ガラス扉を開けると、コーヒーの匂いが漂ってきた。
都心の片隅、古びた雑居ビルの一階。
たまたま選んだ喫茶店だが、ジャズが静かに流れる店内に足を踏み入れたとき、かなり居心地のいい場所だと感じた。流行も、雑音も、若さもなく、それが、いまのみゆきには心地よかった。
三十五歳。週刊誌の特集班記者──。
そう言えば、肩書きとしては聞こえがいい。実際、若い記者にはそれなりに慕われているし、上も一目は置いているとは思う。仕事は充実している。
でも、プライベートは別だ。五年前に捨てられた恋人の顔を思い出す夜は、まだあるし、深夜にひとりで酒をあおる癖も、完全には抜けていない。
記者としては優秀でも、女としては──まあ、うまくいっているとは言えない。
「ああ、いい店ね、ここ。会社の近くにこんなところがあるなんて知らなかったわ……。また、来ようか、真夫。どうせ、仕事なんてほとんどないんだし」
「暇だったらね」
「いつも暇じゃないのよ」
みゆきと一緒に店に入った、「坂本真夫」と「白岡かおり」だ。
特ダネの記事にしようと、いま取材を重ねている案件があり、だめでもともとと、この坂本真夫に話を聞かせて欲しいと突撃したところ、こっちが拍子抜けするほどに、あっさりと受けてくれたのだ。
そして、まだ平日の昼間だというのに、彼の会社に近い、この店にやってきた。
白岡かおりは同行者。彼の「秘書」を名乗っていて、一緒についてきた。
ただ、みゆきとしては、都合がよかった。
彼女が、みゆきが取材を続けていた「相場まり江」、「伊達京子」、「西園寺絹香」、そして、「世良七生」と同時期に「聖マグダレナ学園」という富裕層を対象とする有名な私立高校の生徒だったことはわかっている。
三人で適当にテーブルを選ぶ。
みゆきと向かい合わせのソファに、二人が並んで腰掛けた。
「改めまして、週刊四季の黒木と申します。お忙しいところ恐縮です」
みゆきは名刺を差し出す。
「ああ、ありがとうございます……。名刺……。名刺だよね。かおりちゃん、俺の名刺、持っている?」
「あるわよ。はい、どうぞ……。あと、ちっとも忙しくないのよ。この人、会社でも有名な昼行灯だから。だから、こんな会社に出向扱いで追い出されたのよ。もっと有名な投資会社だったのにね」
かおりがビジネスバッグから、名刺入れを取り出して二枚出す。
名刺を受け取りながら、みゆきは内心でふたりを観察した。
男──坂本真夫は、落ち着いた感じだ。よく言えばだ……。悪く言えば、覇気がない。外見も地味。写真よりも……。いや、それ以上に。
やっぱり、見当外れだろうか……。
この大人しそうな外見と雰囲気で、あれだけの一流の女たちを妊娠させて、さらに貢がせている?
いや、でもこれまでの調査によれば……。なによりも、みゆきの勘が目の前の坂本真夫を引き当てたのだ。
〈株式会社アレクト企画運営 総務部業務課 嘱託主任・坂本真夫──。
名刺にある肩書きもぱっとしない。会社もだ。株式会社アレクト企画運営は、地域交流イベントの管理・企画を行う中堅企業である。
やっぱり、という思いと、それでも気になるという違和感がせめぎ合う。
彼は、大学卒業後、あの有名なアセットパートナーズ社に在籍していた。財閥系投資企業のエリートルート。しかし、たった一年で姿を消し、現在はこの会社へ。しかも閑職──。
〈株式会社アレクト企画運営 総務部業務課 嘱託主任秘書・白岡かおり──〉
もう一枚の名刺。真夫の閑職に秘書など必要なのかと、疑念しか湧かないが、白岡かおりというのは、実はあの白岡電機の社長令嬢だ。真夫の関係者ということで、彼女の経歴についても調査済み。
でも、どうして──こんなところにいるのだろう?
アレクト社など、地方興行やイベント施設管理を請け負う小さな企業だ。
そんな会社に、大手家電会社の社長令嬢が“主任秘書”として現れる意味がわからない。いや、そもそも、取締役でもない主任の秘書って、なに?
ただの“出向”や“縁故”で、こんな配属があるはずがない。
つまりは、そういうことなのだろう……。
ふたりにある、ある噂……。
おそらく、それが原因なのだろうなあ。
そう思うと、このかおりという女性に、同情半分、呆れ半分の気持ちが湧く。
いずれにしても、見た目のぱっとしない真夫に比べれば、かおりはとんでもない美女だ。髪は綺麗で、肌も白く、染みひとつない。童顔というわけではないが、三十歳に近い年齢とは思えない肌艶はいまだに高校生でも通用するかもしれない。
とにかく、この坂本真夫には、驚くほどに女性との接点が多い。
しかも、超一流の女性たちばかりだ。
肩書きばかりでなく、外見も。例外は、真夫と一緒に中規模の企画運営を請け負う会社に務めるこの白岡かおりだが、外見ということになれば、彼女もまた、人並み外れた美貌を持つ。それに、社長令嬢だ
そして、このふたりの関係について、もうひとつ調査済みの内容は、この真夫と彼女が男女の関係らしいということ。
でも、この冴えない男性と、白岡かおりが愛人関係だなんて、なんのゲームなのかと思う。しかし、このふたりが社内でセックスをする間柄だというのは、大して苦労せずに調査することができた。
結構、有名なカップルらしい。
だが、この真夫は、いまはふたりの目の妊娠により、産休で休んでいるが、恵という三歳上の高校教師の奥さんもいる。
つまりは、不倫だ。
この真夫とかおりが、一年もせずに、一流企業を揃って追い出されて、いまの会社に出向した理由──。
みゆきの予想するところでは、おそらく、不倫が発覚したのだろう。
それ以外に考えられない。
だから、かおりは、あの白岡電機の社長令嬢という肩書きがありながら、いまの会社に追い出されたのと思う。
馬鹿だなあと思う。
男で身を崩す。本当に馬鹿だと思う。しかも、見たところ、いまだに、このかおりは真夫と不倫関係のようだ。
だが、少なくとも、このふたりは、セックスについては充実しているのだろう。
ふたりが座る距離は凄く近い。この手のみゆきの勘は外れない。
だが、この年齢のわりには、枯れたような男が、奥さんにふたり目を妊娠させて、十年近くも不倫をするほどにセックス生活は充実している。
そう考えると、自嘲も混じる。
じゃあ、自分はどうなのだ。
昔は、男を見る目があるつもりだった。
でも裏切られて、傷つけられて、いまでは男そのものが面倒だと思っている。
最後のセックスは一年以上前。もう欲も枯れた──そう思っているが……。
そう考えると、いま、目の前のこの男が、どうしようもなく気になってくる。
どこにでもいるような顔。冴えないスーツ。
けれど、その眼だけが、ずっとこちらの奥を覗いてくる。
着席しながら、みゆきはふと窓ガラスに映った自分の顔を見た。
疲れて見えた。目尻にくっきりと皺が走っている。
数年前まで、化粧で隠せた小さな衰えが、もう戻らないところに来ていることに、気づいていた。
ウエイトレスがやってきて、注文を訊ねられた。
三人ともブレンドコーヒーを注文する。
しばらく、他愛のない会話をしてから、注文のコーヒーが来るのを待つ。
やがて、いい香りのコーヒーが目の前に並ぶ。
真夫がコーヒーに手を伸ばした。
さて、これからが本番……。
取材だ──。
みゆきは身を引き締めた。
「……ところで、そろそろ本題に入りたいのですが、よろしいでしょか?」
「どうぞ」
真夫が柔和に応じる。
「まず、単刀直入にお訊きしますね」
ブレンドの香りが、ほんのりと鼻をくすぐる。
みゆきはカップには手を伸ばさず、姿勢を崩さずに口を開いた。
「……坂本さん。あなたは、最近になって、未婚でお子様をお産みになった独身の著名女性たち──女優の相場まり江さん、西園寺グループのご令嬢の西園寺絹香さん、スポーツインストラクターの伊達京子さん、そして、芸術家の世良七生さん。……彼女たちの、子どもの父親じゃありませんか?」
さすがに、ふたりは押し黙った。
かおりは一瞬だけ視線を宙に泳がせ、すぐに口元に薄い笑みを浮かべる。
真夫は──眉ひとつ動かさず、コーヒーに口をつけた。
「さあ……それは、その人たちに訊いた方がいいんじゃないかな」
「ええ。訊いてみたいですね。けど、七生さんだけは、“彼”のことを匂わせました。“たくさんの女性に子を授けてる”って、取材に応じた雑誌で。『やっと、わたしの番が来た』とも。十二人の恋人、という作品名までつけて」
「ああ、あれね。確か、玲子が喋りすぎだって、叱ったかしら」
かおりがぽつりと思い出すように言った。
みゆきは、それを聞き逃さなかったが、いまは、あえて聞こえないふりをする。
「まあいいや、根拠は?」
しばらくしてから、真夫がやっと応じた。
「つまりは、否定はなさらないのですね?」
「どうかな。まあ、全部、聞いてみようか。どうして、そう考えたの? あんな超一流の女性たちの子供の父親が、こんな俺だなんて」
「……発端は、さっきの半年前の芸術雑誌の記事でした」
みゆきは静かに切り出した。
「……世良七生先生のインタビューで、ご自身が未婚の母であることを告白され、“ひとりの男性を愛する十二人の女性”──そんな言葉を仄めかされた……」
真夫は何も言わず、軽く眉を動かしただけだった。
「……そして、その前から、有名な女性たちが未婚で子を産むというニュースが、ちらほら出てました。女優の相場まり江さん、スポーツインストラクターの伊達京子さん、西園寺家の絹香さん。──もしかして、これは関係しているのではないか。そう考えたのが、取材の出発点です」
みゆきは言葉を区切った。
「……そして、取材を進めていくと、見えてきたものがありました。全員が十年前、あの聖マグダレナ学園の生徒、もしくは関係者だったという事実です。現在は、スポーツインストラクターとしてテレビなどでもご活躍の伊達京子さんは、当時は学園の体育教師でした。時期は一致しています」
「……なるほど」
「わたしは、共通の男性がひとりいると仮定し、当時の生徒たちを洗い直しました。そこから、彼女たち四人と仲がよかった男子生徒を絞り込んだ結果、たったひとりの名前が残った」
みゆきは、真正面から真夫を見据えた。
「──それが、坂本真夫という男子生徒です。編入生だったと伺っています。社会科学研究部の部長。当時の部員名簿を確認することができました。西園寺絹香さん、相場まり江さん、世良七生さん……あなたと、彼女たちは同じ部に所属していた」
「うわっ、SS研、懐かし」
かおりが思わず声をあげた。
そのひと言に、みゆきは情報の確かさを確信した。
「凄いね。優秀な記者さんだ」
「加えて、五年前のあなたの結婚式──奥様との式には、彼女たち全員が出席していますね」
「ほう……あの結婚式の内容には箝口令を敷いていたんだけど。よく情報に辿り着いたね」
真夫が口元をわずかに緩めた。
「そこまでを踏まえて、改めて、世良七生先生の“魔王と十二人の恋人”──あの絵を見たとき、中心に描かれている“魔王”の顔が、あなたに似ていると感じました」
真夫はわずかに頷いた。
「……それだけでは、根拠は薄いね」
「ええ。裁判ではありませんので。ただ、雑誌記事に載せるだけであれば、これだけでも十分ではあります。でも、わたしは誠意をもって、あなたにもお伺いしているんです」
みゆきは、少し声を落として言った。
取材の糸が切れそうになるたびに、顔を出すのは、坂本真夫という男だった。目立たないくせに、いつも中心にいる──そんな直感が、ずっと頭を離れなかった
そして、それは目の前にいても変わらない。
だからこそ、不自然すぎる。
平凡……覇気がない……つかみ所がない。
それが、坂本真夫という男……。
でも、実際、そんなことがあり得る?
そもそも、平凡な男とはなんだ?
大抵の人間は、平凡であり、非凡だ。まったく特徴がないというのは、それだけで大きな特徴だ。
いや、決して、彼は平凡ではない。奥さんがいながら、ほぼ婚姻期間と同期間の不倫を続けている男。大いなる非凡だ。それなのに、どうしても、平凡という印象しかない。
随分とおかしなことのように思う。
「なによりも、一番の根拠は、勘です」
「勘?」
「ええ、勘です。でも、わたしの勘は当たります。わたし、勘には自信があるんです。もう一度、お訊ねします。彼女たちの子の父親は──あなたですか?」
みゆきは問いを投げたまま、相手の反応を待った。
けれど、真夫は──ただ静かにコーヒーを口にしただけだった。
数秒の沈黙。焦らされているわけではない。それは、何かを秤にかけるような沈思だった。
「……なるほど、よく調べたね」
ぽつりと、彼が言った。
その声は、やわらかく響いたが、次の瞬間、みゆきのなかに、ひやりとした感触が走った。
「じゃあ──今度は、俺が話そうか。黒木みゆきさん。三十五歳。都内の中堅私大の文系学部卒。編集プロダクションに勤めてから、大手週刊誌の特集班に転職。記者歴、十年──」
静かな口調で、真夫が語りはじめる。
「……職場では、若手の教育係として評価されていて、上からの信頼もある。けれど、そこまで昇進意欲はない。理由は、上層部の女性の扱いを見てきたから。自分がそうなる未来に希望が持てない。──そうだよね?」
みゆきは、目の前の男の目を見ていた。冷静で、揺れがない。
だが、目の奥に、何かが見えた気がした。鋭いわけではない。
ただ──全部を知っている者の視線。
「……元恋人。名前は伏せるよ。五年前、浮気されて別れてる。結婚を考えてた相手。でも、あっさりと別れを告げられて、その夜にひとりでワインを二本空けた。以後、男とは距離を置くようになった。恋愛よりも、仕事が優先になった。……でも、完全に諦めたわけじゃない」
心臓がひとつ、大きく鳴った気がした。
「……でも、自分が“女”であることを、どこかで見ないふりをしてる」
みゆきの喉が、ごくりと鳴った。
「最後にセックスしたのは……一昨年の秋。たまたま再会した大学時代の同級生。二度目はなかった。そのあと、男性との関係は、途絶えてる。月に一度くらい“誰でもいいから触れて欲しい”って思う日が来る。でも、誰にも言えない。だから、ひとりで酒を飲む」
目の前のコーヒーが、すっと冷たくなった気がした。
「……血液型はA。几帳面なところと、妙に大胆なところがある。好きな体位は対面座位──だけど、それは相手と目が合う安心感があるから。自分でも気づいてないかもしれないけどね」
「やめて……」
声に出すつもりはなかった。それでも、微かに震えた声が漏れていた。
「……自慰の頻度は週に一、二度。月によってばらつきがあるけど、最近は減ってる。理由は自分の身体が昔と違うって、感じる瞬間がつらいから」
みゆきの頬に、汗のようなものが滲んだ。
「……結婚願望は、まだ消えてない。でも、“もう無理だ”って思う夜もある。だから、深酒する。月に何度か。職場の人間は、それに気づいてる。あなたを誘わなくなった若い子、いるよね?」
喉が痛かった。唇が震えた。
そこまで──そこまで、わかるものなのか。
目の前の男は、ただ微笑んでいた。
優しい顔だった。
なのに、背筋がぞくりと凍る。
「両親とは疎遠。地方の大学に通う年齢の離れた女子大生の妹がいる。名は早苗。今年の学園祭では、美人コンテストで一位。彼女の学費と生活費は、両親の代わりにあなたが仕送りをしている」
「……あなた、いったい……なに?」
その問いは、ほとんど息だった。
「早苗ちゃんは処女。でも、告白は日常茶飯事。しかし、同世代には興味はなく、全部断っている。ただ、セックスに関心がないわけじゃない。オナニーのおかずはSM写真。スマホに大量に保存してる」
「ば、馬鹿なことを言わないで──」
「そうだね。早苗ちゃんのことは余分だった。悪かった」
坂本真夫は、静かにコーヒーを啜った。
さらには、なにも言わなかった。
みゆきは、背中に冷たいものを感じていた。
「ところで、あなたの質問への答えに移ろう。イエスであり、ノーだ」
「イエスであり、ノー?」
みゆきは無意識に繰り返していた。意味が、つかめなかった。
真夫は静かに頷いた。そして、カップをそっと置いてから、やや姿勢を正した。
「君の質問は、彼女たちの子どもの“父親”が俺かどうか、だったね」
「……ええ」
「じゃあ、事実から話そうか。俺の子どもは、まず──妻である恵とのあいだにひとり。名前は
さらりと言われたその言葉に、かおりが横で小さく笑った。穏やかで楽しげな笑み。
「それから、君が挙げた四人──相場まり江、西園寺絹香、伊達京子も、確かに“俺の子”を孕み、産み、一緒に育てている。世良七生は妊娠中。ただ、誰ひとりとして、戸籍上、俺の名を記してはいない」
みゆきは、思わず息を呑んだ。
目の前の男が、まるで他人事のように語るその事実の重さに、頭がついていかない。
「でも、それだけじゃないんだ」
真夫は、何気ない調子で続けた。
「ほかに、工藤玲子という女性。それと、金城光太郎と金城あゆみの夫妻を知っているよね?」
「もちろん。経済界でも名の知れた──」
「ふたりとも、昔からの知り合いさ。というか、あゆみさんの旧姓は“九条”。公家筋の出身だってことも、君なら知ってるはず」
「ええ……ええ、もちろん」
みゆきは頷いた。名前を挙げられるたびに、背中に氷を流し込まれていくような感覚だった。
だが、そのあとに続いた言葉は、さらに次元が違った。
「──あの夫婦のふたりの男の子。長男と次男ね。あの子たちも、俺の子だよ」
まるで、雑談のように告げられた。
みゆきの頭が真っ白になる。
「えっ……その、あゆみさんと……不倫、していたということ?」
「うーん」
真夫は少しだけ笑った。まるで、子供の質問に答えるような表情で。
「それも、イエスでもあり、ノーかな」
「……は?」
「正確にはね。あの男の子を産んだのは、あゆみさんだけじゃないんだ。表向きはそうなってるけど、長男を実際に産んだのは──ひかりちゃん。金城光太郎の方だ。次男はあゆみさん」
思考が、完全に追いつかなくなった。
「え?」
「そういうこと」
真夫は、カップを持ち上げた。口元に近づけたまま、続ける。
「俺の子どもは、いまのとこ七人。妊娠中がふたり。その全員に血の繋がりがある」
淡々と語る声が、逆に恐ろしかった。
何人もの著名な女性──一流の、美しく、聡明で、自立したはずの女性たち──が、この男に子を孕まされていた。
「つまり……お認めに……?」
「そうだね。……さて、黒木さん。ここまで聞いておいて、当然、覚悟はあるんだよね?」
真夫は、カップを置きながら静かに言った。
声色は変わらない。けれど、空気がほんのわずかに冷たくなった。
「……まり江や京子先生の話なら、笑い話で済むかもしれない。でも──金城家の話は、少し事情が違う。あそこの家系は、血統と面子で動いてる。知っての通り、あの家の当主はまだ健在で、昔気質の人物だ。……秘密を守るために、多少の犠牲を厭わないって話もあるくらいでね」
かおりが、わずかに頷いた。
「もちろん、俺は君を脅すつもりはない。けれど、取材の自由には、時々、想像以上の代償がついてくることがある。……君は、きっとそのあたり、よく知っているだろう?」
みゆきは、喉に何か詰まったような息苦しさを覚えながら、黙ってその言葉を受け止めた。
そして、自分の顔から血の気が引き、指先が震えてくるのがわかった。
「わ、わたし……記事にしません。約束します」
みゆきは思わず言った。
頭の芯が冷え、喉が乾いていた。
取材対象ではなかった。触れてはいけない存在に、触れてしまった。職業記者の直感が、耳鳴りのように警鐘を鳴らしていた。
金城家──。
その名前の重みを、職業柄、みゆきはよく知っている。
万が一、真夫の話に真実が混ざっていたなら──自分はもう記者ではいられない。
いや、それどころか、生きている保証さえない。
目の前の真夫は、コーヒーを口に運びながら、落ち着いた声で言った。
「……どうかな。君は多分、ここでの話をもう記事にしようとは思わないだろう。でも──俺は、確実に今日のことを、ひかりちゃんに報告するつもりだよ」
「ひかりちゃん?」
「金城光太郎……。次期、金城家の当主だよ」
その名を聞いた瞬間、みゆきの背筋が強ばった。
「そ、そんな……」
「俺にはね、妻が何人かいてさ。秘密は作らない主義なんだ」
「それ、絶対、嘘よ──」
かおりがすかさず茶々を入れる。
「まあ、全部が全部じゃないかもしれないけど。……でも、今回のことは報告する。大事なことだからね。かなりの確率で、金城家にも伝わる……。あなたが、このまま帰ればのことだけど……」
真夫は笑みを崩さずに言った。
その口調に、威圧も怒気もなかった。ただ、静かで──逃げ道がなかった。
「どうしたら……」
「君が選べる道は、ふたつだ」
「は、はい……」
その言葉に、みゆきは硬直したまま頷く。
「ひとつは、このまま帰ること。記事にしても、しなくても、自由だ。……ただ、どう転んでも、結果は同じような気がするけどね。正直、俺はお勧めしない」
淡々とした口ぶりだった。
だが、その「同じ」という言葉のなかに、抗いがたい圧があった。
「……も、もうひとつは?」
喉がひりついた。声が震えるのを抑えきれない。
すると、真夫は隣にいるかおりに視線を向けた。
「……もうひとつは、わたしたちの“玩具”になることよ」
冗談とも本気ともつかぬ口ぶりで、かおりが答えた。
「玩具……?」
みゆきは意味がわからず、声が裏返った。
「わたしたちのこと、取材してるってことは、知ってたのよ。だから、あんたのことも調べたの」
「そ、それは……」
「最初は、単純に処理だけする予定だったけど、丁度、実験したいことがあってね。どうせなら試してみようかということになったのよ。あなたみたいな女でも──この人に抱かれれば、どうなるのかって」
その瞬間、空気が変わった。
「実験……?」
「そう。この人ね、ちょっと変わってるの。セックスの相手に不思議な影響を与えるのよ。肌が綺麗になったり、感覚が鋭くなったり……。なにかしらの能力があがったり……。まあ、いろいろね」
「なに言ってるの……?」
セックスとすると綺麗になり、能力があがる?
だったら、全ての女が彼に抱かれに来るのではないかと思った。
「それが本当かどうかは、わたしたちにもまだわからないのよ。でも、もし──」
かおりが言葉を切って、にやりと笑った。
「──あんたみたいな、しおれかけた女でも、美人になって若返るようなら、この人の“力”は本物ってことになるんじゃないかって、みんなが言うのよ」
「──しおれた女って、なによ──」
さすがにカチンときた。
思わず、言い返す。
「つまりは、そういうことだ」
すると、真夫がかおりに持たせていた小さなスポーツバッグを受け取って、みゆきの前に置いた。
「これがもうひとつの選択肢だ。この店のトイレを借りて、中に入っているものを装着する。それだけだ……。あるいは、さっき言ったとおり、このまま帰るかだ。好きなようにするといいよ、黒木さん」
真夫は、スポーツバッグを静かにみゆきに向かって押し出す。
冗談にしては、空気が重すぎた。
みゆきは、おそるおそるそのバッグに手をかけ、ファスナーを少しだけ開いた。
「なっ……」
次の瞬間、バッグの中身を見たみゆきは、思わず椅子をきしませて立ちあがった。
中に入っていたのは──革製のTバック型の下着だった。
しかし、それはただの下着ではなかった。クロッチの内側には、異様な黒いディルドが二本、硬くそびえていた。ひとつは細長く、もうひとつはやや太く、先端がわずかに曲がっている。明らかに、女の穴とアナルに挿入するための形状だ。
しかも、潤滑用らしきローションの小瓶まで添えられていた。
「な、なに、これ……」
みゆきの頬が蒼白になり、震える声が漏れた。
「言ったでしょう。玩具だって」
かおりが悪びれもせずに言った。
「その革の下着を身につけてきなさい」
「──狂ってる……。頭、おかしいんじゃないの……」
喉が詰まるような息苦しさに襲われ、みゆきは言葉を搾り出すのがやっとだった。
「そう? ああ、それと、その下着の上に身につけていいのは、スカートだけだから。余計なものを重ねたら、条件に応じる意思なしとみなすわね。いまの下着は、そのバッグに入れてきて」
かおりはくすくすと笑う。
その余裕がぞっとする。
「そんなの、わたしが受け入れるとでも」
「どっちでもいいわよ。受け入れなければ、このまま帰ればいい。この人がそう言ったでしょう。でも、そのときには、どうなるかしら。あんたも、妹さんも」
「早苗に? あの子に手を出さないで──」
妹の名を出されて、みゆきは思わず逆情した。
「どうかしら? 早苗ちゃんも、勝ち組に乗りたいと思うかもしれないわよ。ねえ、真夫、姉妹姦にも興味あるでしょう?」
「俺はそんなに鬼畜じゃないよ」
「でも、向こうが望んだら?」
「なら、興味あるかも」
真夫が笑う。
みゆきはぞっとした。
「な、なに言ってんのよ。妹に手を出したら承知しないわよ──」
「じゃあ、その革の下着を着けて戻るのね。行ってらっしゃい」
かおりは、ゆっくりとコーヒーを口に運びながら、冷ややかな笑みを浮かべた。
冗談などではなさそうだ、
もう一度、バッグの中を見て、そして、真夫とかおりを見る。
これは本気だ……。
みゆきにはわかった。
「さて、どうする?」
真夫が言った。
それまでと同じ穏やかな声音だった。
けれど、みゆきは、その声に含まれたなにかに、思わず身体を強張らせた。
──いま、なにかが、変わった。
そう思った瞬間だった。
目の前に座っている男の姿が、さっきまでと、まるで違って見えたのだ。
平凡で、冴えない男──。
そう思っていた。
写真うつりより実物の方が地味で、覇気も色気もなかった。
だからこそ、あり得ないとさえ感じていたのに。
──違う。
いま、目の前にいる男には、はっきりと「圧」があった。
顔立ちは変わっていない。けれど、空気が違う。
この小さな喫茶店の空間が、彼の存在に吸い寄せられるように、沈黙を強いられているようにさえ思えた。
どうして、いままで気づかなかったのだろう。
この男の、眼差しの強さ。沈黙の中に滲む支配の匂い。
座っているだけなのに、腕を組んだわけでもないのに──なぜだろう、抗いがたい圧力のようなものが、そこにある。
「幻滅」と思っていた自分の評価が、音を立てて崩れていくのを感じた。
みゆきの額に、冷たい汗が滲む。
そして、気づいた。
──これは、演技じゃない。
さっきまでの「凡庸さ」が演技だったのだ。
あるいは、見せられていた「幻」だったのだ。
なぜ、自分はこの男を、冴えないと思っていたのだろう。
そう問い返そうとして、言葉が喉に詰まる。
真夫は、ただコーヒーを口にしていた。
表情も変わらない。口元は笑っているようにさえ見える。
けれど──その男の眼差しが、全てを見透かし、すでに「答え」を知っているように思えた。
みゆきは、ゆっくりと椅子を引いた。
スポーツバッグを持ち上げた手が震えていた。
しっかりとした重みのあるバッグだった。
トイレは店の奥にあった。そこに入る。
ストッキングを脱ぐ。
もう三十五歳だが、取材のときには使えるものは使うつもりで、いつも膝上のスカートをはいている。
せめて、ズボンにすればよかったと後悔した。
とりあえず、いま身につけている下着を脱ぎ、改めて、バッグの中にあった革の下着を手に取る。二本のディルド──。よく見れば、それだけでなく、前部分に小さな丸い突起があった。
意を決して、内側にローションをたっぷりと塗り、ディルドを股間にあてがう。
最初に、大きなディルドを華唇に打ち沈める。
「くっ」
大き過ぎることはないが、存在感は圧倒的だった。
そして、小さい方のディルド……。
もちろん、アナルは未経験だ。
怖いので、さらにローションを塗り足す。
「うう……」
二本のディルドを少しずつずらして、前後の胎内に落ちつかせる。
最後に、ベルトを右の腰の横でフックさせた。
カチリという音がして、金属音が鳴った。
「えっ?」
電子ロックのような音。
気がつくと、鍵穴もなく、簡単には外れないものだとわかる。
胸騒ぎがした。
だが、もうどうしようもない。
みゆきは、スカートを直すと、身につけていた下着とストッキングを小さく丸めてからバッグに入れ、そのバッグを抱えて、外にでる。
「ううっ」
股間に違和感が襲う。
よろけそうになるのを、みゆきは下腹部を手で押さえるようにして、再び歩く。
真夫とかおりが待っているテーブルに戻った。
「戻ってきたな。それがあなたの選択ということだね」
真夫が微笑みながら、内ポケットからとリ出したスマホを操作した。
その瞬間だった。
突然に、前の穴を貫いていたディルドがバイブレータとなって動きだしたのだ。
「うんっ」
なにが起きたのかもわからなかった。
みゆきは腰を折ってスカートの前を押さえていた。
だが、強烈な刺激が身体の内側を襲って、貫き続ける。
「や、やめてっ」
まさか、ディルドが動くとは思わなかったのだ。
みゆきはがくがくと両膝を擦り合わせて、真夫を見る。
ここは店の中だ。
必死に身体を真っ直ぐにしようと思うが、刺激が邪魔をして背筋を伸ばせない。
すると、やっと振動がとまった。
「はあ、はあ、はあ……、な、なにを……」
愕然とした。
「ああ、言い忘れてたけど、もしも、あのローションを使ったんだったら、あれ、媚薬だから。とんでもない掻痒剤。すぐに痒くなるから覚悟してね、みゆき」
かおりが笑った。
みゆきは唖然となってしまった。
「いい顔になったよ、みゆきさん」
真夫の声が、静かに胸に落ちた。
「ほんと。ちょっと可愛くなったかな。いい顔よ。大丈夫よ。あんたは、いずれ、この出会いを幸運だと思うようになるわ」
──なにが、幸運よ。
そう思ったはずなのに、唇は動かなかった。
多分、気づいていた。
女として、捨てたはずの生をあの男に、拾い上げられるのだろか……。
ふたりが立ちあがった。
みゆきの荷物は当然のようにかおりに回収された。財布もスマホも取りあげられる。
「じゃあ、しばらく散歩しようよ。大丈夫だよ。悪いようにはしない。約束する」
真夫とかおりに挟まれるように、店の外に出させられた。
日差しは眩しかった。
みゆきは泣きたくなってしまった。
──だが、なにかが始まる。
そんな勘がみゆきを襲っていた。
みゆきの勘は当たる。勘には自信がある。
最後は、ちょっと鬼畜めに(笑)……。
中断を挟みながらも、200話にわたるSМ官能小説にお付き合いいただき、ありがとうございました。
数字の切れのよいところで、これにて完結です。
読んでくださったすべての方へ、心からの感謝を。