ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
ほぼ無人といえる雑居ビルの三階で、ぼくとミサトは、激しくお互いを求め合った。
――智の目の前で。
ミサトの唇からはストロベリーホイップの味がして、ぼくが舌を挿し込むと夢中になって吸い付いてくる。息継ぎのため離れると、唇と唇の間に銀の虹が薄く糸を引いて垂れ落ちた。
「もっと……もっと……ごほうび……」
ミサトの瞳は蕩け、凛々しい和風美人が台無しになっている。身体が燃えるように発熱し、じっとりと汗ばんだ肌は紅潮している。熱に魘(うな)された人のように言った。
「……もっと……深山にしたのより、激しくして下さい……」
「みや、ま……?」
突然出てきたその名に怯み、ぼくは僅かに距離を取る。
何故、ここで深山? 深山とのことを知ってる? そう言えば、智はシュウだけじゃなくて、深山とも何かあったように言っていた。
深山に何かあった!?
胸がざわめく。唐突に額の傷が疼いて、振り切るように頭を振った。深山のことは考えない。ぼくは彼女が苦手だ。
痛みを堪えながら視線を逸らすと、壁に背中を押し付け、固まった智と目が合った。
「……?」
恐らくは苛烈な反応を見せると思っていた智だったけど、そう言った気配は微塵も感じられない。壁に背を押し付けて、限界まで後退り、瞬きすらせずにぼくを見つめている。変身を解いたミサトには目もくれず、ぼくを――いや、ぼくの中の『何か』を推し量ろうとしているように見えた。
智が、しゃがれた声で呟いた。
「キリエ・エレイソン……」
カオルや瞳子辺りなら意味なんて分からないだろう。智は博識だ。……いや、何で智は……いや、何で、ぼくは、こんな言葉を知っているんだ……?
額の傷がズキズキと痛んだ。
「……智、ミサトに謝るんだ」
智はガクガクと何度も首を縦に振って頷いた。
「わ、分かった。降参、降参……私が全部悪い。悪かった……ちょっと調子に乗ってしもた」
「…………」
智は怖がっている。ぼくの中にある、得体の知れない『何か』に酷く怯えている。
脳裏に過ったのは深山の顔。
深山楓は特別だ。そう、あの娘は……
深い追憶を遮るように、また額の傷が痛んで、ぼくは強く頭を振った。
「…………?」
ふとした違和感を覚え、ぼくは首を傾げた。
「ど、どしたん?」
怯えながらも発された智の問いに、ぼくはもう一度首を傾げることで応えた。
「……何か思い出しそう」
キーワードは、深山楓。
「――!」
その瞬間の智の変化は劇的だった。
「――川村、私が悪かった! 許せ! 許せ!! 早う許せ! 頼む……!」
分からない展開にミサトは目をキョロキョロ。
「――え!? は、はい、どうぞ……?」
ぼくも分からない。智は絶対に怒るはずだと思っていた。智じゃなくても怒るように思う。
智が慌てて言った。
「謝った! 何も考えたらいかん!」
視線を下げると、ハッとした表情のミサトと目が合った。
「……凄い汗です。大丈夫ですか?」
額に触れて確認すると、ぬるりと粘る汗の感触がした。
ぼくは、ちょっと考えて言った。
「……智、怒ってないの?」
一拍の間を置いて、智は大きく頷いた。
「私が御影に怒ったこと、あったか?」
「ない」
「最近、どうや。怖い夢見るんと違うか?」
「…………」
シュウに殴られて、ぼくの調子は下降線を辿る一方だ。
沈黙は肯定の合図。
智は一つ頷いたあと、悲しそうな表情になった。
「見るんやな。蛍のせいか? あれには、もう近付かん方がええ」
「……」
この夏は色々とあった。カオルや瞳子、シュウ、ユキナ……女の子たちとの関係。霧島が死んだこと。ハギリが呼んだ男たちに殴られたこと。
「嫌なこと、いっぱいあったん違うか?」
智に嘘は吐けない。彼女はぼくを知り過ぎている。確かにこの夏は、誰にも言えないようなことばかりして来た。
「……!」
思い出していると、ミサトからの強い視線を感じたので、ぼくは顔を逸らした。
智が厳しい口調で言った。
「川村、呼んどいて悪いんやけど、今日はもう帰れ」
「え……」
ミサトは小さく呻いたあと、ぼくから離れ、廊下に正座したかと思うと、髪ゴムを外してまた幽霊に戻ってしまった。
「ここに置いて下さい。誰にも言いません。何だってします」
幽霊に戻ってしまったのは、完全服従の印。日陰者になってでも、この場に留まりたいという覚悟の現れ。何故か分からないけれど、ミサトはどうしても帰りたくないようだ。
「なんやの、アンタ……」
ミサトの覚悟の意味が解るのか、智は眉間に皺を寄せ、思い切り渋い表情になった。
「……なあ、私ならもう平気や。今のアンタ、はっきり言って邪魔なだけやで」
そう言って置いてから、ぼくに向き合った智の顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「……近付くけど、逃げんといてや? な?」
「……なにをするの?」
「抱き締める。それだけやん……」
「…………」
数瞬の沈黙の後、ぼくは逃げる間もなく引き寄せられ、智の大きなおっぱいに顔を挟まれるようにして抱き締められた。
ほんのりと薫る柑橘系の匂いを含む空気を胸に取り込み、大きく深呼吸すると、すうっと汗が引いていく。
「そう……深く息吸って、何も考えんといて……」
オレンジ色の予備灯が照らす狭い通路。柔らかいおっぱいに挟まれている間は、何だか酷く曖昧な時間が流れているような気がして――
ぼくは深山のことを考えないようにした。
智の震える指先が背筋を伝って落ちる。間近に打つ心臓の鼓動は優しく強く、ぼくの窓を叩き続ける。
藪蛇って言葉がある。
さて、この場合、つつかれて藪から出てきたものはなんだろう。鬼が出るか、蛇が出るか。今、ぼくが向かい合っているものは、そんなものより、ずっと恐ろしい。
智の存在は、ひたすら優しくて。
「怖がらせて、ごめんな」
「……」
ぼくがここに居ていい時間は、思っていたより随分と少なそうだ。
深呼吸を繰り返すぼくの耳元で智が囁く。
「……胸にな、小さい花が咲いとるんよ。私、その花が好きで好きで、好き過ぎて……自分で踏み潰すとこやった……」
――その花の名は……
「その花、白いんよ。弱っちくて、風が吹いただけでも散ってまいそうで……儚い。私、それ守ろうとしたん、思い出した」
その花の名は、多分……
「白くて、小さい一輪の花。それがあれば、何でもできるように思ってたんやけどなぁ……」
黒岩智。誰よりも優しくて甘い、遅れがちなぼくのヒーロー。他人に残酷なぼくだけの守護天使。
智は自嘲の笑みを浮かべ、ぼくを抱く腕の力を強くした。
「忘れるとか……私、自分で思ってたよりアホやってんな」
「智はアホじゃない」
「アホやけん、試されるんよ。分かっとったのに……」
胸に咲く、小さくて白い一輪の花。
その花の名は、『愛』。
それだけは分かったから、ぼくは飽きもせず、ずっと智を見つめ続けた。
やがて、ぼく以外には残酷な時間がやって来る。
「川村、帰れ」
「…………」
「もう分かるやろ? 私の好きな人、治らん傷があるんよ。普通とは違う。でもな……」
静かに、しかし激しく智は吐き捨てる。
「それがどうした? 簡単やないんよ、この気持ち。奇跡が必要やったら、何度でも起こしたるわい。神様なんか居らんでも、私がなんとかする」
荒ぶることなく吐き出した言葉は冷静の中の激情。そんな智は暴力を嫌う。ミサトが覚悟で来るなら、それ以上の覚悟で返すだけ。
「……っ、私だって……」
廊下に座り込んだまま、抱き合うぼくと智を見つめていたミサトは何か言おうとして口ごもる。
泣きみそミサト。
肝心なところで、この娘は誰かを頼ってしまう。助けを請うように、ぼくに視線を送ってくる。
「智……」
何か言おうとして――できなかった。智の細い指先が伸びて来て、ぼくの唇に封をした。
「……」
智は何も言わない。
色の薄い瞳は残酷さと慈愛とを兼ね備え、冷たい氷の中に熔岩の激情を隠している。
ああ、なんてこと。
彼女は弱点であるはずのぼくをすら取り込んで、更なる成長を遂げたモンスター。『愛』の化身。
智が残酷に言った。
「心配してくれて、ありがとうな。でも、もう邪魔なんよ」
「…………」
ミサトは項垂れ……ぽつりとおちた涙の粒が、手の甲を打った。
智は完璧(フローレス)。
必要に応じて優しくも残酷にもなれる彼女の『愛』は、疵(きず)一つないダイヤモンド。
いつの日か、ぼくはこの愛に殺される。
あまりにも危うい、ダイヤモンドの愛。