ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
悠希が曲がり角に姿を消すのを見届け、カオルは小さく溜め息を吐き出した。
東の空から昇った陽が差して来て、僅かに眉根を寄せる。
悠希の出した課題は大きいが、気分は悪くない。
新しい一日が始まる。
軽くアクセルを踏み込むと、軽快にエンジンが吹き上がり車速を上げる。
車検はまだ半年以上残っていて、年を跨いで来年には廃車にするつもりだ。自分の経済力と維持費を考えたとき、もう少し税金が安く燃費のいい車が望ましい。
――いい男を見付けな。
風俗嬢をやっている先輩の言葉を思い出し、カオルは僅かに笑む。
その先輩は、「女は男で変わる」と口を酸っぱくしてカオルとアオイに語った。
来年、就職が決まれば程度のいい軽自動車でも買おう。そんなことを考えながら、カオルは少し訝しく思う。
悠希と関係を持つ前なら、カオルはこの考えを妥協と切り捨てただろう。ダサいと嘲笑っただろう。
でも、今はそう思わない。
大人になるのだ。身の丈に合った行動をする。
車速が時速80kmを超えた所で二車線道路に入り、大型トラックと並走する形になった。
このまま道なりに行けば右折することになり、その後車線が一つになる。
並走するように少し前を行くトラックは合流車線。
なんとなく、嫌な予感がする。
思い出すのは嬢をやっている先輩のこと。
――携帯電話や車をすぐに変えるヤツは駄目だ。
何が根拠に繋がるかは分からないが、浮気性らしい。
悠希は古臭いガラケーを使っている。携帯を変えるつもりはないらしい。
――見栄えばっか気にするヤツも駄目。
嘘つきが多く、殆どが借金持ちだと言っていた。
食べ物の好き嫌いが多いのも駄目。――我儘、頑固。このタイプは人間関係でも選り好みする。
先輩……と言ってもアオイの知り合いでカオルに個人的親交はない。彼女の言うことは根拠が分からないことが多いが何故かよく当たる、とはアオイの経験談。
思い出し笑いを浮かべるカオルはアクセルを緩めて減速する。
――そのカオルを嘲笑うように、赤いスポーツカーが追い越しを仕掛けて来た。
「……野郎」
一瞬、カオルはむきになりかけ――
――カオル、大人になりなよ。
悠希の言葉を思い出し、カオルは少し考える。
大人になる、ということ。
高校を卒業すれば、カオルは就職して働いているだろう。
悠希は県内の大学に進む。
二人の道は分かれるが、きっとやれる。何が大事か理解している今の自分なら、きっと上手くやれる。
カオルは僅かに笑み、本格的にアクセルを抜いて減速する。
道を譲られた形になった赤いスポーツカーは瞬く間にカオルの車を追い越し、そして――
目の前の合流ポイントで、トラックとクラッシュした。
衝撃音。
高速でトラックの後部に突っ込んだスポーツカーは車両の前半分を大破させながら押しやられる形で中央分離帯に乗り上げ、空を飛んだ。
「――!!」
仰天するカオルの目前で、そのスポーツカーは反対側の車線に突っ込み、更に対抗車線からやって来た乗用車と正面衝突した。
こんなに激しいクラッシュは映画でも見たことがない。
「ブッ! アハハハハ!!」
カオルは大声を出して嘲笑った。
あの事故では、シートベルトをしていたとしてもドライバーの命はないだろう。生きていたとしても、五体満足という訳には行くまい。
「カッコつけてっからだよ。バ~カ」
一方、少し後部がへこんだ程度で済んでいる大型トラックは道路の端で停車している。
それを追い越し、法定速度で車を走らせるカオルは、可笑しくて可笑しくて堪らず、大声で笑っていた。
もしかしたら、自分にあり得た運命。そう思うと――
「マジウケる! 最高!!」
悠希と逢わなかったら、どうなっただろう。
出逢ったし、今こうして無事でいる。それが全てだ。
カオルは順調だ。
カオルの人生は、これ以上ないくらい上手く行っている。
笑えるくらい上手く行っていた。
◇◇
家に帰ることはせず、そのままバイト先のコンビニに直行する。
カオルは煙草を吸おうとして――止めた。
「♪」
鼻唄混じりにダッシュボードからピーチ味の飴を取り出して、口の中に放り込む。
「最強! 最強!! 最強!!!」
従業員専用の駐車スペースに車を停めて、足取りも軽くカオルは出勤する。
「おはようございます」
ニコッとこの日も営業スマイルを浮かべて挨拶すると、店長をやっている叔父も笑って頷く。
「おはよ、カオルちゃん。笑うの上手くなったね」
「ありがとうございます」
「……最初はブスッとして笑わないし、こりゃ駄目だと思ったけど……変わったねぇ」
しみじみと言う叔父に、カオルは満面の笑みで答える。
「仕事だし、そろそろアタシも大人にならないと」
「大人に……そっかあ」
叔父は何度も頷いて、それから何事か決心したかのように、ポンと一つ手を打った。
「カオルちゃん。高校卒業したら、ウチ来ない?」
「え?」
「正社員でやってみない? 実は二号店も考えててね。すぐは無理だろうけど、カオルちゃんにここ任せられたらな……なんて思ってたんだよね」
「…………」
「すぐ返事しなくていいから、ちょっと真剣に検討してくれると嬉しい」
「……はぁ」
この話に、ちょっと現実味が感じられないカオルは、曖昧に返事をして奥のスタッフルームに向かう。
……まぁ、血縁であることが大きい。叔父から見れば、何処の馬の骨とも分からない他人とは違う。信用がある。何よりカオルは若い。将来性を買うという意味合いも大きいだろう。
学校でも就職を斡旋してもらっているが、そっちは上手くいってない。担任の坂本から何も連絡がないのがその証拠だ。
縁故(コネ)による就職は個人的に思う所がない訳ではないが、運も実力の内だ。
制服に身を通しながら、カオルは猛烈に悠希に会いたくなった。
きっと、悠希はこの話を喜んでくれる。
身だしなみチェックの為、鏡に視線をやると、以前よりずっと目付きが優しくなり、印象が丸くなった自分と目が合った。
「ユキ……アタシ、やるから……」
半端者(ヤンキー)のカオルではなく、大人のカオルになる。そうすれば……二人は並んでいても、決しておかしい存在ではなくなる。
大人になる。
ルールを守ることは自分を守るということ。隣の誰かを守るということ。
大変なことも多かったが、今の自分が素直に笑えるようになったのは、悠希の存在による所が大きい。過去を振り返らず、腐らずに前を向いて進めるのは悠希のお陰だ。
斜に構えず、人間関係を大事にすることは自分を大切にするということ。
悠希との関係で得た全てが、今のカオルに繋がっている。
そっと胸に触れると、悠希の存在が魂にまで絡み付き、新しい心臓として鼓動しているような気がした。
生まれ変わったのだ。
カオルは微かに笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「……っしゃ。最強カオル姉さん、始動……!」
まだまだ、こんなもんじゃない。踏み締める一歩一歩が未来に繋がっている。
カオルは充実していた。
――幸せ、だった。
◇◇
昼の忙しい書き入れ時を終え、休憩時間になった。
スタッフルームに入り、スマホをチェックするとメールの着信履歴が1件。発信者は、
――ユキ――
カオルは、だらしなく頬を緩めながら、急いでメールボックスを開いた。
「……?」
件名も本文(メッセージ)もない。一瞬、空メールかと訝しんだが、画像が貼付してあるのを確認して、やはりカオルは首を傾げる。
画像ファイルを開き、そこに映っていたのは――
「――ヒッ!」
瞬間、悲鳴を上げたカオルは腰掛けていた椅子から転がり落ち、持っていたスマホを投げ出した。
映っていたのは悠希だ。
悠希は固そうなマットレスの上で眠っていて、その額は大きく裂け、顔には乾いた血がこびりついていた。
「あ、あああああ」
床に座り込んだ姿勢のカオルは怯えたように後退り、スマホから距離を取った。
立てない。腰が抜けた。理解できない。悠希と別れたのは朝のことだ。何かあったことだけは分かる。
画像の角度から考えて、あれを撮ったのは悠希ではない。他の誰かが撮って、カオルに送り付けたのだ。
唇が震える。ズボンの前が濡れていて――少し漏らした。それは置いて、思い浮かんだ顔は秋月蛍だ。
カオルは首を振った。
悠希の怪我は前回の比じゃない。あそこまでのことは秋月蛍でもできない。
――痕になる。
「か……はっ……」
呼吸できない。傷付いたのは心臓だ。魂に癒着したカオルの新しい心臓。それが傷付き、血塗れで転がっている。
「――うげぇっ!!」
続けてカオルを襲ったのは強烈な吐き気だった。腹の底からマグマのように熱く込み上げ、胃を揉みくちゃに混ぜ返した吐瀉物が咽を焼き、全力で嘔吐した。
吐いても吐いても、一向に吐き気は消えず、吐くものがなくなってもカオルはひたすら吐き続けた。激しい嘔吐に鼻からも胃液が噴き出し、つんとした痛みに涙が流れる。思った。
取り返しがつかない。
悠希の容姿を愛している訳ではないが、それも掛け替えのないものの一つであることに変わりはない。
赦せない……。
赦せる訳がない……。
強烈な吐き気が治まるにつれ、新たに込み上げるのは激しい怒りだった。
何をしようと、例えどんな代償を払うことになろうとも絶対に殺す。仕出かした罪の大きさを知らしめた後、拷問してから殺す。
唇の端にこびりついた胃液を袖で拭いながら、カオルは呻いた。
「……アタシの心臓……アタシの、未来……」
それが傷付き、壊れそうだ。
スマホが鳴った。
カオルは、ゆらりと立ち上がった。
スマホのスクリーンに映った発信者は
――ユキ――
そんなはずはない。見たままを信じるほど、カオルは甘くない。
叩き付けるようにしてスクリーンをタップして、電話に出る。
「……」
『……』
無言。
カオルは、ひたすら向こうの反応を待った。
そして――
『もしもし、その……新城やろ?』
意外に控え目な応答があり、カオルは冷静にこれに答える。
「……誰だ、オマエ?」
『ああ、ごめんごめん。黒岩やん。黒岩智。はじめましてやな』
「そこ何処だ? 今から殺しに行ってやるからよ」
『……っ』
顔を見た訳ではない。だが、黒岩智の反応に如実な戸惑いを感じ――
それは違和感となってカオルに伝わった。
急に足場を取り払われたような心許ない感覚。不明瞭な不安。何かが違う。よく分からないそれを飲み下して言った。
「……ユキは無事か?」
この問に関しては明瞭な答えがあった。
『ユキ? 御影やったら見た目ほどは酷うない。頭の鉢割った以外には打撲くらいのもんで……ただ……』
「勿体振るんじゃねえ。さっさと答えろよ」
カオルは激しく舌打ちした。
『あのなぁ……』
黒岩智は呆れたような溜め息を吐き出して口を噤んだ。
沈黙。
ややあって、言った。
『……あのなぁ、御影のことやったん私と違うけん、アンタが私に凄むん違うで?』
「あ?」
『現場に葛城いうんと、何人かアンタの連れ? 下級生の……名前は知らんけど、けばけばしい髪形の……一緒やったわ』
カオルの頭は疑問符で一杯になった。
『ゴツい男も二人来とって、御影殴ったんソイツらや』
「……男?」
『そう。まぁ、その男二人は蹴散らしたけど、私がおらんかったら、もっと酷いことになっとったで』
「……」
『なあ、分かるか? 私が助けることができたん偶々やで?』
「あ、ああ、悪かったよ」
カオルは混乱した。
前後の事情は不明で、黒岩智もそれを理解していないことだけは分かる。
黒岩智が怒ったように言った。
『なあ、ヤンキー。もう落ち着いて話できるか?』
「……ああ」
カオルが頷くと、スマホの向こうで黒岩智が鼻を鳴らすのが聞こえた。
『……んで、ここからは真面目な話なんやけどな。単刀直入に言うで? ヤンキー、アンタな、御影と別れてくれんか?』
「あぁ? テメー、何言ってんだ?」
『勿論、タダとは言わん。御影に突っ込んだ金は私が持つ。……この辺はすまん、私、30万位しかないけん、取り合えずそれで堪えてほしい』
「あ? 何を――」
挑発ではない。黒岩智の口調には怒りや軽蔑の色はなく、真剣に向かい合おうとする誠実さすら感じる。
『代わりの男が欲しいんやったら、ええっと……どういうのがエエんか分からんけど、何人かは私にも伝はある。ただ、小さい男の子がエエんやったら、その、御影クラスは難しい……』
後半は自信なさそうに言う黒岩智の様子には、ふざけている感じは一切ない。それがカオルから積極的な反撃の意志を奪っている。
「ちょっ、待てよ。待てって……」
怒髪天が一転。カオルは泣きそうになった。諭すように言う黒岩智には馬鹿にした様子はなく、ここまでのことを真面目に言っている。
黒岩智が、困ったように続けた。
『……私のことも、気に入らんのやったらどついてくれてかまん。ただ御影には見られたないけん、そこは配慮してくれたら助かる……』
「……つっ」
カオルは絶句した。
土俵が違う。黒岩智とカオルとは圧倒的に違う。これを暴力で制するのは違う。最初感じた違和感の正体がこれだ。
黒岩智が困惑する訳だ。
この話し合いに暴力が差し入る余地は一片もない。少なくとも、黒岩智は『そういうつもり』で話に臨んでいる。
『……こんなこと言うたら、ヤンキーのアンタは笑うやろうけど、私、御影のことは本気なんよ。なぁ、頼むけん、ここは退いてくれんか……?』
どっちが真剣に相手を思いやっているか。これはそういう勝負だ。秋月蛍やその他大勢とは違う。別の次元の戦い。それに気付き、カオルは慌てた。
「い、嫌だ」
『なんで? その……こういう言い方嫌いやけど、御影、傷もんやろ?』
その言葉には頭に血が昇った。
「顔形の問題じゃないだろうが!!」
激しく怒鳴り付け、カオルは大きく息を吐く。目尻には涙が浮いていて、それは先程の嘔吐が原因のものではない。
『……ええっと、そうやな。アンタ、ヤンキーやもんな。男取られて黙っとったら、潰れる面子があるわな……やったら、その、土下座とかそんなんで――』
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!! このクソが!」
口汚く罵りの言葉を吐き散らすカオルの目に大粒の涙が溢れた。
話にならない。圧倒的に負けている。それだけは理解できた。
長い沈黙があった。
やはり黒岩智は困ったように言った。
『なぁ、アンタどうしたいん?』
「……」
『アンタ、さっき殺すとか言うたけど、御影ってそういうの嫌いやで? それらしいこと言わんかったか?』
――減点一万点。
『私もデカイ口叩けんとこあるけど、それって犯罪者の思考やで? そういうんに御影巻き込んでからやったら遅いと思わんか?』
「……」
『御影が怪我したんも、案外アンタのせいと違うか?』
「……!」
葛城瞳子が絡む以上、その可能性を否定できない。カオルは項垂れ――
『アンタ、御影のことは遊びやろ? 本気やないけん、そんなことが簡単に言えるんよ』
――カオルの恋は、黒岩智に完全否定された。
「…………」
言い返せない。
カオルは、ぐすっと鼻を啜った。
『……なに? アンタ泣きよんか?』
黒岩智は今度こそ本当に呆れたのか、大きく深い溜め息を吐き出した。
『私の同情買ってどうするん? 訳が分からん……』
大人と子供。黒岩智と新城馨との間に広がる差は大きい。カオルはその差を感じ取り、悔しさから涙を流した。
『……ええっと、その、あれやん……取り合えず、御影は無事やけん。ちゃんと病院で治療も受けた。今は寝とる。黙って消えたら、アンタも心配するやろ?』
歯切れの悪い黒岩智の様子からは、カオルの存在を持て余している気配がありありと窺えた。
『その、な。私は誘拐したんと違うし、御影が帰りたい言うたらちゃんと帰すつもりでもおるし、アンタも心配しなや。な?』
カオルの頬に大粒の涙が伝って落ちる。
『私と一緒の限り、絶対に傷付けんから安心してや。暫くは御影を預かりたい。今の私の要件はそれだけやん』
「……分かった」
今すぐ会話を打ち切りたい。その一心で何とか言葉を吐き出して、カオルは頷いた。
黒岩智は安堵の溜め息を吐き出した。
『そうか。今はアンタも取り乱しとるみたいやし、また電話するわ。次は私の携帯から電話するけん、それでええか?』
「……ぁぁ」
会話の最後に、黒岩智は思い出したように言った。
『そうそう、御影って2と4がメッチャ好きなんよ。私も言うけど、アンタからも携帯の暗証番号変えるように言うてくれんか?』
余裕。その裏に無関心。友人を相手にするような気軽さで言って、黒岩智は通話を切った。
「…………」
カオルは泣いていた。
居場所の確認すらできなかった。尻尾を巻いて逃げ出したのだ。
最後の詰めを欠いたカオルの夏の終わりは……
最悪の未来が近付いた気がして、唇まで震えた。
このままではいけない。体勢を立て直すのだ。だが、何をするべきか分からない。
新しいメールが入り、カオルは、またかと首を振った。
恐る恐るメールを確認して、その場に硬直する。
――ぼくを信じて――
「……ゆき、あいたいよ……」
口を衝いた言葉は、カオル自身、自分のものとは思えないほど弱々しく、か細い響きだった。
思い出すのは悠希の言葉。
――カッコいいとこ見せて――
黒岩智と向かい合うには、別の力が必要だ。
弱音を吐いている時間は微塵もなかった。