193話 奴婢たちの決断
空気が張りつめていた。
学園内のS級寮の一角。かつて三つに分かれていた部屋が壁を抜かれ、ひとつの広い空間に改装されている。寄せられたベッド、中央に据えられたテーブル、窓際の柔らかな照明──あまりに静かなその場所に、十一人の少女たちが集まっていた。
玲子さんを除く、全員──。
あさひ姉ちゃん、かおりちゃん、絹香、ひかりちゃん、明日香ちゃん、柚子、京子先生、あゆみさん、七生、渚、梓。
説明は終わっていた。
豊藤龍蔵からの命令。玲子の拉致。継承の儀。
そして──操心術という異能の存在。
真夫自身が、その術の担い手であるということも……。
最初に沈黙を破ったのは、あゆみさんだった。
「……操心ねえ……。なるほど、そういうことだったんですね」
周囲が驚いたように彼女を見る。
あゆみさんは、平然としていた。艶やかな黒髪を指先で一度整え、続けた。
「私の家──九条家には、古くから伝わる話がありました。“豊藤に連なる血には、心を縛る技がある”と……。けれど、誰も本気にはしていませんでした。言い伝えのようなもので、そういうものは、ほかにもたくさんあります。でも、全部、眉唾物で……」
そして、目元にわずかな翳りを見せると、あゆみさんは真夫に視線を戻した。
「……でも、あなたが説明したことで、ようやく腑に落ちました。現実だったんですね──ずっと、闇の中に隠されていただけで。教えて頂いてありがとうございます」
表情は変わらない。ただ、静かに納得していた。
「……だったら」
声を重ねたのはかおりちゃんだった。
肘をテーブルについて頬杖をつき、不機嫌そうに眉を寄せている。
「なんで、わたしたちは、操られてないの? 操心術って、もっと……従わせる力じゃないの? あっ、それとも、操っている?」
「疑ってる」というより、「腑に落ちない」という風情だった。
「同感ですね」
低く落ち着いた声で、京子先生も続いた。腕を組み、どこか遠くを見るような視線。
「本当に、真夫君に人を操る力があるなら、そもそも“説明”なんて不要です。従わせたいなら、黙って支配すれば済むことでは? いえ、そもそも、信じられません」
言葉に刺はないが、疑念は隠していない。
明日香ちゃん、ひかりちゃん、絹香たちは──驚きの色を隠してなかった。
ただ、それでも、拒絶反応はなかった。
信じがたいとは思いつつも、思い返せば、どこか納得できる記憶があったのかもしれない。
「……皆の心に、直接“触れた”ことはないよ」
真夫が口を開いた。ゆっくりと、しかし確かに言葉を選びながら続けた。
「そういうことはしていない。感情を鈍らせたり、恐怖を消したり、苦しみを薄めたり……。そういう形で“支える”ことなら、何度か試した。でも、強制的に従わせたことは── 一度もない」
視線が交錯する。
「なぜ、そんなことをしないの?」
と、ひかりちゃんが問いかける。
真夫は、はっきりと答えた。
「そんなものに、価値がないからだ。誰かを“従わせる”より──自分の意思で傍にいてくれる方が、はるかに嬉しい」
沈黙が戻る。
だが、空気は、先ほどよりもやわらいでいた。
だが、静けさの中で、京子先生が口を開く。
「……信じられません、そんな話」
腕を組んだまま、わずかに顎を上げて真夫を見つめている。
「そう?」
真夫はわずかに口元をあげた。
別に信じてくれようが、信じてもらえなかろうが気にはしないが、真面目な京子先生らしいと思ったのだ。
「つまりは、催眠術を扱えるということですか?」
声には冷静さがあったが、疑いは明らかだった。
真夫は短く息を吐いた。
「催眠術……とはちょっと違うかな……。もっと、直接的なもの。人の心を支配できる。架空の記憶を植えつけたり、それとも、記憶を抜いたり。もっといえば、逆らえなくすることもできる。催眠術ではそんなことはできないはずだよ」
「でも、本当にできるなら──見せてください。証拠がなければ、納得できません」
京子先生はきっぱりと言った。
しばしの沈黙。
真夫は嘆息した。
「じゃあ……少しだけ、試してみますか?」
「え、ええ……」
京子先生子の視線が、わずかに揺れた。
「失礼しますね、京子先生」
操心術をかけるのに触れる必要も、眼を合わせる必要さえない。ただ。思うだけ。ほんの一瞬。これで、十分だった。
京子先生の瞳がすっと細くなる。
瞬きの間に、まるで奥の意識が一段階、沈み込んだように見えた。
「えっ、真夫君……いま、なにを……?」
言いかけたその言葉は、最後まで出なかった。
京子先生の動きが止まったまま、虚ろな目が彷徨いはじめる。視線は真夫に向いているようで、焦点が合っていない。
次の瞬間、ぴくりと肩が震えた。
「……暑いわ……」
足元がふらつき、かすかに膝が崩れる。胸元を押さえた指先が、そのままゆっくりと肌に沈んでいく。
自分でも理解できていないらしく、唇がわずかに開いたまま、息だけが浅く洩れた。
ゆっくりと、京子の両手がスカートの裾へと伸びる。
ひとつ、深い呼吸をしてから、静かにスカートのホックに指をかけた。
「えっ、えっ、なに?」
「なにこれ、どうしたの?」
誰の声かわからなかったが、周りの女たちが騒然となった。
真面目な京子先生とは思えない、官能的な表情と行動……。
誰も動けなかった。
だが、周囲に人がいるという認識も、京子先生から消えているはずだ。
羞恥も、理性も、警戒も……。
「……先生……?」
明日香ちゃんの戸惑った声が響いた。
だが、京子先生は反応しない。
静かに上着を脱ぎ、ブラウスをほどき、肌をあらわにしていく。
すでに、下着姿だ。
真夫の前へと、裸足のまま近づいてくる。
その眼差しは虚ろなまま、どこか熱を帯びていた。
「……ねえ、もう……我慢できないんです……」
京子の手が、真夫の胸元に触れる。
唇を重ねる動作が、戸惑いもなくなめらかだった。
押しつけるように、熱く、深く──そのまま舌が絡む。
背中に腕を回し、肌を押しつけてくる。
呼吸は浅く、体温は高い。完全に陶酔していた。
ひかりちゃんが顔を伏せ、明日香ちゃんも目を見開く。
かおりちゃんは「へえ、こいつ、こんな風に迫るの?」とちょっと面白がる感じ。
あゆみさんは、唖然としている。
渚と梓は、なにも言わずに真夫を見ていた。
だが、京子先生だけは、誰の声も視線も届かない場所にいた。
「せんせ……を……気持ちよくしてください、まお、くん……。せんせい、なんでも、しますから……」
甘えた声が、真夫の耳元で震える。
頬を寄せ、首筋に口づけを落とす。
熱っぽい息を吹きかけ、上気した瞳で見上げながら、甘えるように口を開いた。
「もっと……もっと、欲しいんです……。わたし……もう……」
その声が、あまりにも切実だった。
──だが、そこで真夫が静かに右手を京子の額に当てた。
操心術の効果を解除したのだ。
京子の身体がぴたりと止まった。
目の焦点が戻る。
頬に残っていた紅潮が、引いていく。
──そして、次の瞬間。
「……えっ、な、なにこれ……? いや……いやあああっ……」
悲鳴があがった。
京子が慌てて胸を両腕で隠し、片手でスカートを拾う。
身体を丸め、床に崩れるようにして、真夫と、そして室内にいた全員を見上げた。
「み、見ないでっ……見ないでよ……っ」
声は震えていた。
羞恥と混乱が、彼女の表情を引き裂いていた。
その場にいた誰もが、息を飲んだまま動けずにいた。
ただひとり、真夫だけが、静かにその姿を見つめていた。
「先生、理解できましたか? これが操心術です」
真夫はにっこりと微笑んだ。
京子先生はしばらく床にうずくまったまま、肩を震わせていた。
手にしたスカートをなんとか身体に巻きつけながら、それでも膝が止まらない。
頬は蒼ざめ、唇だけが赤い。
その様子を見ていた誰もが、言葉を失っていた。
──だが、その沈黙を破ったのは、七生だった。
「……なあ、先生。いまのって……どうだったんだ? 記憶、ないのか?」
その声に、京子がわずかに顔を上げる。
引きつったままの表情で、乾いた声を搾り出すように言った。
「……あるわよ。全部。なにもかも……っ。やったことも、言ったことも、ぜんぶ……」
言葉の端が震えた。
だが、嘘ではなかった。その目には、はっきりとした羞恥と自己嫌悪が宿っていた。
室内が、静まり返る。
その沈黙を、今度はあさひ姉ちゃんが破った。
「なるほどねえ……。だから、真夫ちゃんにさわられたら、びりびりってなるのね」
納得したように頷きながら言うその顔は、妙に明るかった。
「……びりびり? なによ、それ」
かおりが眉をひそめて聞き返す。
あさひ姉ちゃんは笑って答えた。
「だって、そうでしょ? 触られると、身体がね、びりびりって痺れるの。奥のほうまで。じわーって……。あれが操心術だったのねえ」
「なにそれ?」
かおりちゃんが呆れた顔であさひ姉ちゃんを見る。
一方で、真夫は苦笑した。
「いや……それ、ちょっと違うと思うよ。操心術って、もう少し……」
言いかけて、肩をすくめた。
説明しても、あさひ姉ちゃんはたぶん、聞かない。
場の空気が、少しだけ緩んだ。
京子も、まだ頬を赤らめながら、なんとか上体を起こし、スカートをはき直していた。
すると、再び、あゆみが口を開く。
「……ならば、真夫さんが後継者になるのは、当然のことだと思います」
淡々とした口調だった。
その目は、まっすぐに未来を見据えている。
「当たり前でしょう。こいつに豊藤を次いでもらわないとどうするのよ。折角、大逆転で勝ち組になれたと思ってたのに」
かおりちゃんだ。
「あんた、なんか言った?」
あさひ姉ちゃんがかおりちゃんを睨む。
かおりちゃんは、肩を竦める。
「いえ、わたしの言いたいのは、心を縛る力を持ちながら、使わずにいられる人間は、数えるほどしかないということよ。操れる者より、操らずにいられる者の方が何倍も強い。その意味で、あなた以外には、継承者としてふさわしい人はいないと思うわ」
その言葉に、誰も異論を挟まなかった。
重く沈んでいた空気が、わずかに揺らいだ。
そして、沈黙を破ったのは──絹香だった。
「いずれにしても……」
絹香は真夫に視線を向けた。
「その継承の儀に行かなければ、玲子さんは戻らず、真夫さんの継承も成らない──。そういうことですね?」
真夫は、短く頷いた。
「……ああ。そういうことになる……と思う」
真夫の答えに、室内の空気がまたひとつ重くなった。
それでも、今度は誰も黙ってはいなかった。
「はああ……。だったら、行くしかないわね。だけど、継承の儀──? あんた以外に抱かれろってこと──。ちゃんとやるけど、責任とりなさいよね。約束よ」
かおりが最初に口を開いた。頬杖をついたまま、どこか開き直ったような口調だった。
「責任って……」
真夫はかおりちゃんを見る。
「わたしたちが、他の男に抱かれたからって、捨てるなってことよ。わかってんでしょうねえ」
「いや、そんなことはしない」
真夫は困惑して言った。
「真夫さんのご命令であれば、覚悟はします。かおりさんと一緒です」
絹香だ。
だが、顔色は蒼い、
悲痛な表情をしている。
「絹香が行くなら、あたしも覚悟するよ。必要ってことだよね」
明日香が静かに言った。短く、だが力強い声だった。
「……あのう。念のために訊ねるけど……。ぼくも数に入るん……だよねえ?」
続けて、ひかりちゃんが顔をあげる。
「あったり前でしょう──。全員参加じゃないと、こいつが豊藤を継げないんだからねえ。縛ってでも連れていくわよ」
かおりちゃんが怒鳴ったような声をあげた。
「よくわからないけど、依存はないよ。真夫にはお世話になっているしね。玲子にもね」
七生も頷いた。
それぞれが、ごく自然に口を開いていく。
反論もなければ、ためらいもなかった。
真夫は、半分呆気にとられていた。
「……わたしも行きます」
京子先生が、かすかに頷いた。
誰もが視線を真夫に向ける。
「……わかった。ぼくも行く。でも、できれば、さっきの操心術というやつで、終わったら記憶を抜いて欲しいな。あっ、それと、できれば、そのときにも楽になるように……。だめかい?」
ひかりちゃんも頷く。
すると、かおりちゃんが横から口を開く。
「あっ、それいいわね。ねえ、真夫、操心術を使いなさいよ。言っておくけど、あんたに抱かれたとき、処女じゃなかったけど、でも、全員、本当は嫌なんだからね。終わったら、ちゃんとしてよ」
「大丈夫よ。みんな。真夫ちゃんに任せれば、なにもかもうまくいくのよ。だから、なにも考えない。真夫ちゃんに任せる。それでいいよね……。ねえ、真夫ちゃん。大丈夫だよ。好きなように命令して。真夫ちゃんのことみんな信じてるから」
あさひ姉ちゃんだ。
真夫を元気づけるように、真夫を後ろから抱きしめるような仕草をした。
「……ふうん、あんたたち、意外と頼もしいのね」
あゆみさんだ。
そのひと言が、なんとなく少し空気をやわらげた。
そのとき、不意に声が上がった。
「──あたしも、行きます」
それは、渚だった。
真夫が振り返る。渚はわずかに眉を寄せていたが、その目にはいつになく強い光が宿っていた。
「……渚?」
梓が渚の横で驚いたような顔になっている。
真夫は、言い淀んだ。だが、すぐにゆっくりと首を横に振った。
「いや、渚と梓は大丈夫。俺は、ふたりについても同じ“奴婢”で、ファミリィだと思っているけど……龍蔵さんは、ふたりを十人の奴婢の中に含めてないんだ。だから、今回は……」
「──それが嫌なんです!」
遮るように、渚の声が強くなった。
「十人に入ってないから行かなくていい? それって、ファミリィじゃないって言われてるのと同じです!」
「ちょ、ちょっと渚……」
梓が隣から低く声をかけたが、渚は一歩、ずいと床に座ったまま、真夫に向かって前へと進む。
「継承の儀に参加しないと、玲子さんは助からないし、真夫さんも継承できないんですよね? だったら、あたしが行かない理由なんて、どこにもないです──」
「でも、龍蔵さんについては……」
真夫は滅多にない渚の興奮した様子に困惑した。
「……だったら、あたしが十人目になればいいんです──。もう数の問題なら、誰かが抜けてもいいんでしょう? あたしも行きます。順番でも、年齢でも、血液型でも、なんでもいい──。どうやったって、あたしは……絶対に、行きます──」
室内の空気が一気に揺れた。
あゆみが目を見張り、京子先生が驚いたように口をつぐむ。
絹香は戸惑いを隠しきれず、ひかりと明日香が視線を交わす。
「あんた、なに言ってんの? 全然、意味がわかんないんだけど」
かおりがと肩を竦めて呆れたように息をついた。
「渚、どうしたの?」
ぼそりと漏らしたのは絹香だった。
真夫は渚を見つめた。
そこには、普段のような従順さも、曖昧さもなかった。
押し殺していたなにかが、いま吹き出している。
いや、これは──“渚”なのか?
「……わかったよ。じゃあ、一緒に来てくれ」
そう言ったとき、真夫は、ほんのわずかに胸の奥にざらつくような感覚を覚えていた。
──なにかが、微かに、ずれている。
だが、それがなんなのかは、まだはっきりとはわからなかった。
「あっ、なら、あたしも行きますからね」
すると、梓が慌てたように言った。
「まあ、とにかく、これで決まったよね。じゃあ、真夫、命令しなさいよ……。あれっ、そういえば、意思表示してないのが、まだいたか……。ねえ、あんた、さっきから、なにしてんのよ。話は聞いてたんでしょうねえ。言っておくけど、お前に拒否権ないわよ。こいつの継承権がかかってんだから……。ああ、ついでに、玲子のことも」
かおりちゃんが怒鳴ったのは、ずっと机に向かって、ノートパソコンに向かっている柚子だ。
一台のノートパソコンを前に、さらに両脇に一台ずつのパソコン。スマホを三個。ほかに、多分、なにかのハードディスクだろう機器を二台。これを全部繋げて一心不乱にさっきから、なにかを取り組んでいる。
真夫も、なにをしているのか知らない。
「聞いてます──。ご主人様のご命令には従います」
パソコンに向かっていた柚子がこっちを向くことなく、口を開いた。
「だから──。なにをやってんのよ──?」
かおりちゃんが大声をあげた。
でも、柚子は端末を立ち上げ、小さな指が、忙しなくキーボードを叩き続けている。
「玲子さんの端末です。……あたし、開いてみようと思ってるんです」
顔を上げた柚子の眼には、かすかに集中の熱があった。
「えっ、どういうことですか……? それは、玲子さんの……?」
絹香が問いかける。
「うん。置いてあったやつ……。玲子さんがいつも持ってたノートです。起動したら、ログイン画面で止まってたんです。でも、置いていってたんです。なにかの手がかりがあるかもしれないし……」
柚子の指が止まらない。
「えっ、なにかわかったことがあるのか?」
真夫は柚子のところに寄っていく。
ほかの女たちも集まってくる。
「うーん……。でも、簡単に開けないように、三重のセキュリティがかかってるです。解除に失敗したら、内部データが全部消される設定になってて……。だから──慎重にやってるんです……。だけど、もうすぐ開けますよ」
「もしかして、玲子さんの居場所が……それに?」
明日香ちゃんが息を呑む。
「いいえ、多分、直接の位置情報は入ってないかもしれません。でも、通信記録とか、アクセス履歴とか……手がかりはあるかもしれない。あの人のことですし……。あっ、行けました。ロック解除です──」
そのとき、画面が変わった。
柚子の手が止まる。
「……えええ──? また、ロック? 四段階目?」
柚子が悲鳴をあげた。
その言葉に、全員の視線が画面に集中した。
「これ……どういう意味なの?」
絹香が小さく声を漏らす。
画面には、十個のイラストが並んでいた。
蝶、手錠、鍵、時計、蛇、ハート、花束、ナイフ、ワイン、そして──エレベーター。
中央には黒い蜘蛛のアイコンが浮かんでいる。
「なんでしょう……。もしかしたら、この蜘蛛に、正しい“イラスト”を重ねるんだと思います。でも、これはちょっと解析できません」
柚子が小さく息を吐いた。
「解析できないとは?」
あゆみさんが訊ねた。
「間違えたら、全部アウトということです。おそらく、玲子さんにとっては間違えないようなことなんでしょう。でも、違うイラストを選んだから、全データーが消去すると思います」
柚子が大きく息を吐いた。
「なら、手錠よ。マゾのあいつなら、間違いないわね。蜘蛛も、拘束の意味なんでしょう。あいつは、真夫に束縛されたがっているのよ」
かおりちゃんが笑った。
真夫は、ひと呼吸置いて手を伸ばす。
"正しい”イラストがわかったのだ。
「──エレベーターだよ」
画面上のエレベーターをクリックする。
一瞬の間。
次の瞬間、画面が切り替わった。
解除成功の表示が、静かに浮かび上がる。
「……開いた」
柚子のつぶやきが、静けさを破った。
「……ほう、ひとつ、訊いていいか、真夫?」
七生が、ふと声を上げた。
「ん、なに?」
真夫は七生に顔をむける。
「なんで、エレベーターだったんだ? 蜘蛛に合うのは、もっとほかのもののあると思ってね。一番、蜘蛛に合いそうにない。わたしは、エレベータで蜘蛛を見たことはなくてね。もっとも、蜘蛛が拘束の象徴だというのは、この先輩に賛同だけど」
真夫は、わずかに目を伏せた。
「……玲子さんを最初に責めたのが、エレベーターだったからだよ」
その場が、少しだけ静まり返った。
「……ああ、そういうこと。むっつりスケベのくせに、あいつ……そういうとこだけ記念に残すのよね」
かおりちゃんが、笑いをこらえるように肩を揺らすと、ひとこと。
「まあ、納得です」
柚子は無言で操作を続けている。
画面が、静かに切り替わる。
「……なにかわかれば、ご報告します」
柚子がまた、ノートパソコンに集中する気配を示す。
真夫は頷いた。
すべての説明を終え、覚悟も確認された。
真夫は、全員の視線を真正面から受け止めた。
「……ありがとう。本当に……ありがとう」
そう言って、深く頭を下げた。
額が床につくほどの、深い礼だった。
誰も声を上げなかった。
だが、そこにあったのは、沈黙ではない。
全員が、その背中を見つめていた。
誰も、立ち上がろうとしなかったのは──その思いを受け取ったからだった。
しばらくして、あゆみさんが小さく口を開いた。
「……じゃあ、明日。やるべきこと、きちんとやりましょう」
「そうね。文句はないわ」
「ええ。がんばろうね」
絹香、かおりちゃん、ひかりちゃん、あさひ姉ちゃん……順に、短く応じる声が続いた。ほかのみんなも頷く。
自然に、空気がほどけるように和らいでいく。
窓の外には、夜の帳がすっかり降りていた。
「今日は、もう遅いし……解散しましょうか。明日に備えて、少しでも休んだ方がいい」
京子先生の言葉に、皆がゆっくりと立ち上がった。
いつもなら、寄り添って雑魚寝するのがこの部屋の当たり前だった。
だが、今夜ばかりは、それぞれが自分の時間を必要としているようだった。
「……じゃあ、また朝にね」
「おやすみ」
「なにかあったら、呼んでね」
誰ともなく、ひとり、またひとりとあてがわれている私室や、それそれの寮に戻っていく。柚子はまだ、ノートパソコンに向かったままだ。
全員がそれぞれの私室へと戻り、S級寮の共有スペースは、静けさだけを残していた。
少し遅れて廊下に出た真夫は、深くひと息ついた。
「……ちょっと、トイレに行ってくる」
呟くように、あさひ姉ちゃんたちに言って、部屋を出て、トイレに向かう。
だが、ドアの前で立ち止まり、ノブに手をかけたときだった。
背後に、かすかな足音がした。
「……真夫様」
振り向くと、そこには梓がいた。
静かに立ち尽くしている。
だが、その表情には、いつもの無表情とは違う、わずかな緊張と、決意のようなものがあった。
「……すみません。いま、少しだけ……いいですか」
「どうかした?」
真夫は、頷いた。
廊下の静けさのなか、扉はまだ開かれていないまま、ふたりの影が並んでいた──。