ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
地面にポタリポタリと音を立て血の紅い華が咲く。触って確かめると、少し前にシュウにやられた傷と同じ場所だった。
突如割り込んだ智は、早朝のランニング中だったのか、首にタオルを巻き、下はバイオレットのジャージ、上には膝まで掛かる大きめのTシャツを着て。
先に顔面を強打された黒髪の男は、ばっくりと頬が避け、凄まじい出血量だった。伸びてしまったのか、倒れ込んで動かない。
ぼくを殴った金髪の男が叫んだ。
「なんだ、テメエ!!」
智は答えない。
僅かに腰を落とし、両手に持った警棒を目の前で重ねるようにして構え、油断なく向き合った。
ぼくを庇うように前に出た智の足運びは、相撲や剣道等、日本の武道に共通して見られる『摺り足』。
華麗さはない。『斬り合い』を目的とし、僅かな間合いを取り合う為に特化した特殊な歩法。
睨み合いは一瞬。
じり、と半歩詰め寄った智が利き手の警棒を一閃させると、チャキンと軽い金属音がして、金髪の膝を強打した。
『警棒』の威力はピンからキリ。枕を叩いただけで曲がってしまうものもあれば、コンクリートのブロックをかち割って歪みもしないものまで様々。携帯性と取り回しに優れ、世界各国の警察官が所有する『武具』。
「がっ……!」
金髪が苦痛の悲鳴を上げ、小さく膝を折った瞬間、智は左の警棒を振るった。
やはりチャキンと軽い金属音がして、顎を打たれた金髪は、声もなくその場に昏倒した。
膝上まであるTシャツを捲り、腰に掛かったホルスターに警棒を差し込んで、智は大きく息を吐く。
男女の差があれど、強さの桁が違うのは当然。智には体格や腕力差を覆し、対象を制圧する技術がある。それが『武道』を嗜むということ。
ぼくは言った。
「とも、おでこがいたい……」
「……!」
智はビクッと身体を震わせて、ゆっくりとこちらに振り返った。
ぼくを抱き締めたままでいた神木が息を飲み、トウコは歯を剥いた凶相で、ぼんやりとこちらを見るハギリと智を油断なく見渡している。
智は苦しそうに言った。
「なんで……なんで、何時(いつ)も間に合わん……恨むで、神さん、恨むで……」
ぼくは安心してしまって、次から次に湧いてくる涙を袖で拭った。
智が慌てて叫んだ。
「み、御影、傷に触ったらいかん!」
「……うん」
それでも涙は湧いてくる。
涙が止まらないぼくに、智が優しく言う。
「もう、泣かんでええんよ? 悪いことは終わったけん」
「……うん」
ぼくは頷いた。
「私と、おうち、帰ろうや。な……?」
「……うん」
腰に回ったままの神木の手に、そっと手を重ねた。
神木は、ブルッと震え、こっちも苦しそうに言った。
「すみません、御影さん……。こんなはずじゃ、なくて……」
智は怒ったように鼻を鳴らして、低く、押し出すように呻いた。
「葛城とか言うアホはおるんか?」
なるべく顔の傷に触らないようにして立ち上がるぼくの袖をトウコが掴んで制止した。
「あたしに何か用かよ。それより、悠希さんに近付くな!」
ぼくの血に塗れ、泣き腫らしたトウコはとびきりの凶相。ぎりぎりと歯を食い縛り、智を睨み付けた。
智は微笑んで、ぼくの手を取った。
左手を智。
右手をトウコ。
どちらも優しく、包み込むように、ぼくの手を握っている。
瞬きほどの拮抗の後、智が言った。
「秋月のヤツ、『アレ』剣女の部員全員にバラ撒きよったぞ……」
「え……?」
智が何のことを言ったかなんて分からないけど、一瞬ぼくの手を掴むトウコの手の力が抜けた。
「秋月(アイツ)は怪物なんよ。普通とは違う。価値観がまるで違うんよ」
瞬間、智に引き寄せられたぼくの手はトウコの手を離れ――
ぼくは、智に抱き締められた。
「堪忍な……堪忍なぁ……私が間違えたんよ……全部、全部、私のせいやん……」
ぼくを抱き締め、囁くように言う智の声は、今にも泣き出しそうなくらい掠れていた。
「もう離れん。私が全部終わらせるけん……」
智は首に巻いていたタオルをぼくの額に巻きつけ、それから大きく鼻を啜った。
呟くように言った。
「お前ら、顔覚えたけんの……」
ふと見ると、倒れ込んでいる赤瀬と『双子』が見えた。きっと智にやられたんだと思う。静かな訳だ。
誰が敵で、誰が味方かなんて、彼女――黒岩智には関係ない。
「今日のことは、近い内に絶対ケジメ取るけん、忘れなや?」
神木は俯き、唇を噛み締めてこの結果を受け止めている。
トウコは無表情。
ぼくに伸ばした手は、今も虚しく宙を掻いている。
「……?」
一人一人、色素の薄い瞳で見回す智の視線が、地べたに座り込むハギリの顔に留まる。
「なんや、お前。男か? 女か? はっきりせん……こんなん初めてや。気味わる……」
ぼくの目にハギリは女の子以外のものには見えないけど、智の意見は違うようだった。
「…………」
ぼくを見つめ続けるハギリは黙っていたけれど、その細い肩が、一瞬緊張して強ばるのが見えた。
黒い涙。
ハギリは酷いヤツなのに、何だか少し気掛かりだ。
軽蔑の念を隠さず、智が言った。
「お前ら全員、死んだらええのに」
この状況は三年前とあまり変わらない気がする。ぼくは変われなかった。智も変わらないとするならば――
――あんたを押し倒して、思い切りキスしたい。舐め合って、絡み合って、どろどろに溶け合って一つになりたい――
きっと智は、色々とぼくから取り立てに来たんだと思った。
三年前、智がぼくの為にしていたことは、ちゃんと理解しているつもり。だから――
ぼくは彼女に対して、とんでもない額面の負債がある。
優しくて甘い、遅れがちなぼくのヒーロー。他人に残酷な、ぼくだけの守護天使。
ぼくは捕まった。
もう、何処にも行けそうにない。
最悪の債権回収者。
ぼくは捕まった。
もう、誰の元へも帰れそうにない……。