ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
ぼくは、ずっと智の腰に抱き着いていた。
三階にある給湯室は通路の行き止まりにあって、小さい造り。蛇口のある流しの横に古い二口コンロがある。側にある冷蔵庫は大きめのものだけど、中に入っているものの全てに名前が描いてある。どうやら共用のものみたいだ。
その給湯室の流しの前に立ってエビを捌く智の腰に、ぼくはずっとしがみついていた。
「すぐやけん、待っててや?」
智は、時々、確かめるようにぼくの手を握っては柔らかな笑みを浮かべた。
「ぼくもやってみたい」
「ええよ。二人でしようか」
二人、流しに並んで伊勢海老を捌く。
伊勢海老の調理は、思っていたより、ずっと簡単だった。
頭と胴体を繋ぐ部分にスプーンの柄を突っ込んで半周させ、頭をもぎ取る。少し力が必要だったけど、そこは智が手伝ってくれた。
お腹の固い皮はキッチン挟みで切り取り、スプーンで綺麗に身を削ぎ取って完了。
慣れもあるだろうけど、調理の経験がある人なら誰でもできる内容。
「思ったより、身がない……」
ガッカリして呟くと、智が噴き出した。
「まあ、小さいしな。でも、三尾も捌いたら結構あるやん」
三尾分の薄く切った身を甲羅に盛り付け、頭の部分を飾って伊勢海老の刺身の出来上がり。
「おお……!」
ぼくが感嘆の声を上げると、智はやっぱり笑った。
天に召されたエビは三尾。
残りのエビは明日以降の調理の予定。智は刺身以外の調理を考えているみたいだった。
「余った頭とかで、ちょっと出汁取ってみようか?」
「……いいね!」
伊勢海老の味噌汁、雑炊、夢は広がっていく。甲羅を手に取り、ぼくが得意なポーズを決めると、智は思い切り噴き出した。
「川村が居ったら、今のバシバシに撮られとるで」
「ふふん♪」
そういえば、あのパパラッチに復讐することを忘れていた。
しかし……ミサトは何をしたらダメージを受けるんだろう。お尻に指を突っ込んだときも、ご褒美とか言ってたぐらいだから何をやっても堪えないような気がする。
「♪」
ぼくがミサトへのお仕置きを考える間に、手際のいい智はテキパキと晩御飯の準備を進めて行く。
「ぼくと智だけだから、そんなにいらないよ」
「え? そ、そやな。あはは……」
どうやら沢山作るつもりだったようだ。智は苦笑いを浮かべている。
「お汁があれば、あとは適当なものでいいよ。それより、探険の続きがしたい」
「ん……ええよ」
智が大きめの鍋に水を張り、その中に伊勢海老の甲羅と頭、出汁昆布を入れて中火に掛ける間に、ぼくはお米を洗ってお手伝い。
「……久し振りやな、本当……」
ずっと笑顔の智だったけど、その目元に、うっすらと涙が浮かんでいた。
◇◇
そしてぼくらは探険に戻る。
ちょうどT字路の行き止まりだった給湯室を離れ、来た道を引き返した。
分岐に差し掛かり、左はエレベーターのある元来た方向。
「智、右は何があるの?」
「……なんやろう。用ないし、行ったことない……」
そういう訳で、ぼくらは右の方向に進む。
通路は絨毯が敷いてあって柔らかい。所々、事務机が置いてあったり、山ほどの書類の束が積み重ねてあったりする。それらを躱し、前に前に。
智が感心したように言った。
「へえ、こんな風になっとったんやな……」
「お宝の気配がするね」
と言ってはみたものの。
程なくして行き止まりが見えて来て、ぼくは少しガッカリした。行く手に横引きの扉があって、プラスチックのプレートに『浴場』と描いてある。それだけ。
「――!!」
唐突に智が固まった。
「ちょっ、ウソ!? 聞いとらん! 聞いとらんで!」
智はぼくを追い越し、浴場の方に向いて走って行った。
お風呂は智の部屋にもあるし、ぼくは特別興味は感じない。のんびりと智を追う形で浴場に入った。
まず、目に入ったのは六畳ほどの脱衣場。のんびり寝転がれるようにバスタオルを置いた布張りの長椅子があって、大きめの鏡台、トイレ。棚には新聞や雑誌が置かれている。暫く使用した形跡がなく、少し埃っぽい匂いがする。その奥に、更に横引きの扉があって、そこが浴室になっているようだ。
「智?」
入り口を抜け、中に目をやると、十畳ほどもあるビッグサイズの浴槽が目に入った。
「へえ……すごい……」
このビルの持ち主は、結構な好事家のようだ。父さんと行ったことのある家族風呂より随分大きい。行ったことはないけど、銭湯ってきっとこんな感じなんだろう。
智はその大きな浴槽の前で左手を腰に当て、右手でスマホを持って電話している。
「あ、お父か? 三階にあるデカい風呂のことなんやけど……」
智は、おじさんとお話し中。
浴室内は結構な広さ。据付けのシャワーが四つ、大きな姿見が壁に張り付けてある。テレビで見た銭湯の縮小版と言ったところだろうか。
「なあ、お父。入ってええか? ええよな?」
鼻息も荒く携帯の向こうに迫る智を見て、ぼくはすごく嫌な予感がした。
「そこを何とかや! 一回ぐらいええやん!!」
浴槽も暫く使用されてないのか、うっすらと埃が積もっている。
試しに蛇口を捻り、シャワーの水で浴槽の中を流してみると溜まった埃が黒い水になって排水口に流れて行く。
「一回! 一回だけやって言うとるやろう!!」
智はかなりエキサイトして、殆ど怒鳴るようにして、おじさんと何かを言い争っている。
「お父、後生や!」
その間、ぼくは何となく浴槽を流して遊んでいた。
ややあって――
「ぃよっしゃあ! 流石お父や! いや~私、お父の娘でよかったわぁ!」
智が快哉の声を上げた。
「……ええやんええやん! 分かっとる分かっとる! お父! 愛しとるで!」
智がおじさんに無茶苦茶調子がいいことを言っている、ということだけは分かる。
ぼくは浴槽を洗うのにも飽き、タイル張りになっている浴槽の縁の部分に腰掛けて足をプラプラさせて、智を待った。
通話を切った智と目が合った。
「な、なぁ、今日、でっかいお風呂に入ろうや……」
「二人で?」
「うん、ええやろ? そ、そのな、やっぱり何にもないっていうんも寂しいもんやし……」
要するに、智は大きなお風呂でHしてみたくなった。それはもう、あれだけ強い理性を振り切ってしまうぐらいには。
正しくない智に、こんなものを見せたら、こうなるのは分かっていた。ぼくは呆れ、小さく溜め息を吐き出した。
「ぼく、怪我人だよ……?」
「えぅ、って、うぅ……そぅやけど……」
口の中でモゴモゴ言って、智は、みるみるうちに萎れて口を閉ざした。でも……
「おっきいお風呂か……」
と、呟いて、ぼくは少し考える。あまり興味はないけれど、こんなに大きなお風呂には入ったことがない。これから先、ぼくが何年生きるかは分からないけど、銭湯に行くことは、おそらくないと思う。
それに、智に強く求められるのは決して悪い気分じゃない。体調は……少し寝たお陰か、悪くない。
「…………」
智は虚ろな表情になって、タイル張りの浴槽を見詰めている。
どれだけ期待したんだろう。
やれやれ、とぼくは内心で息を吐く。
「……しょうがないね、智は……」
そう言うと、智はすごい勢いで顔を上げ、ぼくを見つめた。
「え……本当、大丈夫なん?」
「お風呂には入りたいし、いいよ。無茶はしないでね」
「んもう、分かっとるって! やたっ! やった~~!!」
素直に喜ぶ正しくない智。
その代わり、おしっこ漏らして、腰抜かす羽目になっても知らないよ。そんなことを考えるぼくも、智と同じかそれ以上に正しくない。
「本当、智はもう……」
苦笑いを浮かべながら、ぼくは――
ミサトを帰らせて、本当に失敗したと思った。