「それは、だめよ」
間髪入れずに、あさひ姉ちゃんは言った。
まさか、拒否されると思わなかった真夫は、かなりショックを受けてしまった。
「どうして──?」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
あさひ姉ちゃんが、わずかに肩を震わせた。
見れば、背中を向けたまま、シーツの端を指先でつまんでいた。
「……怒らないでよ、真夫ちゃん」
「怒ってない──」
「怒っているよ」
「じゃあ、怒っている。でも、誰が正妻にふさわしいかって話だよ。俺は、あさひ姉ちゃんがいいと思ってる。たくさんの大切な女性ができたけど、俺はあさひ姉ちゃんこそ、正妻にしたい」
「うん……ありがとう。でも、だめよ、真夫ちゃん」
「だから、なんでだよ?」
そう言うと、あさひ姉ちゃんは、小さく息を吐いた。
ゆっくりとこちらを振り向き、ほんの少しだけ視線を外したまま、ぽつりとこぼした。
「……朝比奈恵という女性は、ね……」
第三者みたいな言い方だった。でも、それが返って真夫の胸を締めつけた。
「……みなしごで、家も、家族もなにもない。ただ真夫ちゃんに拾われて、躾けられて、それで全部……満たされちゃった女。ほかにはなにも持ってない.真夫ちゃんのことは大好き。真夫ちゃんに何人の大切な女性ができても、その中であたしが一番、真夫ちゃんのことを思っていることには自信がある。でも、それだけじゃ駄目なの」
その声に、怒りも恨みもなかった。あまりに自然で逆に胸が詰まった。
「どうしてさ?」
「なんの肩書きもないし、教養も不足。教員免許を取ろうと思っているただの学生で、玲子さんに習っているけど上流階級の礼儀作法なんて真似ごとだし、公の場であなたの隣に並ぶなんて、恥ずかしくてできるわけない。多分、これからいくら頑張っても、真夫ちゃんに相応しい肩書きが身につけられるとは思わない。だから、無理……」
そこまで言って、あさひ姉ちゃんは苦笑した。
だけど、その目には、かすかに濡れた光が浮かんでいた。
「でも……」
声が一度、震えた。
「真夫ちゃんが、傷ついて帰ってきたら、笑って迎えるよ。なにも言わずに着替え用意して、風呂沸かして、あったかいご飯出す。真夫ちゃんの苦しさが、ぜんぶ染みついた背中をそっと洗う……。いっぱい、いっぱい愛して、真夫ちゃんを癒やす.真夫ちゃんがしたいことなんでもしてあげる。どんな命令でも従う。あたしは、真夫ちゃんの最初の奴婢だから……」
それは、ただ彼女の奥底から零れた、祈りのような響きだった
「でも、それは正妻じゃなくてもできる。いえ、それは正妻じゃないの。そういうのは無理。あたしはただの真夫ちゃんの幼馴染。あなたに飼われて、抱かれて、いつか忘れられて捨てられても仕方ないようななんにもない女……」
「そんなことあるものか──。捨てるわけない──。忘れるわけもない──。どうして、そんなことを言うんだよ、あさひ姉ちゃん」
真夫は思わず、あさひ姉ちゃんの言葉を遮る。
「うん、ごめんね。意地悪な言い方しちゃった。真夫ちゃんは、あたしを捨てない。絶対に守ってくれる。だから、あの魔王という人の後継者というのを引き受けてくれたのもわかっている。だけど、あたしじゃあ、正妻には力が不足なの。真夫ちゃんの正妻に相応しいのは、ほかにいる」
「じゃあ、誰なんだよ?」
真夫はちょっと不貞腐れて言った。
「……例えば、玲子さん……。でも、玲子さんは、ちょっと違うかなって思うの」
あさひ姉ちゃんがそう言ったとき、真夫は自然と背筋を伸ばした。
玲子さん……。工藤玲子。真夫とあさひ姉ちゃんを学園に招き入れた豊藤龍蔵の元専属秘書。いまは、真夫の二番目の奴婢ということになるけど、きっかけは、龍蔵が真夫に譲ったのだ。
玲子さんを真夫の正妻として考えることについての、あさひ姉ちゃんの言葉の調子には、ほんのわずかなためらいが混じっていた。
「玲子さんって、たぶん“裏”の立場のほうが向いてると思うの。玲子さんは、表に出て人前に立つより、静かに控えてるほうがずっと落ち着いて見える。真夫ちゃんを裏から守ってくれる。だから、表の立場にはしない方がいいわ」
そこまで言うと、あさひ姉ちゃんは一呼吸おいて、真夫の目を見た。
「裏の立場か……」
「玲子さんは、真夫ちゃんのこと裏切ったりしない。それは確か。でも……正妻にはならない。なによりも、玲子さん自身がそう思っているはず」
その最後の一言には、強い断定ではなく、静かな観察が込められていた。
真夫は、あさひ姉ちゃんの思いを、口にせず受け取った。
「じゃあ、かおりちゃんは?」
かおりちゃん……白岡かおり、一応は、国内に大きなシェアを持つ白岡電機の社長令嬢だ。
名前を出すと、あさひ姉ちゃんの口元がわずかに引きつった。
迷いのない、あるいは呆れに近いものがその目に宿っていた。
「駄目。論外」
「論外か」
真夫は、きっぱりとしたあさひ姉ちゃんの物言いに噴き出してしまう。
「かおりは、一応、上流階級の家の娘だから、肩書きで言えば悪くはない。表の場に出すことも、一応できるとは思う。育ちの分だけ、言葉遣いや所作もそれなりに整ってるし」
そこで言葉を切ったあさひ姉ちゃんは、ふっと息を吐いて続けた。
「……でも、それだけ。中身はぜんぜん伴ってない」
声に容赦はなかった。
真夫は黙って聞いていた。
「そもそも、あの子がいま真夫ちゃんの傍にいるのは、冤罪で痴漢に仕立てた“罰”としてよ。なんの因果か、奴婢になったわけだけど、それを反省してるように見える? あたしには、どうしてもそうは思えない」
言葉は平坦だったが、どこか冷ややかだった。
「まあ……ねえ」
真夫は、そこまでは悪くは思ってないけど、いまはそれは言わない。
「正妻って、ただ愛されてればいいわけじゃない。公の場で真夫ちゃんの隣に立って、その姿勢に誰もが納得することが必要なの。……でも、かおりちゃんが正妻になったら、他の子たちは納得しない。というか、むしろ反発する」
真夫は言い返さなかった。
かおりが真剣に誰かと向き合った姿を思い出そうとして、うまく浮かばなかった。
「あの子、自分が楽できる場所が欲しいだけ。正妻になれたら嬉しいだろうけど、それは、真夫ちゃんを支えたいからじゃなくて、自分が上に立ちたいだけ。中身は空っぽ。口先と態度だけ取り繕って、真夫ちゃんのご機嫌取ってるだけよ」
そこまで言ったあと、あさひ姉ちゃんはすっと視線をそらした。
「……正妻になんて、絶対にしないほうがいい。本人は喜ぶかもしれないけど、そのせいで周りが崩れる。真夫ちゃんが本当に大事にしてる人たちが、傷つくことになる」
それは、断言だった。
「次に奴婢になったのは、西園寺絹香だね」
真夫は言った。
絹香は、真夫と同じ三年生の生徒会長だ。西園寺財閥の令嬢で、令嬢としてなら、白岡家のかおりよりも格上になる。だが、十人のなかでは、一番のマゾっ子だろう。一緒に奴婢にした梓と渚をペットのように扱っていたが、いまは、その双子に毎日調教される立場である。その扱いを嬉々としている重度のマゾ娘だ。
「絹香ちゃんは……うん、意外と“あり”かもしれない」
あさひ姉ちゃんは、ほんの少し微笑んだ。
それはこれまでにない柔らかさを帯びた口調だった。
「あり?」
「立場だけで言えば、申し分ないわよね。西園寺財閥の令嬢で、生徒会長。社交性もあるし、上品に振る舞えるし……。正直、見た目の印象もすごく良いと思う。かおりちゃんみたいに背伸びしてる感がないのよ」
真夫は、静かに頷いた。
確かに絹香には、余計な虚勢もつくろいもない。
「でも、大人しいかなあ?」
真夫は思い出しながら言った。
被虐癖として超奥手だ。絹香が積極的に、ほかの女性たちを引っ張っていくことは想像できない。そもそも、いまや、本当は侍女の梓や渚に毎日調教される立場なのだ。
「それは、性癖だけのことよ。マゾ気質って言われることもあるけど、あたしには、ちゃんと自分で自分を律する力があるように見えるの。自分の欲望を知ってて、それをどう扱うかも自分で理解してる。……それって、すごく強いことよ」
言葉に熱がこもった。
珍しく、あさひ姉ちゃんが誰かの内面を積極的に肯定した気がした。
「そうなの?」
「梓ちゃんに調教されてるいま、の立場もちゃんと受け入れてる。逃げたり、見栄を張ったりしないで、いまの自分がどう見られてるかをわかったうえで、その役割をこなしてる。真夫ちゃんが求めれば、あの子は何でも受け入れると思う。媚びじゃなくて、ちゃんと覚悟としてね。絹香ちゃんは、与えられた役割を演じられると思う」
真夫は、絹香の笑顔を思い出した。
叱られても、命じられても、決して壊れない強さが、確かにあった。
「演じる……か」
「真夫ちゃんの正妻は、それを演じることができればいいのよ。あたし、あの子は従うだけの子じゃないと思ってる。……もし真夫ちゃんがちゃんと信じて、向き合ってくれたら──正妻としても、やっていけると思う」
あさひ姉ちゃんの声は、穏やかだった。
断定ではない。けれど、可能性に目を向ける、素直な評価だった。
「ほかの女性たちも引っ張っていけるかなあ?」
正直、真夫には、大人しそうな絹香がひと癖も、ふた癖もありそうな、ほかの女たちを正妻として引っ張るというのが想像できない。
「ばかねえ、真夫ちゃん。そんなことは気にしないで。ほかの奴婢たちを躾けて、引っ張っていくのは、あたしがいるじゃないのよ。ちゃんと、真夫ちゃんのために、それはやってあげるから、気にしないでいいのよ。真夫ちゃんは、ただ、たくさんの女性たちを好きなように愛してくれればいいの。女たちのことはあたしに任せてよ」
あさひ姉ちゃんは、けらけらと笑った。
真夫は口を尖らせた。
「だって、それはあさひ姉ちゃんはやってくれないって、言ったじゃないか。俺はもともと、あさひ姉ちゃんを正妻がいいと言ったんだし」
「正妻はだめよ。でも、女が多くなっても、それはあたしに任せて。とにかく、それを正妻に求めなくてもいいのよ。そういう意味では、絹香ちゃんは、“あり”よ」
「“あり”か……」
真夫は頷いた。
「次に奴婢にしたのは、ひかりちゃんだっだね。でも、さすがに、正妻はないね」
「うん、ない」
真夫の言葉に、あさひ姉ちゃんは即答した。
ひかりちゃん──金城ひかりは、本来は、金城光太郎……、心も身体も女性なのだが、女性器のほかに、小さなペニスもあって、金城財閥の跡取りは、男子でなければならないという金城家の掟のために、“男”として戸籍登録されている。
ひかりちゃんの本質が、いくら”女“だとしても、戸籍が男子であるひかりちゃんは、真夫の正妻にはなれない。
「次は……前田明日香ちゃんか」
真夫は言った。
前田明日香──スポーツ特待生で、身体能力は十人の中でも突出している。
もともとは市立中学から進学してきた一般家庭の出身で、家柄で言えば、十人のなかで最も普通に近い。
彼女は、もともと西園寺絹香の百合愛のパートナーだった。
同性ながら、絹香と深い関係を持っていたらしく、絹香が真夫の奴婢となったと知るや、激昂して真夫のもとへ殴り込みに来て──そのまま、真夫に捕らえられて奴婢となった。
気性は荒く、正直な分、駆け引きには向かない。言いたいことはすぐに顔や口に出すタイプだ。
「明日香ちゃんはね……うん、まあ、好きよ。可愛いとは思う。でも……」
あさひ姉ちゃんは、そう言って頷いた。
「でも?」
「でも──正妻にするには、いろいろ問題がある」
その言い方には、少しだけ笑みがあった。
「問題って?」
「まず、育ちね。これは本人のせいじゃないけど、礼儀とか立ち居振る舞いが、やっぱり庶民っぽいの。真夫ちゃんの隣に立たせるには、まだまだ訓練が必要。いまでも奴婢としてのしつけでいっぱいいっぱいな子だから、公の場で恥をかかせないようにするだけでも、かなり苦労すると思う」
真夫は反論しなかった。
明日香の振る舞いには、確かに粗さがある。体育会系のノリを引きずっており、繊細な社交の場には不向きかもしれなかった。
「それと──あの子は、根っこのところで、絹香ちゃんしか見てないのよ。もともと絹香ちゃんのために飛び込んできた子だし、奴婢としての忠誠も、あなたに従うというより、絹香ちゃんと一緒にいられるためっていう感じ。だから、心の中心に真夫ちゃんを置いてるかっていうと、まだ微妙」
真夫は口を噤んだ。
明日香が絹香を気にかけている様子は、よくわかっていた。
それは執着にも似ていて、どこか甘い愛情にも見えた。
「裏切るような子じゃないし、力もある。鍛えれば、貴族の奥様っぽく振る舞えるようになるかもしれない。でも、それに何年かかるかって話。いまのあの子に、正妻という立場は荷が重すぎると思う」
その言葉に、非情さはなかった。
ただ、現実的な判断として、あさひ姉ちゃんは語っていた。
「だから、いまは──正妻候補としては見送り。そういう結論ね」
「なるほど。次は、世良七生だね」
真夫が名を挙げると、あさひ姉ちゃんは目を細めて、少しだけ考えるような顔をした。
それは、ほかの誰とも違う、掴みどころのない子を思い出す表情だった。
世良七生──二年生。
芸術以外のことにはまったく関心がなく、変人と言われることも気にしない。
エロスとはなにか、を追い求め、かつては男子生徒数人と関係を持った問題児。
だが、真夫とのSMを交えた行為で「本当の官能を知った」と言い、そのまま奴婢となった。
「うーん……正妻はないね……」
あさひ姉ちゃんの言葉は、少し笑みを含んでいた。
「まあ、俺もそう思った」
「芸術に生きてる子って感じ。善悪や常識より、自分の感覚を優先してる。そういうのって、すごく強いけど──正妻に必要なバランスとはちょっと違うのよ」
「それが七生の魅力だけどね。七生が、俺の奴婢になったのは、俺に魅力があったというわけじゃないというのは、理解してる」
真夫は笑った。
確かに七生は自由だ。命じれば従うが、それは忠誠心からではなく、好奇心の延長のような反応だった。
「あの子、自分が感じたものを絵や音にして表現するのは天才的だと思う。でも、その一方で、人とどう関わるかをあまり意識してない。誰かを守るとか、引っ張るとか、そういう責任はまだ理解してないと思う。気付いていると思うけど、あの子、いまだに、あたしたちの名前を覚えてないわ。名前で呼ぶのは真夫ちゃんくらい。あとは、全員“きみ”で通すもの」
言葉には、突き放すような冷たさはなかった。
ただ、現実としての線引きがあった。
「正妻は無理だね」
「自由なままなら、きっと誰よりも輝ける。だけど、正妻って、そういう自由をある程度は捨てる立場でしょう? 枠にはめたら、あの子、潰れちゃうわよ」
真夫は、静かに頷いた。
「うん……七生は、あのままでいい気がする」
「うん。奴婢っていうより、真夫ちゃんの芸術的な記録係みたいな役が似合ってる。真夫ちゃんの愛を、一番美しく残してくれる子よ」
「そうする。七生は自由に。いまのまま。できるだけ関与しない。そのうえで、できるサポートはしてあげよう」
「それがいいわ」
「次は……柚子ちゃんか」
真夫がそう言うと、あさひ姉ちゃんは、小さく目を見開いたあとで、ふっと肩の力を抜いた。
立花柚子── 一年生。
見た目は、可憐で可愛らしい少女。まだ中学生のような幼さもある。
でも、その正体は、国家レベルのシステムに何度も侵入したことがあるらしい天才ハッカー。
情報戦に長け、真夫の学園の中核システムにも入りこんできた。
ただ、好奇心の塊のような子。玲子さんが学園の機密データに入れていた真夫たちの性の記録を、システムに入り込んだときに見つけ、どうしても、調教して欲しいとちょっかいをかけてきた変わり者。
可愛いけど、正妻向きじゃない。それは真夫にもわかる。
「あの子は、すごいわよ。はっきり言って、あたしたちのなかでは、飛び抜けた実力がある。真夫ちゃんの傍に置く価値は十分にある。でも、正妻じゃないわね」
恵の声は、めずらしく即断だった。
「まあ、確かに。正妻はない」
「柚子ちゃんは、たしかに賢いし、従順でもある。でも──表の子じゃないわ。裏の人間。表になるのはやめた方がいいかもしれない。まあ、これから次第もあるけど」
あさひ姉ちゃんの言葉に、冷たさはなかった。
柚子のことを悪く言っているわけではない。むしろ、その能力を素直に尊敬していた。
「これから次第?」
「それに──正妻になるってことは、政治もついてくる。家柄や表舞台での立ち回りもある。柚子ちゃんは、そこに興味がないどころか、むしろ遠ざかりたいと思ってる節がある。正妻って、彼女にとってはストレスでしかないと思うの」
真夫は、小さく息を吐いた。
「じゃあ……どうする?」
「いまのままでいい。あの子は、いまの立ち位置が一番自然。裏の支援者。機密の守り手。誰よりも信頼できる影よ。でも、光の場所に出すべきじゃない。あの子自身が望んでないんだから」
「うん、わかった。柚子は柚子のままか……」
「だけど、将来的にはわからないわよ。彼女も変わっていくだろうし。まだ一年生だし」
「じゃあ、保留で」
真夫は、頷いた。
「次は……京子先生だね」
真夫がそう言うと、あさひ姉ちゃんはわずかに目を伏せて、静かに頷いた。
伊達京子──体育の専任教員。空手の達人で、腕っ節のある。
真夫たちが組織する「SS研」の活動に疑いを抱き、その内情を暴こうとしていた。だが、玲子さんの仕掛けた罠に嵌まり、拘束・監禁された。
正義感が強く、真面目な性格ゆえ、調教に強く抵抗していたが──真夫との倒錯した愛の交わりを通じて、やがてその官能から抜け出せなくなっていった。
解放されたあと、自ら望んで奴婢となり、真夫のもとに戻ってきてしまった。真夫を後継者と認めるにあたって、龍蔵から強要された十人の奴婢のうち、そうやって九人目となったという経緯だ。
「先生って呼んだほうが、まだしっくりくるね。年上だし、教員だし」
真夫は苦笑した。
「うん、あたしも京子さんって呼ぶと、なんだか落ち着かないわ」
あさひ姉ちゃんも笑った。
「でも──正妻には?」
真夫の問いに、あさひ姉ちゃんは少しだけ唇を引き結んだ。
ほんのわずかの沈黙ののち、丁寧に言葉を選ぶように言った。
「伊達先生は、立派な人よ。責任感もあるし、年下のあたしたちに対しても誠実。信頼できるし、強い。でも……やっぱり、真面目すぎるのはどうかな。京子先生には、正妻を演じることも難しいかも」
「うん……俺も、なんとなくそう思ってた」
「教員という立場もあるし、年齢も、家柄もちょっと違うし、正妻っていう象徴としての立場に、彼女を据えると、みんなとのバランスが取りづらいわ。ほかの子たちがついてこないというより、伊達先生が正妻ってなった瞬間に、空気が変わっちゃう」
それは、上下関係としての指導者と、女としての立場が重なりすぎるということだった。
真夫も、それはわかっていた。
「あと……彼女自身が、調教されたという記憶を、まだうまく整理しきれてないと思うの。真夫ちゃんのことは、きっと心から求めてる。でも、それが恋なのか、依存なのか、肉欲なのか……いまの伊達先生には、まだ見極められてない気がするの」
「厳しいね」
「そうかもね」
あさひ姉ちゃんは、そう言って頷いた。
「……最後は、九条あゆみか」
真夫が名を挙げると、あさひ姉ちゃんはひとつ息を吐いた。
それは、軽く気圧されるような、慎重な反応だった。
九条あゆみ──平安時代から続く由緒正しき名門・九条家の令嬢。
現在は大学生だが、投資家としてすでに確立した実績を持ち、破綻寸前だった実家を逆に支配下に置くほどの経済的才覚を持つ。
金城財閥の跡取りとされた金城光太郎──いまのひかり──と婚約していたが、ひかりが真夫の奴婢となったことで、玲子さんが圧力をかけた金城家から、婚約破棄の打診を受けた。しかし、ひかりを奪った相手が豊藤の後継である真夫と知り、婚約破棄を拒否して、豊藤との縁を繋ぐことを選んだ。冷静かつ打算に長けた女性だ。
真夫のことを知りもしないうちに、力で絡め取ろうと接近してきたが──あっさり返り討ちにして、いまは奴婢となってもらった。
「賢い人ね。感情で動かない。でも、……たぶん、一番怖い人かもしれない」
あさひ姉ちゃんの声音に、少しだけ警戒の色が混じった。
「そう?」
「ええ。真夫ちゃんのこと、好きかどうかもわからない。でも、正妻という座に何があるかは、誰よりも理解してるかもしれないわ。裏も表も知っていて、いまのあたしたちの力関係、政治的な影響、豊藤家の意味、すべて計算したうえで、自分の位置を決めている」
あさひ姉ちゃんの言葉には、ある種の敬意もあった。
「高評価だね」
真夫が苦笑すると、あさひ姉ちゃんは小さく頷いた。
「家柄、教養、経済力、判断力──すべてにおいて、正妻に相応しいわ。……光太郎さんの元婚約者という一点を除けば、だけど」
「たしかに……光太郎とは、ややこしいな」
あさひ姉ちゃんは、少しだけ眉をひそめた。
「もともと、あゆみさんが金城家との婚約を継続しているのは、真夫ちゃん……というよりは、豊藤家との縁を繋ぎたいためだし、真夫ちゃんが豊藤の後継者であれば、あゆみさんとしては文句はないわ。ひかりちゃんも、真夫ちゃんが命令すれば、九条家との婚約破棄に応じるだろうし、真夫ちゃんがひかりちゃんに、男の子を産ませれば、金城家の後継者問題も片付くと思うわよ。どうする?」
「どうするって……」
「あたしの評価としては最上位。正妻にふさわしい。彼女は、ちゃんと演じられるし、導ける。真夫ちゃんのそばに立って、支えるだけじゃなく、引っ張っていくこともできる。気が強いけど、彼女自身は、いま、真夫ちゃんを見くびっていない。ちゃんと力を見てる」
「なるほど」
「だから──いちばん正妻らしいのは、あゆみさん。ただ、問題は……」
「問題は、ひかりちゃんとの名目的な婚約破棄か」
「そういうこと。問題といえるかどうかわからないけど、真夫ちゃんの意思の問題ね」
「うーん、まあ、そういうことなのかな。じゃあ、結局、絹香とあゆみの二択ということか。これも、俺の意思次第?」
「そういうことね。あとは、真夫ちゃん次第よ」
「まあ、考えてみるよ。まだ、結論はいいだろうし」
「そうね」
そのときだった。
真夫の手元に置かれたスマホが低く震えた。画面には、ひとつの名が表示されている。
──工藤玲子。
「……玲子さんからだ」
思わず声に出していた。あさひ姉ちゃんも顔を上げる。
通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替える。
だが、すぐには応答はなかった。
沈黙。かすかに、呼吸とも嗚咽ともつかない微かな音が、スマホの向こうから漏れてくる。
「玲子さん……?」
真夫の声が、わずかに強まる。
すると、割れたガラスの向こうから掠れるような声が返ってきた。
「……ま……さ……ま……」
かすれていた。それでも、それが間違いなく玲子の声であることを、真夫は即座に理解した。
「玲子さん──。どうしたの──。いま、どこに……?」
焦りが混じる声を遮るように、スマホの向こうから、突如として絶叫が響いた。
「やああああぁっ──」
室内に緊張が走る。
「玲子さん──。どうしたんですか、玲子さん──」
あさひ姉ちゃんも声を失い、思わずスマホに向かって叫んだ。
「玲子さん──」
真夫も叫ぶ。
「玲子さんっ、どうしたの、聞こえるっ?」
しかし、その悲鳴の後、スマホの向こうの空気が変わった気がした。
今度は、男の声が聞こえてきた。
静かで、底冷えするような声音。
「……よくここまで来たな、真夫……。まさか、十人の奴婢を、これほど早く揃えるとは思わなかった。しかも、十人目は公家の令嬢というではないか……。よくやったわ」
その声に、真夫は瞬間的に背筋を凍らせた。
知っていた。忘れるはずもない。──豊藤龍蔵。真夫の実父を名乗る男の声だった。
「龍蔵さん? えっ、ちょっと待ってください。それよりも、どういうことでしょうか。玲子さんは、そっちにいるんですか──?」
真夫は叫んだ。
けれど、相手は動じなる気配もない。
「……継承の儀だ。明日の夜に行う。十人の奴婢を連れて、学園敷地内にある私のシェルターへ来い」
「ふざけるな──。とにかく、玲子さんを出してください──。いったい、なにをしたんですか──?」
言い終わらぬうちに、またしても玲子の絶叫がスピーカー越しに飛び込んできた。
「やあああああっ……」
「玲子さんっ……」
「玲子さん──」
真夫が叫ぶ。あさひ姉ちゃんもだ。
玲子さんの声が震えていた。
明らかに様子がおかしい。
「玲子は折檻中だ。どうしても継承の儀を拒んで、お前に伝えようとせんかった。だから、いまは──」
龍蔵の声が、冷たく、そして平坦に言った。
唖然とした。
継承の儀──。さっきもそう言っていたが、一体全体、それはなんなのだ──?
そして一拍の沈黙……。
「──玲子は裸にして、椅子に縛りつけ、電気を流している。正人に命じてな。強情な女だ。だが、誤魔化しはきかない」
「貴様っ……」
怒りの声を上げかけたそのとき、スマホの向こうから、絞り出すような玲子の声が響いた。
「……真夫様……継承の儀には……参加してはいけません──。それは、奴婢を……真夫様の女性たちを──龍蔵の家人に……抱かせる儀式……です……っ……。いぎゃあああああ──」
玲子さんが
それきりだった。
また絶叫がスマホから轟く──。
「やめろっ、やめろおっ──」
真夫は立ち上がり、スマホに向かって怒鳴った。
「真夫……よく聞け」
だが、返ってきた声は、まるで冷蔵庫の中に閉じ込めたような無機質なものだった。
「……継承の儀は、後継者としての通過儀礼だ。そなたが集めた奴婢を家人に与え、忠誠を誓わせる。そなたが真に家を継ぐに値するか、試す機会でもある。拒むならば──」
声がわずかに下がった。
「……玲子には二度と会えぬ。後継者としても認めぬ。……選ぶのは、そなただ。言っておくが、中途半端なことをするなよ。残りの九人の全員を連れてこい。女など道具だ。それが豊藤の総帥よ。覚悟を見せよ。明日の夜だ──」
そのまま、通話は一方的に切れた。
部屋には、静寂が落ちた。
スマホの画面が暗くなる音すら、耳に刺さるように響いていた。