ、何年ぶりかの彩りを帯びる。無意識に口が開き、感嘆のため息が漏れ出していた。
彼女は小動物のように、いやいやと首を振り、けれども最後には涙ながらにおずおずといった調子で、オレの前へと近づいてくる。
心拍数がとくんっと跳ね上がり、額が熱い。なんだか妙に緊張していた。背筋から、変な汗が垂れ流れる。
少女の唇に意識が持っていかれる。
「――穂波すみれ、です……よ、よろしく……っ!」
顔を耳まで赤く染めながら、精いっぱいの自己紹介に数秒遅れて、
「―――ああ、おお……」
つい、曖昧な返事をしてしまった。内心、たじろいでいた。
それが彼女にどう受け取られたのかわからないが、おそるおそる指先を伸ばしてくる表情は、なんだか言葉にできない。
握手を求められているのだろう。大理石で創られたヴィーナスの虚指に手をとる。
表情を見れなかった。だけど、握られた手の感触が柔らかくて。
妙にこそばゆかった。