「……あたし、施設に連れていかれるまで、ずっとお父さんに犯されてた……」
あさひ姉ちゃんが語り始めたのは、一枚の布団の中で、真夫とあさひ姉ちゃんが天井を向いて並んで横になって、すぐだった。
真夫は下着一枚を着ているだけだったが、あさひ姉ちゃんはしっかりと下着とパジャマを身に着けている。
浴場の中であさひ姉ちゃんが興奮したように泣き始めたとき、真夫は慌てて浴場の外に走って、あさひ姉ちゃんにしていた首輪と手錠を外した。
あさひ姉ちゃんの気は完全に動転していて、とてもじゃないが、一緒にSMを愉しむというような状況ではなかったからだ。
なぜ、真夫の求婚にあさひ姉ちゃんが泣き出してしまったのか……?
あさひ姉ちゃんが、大学をやめ、このアパートも引き払うというのはどういう意味なのか……?
真夫は、すぐに問い質したかったが、なんとかそれを自重した。
少し落ち着く時間を与えてあげれば、あさひ姉ちゃんが真夫にそれを語ってくれるだろうというのがわかっていたからだ。
「随分と長くエッチしてたね、あさひ姉ちゃん」
浴室からあがると、できるだけ明るい口調に聞こえるように真夫は言った。
そのときは、まだあさひ姉ちゃんは、なにかに追い詰められたような顔をしていたが、一瞬、きょとんとした表情になり、そして、くすりと笑った。
「……真夫ちゃんて、すごくエッチなんだね……。あたし、知ってたつもりだったけど、外で下着を脱がされたときはびっくりしちゃった」
あさひ姉ちゃんが微笑みながら言った。
「でも、あさひ姉ちゃんも興奮したでしょう? もっとやりたいなあ。あさひ姉ちゃんって、リモコンローター持っているよね。今度、使ってみようよ。ねっ、いいでしょう?」
すると、見ていて面白いくらいに、あさひ姉ちゃんが真っ赤になった。
あさひ姉ちゃんがひとりエッチのために集めていた道具は、どれも封を切らずにいたものばかりだった。
あさひ姉ちゃんは、いやらしい道具を買っただけで、あとは、使うことを想像して、エッチな気分になって満足していたらしい。
だから、実際には外でそんなことはやったことはないと思うが、リモコンローターとかを買ったということは、そんなプレイにも大いに興味があるということだ。
「い、いいよ……。真夫ちゃんがしたいなら……」
あさひ姉ちゃんが真っ赤な顔のままもじもじしながら言った。
「うん、したいよ。やりたいこといっぱいあるよ。これから愉しみだね。でも、今日は終わり。エッチじゃなくて、お話ししよう」
真夫は言った。
言外に、風呂で叫んだことに関して、語って欲しいと伝えたつもりだった。
「ばかね……」
あさひ姉ちゃんは、それだけを言って、バスタオルで身体を覆った。
それから、温めた弁当を食べて、一缶ずつのビールを飲んだ。
真夫は下着だけをはき、あさひ姉ちゃんはパジャマを身に着けてた。
食事のときに話したのは、他愛のないことだ。
好きな芸能人とか、映画とかの話だ。
ただ、真夫はほとんどテレビは見ない生活をしていたし、あさひ姉ちゃんも勉強とバイトで忙しい日々を送ってばかりだったので、芸能人の話はあまり弾まなかった。
ただ、真夫は本を読むのが好きだったが、あさひ姉ちゃんも読書好きだということがわかった。
真夫が本が好きになったのは、図書館ならただで本が借りられるからというのが大きかったが、あさひ姉ちゃんも頻繁に図書館で本を借りるらしい。
だから、今度、一緒に図書館に行こうとか、そんな会話をした。
そして、寝支度をして、ふたりで一枚の布団に横になった。
電気を消して、部屋が真っ暗になると、あさひ姉ちゃんは語り始めた。
「……あたしのお父さんは、どんなことでも我慢ができない人……。欲しいと思ったらどんなことでも我慢できなくなるの……。だから、うちにはいらないものがいっぱいあった。その代わり、借金もあったみたい。お父さんとお母さんはいつも喧嘩してた……。多分、お父さんは浮気もしていたと思う……。お父さんは、我慢できない人だから……」
真夫は口は挟まなかった。
その代わりに、布団の中であさひ姉ちゃんの手をぎゅっと握った。
「聞いているよ」という合図だ。
すると、あさひ姉ちゃんも真夫の手を強く握り返してきた。
「……もともと、あたしの家は壊れていたのかもしれない。でも、本当に壊れたのは、お母さんが死んだとき……。外で買い物をしているときに倒れてそれっきり。あたしは、お母さんが倒れたって、学校で教えられて、すぐに病院に行ったけど、そのときには、お母さんは死んでた。本当にあっという間……」
「十歳のとき?」
真夫は訊ねた。
あさひ姉ちゃんが施設にやって来たのは、あさひ姉ちゃんが十歳のときで、小学校四年生のときだったからだ。
しかし、すぐに、真夫はあさひ姉ちゃんのお母さんが死んだのは、九歳のときだと教えてもらっていたことを思い出した。
「……九歳。小学校三年生……。でもね……、そのときに、お父さんが壊れちゃったの……。お父さんはお母さんを大事にはしてなかったけど、いなくなったら壊れちゃったの……」
「壊れた……?」
「うん、なんか、おかしくなっちゃって……。あたしは変だと思った……。お父さん、それまで、いつも外に出てばかりで、あまり家にいなかったんだけど、お母さんが死んでからは、ずっと家にいた。お母さんの遺骨を抱いてぼんやりとして……」
「うん……」
とりあえず、返事だけをする。聞いているという合図だ。
「泣いたり……。そうかと思ったら、突然に叫んだり、物を壊したり……。お父さん、もともと、お酒はそんなに飲まなかったはずなのに、お酒ばかり飲んでいたし……。目を離すと、突然に包丁を持ってぼんやりとしたり……。あたし、怖かった。お母さんが死んだことは悲しかったけど、お父さんが壊れていっているということがわかって、それはもっと怖かった……」
「壊れたって……」
「そう、壊れたの……。それで、あたしは、お父さんがおかしくなっているなとわかったら、ぎゅっとお父さんを抱き締めてあげたの。そうしたら、お父さん、少しだけ落ち着くの……。お父さんがおかしくなったら、あたしがだっこしてあげる……。ずっとそれをやってた……。でもね……あるとき……」
あさひ姉ちゃんがぎゅっと手を握ってきた。
真夫はあさひ姉ちゃんの手が震えているのがわかった。
しっかりと、手を握り返す。
すると、あさひ姉ちゃんの手の震えがちょっとだけ収まる。
「……お父さんがあたしを犯したの……。あたしがいつものように、お父さんをだっこしてあげたとき……。あるとき……。お母さんの名を呼びながら……」
あさひ姉ちゃんが言った。
「……痛かった……。怖かった……。でも、嫌がったら、お父さんがもっと壊れるような気がした……。だから、我慢した。それから、お父さんは毎晩のように、あたしを犯すようになった……。……あたし、施設に連れていかれるまで、ずっとお父さんに犯されてた……」
あさひ姉ちゃんが静かに言った。
そして、暗闇の中で真夫に顔を向けたのがわかった。
「びっくりしないのね、真夫ちゃんは? お父さんに犯されていた女なんて、引くでしょう?」
あさひね姉ちゃんは、ちょっとお道化た口調で言った。
だけど、あさひ姉ちゃんの不安と動揺が、触れている手を通じて、真夫に伝わって来た。
「……多分、俺、知っていたと思う……。なんとなく」
真夫は言った。
多分、知っていた。
あさひ姉ちゃんと最初に施設で愛し合ったとき、あさひ姉ちゃんは処女じゃなかった。
そのとき、あさひ姉ちゃんの初めての相手は、あさひ姉ちゃんのお父さんじゃないかと思った。
あさひ姉ちゃんは、父親の「虐待」を受けて、施設にやってきたということは知っていた。
性的虐待……。
当時七歳の真夫にはその知識はなかったが、十二歳の真夫にはあった。
あさひ姉ちゃんは、お父さんに性的虐待を受けた子なんだろうな……、と、そのとき、思った。
「……そうなんだ。やっぱり、真夫ちゃんだね。昔から勘がよくて、頭が良くて……。でも、よかった……。こんな話をしたら、真夫ちゃんに嫌われるんじゃないかと……」
あさひ姉ちゃんが安心したような溜息をついたのがわかった。
「あさひ姉ちゃんを嫌いになるわけがないよ。ましてや、そんな話くらいで」
真夫はちょっと憤慨した。
「あ、ありがとう」
あさひ姉ちゃんがくすりと笑うのが聞こえた。
「……それで、あたしは、お父さんと引き離されたの……。あたしがなにかで倒れて、学校から病院に連れていかれたことがあったんだけど、そのとき、病院のお医者さんが、おかしいとわかったらしい。それからは、なにがなんだか……。あたしは施設に……。お父さんとはそれっきり……。お父さんは警察に連れていかれたと教えられた。しばらくして、釈放されたみたいだけど、お父さんは、あたしには会いに来なかった……」
「そうなんだ……」
真夫は言った。
もともと天涯孤独の真夫には会いに来る親もいないが、お父さんがいるはずのあさひ姉ちゃんもまた、誰も会いに来なかった。
やっぱり、そういう事情だったのだとわかった。
「……そして、お父さんとは、ずっと会わなかった……。冷たいかもしれないけど、あたし、お父さんと会わなくなって、ほっとしてたの……。ううん……。違うかも……。もしかしたら、あたしが会わなくていいなら、会いたくないと言ったかもしれない……」
「……うん……」
「とにかく、もう、お父さんが壊れるのを見なくて済むし、お父さんに犯されて、怖くて痛い思いもしなくて済む……。冷たい人間かもしれないけど、お父さんがいなくなって嬉しかった……。あたし、それで、もうお父さんのこと忘れた。施設は愉しかったし、お父さんのことなんて思い出すこともなかった……。真夫ちゃんもいたし……」
「あさひ姉ちゃんは、冷たい人じゃないよ。とても優しい。初めて会ったときからずっと思ってた……。あさひ姉ちゃんは、とても可愛くて……きれいで……優しくて……。そして、とてもエッチで……」
「やな人、真夫ちゃん……。でも、エッチかもね……。だけど、真夫ちゃんにだけなんだよ。真夫ちゃんと一緒にいたり、真夫ちゃんのことを考えるとエッチになるの……。もともと、あたし、男の人怖かったんだから……。でも、真夫ちゃんに最初に触られたとき、まるで電気が走ったみたいに、びりびりとなっちゃった。不思議な手……。あれから、真夫ちゃんのことから、頭が離れられなくなったの」
あさひ姉ちゃんが施設に入ってきたばかりのときの話だとわかった。
警察ごっこをしていて、人質役のあさひ姉ちゃんの下着の股の部分を真夫は、思わず指でぎゅっと押した。
あれから始まった「秘密の行為」だ。
「……施設では愉しかったな。真夫ちゃんは、いつもエッチなあたしの相手をしてくれたし……。お別れの前だって……。本当に嬉しかった。あたし、お父さんのことなんて、一度も思い出すこともなかった……。どうしているんだろうなあ、とも思わなかった……」
あさひ姉ちゃんは言った。
そのとき、隣に寝ているあさひ姉ちゃんの手の震えが、再び大きくなったのがわかった。
「……だけど、お父さんと会ったの……。この前……」
あさひ姉ちゃんがぽつりと言った。
「えっ?」
真夫は思わず声をあげてしまった。
「……大学に林さんという若い男の人が訪ねてきたの。あたしを探して……」
「林さん?」
「うん……。林さんというのは、闇金の人。あたしにお金を返せって言いに来たの。お父さんの借りたお金を……。あたしね、お父さんの借りたお金の連帯保証人になってたんだって」
あさひ姉ちゃんは静かな口調で言った。
「ええっ、どういうこと?」
真夫はがばりと身体を起こした。
たったいま、あさひ姉ちゃんは、ずっとお父さんには会っていなかったと言っていたはずだ。
それにもかかわらず、「連帯保証人」とはどういうことなのだろう?
起きあがった真夫に対して、あさひ姉ちゃんも布団の上に座り直した。
暗闇でよくわからなかったけど、あさひ姉ちゃんは、静かな笑みを浮かべているみたいだった。
なんだか、すべてを諦めたような……。
そんな顔のようにも思えた。
あさひ姉ちゃんが続いて口を開く。
「あたしもどういうことかわからなかった。だけど、林さんに教えられてわかった……。林さんというのは、その闇金さんの若い人なんだけど、あたしの担当なんだって……。とにかく、あたしは、お父さんのことは知らなくて、生きているか、死んでいるかも知らなかったけど、お父さんは、ずっとあたしのことを知っていたみたい。学校も知っていて、住んでいるこのアパートも知っていて……」
「お父さんが?」
「……うん、それで、お父さん、その闇金の人にお金を借りるとき、連帯保証人が要るとか言われて……。身内でもいいと言われて……。それで……、あたしの名前を使ったみたい。印鑑も勝手に押して……。あたしは、その林さんが大学にやって来たとき、初めてお父さんが生きていることを知った……。そして、あたしの名前を使って、借金をしたことも……」
だんだんと話がわかってきた。
もしかして、あさひ姉ちゃんが大学をやめたり、引っ越しをしなければならない理由って……。
「ちょ、ちょっと待って、あさひ姉ちゃん、まさか、その借金をあさひ姉ちゃんが払わないとならないことになってんの?」
真夫は言った。
自分の声が怒鳴り声のようになっていることに気がついたが、とても冷静に聞ける話じゃない。
「つまりは、そういうこと……。ただの貧乏大学生のあたしに、払えるような額じゃなかった……。だけど、その闇金の社長さんが、借金を払えるような仕事を紹介してくれることになったの。それで、あたしは働くことにした……。大学をやめて、住み込みでね」
「そ、そんな馬鹿な……。借金って、いくら?」
「一千万円」
「……一千万……」
真夫は呆然とした。
だが、腹が立った。
なんで、あさひ姉ちゃんがそんなお金を払わないとならないのか……。
あさひ姉ちゃんは、はっきりとは言わなかったが、闇金が紹介するような、一千万を返済するような仕事といえば、どんなことをするかは想像がつく。
冗談じゃない──。
「……そ、そんなの払うことないよ。ちゃんと、どこかに相談しよう。それこそ、一緒に行ってあげる。絶対に払っちゃだめ。自分が印鑑を押したものじゃない保証人の借金なんて、払う必要はないんだよ──。それが法律なんだから」
真夫は言った。
しかし、あさひ姉ちゃんは首を横に振った。
「……法律なんていうのは、ああいう人には関係ないのよ、真夫ちゃん。それに、あたしだって、払うつもりなんてなかった。冗談じゃないと思った。そんな馬鹿げたこと聞いたことない。あたしは、学校の先生になろうと思っていた。それこそ、その夢を実現するために必死で働いた。それなのに、なんで、あんな人のために──。そうよ、払う必要なんてないのよ。馬鹿馬鹿しい──。あたしだって、冗談じゃないと思った……」
あさひ姉ちゃんは、少し声を荒げた。
でも、すぐに我に返ったように静かな感じになる。
「だったら……」
「……でもね、真夫ちゃん……。あたし、その林さんという人に連れられて、闇金さんの事務所に行ってお父さんに会ったの。お父さんは一度逃げようとして、それで捕まって監禁されているんだって……。お父さん、すっかり変わってた。髪の毛もなくなって……、皺だらけで……。なんか、へらへらと笑うだけで……。あたしを見ても、なんか、ぺこぺこして……」
「だ、だったら、そんなやつの……」
「でも……でも、確かにお父さんだった……。本当にお父さんだった……。あたし、本当にお父さんがあたしを勝手に保証人にして借金をしたんだと、すぐにわかった……。ああ、本当なんだって……」
あさひ姉ちゃんの肩が揺れ始めた。
泣いているようだ……。
真夫はあさひ姉ちゃんをそっと抱いた。
それで、あさひ姉ちゃんはすぐに落ち着いた感じになった。
「……ねえ、あさひ姉ちゃん、もしも、そうだとしても……」
真夫はあさひ姉ちゃんを抱いたまま言った。
そんな借金など払う必要はない。
警察にでも訴えればいいんだ。
それで、あさひ姉ちゃんは助かるはずだ。
だが、真夫は言葉を続ける前に、あさひ姉ちゃんは、真夫の腕の中で首を横に振った。
「……あたし、闇金さんの事務所でお父さんと再会したとき、お父さんを怒鳴った。思い切り殴った。二度と顔なんて見たくなかったって叫んだ。小学生のあたしを犯した禄でなしだとも罵倒した……。お前なんて、お父さんじゃないとも……。とにかく、あのとき、あたし、興奮しちゃってて、なにを言ったかも覚えてない……」
あさひ姉ちゃんは不意に笑いだした。
だけど、両眼からはぼろぼろと涙が出てた。
あさひ姉ちゃんは泣きながら笑ってた。
「覚えているのは、へらへらと笑う、お父さんの姿だけ……。お父さん、頼む、頼むって……。それだけ繰り返して……。頼むってどういうことだ──って、あたしは、また怒鳴った。あたしがあんまりすごい剣幕だったから、周りの闇金の人もびっくりしてた……」
あさひ姉ちゃんが、自嘲気味に微笑んだ。
「ね、ねえ、俺と一緒に逃げようよ、あさひ姉ちゃん。ふたりなら、なんとかなるよ。とにかく、逃げよう……。ねえ、そうしようよ。あさひ姉ちゃん、このままじゃ、大変なことになるんだよ。それはわかるんでしょう?」
真夫は言った。
すると、あさひ姉ちゃんは、不意にくすくすと笑った。
どうして、笑ったのかわからずに、真夫はあさひ姉ちゃんの顔を見ようと、一度抱き締めていた手を緩めた。
「……実はね、闇金さんにも同じことを言われたの……。あの人たち、あたしを追い込むために、お父さんのところに連れてきたんだけど、あたしとお父さんがそんな関係なんて知らなかったんだって……。それで、上の組織との関係があるから、借金を棒引きにすることも、あたしに払わなくてもいいということもできないんだけど、もしも、あたしが逃げても、追わないと言われた……」
「逃げても、追わない?」
なんだ、それ?
「……その証拠に、このアパートを見張っている人もいなかったでしょう? あの人たち、あたしが逃げてもいいようにしてくれてるの。普通は考えられないのよ。だけど、半月したら、迎えに来るからって、誰もいなくなっちゃった……」
「だ、だったら……」
真夫は声をあげた。
確かに、このアパートの周りには、借金取りの影はない。
「……だめよ、真夫ちゃん。あたし、その言葉で決心できたの。あたしは逃げるわけにはいかないって……。あたしが逃げたら、多分、お父さんは殺されるわ。そういう人たちなの。闇金さんたちはお父さんに怒ってた。あたしとの事情を知って、人間の屑だと罵った。だから、あたしが逃げたら、お父さんが死ぬ……。それで、あたしは決心したのよ……。これは仕方のないことだって……」
「し、仕方がないことなんてあるもんか──」
真夫は大声で言った。
あさひ姉ちゃんが闇の中で真夫に視線を向ける。
真夫は、あさひ姉ちゃんの両肩を掴んだ。
「……ねえ、やっぱり逃げようよ、あさひ姉ちゃん──。そんなのお父さんじゃない。放っておけばいい。闇金の人ですら、そう言ってんだよ。逃げよう……。逃げて、ふたりで暮らそう。あさひ姉ちゃんが学校の先生になる夢は、時間がかかるかもしれないけど、俺がいつか実現してあげるから……」
だけど、あさひ姉ちゃんは静かに首を振っただけだ。
真夫はかっとなった。
「……な、なんでだよ。一緒に逃げるって言えよ、あさひ姉ちゃん──」
「でも、お父さんなの──」
すると、あさひ姉ちゃんが大きな声で叫んだ。
そして、激しく泣き出した。
「……でも、お父さんなの……。あんなんでも……。憎い……。憎い……。いまは、ただ憎しみしかない……。正直にいえば、これっぽっちの愛情もない……。だけど、お父さんなの……。あたしが見捨てれば……すでに、闇金の人たちにも見捨てられているし……、あたしが見捨てれば、お父さんは殺される……。あ、あんなんでも、お父さんだったの……。お父さんだったのよ……」
あさひ姉ちゃんは大声で泣きながら言った。
「……あ、あさひ姉ちゃん……」
真夫は、もうそれしか言えなかった。
やっと、あさひ姉ちゃんの覚悟がわかったのだ。
そんな連帯保証人の借金など支払う必要はないのは、あさひ姉ちゃんも十分にわかっている。
逃亡してもいいし、警察や誰かに相談して、どこかの弁護士事務所に訴えることもできる。
それは、あさひ姉ちゃんもわかっているのだ……。
だけど、あさひ姉ちゃんが、そのお父さんの借金を背負わなければ、あさひ姉ちゃんのお父さんは殺される……。
だから、あさひ姉ちゃんは、お父さんが殺されないために、自分が犠牲になる決心をしたのだ。
それは、お父さんに対する愛情……というものとは違うだろう。
だけど、見捨ててはならない……。
そう思ったのだと思う……。
「くっ」
真夫は思わず呻いた。
情けなかった……。
あさひ姉ちゃんに悩みに対して、なにもできない自分が情けなかった。
すると、あさひ姉ちゃんがそっと真夫を抱き締めてきた。
「……あたし、すっかりとなにもかも諦めていた。あと半月……。そうしたら、あたしは、まったく別の人生を送ることになる。男の人とふたりきりでいられないようなあたしが、務まるのかどうかもわからないけど、とにかく、あたしが犠牲になれば、お父さんは、少なくとも死ななくて済む……。そんな風に考えて、人生に絶望していた……。そうしたら、真夫ちゃんと会った……。電車の中で偶然に……。あたし、夢じゃないかと思った……。そして、神様が、最後にご褒美をくれたんだと思った……」
あさひ姉ちゃんが真夫を抱き締めながら言った。
くそっ……。
だけど、真夫は口惜しかった。
自分は無力だ……。
そう思った。
一千万円……。
それだけあれば、あさひ姉ちゃんは不幸なことにならなくて済む。
真夫とも一緒に暮らせるだろう……。
一千万円……。
お金さえ、あれば……。
お金さえ……。
「……ねえ、真夫ちゃん」
真夫を抱き締めているあさひ姉ちゃんが耳元でささやいた。
「な、なに?」
「ねえ、して……」
「えっ?」
「……ねえ、して……。なにもかも忘れさせて。真夫ちゃんのエッチには、そんな力がある。あたし、真夫ちゃんに愛されると幸せになれる。どんなに不幸なことが待っていても、とても幸せな気分になれる。だから、抱いて……。それにね、真夫ちゃん……」
あさひ姉ちゃんが陽気な口調で言った。
「それに?」
「それに……。さっき、真夫ちゃんは、“今日はもうエッチはやめよう”って、言ったけど、もう、今日じゃないよ」
あさひ姉ちゃんがくすくすと笑って、卓上のデジタル時計を指さした。
時刻は零時を少し回っていた。
「……本当だ。もう、今日じゃなくなったね」
真夫もくすりと笑った。
「……だから、して」
あさひ姉ちゃんが言った。
「わかった……」
それで、あさひ姉ちゃんが、ほんのちょっとでも幸せな気分になれるなら……。
あさひ姉ちゃんにしてあげられるのが、それしかないのなら……。
真夫はあさひ姉ちゃんを布団に静かに横たわらせ、そっと唇を重ねた。