遮音ガラスの向こうで、夜景がかすかに瞬いている。
高層マンションの一室──。
外見はただのペントハウスだが、壁も床もシェルターなみに強化されているらしい。
この部屋でなにが起きようと、誰にも知られることはないそうだ。
真夫は、ソファを挟んで、秀也と向かい合っていた。
秀也はソファーには座らず、車椅子に乗っている。その横のソファに、時子婆ちゃんが座り、真夫の両隣には、玲子さんとあさひ姉ちゃんがいる。
継承の儀から、二日が経っている。
学園にあった、あの地下シェルターを含めて、密かにあった豊藤当主の隠れ処的なものは、いま急速に閉鎖を進めていた。財閥としての機能は、今後、あらゆる意味でもっと地下にこもり、闇に埋もれることになる。
あのナスターシャを解放したことで、もう彼女が監禁されていた記憶にある、あの場所一帯は使うことはできない。
そもそも、彼女が潜入を果たすことができたのは、あの学園が豊藤財閥の当主の拠点であったことが、異国の諜報組織に知られていたという証拠だ。
だから、いずれにしても、閉鎖するしかないのだ。
これについて、秀也からは即座に了承の返事を得ていた。
あの学園は、残り少ない秀也の余生の最後の道楽のようなものだったそうだ。すでに、健康が悪化していて、高校生のふりをするのも難しく、真夫の好きなようにしていいと言われた。
ただし、学園そのものがなくなるわけではない。
秘密裏に設けられていた“拠点”としての機能だけが、完全に失われるというだけのことだ。
「……結局、あのナスターシャ……。別人格の名前は、スカーレットだったか……? そいつには、真夫も秀也も死んだって暗示をかけて放逐したということになるんだな?」
秀也が口を開いた。
あの継承の儀で、真夫と秀也の暗殺を企てたナスターシャという外国人の女性に隠れていたスカーレットをいう別人格の女性……。あの後、真夫は、暗殺が成功したという暗示を与えて、放逐というかたちをとった。
「両方の人格にしっかりと、偽物の記憶を植えつけました。おそらく、暗示が解けることはないと思います」
真夫は頷く。
それにしても、驚くべきやり口だった。
健康な人間の心を拷問で意図的に毀して、別人格を作りあげ、それが隠れることで、操心術の支配から逃れ、密かに暗殺計画を進めるという手口だ。
ただ、死んだ正人も、あるいは、絹香の侍女だった渚にしても、別人格を仕込まれたのは、最近ではなく、随分と前だったらしい。つまり、別に真夫が豊藤の後継者だったから、そういう特殊な工作をした人間を準備したわけではないのだ。たまたま、「処置」の終わった者がいたから、真夫や秀也に近づけた……。
そういうことのようだ。真夫は、渚、そして、スカーレットから、操心術で心を解放させることで、全貌を知ることができたのだ。
そういう意味では、決して「操心術」は万全ではない。
ある意味、今回のことはいい教訓になったと思う。
「まあ、ちゃんと裏社会に行き渡るようになあ……。映像まで準備して……。まったく、お前……俺よりよっぽど策士じゃねえか」
秀也は声をあげて笑った。
「使える手は全部、使おうと思っていただけです」
「使える手ねえ……」
秀也が皮肉っぽく鼻を鳴らした。
「……シェルターは完全封鎖。証拠は処理中。元老たちも“新旧当主は死んだ”って思い込んでる──。でも、操心術の暗示だけは生きている。とりあえず、完璧な偽装だよ。まったく」
そこまで言って、秀也がふっと笑った。
視線が、玲子さんに向く。
「……で、その完璧な計画の中で、唯一役に立たなかったのが、お前だったってわけだな、玲子」
「……申し訳ありません」
「まあ、龍蔵を野放しにしてたのは俺だが、龍蔵ごときに監禁されたのは、お前の手落ちだな」
「それは、あんたが、この娘に、クリリングとかいうばかげた淫具を埋めたからでしょう」
時子婆ちゃんが呆れたように口を出す。
「そうだったか。まあ、とにかく、正真正銘、もう操作具は隠してねえ」
秀也が笑う。
真夫としては複雑だ。
玲子さんに装着されているクリリングの操作具は、全部真夫に渡したというのは、再三にわたって確認していた。
だが、結局、今回それを使って、玲子さんが捕らわれて、さらにそれを使った拷問を受けた。
「いや、それは、秀也さんの確認不足でしょう」
真夫としては、秀也に猛抗議したいくらいだ。
「い、いえ……。そうだとしても、もっとやりようがあったはずです。まんまと無力化されて、しかも、真夫様にご迷惑をかけるなど……失態です」
玲子は目を伏せた。
その肩を、真夫がすっとかばうように向いた。
「いいえ、玲子さんに問題はありません。今回は純粋な被害者です。それに、玲子さんがいなければ、この計画は成立しません。いくら、豊藤の当主が死んだと噂を流しても、裏付けがなければ信憑性がありません。その信憑性を、玲子さんを中心に作ってもらうつもりです」
「なんだ、その信憑性って?」
「死んだという噂が流れ、密かに知られていた当主の隠れ処が閉鎖されるという事実だけでは、信じさせるには不十分です。これから、豊藤に集中していた国際的な利益が、急激に悪化することになります。悪化といっても、取り返しのつかないものではありません。利益を集めすぎたがゆえに、敵もまた多かったのです。それを適度に分散させるつもりです。豊藤の後継者の死亡の噂とともに、財閥の利益が急速に悪化すれば、噂は本当だと信じる者も多いでしょう」
「なるほど……。だが、実際には、闇に紛れる部分を増やすだけで、大きな損失はなく、しかも、操心術の支配は拡げるから、いつでも取り戻せるということか」
「うまくいけばいいと思います。できれば、俺の女たちを守るためには、豊藤などというものは、本当に壊してしまいたいですが、なくなれば、護ることもできません。俺は、彼女たちを護るために、もっと。豊藤を強くするつもりです」
「わかった……。好きにしろ。だが、お前だけの知恵じゃねえだろう?」
「あゆみさんという、新しいファミリーに加わってくれた女性の提案です。玲子さんにも相談し、方針を決めました。俺が後継者になるとしても、俺は隠れていればいいかもしれませんが、彼女たちはそうはいきません。だから、豊藤という脅威はないということにします」
「……ふん。女の知恵を借り、女のために動く……。やっぱり、甘ちゃんだよ、お前は」
秀也は鼻を鳴らし、肩をすくめた。
その表情には、皮肉とも自嘲ともつかない、妙な余韻があった。
玲子が、静かに顔を上げる。
「でも……どうしても信じられないんです。あなたが、“龍蔵”だなんて」
玲子さんは、真夫に会う前には、豊藤のために働く傍ら、龍蔵の命令で、秀也の調教を受けていた。
だからこそ、秀也こそが、本物の龍蔵だというのは、いまだに半信半疑のようだ。
「おう、信じなくていいぜ」
秀也は淡々と言った。
「そもそも“龍蔵”って名は、歴代の当主が使ってきた“名義”みたいなもんだ。俺の本名は“秀也”。“龍蔵”を俺が演じたことはない。ずっと傀儡に名乗らせてきた」
「じゃあ……」
玲子が口ごもる。
「……わたしの記憶……あなたに、調教されていたという記憶も……?」
「ああ、かなり暗示が多いな。全部じゃねえが、少なくとも抱いたことはない」
秀也はため息交じりに応じた。
「本当……ですか?」
「……真夫に解いてもらったんだろ?」
「ええ……でも……」
玲子は苦しげに笑った。
「まだ、解けきれていないんです。なにが現実で、なにが暗示だったのか……頭の中で、全部絡み合ったままで……」
「なら、安心しろ」
秀也が微かに笑みを見せた。
「いろいろと遊んでやったのは本当だ。だが、お前の最初の男は──正真正銘、こいつだ」
視線が真夫に向く。
「そうだったろう、真夫?」
真夫は玲子さんの顔を見て、頷いた。
「……そうでしたね」
実際には、真夫と玲子が最初に愛し合ったとき、真夫が最初の男だったかどうかの確信などない。
秀也に犯されてないとしても、淫具による調教は受けていたので、処女膜は残ってなかったし、玲子さんは最初から、真夫と愛し合って潮を噴いてしまうほどに、敏感な身体をしていた。
でも、まあ、そういうことにしておこう。
玲子さんが、かすかに肩の力を抜く。
その直後──。
「“龍蔵”ってのはな、歴代の当主に背負わされる称号だ。……つまり、お前も、もう“龍蔵”だ」
「でも……俺は真夫です」
「わかってる。真夫のままでいろ」
秀也は頷いた。
「名前は変えるな。ただ──“名義”だけは、受け継いでくれ。この一族の“罪”と“力”をな。資産はすべて譲る。だが、“呪い”までは受け継がなくていい。解体してもいい。コア層を使って再構築してもいい。だが……強さだけは、捨てるな。放棄するな。お前なら、わかっていると思うがな」
「ええ。俺の女たちを護るために──必要なものですから」
「そうか……ならいい」
言葉を切って、車椅子の背にもたれ、視線を夜景に向ける。
そのまま、ひと息を吐いてから、ぽつりと呟くように言った。
「……静子って女がいたんだ」
静子──。
初めて聞く名だった。
真夫は、無意識に背筋を伸ばした。
「俺の恋人だった。……いや、唯一、俺が唯一の女だと信じた相手だった。あいつさえいれば、他になにもいらない。豊藤も、地位も、全部くれてやる。そう思えた女だった」
声は静かだった。
しかし、その内側に滲む熱が、空気を変えた。
「だが、あいつを親父が“継承の儀”に使うと言い出した」
言葉の意味が、一瞬で胸に沈んだ。
「三十人の男に差し出された。俺の目の前で、あいつは毀された。……あいつは、本当に俺を愛していた。だから、たぶん余計に──毀れた。気が強くて明るい女だったが、あれには耐えられなかった」
喉が痛んだ。
真夫は、息を飲んだ。
「止めたかった。だが、俺は……父親の操心術で、無力化されていた。なにもできなかった。見ていることしか──できなかった」
誰も、声を発せなかった。
「静子は、毀れたまま──自殺した。発作的だった。もはや、正気じゃなかった。……あの夜を境に、俺の中で、“なにか”が目を覚ました。怒りでも後悔でもない。……力だ。次は──護りたいと思った。誰も失いたくないと思った。それが、俺の操心術の原点だ」
重かった。
真夫は、今ようやく、その重さを知った。
秀也にも、こういう痛みがあった。
そして──自分が受けた“継承の儀”の、もうひとつの意味を知った。
「……知らなかった、そんなこと……」
「当たり前だ。誰にも言ってねえ。記録にも残してない。……静子という女の存在そのものを、全部消した。唯一、あいつがいた痕跡は、俺の中にしか残ってない」
言い切ったあとで、秀也は真夫を見つめ、頭を下げた。
「だから、すまなかったな。……お前に、同じ継承の儀を強いたのは、俺だ。……“儀”には力が宿るという伝承がある。異能が育つという……。時子には怒られた。だが、信じてしまったんだ。俺が、あいつを護れなかったことを──もう一度、繰り返したくなかったんだ」
しばらくの沈黙のあと──。
ずっと、黙っていたあさひ姉ちゃんが静かに口を開いた。
「……その女の人、静子さん──きっと、あなたのこと、誰よりも愛してたんでしょうね」
誰も言葉を返さないなかで、彼女は穏やかな口調のまま続けた。
「はあ?」
秀也があさひ姉ちゃんに視線を向けた。
「あたし、思うんです……。女が自分で死を選ぶって、ただの絶望じゃない。とくに……好きな男の前でそれをやるのは……愛のかたちの、いちばん極端なものなんじゃないかって。もちろん、褒められることではありません。でも、気持ちはわかります」
「気持ちだと?」
秀也がわずかに顔をあげた。
「だって……好きな人に、自分が自殺するような醜い姿を見せて、それでも目を逸らさず、最後まで見届けて欲しいなんて、普通、できないですよ」
あさひ姉ちゃんは、まっすぐに秀也の目を見ていた。
「彼女は、毀されたんじゃない。毀れることを選んだんです。あなたに、毀されていく自分を、見ていて欲しかった。どんなに汚されても、どれだけ惨めでも──あなたに愛された自分は、確かにここにいたって、証明したかったんだと思います」
言葉を区切り、静かに息を吸った。
「愛されてた記憶が残ると、人は生きられる。でも……その愛が、毀れるくらいなら、女は、自分の存在そのものを、毀したくなるんです。わたしには……それが、痛いほどわかります」
そして、そっと微笑んだ。
「彼女はあなたに、心を焼きつけたまま死んだ。……きっと、それが彼女の生きた証だったんです」
しばらくの沈黙があった。
誰もが、言葉を探していたのかもしれない。
あるいは、その言葉の重みに、踏み出すことを躊躇していたのか──。
ふいに、秀也の口元がわずかに動いた。
「……そうかもな」
ぽつりと、つぶやくように言った。
それだけの言葉だったが、十分だった。
あの秀也が、それ以上、なにかを語る必要もなかった。
彼の視線が、そっとあさひ姉ちゃんへと向く。
「……ありがとう。お前、ずいぶん……人の心に、優しい言葉を向けるんだな」
あさひ姉ちゃんは、いつものようにふわりと笑った。
「だって、真夫ちゃんが……あたしに、そうしてくれたからです」
「そうか……。いい女を拾ったな、真夫」
秀也が小さく微笑んだ。
「違うよ。俺が拾ってもらったんだ。まずは、あさひ姉ちゃんに、次に玲子さんに」
「ああ、わかった。だが……」
秀也が、ふと視線を宙にやった。
「……とにかく、静子の死は、俺にとって大きな出来事だった。あれ以来だ……。異能の力が一気に拡大したのは。そればかりか……あれから、俺の“見た目”がまったく変わらなくなった。年齢の話だ」
誰もが、息を呑んだようだった。
すると、時子婆ちゃんが顔をあげた。
「原因不明の老化停止症状”……医者はそう診断したわ。まるでフィクションみたいに“ハイランダー症候群”だの、“遺伝子の誤作動”だの、適当なことを言っていたわ。でも、結局、原因はわからなかった……。ただ、若いのは見た目だけのこと。中身はしっかりと老いてるわ……。でも、そのおかげで、わたしは苦労したわ。いつまでも若いこの人の横で、わたしばかりお婆ちゃんになるんだもの」
時子婆ちゃんがちょっと自嘲気味に笑う。
「お婆ちゃんだといっても、一緒に年をとったからな。俺にしてみれば、時子はいつまでも、最初に会ったときと変わらねえよ」
「そんなわけないでしょう」
時子婆ちゃんが相好を崩した。
秀也も吊られるように微笑む。だが、すぐに真面目な表情に戻る。
「……そのとき、思ってしまったんだ。継承の儀には、意味があるんだとな……。力の源なんだと。……あのときは、これしかないと思い込んでいた。あんな過去を背負ってでも、お前だけは、力を与えてやりたかった……」
そして、深く頭を下げた。
「だから、もう一度……すまなかった。あんな儀をお前に強要した……」
隣にいた時子が、そっと秀也の手をとるようにして、うなずいた。
「……わたしも、あのとき強く止めきれなかった。ごめんなさいね、真夫坊」
真夫は、なにかを言いかけて、唇を噛んだ。
そのとき──玲子さんが静かに声を発した。
「……でも、やはり、思うんです」
場の空気が、玲子さんに向く。
「……継承の儀というのは、単なる儀式でも、拷問でもない。“情”の力を媒介にして、異能を目覚めさせる──そういう意味があったのではないでしょうか」
「情だって?」
時子婆ちゃんだ。
玲子さんが頷いたあと続ける。
「はい。真夫様は、誰よりも強く奴婢を想ってくれます。だから、術が強まった。それと同じで、秀也さんも……静子さんを護りたかったという強い感情が、“力”を呼び起こしたのだと思います。──異能は、情で動く。わたしの仮説です」
玲子さんの目は真剣だった。
「面白い仮説だな」
秀也が笑った。
「ええ……。だから、“儀”が重要だったのではなく、“情”が伴った“儀”だったからこそ、意味があったのだと……わたしは思います。豊藤の歴代の資料には目を通しました。この仮説に、一応の筋が通っていることは確認してます」
その言葉に、誰もが思いをめぐらせるように沈黙した──。
玲子さんは、一度息をついてから、言葉を継いだ。
「……それから、もうひとつ。初代当主の記録を調べたとき、文献の一部に“操心術”ではなく“淫魔術”と記された形跡がありました」
「淫魔術……?」
真夫が思わず聞き返す。
「ええ。当時の表現ではありますが、いわば“女を想うことで発動する術”というような記述でした。荒唐無稽にも思えますが……今の話を重ねると、少しだけ筋が通る気がしてしまって」
玲子は恥じるように笑った。
「つまり……女性への強い想い──“情”こそが、この異能の源なのかもしれません」
その言葉に、時子婆ちゃんもあさひ姉ちゃんも、どこか納得したように黙っていた。
しばらく間を置いて──。
「淫魔術……か。俺たちの先祖も、だいぶロマンチストだったらしいな。まあ、そういうことにしておくのも悪くねえな。儀式より、情のほうが性に合ってるか」
秀也がふっと笑った。
「なんにせよ──おかげで、ちょっとは気が楽になった気がするぜ」
場が、わずかに和んだ。
誰もが、互いの顔を見たわけではなかった。
けれど、どこか、胸の奥にあった澱が、すっとひと筋、溶けていくようだった。
窓の外には、夜景。
どこまでも静かで、だが、確かに明かりがともっていた。
その光の一つ一つが──これからの自分たちの行く先を、遠く照らしているようだった。