最後の自動検問を通過するときに、助手席に置いてあった通信端末にメールの受信を報せる振動と緑色の表示が点滅していることに気がついた。
恵は、車を発信させる前に、手を伸ばしてメールの画面を見た。
発信者の欄には、登録されていない発信者らしく見知らぬアドレスが表示されていたが、件名欄には “緊急 白岡かおり”とあった。
恵は首を傾げた。
かおりは、なにもかも玲子に没収されて、真夫の従者生徒として、S級寮にやってきたはずだ。
かおりが持ってきたのは、身につけていた灰色の従者生徒用の制服のみであり、ほかの持ち物は一切なかったはずだ。
もちろん、通信端末のたぐいはない。
真夫が持っているスマホのアドレスは登録しているので、それを借りたとすれば、“真夫ちゃん”という表示が出るはずなのだ。
そのとき、通過許可の標示とともに、ゲートが解放された。
ここから先は、完全な学園内の敷地だ。
侵入者防止の高い外壁があり、それを越えて、しばらく両側を壁に隔てられた一本道が続く。
そして、警備員と係員のいる詰所があり、そのにも内壁がある。学園の施設はその向こうだ。
恵は、一度車を発信させて、学園側に車を移動させると、路肩に停めて通信端末をとった。
“真夫君の件で電話して”
メールにはそうあった。
連絡先の電話番号もある。
少し不自然さを感じた。
だが、躊躇ったものの、とりあえず、電話をしてみた。
果たして、電話に出たのはかおりだった。
「どうしたの、かおり? 真夫ちゃんになにかあったの?」
「そうなの……」
電話の向こうのかおりは、少し口調が変だった。淡々としていて、感情が少しも揺れない感じだ。
それでいて、どことなく、そわそわしている感じだ。
「なにがあったのよ?」
「そ、それが……」
かおりは、言いにくそうだ。
しかし、真夫のことだと、かおりは言った。
わざわざ、知らせてくるのだ。
なにかあったに違いない。
「早く、言ってよ」
恵は少し苛立って言った。
しかし、はっとした。
「いじめ? もしかして、真夫ちゃん、教室でなにかあったのね?」
とっさに思ったのは、真夫に対するいじめのことだ。
玲子も心配していたし、ここは超一流のエリートの家庭の子息だけが通うような学園だ。
恵と同じ孤児院出身の真夫が学園の生徒に受け入れられないのではないかという懸念は、玲子もしていた。
だから、そうじゃないかと思ったのだ。
「そ、そうよ。そうなの……。真夫君をクラスメイトとして受け入れられないっていう騒ぎがあって……。先生もうまく対処できなくて、とりあえず、わたしも真夫君も一度、寮に戻りなさいって……。先生が言うには、真夫君のいないところで、みんなで話し合うことにするからって……」
かっとなった。
真夫の敵は、恵の敵だ。
真夫に失礼なことをするのは許せない。
だが、孤児に対する謂れのない偏見と差別は、簡単には解決できないということもわかっている。
少しずつ、実際の行動で信頼と信用を得るしかないのだ。
恵にはもちろん、玲子にも、かおりにもどうにもならないだろう。
だが、真夫を慰めることはできる。
これは、同じような境遇の恵にしかできないことだ。
「真夫ちゃんは、どうしてるの?」
「寮よ。わたしも……」
「すぐにいくわ」
かおりは電話を切った。
再び車を発信させる。
詰所の横を通過して、学園施設内を走らせた。
だが、すぐに停まることになった。
いくらもいかないうちに、道端にかおりがいたのだ。
こっちに手を振っている。
この辺りは、一般寮のエリアであり、いまの時刻は生徒がいないので、ひっそりとしていた。
恵は訝しんだ。
かおりは、真夫とともに、特別寮にいるはずではないか?
ここから、特別寮までは少しある。
どうして、ここにかおりが……?
「ここで、なにしているのよ、かおり……?」
恵は車を路肩に停めて、外に出た。
ぎょっとした。
突如として、顔に白い覆面をしたジャージの集団がわらわらと、建物の陰から出てきたのだ。
五人──。
屈強そうな身体の大きな男たちだ。
この学園の生徒?
なぜ──?
……ということを考える暇もなく、彼らが恵を捕らえようとしてきた。
誰かに助けを……。
通信端末──。
しまった……。
車の中だ……。
そのときには、車と恵のあいだに、ひとりに身体を入れられていた。
「誰か──誰か来て──」
絶叫した。
しかし、この付近にはいま、誰もいないのは明白だ。
覆面の男たちも、慌てた素振りはない。
恵を取り囲み、さっと手元から、なにかを出した。
スタンガン……。
それが五個……。
逃げられない……。
背中に冷たいものが走る。
その直後、その五個のスタンガンが恵に押しつけられた。
恵は崩れ落ちた。
そこに、一台のワンボックスが静かに近寄ってきていた。
ワンボックスが停車し、扉がスライドして開く。
覆面の男たちが、倒れているかおりを抱えあげて、強い腕力で押し込もうとする。
抗おうとする気持ちがなくなったわけじゃないが、痺れきった身体はまったくいうことをきかなくなっていた。
声を出そうにも、舌も口も動かない。
「この一帯の監視カメラを解除できるのは五分だけだそうだぜ。それ以上は警報が鳴るはすだ。急げ」
襲った男のひとりがほかの者に言った。
声は若い……。
この学園の生徒か……?
かおりを真ん中のシートに座らせると、左右の扉から五人が次々に乗り込んでくる。
それほど精練された行動とも思えなかったが、男たちは素早く真ん中のシートの恵の両側と後ろに座り込み、恵の口に布を詰め込んで、その上からボールギャグをつけた。
さらに、革の枷で足首を床に、両手を後ろ手に拘束する。
「走らせろ」
左隣の男が命じた。
車が動き出す。
朦朧とする意識の中で、恵はパニックに陥った。
あの恐怖症の発作だ。
男性恐怖症の発作が出たのだ。
すさまじい恐怖心が恵に襲いかかる。
全身から汗が吹き出し、痙攣のような震えが走った。
「んんっ、んんがっ、んんっ」
恵は拘束されたまま暴れた。
「うるせいなあ。もう一発、スタンガンをくれてやれ」
左の覆面の男がそう言うと、すぐに後ろと横からスタンガンの衝撃が襲った。
意識を失う直前に、車の窓ガラス越しに見たのは、走り去る車をなにをするということもなく、ぼんやりと路肩から眺めるかおりの姿だった。
「よくやったな。これで、あのサルたちは、調子に乗って、あの孤児の女をレイプしまくるだろうね。脅迫の材料にしろとけしかけたから、自分たちの犯罪の証拠をしっかりと撮影しながらね」
不意にくすくすという笑い声とともに、横から声がかけられた。
だが、激しい苦しみがかおりを襲っている。
頭が割れるように痛い。
とにかく、息が苦しい。
「う、ううっ……」
かおりは、その場にしゃがみこんでしまった。
「おやおや、下手にかけられた暗示に逆らおうとするから、身体が葛藤で苦しむんだよ。自分のやったことを受け入れるんだ。そうすれば、心と感情のズレがなくなって、苦しいのが消えるさ」
また、声がした。
誰の声かは、わかっている。
まさとだ。
あの秀也の従者であり、真夫の編入に不満を抱いている竜崎に、真夫の恋人が恵であることを教えて、恵が学園内でレイプされれば、真夫はすぐに学園を去るだろうとけしかけ、それを実行させた張本人だ。
竜崎は、真夫がやって来る前は、S級生徒のひとりであり、真夫が学園にやって来たことで、降格してA級になっていた。
竜崎はそれを逆恨みしていて、恋人が酷い目に遭えば、真夫は学園を去るだろうと教えると、すぐに手下となる者を集めて実行に移した。
このすべての絵図を描いたのは、このまさとだ。
ただし、本人はなにも動いていない。
すべては、かおりがやったことになっている。
かおり自身が竜崎に恵のことをけしかけ、恵がひとりでいる時間と場所を教え、あの五人が恵をさらうのを協力さえした。
しかも、その一帯の警備カメラが、拉致の五分間だけ作動が止まるように細工をしたことを教えもした。
かおりが監視カメラのことなど知っているわけがなく、それはまさとから知らされたことだ。
だが、竜崎たちは、かおりが監視カメラの細工のことを伝えると、ただそれを信じた。
なぜ、かおりがそんな工作ができるのかなど、訊ねられもしなかった。
しかし、わからないのは、なぜ、かおりがそれをやったのだろうかという動機だ。
いまのかおりには、真夫と恵を学園から追い出す理由はなにもない。かおりは、真夫の奴婢であることを受け入れたし、いまや恵は友達といえる間柄だと思っている。
なにより、かおりは、真夫に鬼畜に辱しめられることをすっかりと悦ぶようになりつつある。
真夫や恵をひどい目に遇わせる理由はない。
それなのに、かおりは恵を罠にかけさせて、恵を連れ去られるに任せた。
なぜだ……?
とにかく、頭が痛い……。
もう、なにも考えられない……。
しかし、考えるのをやめてはならないと、かおりの中の誰かが心で叫んでいる。
かおりは、歯を食い縛った。
「驚いたねえ……。まだ、抵抗しているのかい? 本当に狂っちゃうよ……。やめなよ。自分がやったこととを受け入れるんだよ。そうすれば、楽になるったら」
まさとが呆れたような声を出した。
かおりは、顔をあげて、きっとまさとを睨んだ。
荒い息の中から、懸命に言葉を振り絞る。
「あ、あんたよ……。あんたが……やらせた……。あんたが……変な……言葉を……言うと……頭が……ぼんやりして……、そ、それで……いいなりに……」
そうだ。
思い出した。
まさとが現れて、かおりの耳元でフランス語の詩をささやくのだ。
それがきっかけとなり、かおりの意思は消え、その言葉に従う人形になる。
そして、命じられるまま、竜崎にコンタクトをとった。
そもそも、かおりは、もともと竜崎やその取り巻きのような粗野な連中が嫌いだ。
すき好んで、かおりから竜崎に接触するなど、あり得ない……。
しかし、まさとの唱える言葉で、なぜか操られたような感じになり、幾度か竜崎に連絡をした。
最終的に、恵を捕らえさせることもした……。
頭が割れる……。
吐き気もする……。
かおりは、またもや頭を抱えた。
「へえ……。驚いたねえ……。なんで、記憶を留めておけるのさ? 自分のやったことは記憶に残っても、俺のことは記憶できないはずなんだけどねえ……」
「あ、あんたよ……。あんたが……わたしを操って……」
懸命に声をあげた。
いや……。
そもそも、このまさとのほかに誰かがいた気もした。
ぼんやりと思い出す……。
あのフランス語の詩を耳元でささやいて……。
これを耳にしたら、このまさとの言葉に従えと言われたような……。
若い……。
紺と紫のブレザーの制服……。
真夫と同じS級生徒……?
だが、まさとがけたたましく笑って、かおりの思考は中断した。
「誰かに操られただって? そんなこと誰も信じないよ。とにかく、竜崎のレイプはすぐに明るみになるさ……。まあいいさ。それこそが、こっちの狙いだしね。あの女が出ていけば、真夫も出ていかざるを得ない。とにかく、ああいう竜崎のような男は、自分には特権があると信じ込んでいて、孤児院出身の女を犯すことを犯罪とも思ってないからね。なにをしても許されると思ってるんだ……」
まさとが憎々しげに言った。
その口調は、特定の誰かに怒っているというよりも、もっと大きな何かに腹をたてているという感じだった。
「お前もそうなんだろう? 一流企業の会長の孫娘だから、孤児のひとりくらい冤罪にしても、悪意の欠片もなかっだろう? だから、あの真夫が無実にも関わらず、放校になったような羽目になっても、なんでもない顔をして生活できたんだ。あんたらのような家の者はみんな、そう思うのさ。庶民は虫けらだってね」
まさとが、さらに強い口調で、かおりを罵った。
「わ、わたしは……わたしは……」
頭が痛い……。
なにも考えられない……。
だが、かおりは罪を犯した。
それは正しい……。
真夫を痴漢の冤罪に陥れ……。
なにもしなかった……。
罪の意識……。
あまりなかった……。
僅かな金と祖父へのコネで、なんとかすればいいと考えてしまった。
真夫をひどい目に遭わせた……。
深い後悔が襲う。
「……お前はひどい女だ。主人生徒を裏切るなんて、お前がやりそうなことだ。いいか、お前は孤児のくせに、自分の主人生徒になった真夫が気に入らなかった。だから、罠に嵌めた。竜崎をけしかけたのはお前だ。それ以外の事実などない。なにしろ、お前は自分が一流の家の出身だから、自分がその孤児の奴婢生徒になるなど許せなかったんだ。だから、真夫も恵もここにいられないようにしようと思った」
大きな声がした。
なぜ、怒鳴られているかわからない。
なにを叱られているかも、判然としない。
だが、かおりが、ひどい女だということはわかる。
自分は悪い女だ……。
「お前は裏切り者だ。竜崎が捕まったとき、竜崎はお前にそそのかされたとはっきり言うさ。それ以外のことなど、知らんしな。そして、お前も、それを認める。なにしろ、お前は悪い女だ。裏切り者だ。いいか──。それを頭に刻み込め──。お前はひどい女で裏切り者──。だから、恵を陥れた。ほかになにもない。記憶にもない」
かおりは、悪い女で裏切り者……。
ほかに記憶はない……。
それを認めると、あんなに苦しかった呼吸が楽になった。
頭の痛みも消えてくる……。
「わ、わたしは……ま、真夫君を……裏切った……」
かおりは呟いた。
「そうだ。お前は真夫を裏切った……。これでいい……。あいつに、女など信頼に値するものではないということを教えて、この学園を去らせるのが、あの人の望みだしな……」
誰かが言った。
まるで独り言のような口調だったが、そこにいるのが何者か思い出せない。
なにもかも、ぼんやりとしている。
「お前は悪い女だ。顔をあげろ」
かおりは、その言葉のままに顔をあげた。
その顔に不意に唾がかけられた。
「きゃあああ」
かおりは、悲鳴をあげて、尻餅をついてしまった。
「お前は裏切り者だ。それに相応しく生きな。このまま、なにも知らないと白ばっくれろ。真夫たちが出ていけば、お前は元のA級生徒だ。孤児の連中など、気にするに値しねえ……。十まで数えろ……。そしたら、俺との記憶がすべて消滅する……」
誰かが立ち去っていく。
しかし、かおりは、やらなければならないことをやるだけだ。
十までの数字を数えるのだ。
「一、二、三……」
数えるにつれ、苦しいのは消えていった。
かおりは、悪い女で裏切り者だ。
その思いがだんだんと大きくなる……。
「……十……」
はっとした。
ここがどこなのか、すぐにはわからなかったが、どうやら、ここは生徒寮の近くだ。
ひとりだ。
周りには誰もいない。
ただ、一台の軽自動車があった。
誰も乗っていないようだ。
それにしてもわからないのは、なぜ、かおりがここにいるのかということだ。
かおりは、真夫の奴婢生徒になって、特別寮で暮らすことになったのだ。
この一般生徒棟は、かなり特勉寮とは離れている。
そして、ぎょっとした。
急にすべてを思い出したのだ。
かおりは真夫を裏切って、竜崎たちに恵をさらわせた。
しかも、レイプをけしかけた……。
目の前の自動車は、恵が乗っていたものであり、かおりがそれをここで停めて、竜崎たちが恵を襲撃する機会を作ったのだ。
ぞっとした。
なんていうことをしたのだろう……。
身体から血の気が引くのがわかった。
かおりは裏切り者だ。
だから、それに相応しく行動しなければならない……。
そのとき、かおりの頭にその言葉が響き渡った。
白を切れという言葉も浮かんだが、それよりも、かおりは悪い女だという言葉がすべてを支配した。
かおりは裏切り者で悪い女だ。
それに相応しいことは、“ご主人様”に罰を受けることだ。
それ以外になにがあるというのだろう。
かおりはふと、恵が乗っていた車を覗き込み、助手席に通信端末があることに気がついた。
操作をすると、かおりの知りたい電話番号があった。
電話をかける。
少し時間がかかったが、相手が出た。
真夫だ。
「もしもし、どうしたのかおりちゃん?」
「真夫君……、いえ、ご主人様……わたしは悪い女で裏切り者です……。どうか罰を与えてください……」
かおりは言った。