ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
その夜、目を覚まして視界に入ってきたのは、染み一つない白い天井だった。
智の部屋じゃない。
今一状況が飲み込めないまま視線を横にずらすと、椅子に腰掛けた智が俯いて泣いている。
ぼくの左腕には点滴の針が刺さっていて、バッグの中の薬剤を投与している最中だった。
俯いたままの智は、ぼくが目を覚ましたことに気付いていない。
元気なく呟いた。
「……最低……最低やんか、私……」
こんな様だけど、気分は悪くない。薬が効いているのか、熱っぽいということもない。傷も痛くない。
「智……?」
呼び掛けると、即座に顔を上げた智と目が合った。
「あ……」
と、呻いた後、見る見るうちに表情を歪ませて、智は涙目になった。
「目、覚めた? 堪忍な……ホント、私……」
「何、ここ病院?」
「うん……あのな……」
その後、元気のない智の説明では、行為の後、眠るようにして意識を失ったぼくが40度近い高熱を出したので、救急病院に運び込んだということ。
「そう……」
状況を理解したぼくは、一つ頷いて、項垂れたままの智に視線を移した。
「無理させて、ごめん……」
萎れた表情の智は椅子に腰掛けて動かない。
まあ、こうなった原因は智とのHが原因だろうから、落ち込む理由が分からないこともない。
手を伸ばして、ぼくは智の頭を撫でた。
「……いいよ、謝らないで。それより、智……」
「うん、なん? なんでも言うてや?」
智は過保護。
色の薄い瞳は潤んでいて、片時もぼくから離れない。
「ありがとう」
ぼくのお礼の言葉に、智は首を傾げた。
「なんのこと?」
「智の初めてになれて、ぼく、嬉しかった」
これは本音。
他の女の子たちと違って、智とこうなったことに後悔はない。彼女はいつだってぼくに優しい存在でいてくれたし、それに報いてあげたい。
「…………」
智は驚いて、視線を少し泳がせた後、頬を赤くしてまた俯いた。
「智は大丈夫? 痛くない?」
智は照れくさそうに俯いたまま、黙って頷いた。
三年前と同じように、ぼくらはお互いを気遣う。
「智は……大人っぽくなったね……」
この三年で智は髪型も変わり、おっぱいもずっと大きくなった。それでも、ぼくは小さいまま変わらずにいる。そんな中、変わらなかった智の好意が身に滲みた。
「ありがとうね」
「……」
智は、ぐすっと鼻を啜った。――また泣き出しそう。
慌てて、ぼくは言った。
「智、お腹すいた。牛丼食べたい」
智が、ブッと噴き出した。
「なんや、それ。ええ雰囲気やったのに……」
湿っぽいのは嫌い。病院も嫌い。注射も点滴も大嫌い。
一頻り笑いあった後、智がおずおずとぼくの携帯電話を差し出してきた。
「あのな、御影のお父から連絡あってやな……」
「……!」
携帯電話を引ったくり、慌てて着信履歴を確認するぼくに、智が言いづらそうに言った。
「……えっと、私が、その、メールで返信しといたけん、心配せんでええよ……」
「……」
上目遣いにぼくの顔色を伺う智は、居心地が悪そうに胸の前でモジモジと指を組み合わせている。
「その……お気に入りの番号、変わっとらんやろ? あの……変えた方がええと思うんよ……」
メールBOXを確認すると、確かに体調を崩してしまったので明日電話すると父さんにメールしてあった。
父さんからも返信があって、ぼくの体調を気にする内容と、まだお祖父さんは頑張っていて、意識はないけど存命中だという途中経過の報告。
それらの内容を確認した後、ぼくは小さく溜め息を吐く。
……智は、ぼくの携帯電話を確認可能。
油断した。彼女……黒岩智ほど、ぼくを知り尽くしている女性は存在しない。携帯の暗証番号を解くくらい簡単にできて当たり前。彼女に対して抱いている好意や信頼感を埒外に置いたとしても、分が悪すぎる。
――最悪の債権回収者。
爆薬満載のメールBOXや着信履歴はバッチリ押さえられていると思うべきだ。
ウリをやっていることや、カオルやトウコ、ユキナとの関係。深山とのこともある程度は予想できる。ぼくに言いたいことは山ほどあるだろう。その程度のことは簡単に予想がつく。
智が困ったように言った。
「……あのな、牛丼やのうて、お粥とかウドンとかの方がええと思うんよ……」
「……?」
一瞬、智の言っていることの意味が理解できなかった。
「暫く、私のとこで、ゆっくりしよ? な?」
「……わかった」
ぼくが頷くと、智は安心したようだった。何度も頷き返し、にこりと笑った。
◇◇
結局、救急病院を出たのは深夜の二時を過ぎた頃だった。
帰りのタクシーの中で智はぼくの肩を抱いて、わざとじゃないんだろうけど、これでもかというくらい、おっぱいを擦り付けてきた。
なんというか、智のおっぱいはすごい。前に突き出た円錐形のそれはロケットみたいだ。
ぼくは、そのロケットおっぱいを無性に触ってみたくなったけど、タクシーの中なのでやめておいた。
アーケードの商店街を抜け、繁華街の通りに繋がるスクランブル交差点でタクシーを降りたぼくらは、最寄りのコンビニでちょっとした雑貨や食料品等の買い物を済ませて漸く帰宅した。
智は、ぼくがウリをやっていることや他の女の子たちとの関係については一切言及しなかった。我慢している、というのではなく興味がなさそうに見えて、それがよく分からない。
――ぼくさえ居れば、後はもう、どうでもいいと思ってるなんてことは、考えもつかなかった――
深夜になり、智の部屋がある雑居ビルは殆どの明かりが消えてしまっている。
一見して、ここに誰か住んでいるなんて、誰も思わないだろう。
扉の解錠にはカードキーと暗証番号の入力が必要。因みに暗証番号を三回間違えると外部委託の警備員が三分ですっ飛んで来るらしい。
「ここな、お父の会社が管理しとるんよ」
「……それで家賃が安く上がるとか、そういうこと?」
智は頷いて、それから悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「うん、それもあるんやけどな……」
「……な、なに?」
意味ありげな笑みに、ちょっと警戒を強めたぼくに、智が言った。
「うちのお父な、今、付き合うとる女の人おるんよ」
「……え、おじさんが?」
智のお父さんとは面識がある。
ガッチリした体格で眉が濃く、引き締まった意思の強そうな口元は智にそっくり。優しくて、ちょっと悲しい感じのするひと。
ぼくは、自然に笑みが込み上げた。
「それは、すごく素敵だね」
「やろう? めっちゃ美人さんやったで」
智は得意そうに笑い、ぼくも何だか嬉しくなった。
ぼくたち二人は父子家庭。共通点は多く、考えることも似ている。
智が、しんみりと言った。
「うちのお父な、四十代やし、まだ間に合うと思うんよ……」
「うん、うん……」
何度も頷きながら、胸が熱くなってぼくは泣きそうになった。
「その……邪魔しとうない。分かるやろ……?」
智のお父さんが新しい幸せを掴むとしたら、それはとても素晴らしいことだ。
「上手く行くといいね……」
「まあ、一人暮らしはまだ早いとか言うて、お父は渋ったんやけどな」
ぼくと同じ気分になったのか、智は目尻に浮かんだ涙を指で拭った。
それからのぼくたちは、とてもいい雰囲気になった。お互いに身を寄せ合い、薄暗い通路を進む間も、ずっと手を繋いでいた。
狭いエレベーターの中で、六階に辿り着くまでの短い時間に考える。
おかしな流れだ……。
智がぼくを縛る手段は『お願い』で、カオルと同じ。悪意がないのが最大の問題。決して強制せず、でもここにぼくを『隠そう』としているような気がする。
何故? 智は、何からぼくを遠ざけたい……?
そこまで考えた所で、智が腰を折ってぼくにキスしてきた。
「んっ……」
そっと離れる。
見上げると、ぼくを見つめる智の目は真剣そのものだった。
ぼくの髪を優しく掻き上げ、額の傷を凝視している。
「…………」
何も言わない。でも色素の薄い瞳は激しい怒りの焔に燃え盛っていて――
――仇がほしいか?
と無言でぼくに問い掛けてくる。
ここでぼくが頷けば、智はなんだってする。手段を選ばずあの男たちを追い詰め、トウコたちをなぶりものにするだろう。
ぼくは、ゆっくりと横に首を振ることで答えた。
「……」
智は納得できないのか、眉間に皺を寄せた顔を背け、狭いエレベーター内のカゴの一隅をじっと見つめる。
「……その傷、二週間くらいで治るそうや。その後は整形外科に行けやと……!」
淡々と。しかし最後には怒りを無理矢理押し込めたような荒々しい口調で言い捨てた。
――傷は、残る。
その事に、特に思うことはない。ぼくは男だし、トウコを守りきれたことを思えば安い代償だ。
挑むように、智が言った。
「好きや。未来永劫、変わらん」
ぼくは黙って頷いた。
そこで、六階に到着したエレベーターが停止して、チンと小さな電子音が鳴る。
食い入るようにぼくを見つめたまま、智は動かない。
好意の吐露は永い時を経て未だ燻り続ける熔岩のよう。
ぼくは動けない。
智の中で、一枚の固い岩壁を挟んで灼熱の激情が煮え滾っているのが分かる。
目を逸らさず、智が告げた。
「新城馨に、電話した」
……連絡がない訳だ。
驚きはない。こそこそするのは智らしくないし、ぼくに好意を告げた以上、カオルに挑むのも理解できる。
確かめる必要は感じない。智は、ぼくの全てを知ってこの場に臨んでいる。
「遊びは終わりや」
色の薄い瞳に秘められた決意は揺らぎなく、冷静と激情とを兼ね備えたフローレス。この三年で研磨され、半永久的にぼくだけを映し続ける。
その瞳に――
カオルの事に関する限り、話し合いの余地は一切ないということを、ぼくは、はっきりと理解した。