ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
それから、智は短パンに丈の長いTシャツを着て朝のお掃除を始めた。
窓を開けて換気したあと、猛スピードで部屋中に掃除機をかけて回る。
「御影の服も洗うけど、その……ええやろ?」
「うん、ありがとうね」
それは、ここに留まるという意思表示。ぼくが頷いて見せると、智は安心したのか、小さく溜め息を吐き出した。
ぼくは微熱のせいか、何だかポーッとしていて、ペットボトルの『いいこ』を持ったまま、忙しく動き回る智の姿を見つめ続けた。
「智は、いい奥さんになりそうだね……」
洗濯物を入れた籠を部屋の隅に押しやって、智は何やら思案顔でスマホを操作していたけれど、ぼくの言葉に動きを止めた。
にやっ、と笑って言った。
「 お父は忙(せわ)しい言うて気分悪するけど、そんなん言うんやったら、御影が私のこともろてくれるか?」
「…………いいの?」
智は、一番安心できる女の子。そんな彼女が、ずっとぼくの傍に居てくれたらとても嬉しい。
ぼくが微笑みかけると、智はみるみるうちに真っ赤な顔になった。
「なっ……からかいなや!」
そんなやり取りのあと、膝の上に置いたDVDプレイヤーに視線を向けると、液晶ディスプレイの中で意地の悪そうな猫が小さい鼠を追い回していた。
◇◇
お昼近くになって、智の携帯にカワムラからまた電話があった。
「……うん、上手く行っとる。想像以上に……しっくり来るんよ。ちょっとヤバいけん、あんた来てや」
暫くして、智はご機嫌斜め。眉間に皺を寄せ、険しい表情になった。
「……怪我しとってな。うん、酷い。偶々、間に合ったけん良かったけど、もう少し遅れたら、て思ったらゾッとするわ」
ぼくはベッドに転がって身体を起こし、膝の上にポータブルのDVDプレイヤー。両手にペットボトルの『いいこ』を持って、アニメの視聴中。
お行儀の悪いぼくを見て、智は一瞬、笑みを浮かべたあと、ドアを抜けてお風呂の方に歩いて行った。
智とカワムラは密談中。といっても智はぼくの敵じゃないし、カワムラのことは知らないけど、放っておいても智の知り合いなら悪いようにはならないだろう。
そんな風に投げ遣りに考えて、ぼくはDVDプレーヤーに視線を戻した。
◇◇
無事に鼠は猫から逃げ切り、ぼくのお腹の虫が鳴いた頃になって、智が戻ってきた。
「な、近くにベーカリーカフェがあるけん、行こうや」
女の子たちは物知り。カオルもトウコもそうだけど、ぼくの知らない場所を沢山知ってる。
「ベーカリーカフェ……行ったことない」
「うん、味もええし、値段も手頃で雰囲気も悪うない。イートインスペースもあるし、カワムラも来るで?」
「……カワムラ?」
智は噴き出した。
「本当に変わらんね? 結構、可愛がっとったやん」
そう言うからには、『カワムラ』とやらは、ぼくの知っている人物なのだろう。
「……剣道部の娘?」
智は笑いながら頷いた。
ちょっぴり意外。嫉妬深くて独占欲の強い智が、ここに呼んでもいいと考える女の子に興味が湧いた。
「……誰も可愛がった覚えはないけど……」
でも飛びきり手間が掛かった娘はいる。
剣道部に所属している癖に、剣道のことは何も知らなくて運動神経0。部の活動には全然付いて行けなくて、いつも俯きがちだったあの娘。
「……大体、分かった……」
名前はもう忘れてしまったけど、また会えるというなら少し楽しみではある。ぼくが剣道部のマネージャーを辞めて、一年経った。まだ続いているというなら、きっと成長している。
「あの娘、ちょっとは強くなった?」
「まあまあやな。でも、二年生の中では結構いい線行っとん違うかな」
「そう……」
DVDプレーヤーの蓋を閉じ、ベッドから降りると頭の奥に鈍い痛みがあって少し立ち眩みがしたけど、近場なら大丈夫そう。安くて美味しいパンにも興味がある。
「行こっか?」
ぼくが笑って見せると、智もにっこり笑った。
◇◇
智はデニムパンツにメーカーのロゴ入りのTシャツを着て。
ぼくは無地の長袖のTシャツの上に、やたら大きい半袖のTシャツを着せられた。雨が降っていて、少し肌寒いから重ね着しろとのこと。
智は、ぼくに変わらないって言ったけど、そう言う智も変わらない。相変わらずの過保護っぷりには少し閉口するけど、反抗するのも面倒なので受け入れる。
二人で部屋を出て、雑居ビルの六階から一階まではエレベーターで一直線。通路を抜け、エントランスに出ても誰とも会わなかった。
「土日祝日は私らだけやけん、心配せんでええよ」
ぼくが訝しんでいると、智からそう言う説明があった。
少し歩き、ガラス張りの扉の前にある小さなパネルに暗証番号を打ち込むと、カシンと小さな音がしてロックが開く。
――暗証番号は8711。
内側から扉を開く場合、鍵は必要ない。それらの情報を咀嚼しながら、ぼくらは雨の屋外に歩き出した。
ごく自然な形でぼくの肩を抱き寄せる智と寄り添うようにして、雨の中を相合傘で進む。
スクランブル交差点を渡り、アーケードの商店街が見えてきたところで、智がビクッと身体を震わせた。
「今日って、土曜日やな。午後休診やん……」
そう呟いて、智はガックリと項垂れた。
時刻は午前十一時半を過ぎ、急いだところで診療時間には間に合いそうもない。
「別にいいよ。もう痛くないし……」
ぼくの傷なのに、智はぼくなんかより、よっぽどこの傷を重大に考えているようだ。我慢ならないように唸り、下唇を噛み締めている。
「……私、昨日から何やっとんやろう……」
目的地のベーカリーカフェは、交差点を渡ってすぐ見つかった。
商店街の直前、出入口を少し逸れた通りに大きな看板が上がっている。
智はブツブツ言っている。
「私、舞い上がっとんか? こんなんじゃいかん。集中、集中……」
同時に向かいからやって来た大型トラックが水飛沫を巻き上げたけど、智は普通に傘を傾けて振り掛かる飛沫を受け止めた。
智は小さく舌打ちした。
「何してくれとんじゃ、殺すぞ……」
「…………」
少し呆れてしまって、ぼくは溜め息を吐き出した。
この大袈裟過ぎる智の過保護っぷりは何とかしなきゃならない。このままじゃ、ぼくは外出するのも難しくなるような気がする。
ベーカリーカフェのお店は自動ドアが半開きになっていて、ぼくらは速やかに入店した。
智は険しい表情で警戒中。ぐるりと周囲を見回して、言った。
「川村、まだ来とらんみたいやな……」
一方、ぼくは初めて来るベーカリーカフェで目移りが止まらない。店内は焼き立てのパンの美味しそうな匂いがしていて、ガラス張りの厨房はこちらから見通せるようになっている。厨房の中では高い帽子を被った若い女の人たちが三人ほど作業に従事していた。
壁に掛かった時計を睨み付け、智は難しい表情で奥のイートインスペースを指差した。
「……もうすぐ昼休みのサラリーマンで込み合うけん、先に席取っといてくれん?」
「いやだ。お店の中もっと見たいし、自分でパン選びたい。智が席取っといて」
「そんなん言うて、困らせんとってや、もう……」
智は目尻を下げ、困った表情になったけど気にしない。
「智はいい加減にしないと、そろそろ怒るよ。ぼくは怪我してるけど重病人じゃないし、子供でもないから平気だよ」
「でも、さっきもトラックに水掛けられそうになったやん……」
「関係ない。いい加減にしろって言った。智のパンも適当に選ぶから、さっさと行ってよ」
「あ……ごめん、なさい……」
強く言うと、智はみるみるうちに項垂れた。
「分かったら、先に行きなよ」
「…………」
智は泣きそうな顔で頷いて、とぼとぼと奥のイートインスペースに歩いて行った。
構いすぎ。分かってくれたみたいで、ぼくは少しホッとした。
トングと大きなトレイを持ち、色とりどりのパンが並ぶ陳列に移動する。パッと見た感じ、全体的に値段は安く設定されていて、ボリュームもある。智の言った通り、どれも美味しそうに見える。お昼の書き入れ時を直前に控え、焼き立ての香ばしい匂いが鼻腔を擽る。
(いい匂い……)
甘い菓子パンやオーソドックスな惣菜パン、ハンバーガーまであって種類も豊富。そのどれもが同じくらい美味しそうに見え、ぼくはちょっぴり迷ってしまう。不意に――
「――どうしたの、ぼく?」
呼び掛けられ、ハッとして顔を上げると、一際高いコック帽を被ったお姉さんと目が合った。
「動きが止まってるよ?」
そんなことを言って、微笑むお姉さんに、ぼくも笑って言った。
「向こう行け。呼んでない」
「……」
お姉さんは笑顔のまま、固まった。それは生命活動を停止したようにも見えて、少しおかしかった。
年の頃は二十四、五歳といったところだろうか。一際高い帽子からして、責任者でもおかしくない。
だから何だ? ってお話。
「ぼく、十八歳だから馬鹿にしないでね?」
悪戯っぽく微笑みかけておいてから、ぼくは陳列に視線を戻す。
お姉さんは少し驚いて、それから不服そうに唇を尖らせた。
「わ、悪かったよ。でも困ってるように見えたからさ……」
ガラス越しの外は雨降り。お昼の喧騒を控えた店内は妙に静かで、暖かなパンの匂いと、静かな雨音がして、ぼくは何だか落ち着いた気分になる。
そんな静けさを破り、お姉さんが言った。
「ね、一人?」
「……」
ぼくは少し、イラッとした。
「その服、可愛いね? 七分丈のズボンも似合ってる」
両方、智の衣服だ。勿論、パン屋のお姉さんには関係ないので説明しない。
「あっちの棚に新商品があるよ?」
「……!」
ぼくのお宝センサーが強く反応した。
「あは、こっちこっち」
興味を見せたぼくの様子に、笑みを深くして、お姉さんが向かいの棚を指差した。
「……これは練乳クリームとたっぷりのチョコクリームを挟んだ――」
ぼくは素早くお宝をゲットした。
「ぶぷっ! ……で、あっちはストロベリークリームに色んなフルーツをあしらったサンドイッチで――」
ぼくのお宝探しが続く。
気が付くと、トレイの上は甘い菓子パンばかりになっていたけど、カワムラも来るっていうし何とかなる。
景気よくトレイにパンを積み上げて行く。
「このお店のおすすめってある? これっていうの…………?」
「…………」
お姉さんは唐突に黙り込み、ある一点を凝視していた。
時々向けられる嫌な視線を感じて、ぼくは一歩引き下がった。
お姉さんの視線は、少しシャツが捲れてしまったぼくの左手首に集中していた。僅かに覗くそこは幾度も縦に切り付けられた古い傷痕が見え隠れしていて。
雨が降っている。
お昼の喧騒を直前に控えた、妙に静かなベーカリーカフェ。一瞬の緊張感。
スッと伸びてきたお姉さんの手が、ぼくの左手首を捕まえた。
「やめろ」
すぐさま振りほどきたいとこだけど、ぼくの両手はパンでいっぱいのトレイとトングで塞がっている。
「…………」
お姉さんは言葉もなく、ぼくのシャツを捲り上げ、左手首の傷を凝視した。
「右手も見せて」
「嫌だ」
ぼくは言って、鋭くパン屋の女を睨み付けた。
「……!!」
視線が合い、そこでパン屋の女は、今気が付いたと言わんばかりに目を見開いた。
「――おでこの傷」
「……」
説明するのも面倒だ。そもそも初対面の女の子相手に話し込むほど愛想も良くない。ぼくは沈黙を選んだ。
膝を折り、視線を揃えて言った。
「……ちょっと、お店の奥に行こう?」
「嫌だ」
「パン、奢るよ? ジュースも何を飲んだっていい。お姉さん、ここで一番偉いからさ。少しお話を聞かせて欲しいんだ」
そう言ってコック帽を取ると、はらりと長い髪が現れてシャンプーの匂いが辺りに散らばる。真剣な表情。ビジネス抜きのそれは――
ヘドが出る。
上から目線の、ボランティア。
先に視線を逸らしたのは、ぼくだった。
「……昔のことなんだ。だから、聞かないで……」
「ウソ。額の傷は新しい」
「……」
しつこい。何だって、ぼくが初対面のパン屋の女にあれこれ説明しなきゃならないんだ。
ぼくが沈黙を選ぶと、左手首を掴む力が増した。
「お姉さんとお話しよう? 悪いようにはしない。そうだ、名前教えてくれる?」
顔は笑っているけれど、その目は全然笑ってない。激しい怒気すら感じる。
「大丈夫。キミを一人にはしないよ」
誰もそんなことは聞いてない。最悪の勘違い女。強く手を引かれ、ぼくは焦って智の行った方に視線を送った。
智は来ない。
来たら来たで、智は物凄く怒るような気がする。こういうお節介な女は深山だけで充分だ。もう間に合ってる。
でも、どうしたらいいか分からない。
このお姉さんは、きっといい人なんだと思う。そう考えると力が抜ける。強く手を引かれ、同時に目眩を感じたぼくは、トレイからパンを二つ落としてしまった。
「あっ……」
「気にしないで。キミの為に、新しいパンを焼いてあげるよ」
お節介。上から目線の勘違い。肩を、ぐいっと引き寄せられたとき、ぼくはゾゾッと強い寒気を感じた。
その瞬間、出入口の方から雨の匂いを含んだ空気が流れ込んで来て――
「何をする! その手を離せ!!」
そう大喝したのは新たな来訪者。
きりりと引き締まった目元は涼やかで、長く伸ばした黒髪は裾の辺りで緩やかに一つに纏まっている。凛としていて、知性を感じる和風美人。
「御影先輩に触れるな!」
カワムラ。
川村 美里。ぼくが知っている彼女とは全然違う。それは、正に変身と呼べるもの。一人前の女の子になっている。
ノースリーブのシャツに、落ち着いた紺のロングスカート。真っ白なスニーカーを履いて、しとしとと降りしきる雨の中、川村美里がやって来た。