2話 初恋の相手との再会
「待てよ、あんた」
その少女は、紛れもなく、あのときの娘だ。
電車で見たときと同じ洒落た刺繍のついたブレザーの制服だ。胸にある白と紺のリボンにも見覚えがある。
なによりも、真夫を認めたときに、さっと顔色が変わって表情が引きつったようになった。
間違いない。
その娘は、とっさに真夫から逃げるようにバスに乗り込みかけたが、そのときには、真夫はその娘の前を阻む位置にいた。
「話がある。俺には、その権利があると思う。あんたのせいで酷い目に遭ったんだ」
真夫は早口で準備していた言葉を発した。
本当は、あれも言ってやろう、これも言ってやろうと言葉を準備してあったのだ。
だが、真夫を見たときの怯えたような彼女の表情に触れたとき、なんとなく怒りが小さくなるのを感じた。
間近で見ると、やはり彼女は可愛らしい顔をしていた。
こんなとき、男は損なのかもしれない。
可愛らしい女の子の泣きそうな顔を見ると、ついつい情にほだされた気分になってしまう。
「あ、あの……」
その娘が言った。
そのとき、彼女が手提げ鞄に入れていたスマホが音を立てた。
驚いたことに、彼女は顔に恐怖の色を浮かべたかと思うと、真夫を無視して、さっとスマホを手に取って画面を確かめた。
そして、ほっとした顔になる。
なにを怯えているのだろう……?
真夫は違和感を覚えた。
「……ちょっと話がある。いいだろう」
とにかく、真夫は彼女に毅然と言った。
スマホを持ったままだった彼女は、はっとしたように顔をあげた。
どうやら、一瞬、真夫のことを忘れていたみたいだ。
「あ、あの……ひ、人違いです……」
すると、その娘は、また真夫の前から横に逸れて、バスに向かおうとした。
真夫は、その腕を掴んだ。
「な、なに?」
その娘がきっと真夫を睨んだ。
こんな険しい顔もできるのだと思った。
彼女はいつもなにかに怯えたような顔ばかりしていて、こんな風に感情を表情に出すことは初めてだと思った。
「なにじゃないよ。なんの人違いなんだよ。俺はまだなにも喋ってないぜ」
真夫は言った。
少女は困惑した顔になった。
真夫は手を離した。
「……いまさら、あんたを警察に連れていったりするつもりはない。ただ、話をしたいだけだ。そこのベンチでいい。ちょっと来てくれ」
「バスが出るから……」
その娘は呟いた。
さすがにかちんとなった。
「バスがなんだ。あんたのせいで、俺は学校を退学になった。バイトも首になり、住む場所もなくなった。友達も全部失くした。それは全部、あんたのせいだ。だけど、俺はあんたに謝って欲しいわけじゃない。なんで、あんな嘘をついたのか知りたいだけだ。それなのに、あんたは、バスに乗れなくなるのを気にするのか?」
怒鳴った。
少女が驚いたように顔をあげた。
「退学? うそっ? だって、わたしは警察には訴えなかったわ。痴漢は親告罪でしょう? だったら、警察には捕まらないはずじゃない」
よく知っていると思った。
言葉もしっかりとしているし、実は頭もいいようだ。
「警察に捕まらなければいいのかよ。警察から学校に連絡があり、俺は退学処分になった。学校からバイト先にも連絡があり、首になった。それがあんたのやったことだ。どういうことなんだか説明しろよ」
真夫は言った。
そのとき、バスを待っている者の多くが、こっちに聞き耳を立てていることに気がついた。
少女もそれに気がついたようだ。
真夫と少女は、さっきまで真夫が座っていたベンチに移動した。
「……ご、ごめんなさい……。あ、あのとき、わたし、気が動転していて……」
ベンチに着くとすぐに、少女が言った。
彼女はベンチに座ろうとしなかったから、真夫も座らなかった。
どうやら、彼女は立ち話以上のことはするつもりはないようだ。
「気が動転していて、痴漢ではなく、痴漢から助けようとした方を訴えるのかよ。冗談じゃないぞ」
「ご、ごめんなさい……。ほ、本当に……」
少女は頭をさげた。
しかし、その態度にはなんとなく薄っぺらいものを感じる。
本気で悪いと思っていないのだ。
それがわかった。
「あんたの制服、聖マグダレナ学園だよな? 山の方にある全寮制の私立だろう? そして、考えてみると、あのときの三人組も、やっぱり同じ学園の男子の制服だ。俺はあんたらがグルになって悪戯をしたんじゃないかと思っている」
真夫は言った。
この娘やあの三人組が、その学園の生徒だということは、後で調べてわかった。
平日は寄宿舎で寮生活だが、週末になれば帰宅も許可される。
そんな学校であることも知った。
あの日は、金曜日の夕方だった。
そして、今日も金曜日だ。
だから、駅で待っていたら、この娘に会えるんじゃないかと思ったのだ。
「そ、そんな……。悪戯だなんて……。そんなことはわたしは、しません」
「だったら、どういうことなんだよ?」
さすがに、のらりくらりと話を逸らそうとする彼女にむっとした。
すると、彼女が俯いたまま大きく息を吐いた。
そして、顔をさっとあげて、真夫を睨みつけた。
「あのときは申しわけありませんでした。で、でも、わたしだって酷い目に遭ったんです。あなたに助けられたために」
「俺に助けられたために酷い目に遭った?」
さっぱりわからない。
「とにかく、もう行きます。週末だから家に帰るんです。バスに乗ります」
少女はくるりときびすを返した。
「待てよ。話はまだだ」
真夫は再び少女の腕を浮かんだ。
「離して。声をあげますよ」
すると、少女が顔だけ振り向いて、真夫を睨んだ。
「声を出す?」
「そうです。声をあげます。そうすれば、捕まりますよ。あなたは、わたしに痴漢したということになっているんですよね。警察に訊ねられれば、あのときの痴漢にもう一度、町で呼びとめられて捕まりそうになったと言います。今度は親告します。きっと捕まるでしょうね。しかも重い罪ですよ」
唖然とした。
こんなに冷たい言葉が、こんなに可愛い少女の口から出るとは信じられなかった。
真夫は手を離した。
少女は逃げるように、まだ停車していたバスに駆けていった。
あることに気がついたのは、施設に戻るために乗った電車の中で、次の到着駅が乗り換えのためのターミナル駅だと告げたアナウンスがあったときだ。
スマホ……。
最初に真夫があの娘を呼び止めたとき、彼女は音が鳴ったスマホを怯えるように画面確認した。
そのときに、なにかの違和感を覚えた。
おそらく、あの音はメールの着信音だろう。
貧乏な孤児の寮生徒では、とてもじゃないがスマホなど無縁だったが、ほかの寮生徒は例外なく持っていたので、携帯電話やスマホについては知っている。
あのときの音はメールの着信を知らせる音だ。
そして、そのメールを怯えるように覗いた彼女の表情……。
さらに、彼女が最後に感情を吐き出すように叫んだ言葉──。
『わたしは、あなたに助けられたために、酷い目に遭った』
もしかしたら、彼女は脅されていた?
そういえば、一箇月前の痴漢事件で、駅員に連れられて駅員室に向かったとき、三人のうちのひとりが、しきりに携帯電話に触れていたような気がする。
つまり、彼女は、彼らに弱みを握られていて、あのとき嘘の供述をするように強いられたのではないだろうか……?
もしも、拒めば、彼女が困る事態になるというようなことで……。
それで彼女は、仕方なく駅員室に戻って来て、三人ではなく真夫を訴えた。
そう考えると、一応の辻褄は合う。
真夫は溜息をついた。
彼女を許すつもりにはなれないが、真夫の勘が正しいとすれば、可哀想だとは思う。
むかしから、勘だけは鋭い方だった。
きっと当たらずといえども、遠からずというところだと思う。
「真夫ちゃん?」
そのとき、声をかけられた。
若い女性の声だ。
真夫は顔をあげた。
「あさひ姉ちゃん?」
叫んだ。
そこにいたのは、紛れもなく、五年前に施設を出ていってから一度も会っていなかった
肩に大きな鞄を抱えて、白のシャツに紺色のスカートとジャケットを身に着けている。
髪は、最後に会ったときよりも短くなっていた。
そして、びっくりするほどにきれいな女性になっていた……。
年齢は二十一歳のはずだ……。
もう大人だ。
「やっぱり? もしかしたら、そうじゃないかと、ずっと見てたの。こんなところで会うなんてねえ。ところで、どうしたの? 旅行?」
あさひ姉ちゃんは、真夫が足のあいだに挟んで床に置いていた鞄に視線をやって訊ねた。
その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
真夫に再会して、とても嬉しそうにしてくれている。
それが嬉しい。
「あさひ姉ちゃんこそ、こんなところでなにしているの? というか、いまどうしているの?」
「ふふん……」
すると、あさひ姉ちゃんは、自慢気に鞄からパスケースを出した。
それは、中心都市にある国立大学の学生証だった。
「いまは大学生よ。花の女子大生。バイト掛け持ちで大変だけどね……。まあ、いろいろと援助とか受けながら、大学生をやってるわ。あたし、学校の先生になりたいと思っているの」
「きっと、あさひ姉ちゃんなら、いい先生になれるよ」
「ありがとう。真夫ちゃんにそう言ってくれると、誰よりも嬉しいよ。ところで、どこに行くの? 真夫ちゃんも学校に行っているんでしょう。高校三年生よね……」
あさひ姉ちゃんは、真夫が通っていた高校の名を口にした。
真夫は、あさひ姉ちゃんが、真夫の通っていた高校の名を知っているという事実にちょっと驚いた。
「……退学になったんだ……」
真夫は言った。
あさひ姉ちゃんは、眉をひそめた。
「どういうことよ?」
そのとき、電車がターミナル駅に到着するアナウンスが響いた。
「とにかく、話を聞かせて」
あさひ姉ちゃんは、真夫の手首をぎゅっと掴んだ。
「ひ、酷い……。真夫ちゃん、それで、なんで、そんなに落ち着いているのよ。もっと、怒りなさいよ。怒鳴りなさいよ。どうして、その女を逃がしちゃったのよ。ねえ、名前、訊かなかったの? 冗談じゃないわよ。もう一度、捜すわよ。電車で学校に通っているということは、同じ電車に乗るということよね。今日は金曜だから、月曜日の朝ね。次はあたしも行くわ。なんとしても見つけるのよ」
あさひ姉ちゃんはまくしたてた。
駅ビルにある喫茶店だ。
その一番奥の席で、真夫とあさひ姉ちゃんは向かい合っている。
そこで、真夫はあの冤罪事件の経緯について説明した。
すると、あさひ姉ちゃんは激怒した。
「落ち着いてよ、あさひ姉ちゃん。これは俺の勘だけど、もしかしたら、その娘は、その三人組に脅されているかもしれないんだよね」
「脅されている?」
あさひ姉ちゃんは怪訝な顔をした。
「うん」
真夫は頷いた。
そして、自分の考えを語った。
だが、あさひ姉ちゃんは、ますます怒ったようになった。
「脅されていようが、殺されそうであろうが、それで、真夫ちゃんを陥れていいということにはならないわよ。とにかく、あたしに任せてよ。ちょっと、許せないわ、その子」
あさひ姉ちゃんは、また怒鳴った。
「……だとしても、どうしようもないよ。謝ってくれたところで、もう一度復学するというのは無理だと思う。もう退学になったんだ」
真夫は首を横に振った。
「どうしてよ。その娘に、真夫ちゃんの高校の校長の前で、本当のことを喋らせるのよ。真夫ちゃんはなにもしてないのよ。それどころか、その子を助けようとしたんでしょう。それなのに、恩を仇で返すなんて──。あたしは、許せないのよ。そもそも……」
「でも、いいんだ──」
真夫は、強い口調で、あさひ姉ちゃんの言葉を遮った。
あさひ姉ちゃんは呆気にとられたように、真夫の顔を見た。
「……いいんだ。戻れるとしても、もう、あそこには戻りたくない」
真夫は静かに言った。
二年間の学校と寮の生活で、施設出身の自分をみんな受け入れてくれて、すっかりと仲良くなったものと思っていた。
だが、それは幻想だった。
真夫が痴漢をしたと学校に通報された途端に、友人だと思っていた者たちが、手のひらを返したように真夫を罵り始めた。
所詮は「施設の子」だと繰り返して悪口を言われた。
冤罪だと主張する真夫の言葉は無視された。
施設の子はやっぱり素行が悪いのだと、誰も彼もが言った。
誰ひとりとして味方はなかった。
もう、そんな連中のところには戻りたくはない。
真夫は、自分の想いを静かに語った。
あさひ姉ちゃんは、深刻な表情で真夫の言葉を聞いてくれた。
「……でも、泣き寝入りなんて絶対にだめよ。真夫ちゃんがよくても、あたしが許せない……」
そして、ぽつりとそれだけを言った。
それから、ちょっとだけ、考え込むような感じになった。
「……ねえ、真夫ちゃん、その子の学校って、聖マグダレナ学園だって、言ってたっけ? それは間違いないんでしょう?」
やがて、不意に訊ねた。
真夫は間違いないと応じた。
すると、ちょっと待っていて欲しいとだけ言って、あさひ姉ちゃんは、携帯電話だけを掴んで店の外に出ていった。
どうやら、どこかに電話をかけるようだ。
戻ってきたのは、十分後くらいだった。
「……明日の午前中、あたしの知り合いに会うわ。大学で講師をしたりしている男の人なんだけど、確か、その学園の関係者と言っていたと思うから、電話してみた。明日、会ってくれるそうよ」
あさひ姉ちゃんは席に座るなり言った。
「会ってどうするの?」
真夫は首を傾げた。
「しっかりしなさいよ、真夫ちゃん。真夫ちゃんを酷い目に遭わせたその連中を見つけるのよ。そいつらのやったことを学園に教えてやるのよ。そして、謝らせるのよ。そいつらこそ、退学になればいいわ。なんで、なにもしていない真夫ちゃんが退学になんてならないといけないのよ」
「そ、そんなにしなくても……」
「なんでよ?」
怒られた。
真夫は、ちょっとびくりとした。
すると、あさひ姉ちゃんは、すっと真夫がテーブルに置いていた右手に自分の手を伸ばして重ねた。
「いいから……。いい? これは施設の先輩としての忠告よ。あたしたちのような立場の者は、誰にも絶対に舐められちゃだめよ。どんな相手でも……。世間そのものでも」
あさひ姉ちゃんの顔は真剣だった。
その迫力に、真夫は思わずうなずいた。
すると、あさひ姉ちゃんが、ぱっと破顔した。
「とにかく、明日の午前中に、
否も応もない迫力があさひ姉ちゃんにあった。
真夫は、わかったと答えた。
明日に会うあさひ姉ちゃんの知人は、滝田という男の人らしい。
「……ところで、今夜はあたしのところに泊まってね。さっき、施設には連絡しておいたわ。真夫ちゃんは、あたしが預かりましたと言っておいた。任せてくれるそうよ」
「えっ?」
これにはちょっと驚いた。
女子大生のあさひ姉ちゃんのところというのであれば、ひとり暮らしだろう。
そこに泊まるということは……。
「汚くて小さいアパートよ。驚かないでね。布団だって一枚しかないから」
あさひ姉ちゃんは、白い歯を見せた。
「い、いいの?」
それだけを言った。
「なに言ってんのよ。真夫ちゃんがあたしのところに来るのが、だめなわけないでしょう……。言っておくけど、あたしの家に誰かが来るのは初めてだからね。本当に小さくて汚いから、誰も呼べなかったのよ……。恥ずかしくて……」
あさひ姉ちゃんがはにかむように言った。
「だったら、俺には恥ずかしくないの?」
真夫はからかった。
「だって、真夫ちゃんは、あたしの一番汚いところまで知っているから……」
あさひ姉ちゃんは顔を赤らめた。
「そんなの知らないよ。あさひ姉ちゃんは、とてもきれいだよ。昔から……。もちろん、いまも……」
「ばかね……」
あさひ姉ちゃんは、さらに顔を赤くした。
「……ところで、真夫ちゃんは、随分と男らしくなったね。見違えちゃった」
あさひ姉ちゃんが言った。
「お姉ちゃんこそ、びっくりだよ。本当に眩しいくらいきれいになってんじゃん」
真夫も言った。
すると、あさひ姉ちゃんがなにかを思い出したかのように、鞄をごそごそと探り出した。
そして、一本の紐を取り出した。
「……これは、あのときの浴衣の帯よ……。いつも、肌身離さずに持ち歩いているの……。これがあると、あたしは元気になる。寂しいときも寂しくない。つらいときも元気でいられる。あたしの宝物なの……」
あさひ姉ちゃんがすっと上目遣いで真夫を見た。
その顔は、とてもきれいで……。
そして、すごく淫らな色がしていた。