ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
部屋に帰ると、ミサトが持っていた大きな手提げ鞄から、ぼくの為に買ってきたというパジャマを取り出した。
「これを着て下さい」
どうやら智の指示で買ってきたもののようだ。手にとって見ると、襟に付いたタグにKIDSと描かれてあり、微妙な気持ちになった。
「……くひっ」
気持ち悪い引き笑いが聞こえ、顔を上げると、ミサトがやっぱり口元を歪めて笑っている。
「甚平とどっちにするか悩みましたが、今回はそれで」
更によく見ると、パジャマにはやたら目付きの悪いウサギがプリントされている。
「これは……」
むっ、と動きを止めたぼくに説明するように、ミサトが呟いた。
「悪兎のペロリくんです」
「……ふざけてる?」
「まさか」
とんでもない、と首を振るミサトの横で、智が満足そうに微笑んだ。
「ああ、ペロリくん買って来てくれたんやな。可愛いやろ? 私の好きなキャラクターでな、その兎、めっちゃ邪悪なんよ」
「…………」
そっと目を逸らすミサトの両肩は、笑いを堪えるように小さく震えている。
ムカついて、ぼくは言った。
「ミサト、いいこ買ってこい」
馬鹿にされて黙っているほど、御影先輩は甘くない。睨み付けてやると、ミサトは少し焦ったように智に視線を向けたけど、智は素知らぬ体で付け加えた。
「おっきいエビも頼むわ」
「…………はい」
ミサトが悲しそうに頷き、智はおかしそうに笑っていた。
◇◇
ミサトが行ってしまうと、室内は、ぼくと智の二人きりになった。
「後で写真撮ってええ?」
智の趣味が変わっていることはよく分かった。
ぼくは邪悪な兎がプリントされたKIDSサイズのパジャマを着る羽目になり、智はご機嫌。
「…………」
隠れ家兼要塞。ここに居る限り、外敵の存在はなく、無用な争いも避けられる。そこにぼくを招き入れ、変わった趣味のパジャマを着せ、智が浮かべる笑みは穏やかだ。
「もう寝る? それともテレビ見る? DVDもあるし、ネットもできるで?」
ぼくをベッドに座らせ、その正面で膝を着いた姿勢の智は、少し首を傾げて御用聞きの態勢。優しそうに微笑む顔に、我儘を言って下さいと書いてある。
カオルもぼくの我儘は何でも聞いてくれたけど、智の場合は、ずっと積極的。
「何でも言うてや?」
「智は……」
ぼくが言えば、智は何でもやる。笑えと言えば笑うだろうし、泣けと言えば泣く。悪いことをしろと言えば、躊躇いなくやる。
これは凄くよくない。
断る口を持たない相手に、制限なく我儘を言うことはできない。それくらい、ぼくにも分かる。ミサトを行かせたのは失敗だったかもしれない。
……智には、カオルにはない危険を感じる。
それが何か分からない。
確かめるには無茶をするしかない。でもおそらく……智は、その無茶に耐えられない。カオルほど我慢強くない、もう待てない。溺愛過保護の性分は、肌を重ねる度に加速しているように思える。これが裏返るとき、ぼくはきっと、最悪の形で債権の回収に遭うことになる。
――悠くん、本気の『好き』って、凄く怖いよ。
父さんの言葉を思い出し、ぼくは少し考え込む。
智の『好き』は、多分よくない形。自身もそれをよく理解していて、だからこそミサトを呼んだ。
そして――
「智……」
ミサトが呼ばれたことには、もう一つ意味がある。
「ぼく、時間が欲しいんだ」
「え……時間? 好きなだけおってええよ?」
「そうじゃなくて……」
ぼくは首を振った。
「この夏の終わりまで、待ってほしい。そうしたら――」
「…………そうしたら?」
瞬時に笑みを消した智は、恐ろしいぐらい無表情になってぼくの顔を覗き込む。
――ぼくは、信用されてない。
張り詰めた空気が流れる。不穏。でも、話すのは早い方がいい。これ以上『あい』が加速すると、智は何も聞かなくなる。
「そうしたら、どうなるん?」
輝きの消えた眼は深い木の洞(うろ)のように見える。底なしの深淵を思わせるこの『あい』は重すぎる。
ぼくは、真っ直ぐ、その深淵と向き合う。
「ぼく、智のものになるよ」
「…………!」
智は目を見開き――ごくり、と息を飲み込んだ。
――game over――
最悪の債権回収者。三年前、ぼくが築いた負債は大きすぎる。彼女には、ぼくを受け取る資格がある。
「何人か、お別れを言いたい人がいるんだ」
「……そう、なんや……」
『ぼく』という弱点を突かれ、へにょっと智の目尻が下がった。
「ああ……うん……でもな、私、すごい心配なんよ……」
智はぼくの手を取り、いとおしそうに何度も口付けしたあと、涙で潤んだ瞳で見つめ返してくる。
「酷いことされるん違うか? そんなん、私は我慢できん。私も一緒に――」
「駄目」
この夏の終わりに、決着を。
それは、ぼくにしか出来ないことで、何が起ころうと、ぼくだけが負う責任。
「……ぼく、いっぱいいっぱい、悪いことしたんだ」
トウコは泣くだろう。
「みんな、すごく良くしてくれて……」
シュウは怒り狂うだろう。
「だから、ちゃんとサヨナラしなくちゃ……」
カオルは……
カオルの『あい』は……
智とのことは関係ない。カオルとぼくは違い過ぎる。この夏、ぼくらの道は交錯しただけだ。一瞬重なって、後は遠ざかって行く。
カオルにカオルを返して、それでおしまい。
智の『あい』は強すぎる。彼女を納得させる方法は、これ以外に思い付かない。
「うん……うん……みんなサヨナラするん……分かった。でも……」
ぼくの膝にすがり付き、納得したように何度も頷く智は、嬉しそうに微笑みながらも、眉を寄せてちょっと複雑な表情。
「父さんとの電話、聞いてたよね?」
もう、お金を稼ぐ必要はない。目尻を下げた智は頷き、潤みっぱなしの瞳は、ぼくだけを映し続けている。
「なぁ……やっぱり心配や……遠くから見守るだけでええ。口出しせんけん、連れてってや……」
「智は……」
過剰な『あい』でぼくをがんじがらめにしようとしている。その『あい』は不信感と表裏一体。ここから出て行ってしまえば、ぼくは二度と戻らないと疑っている。
ミサトを呼んだもう一つの理由は、単に監視の目を増やしたかっただけ。
ぼくは強く首を振った。
最悪、ここで父さんの帰りを待つことになるかもしれない。智の『あい』は強すぎる。
「…………」
ぼくは俯き、口を閉ざした。
ここから出て、カオルやトウコに会いに行きたいけど、やり方を間違えれば大変なことになる。
智が、ぼくを抱えるようにして隣に腰かけた。
「そんな難しい表情で考え込まんとってや……」
「…………」
駄目だ。ぼく、だんだん弱気になってる……。
黒岩智は特別な女性だ。そういうことに鈍いぼくでも、彼女の『あい』が本物だってよく分かる。優しくて、重苦しいそれが積み重なるとぼくは弱くなる。更に困ったことに――
ぼくは、決して智が嫌いじゃない。
肩を抱かれると何だか安心してしまう。煙草臭くない唇も好きだし、つんと突き出た自己主張の激しいおっぱいも好きだ。
ぼくは智の胸に寄り掛かって、深い溜め息を吐き出した。
考えれば考えるほど、甘く深い落とし穴に嵌まって行きそうだ。
ぼくは静かに目を閉じる。
難しいことは後で考えよう。ちょっと休みたい。耳を澄ますと、しとしとと降り注ぐ雨の音が聞こえる。身体から力が抜けて行く。肩越しに感じる智の体温が心地いい。今は――
少しだけ、眠ろう……。