ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
智が考えなければならない事は多い。
霧島沙織が素行の悪さを拗らせて死んだのはいい。特に興味は覚えない。だが、彼女の死の直後、悠希が現場に居合わせた事は問題だ。聞く限り犯罪性はないが、この一件が明るみに出れば失うものは多い。特に大学受験を控えた今はマイナスにしかならない。
この問題に悠希を巻き込んだ皆川優樹菜は厄介な存在だ。秘密を共有する限り、悠希には優樹菜を処分するという判断が出来ない。時間が経てば経つほど、皆川優樹菜は厄介な存在になるだろう。
智と親交の深い剣道部の顧問には生活指導の教員という別の一面があり、彼は「剣道部の顧問としてより生活指導の教員として忙しい」と言った。
御影悠希は現在行方不明。担任の坂本敏江が悠希を追っている。
現在の皆川優樹菜の素行を洗うなら、タイミングよく行方不明になっている悠希の存在が取り沙汰される危険がある。
何かを嗅ぎ取った国崎竜也は遠回しに警告して来た。
智にとっては頭の痛い問題だ。
これ以上トラブルを抱えるのは避けたい。そう考えていた所に掛かって来た電話がこれだ。
川村美里は荒れ狂っていた。
『……黒岩ぁ。よくも……よくも……!』
「なんや、アンタ。頭おかしなったんか?」
智は疲れたように溜め息を吐き、目の前で大量の発汗を続ける父、英雄に目配せして背中を向けた。
『……何処だ。御影先輩は何処にいる!?』
「落ち着き。御影、おらんのか?」
……逃げたか。
失意はあるが、予感もあった。自分なりに問題の解決を思考する悠希が何らかの行動を取ってもおかしくない。僅かな隙を突き、出て行ってしまった……。
『――惚けるな! こんなこと、よくも……!』
美里は完全に激昂していて、てんで話にならない。
「お、おい。智、どうしたんや?」
智は小さく舌打ちした。
背後の父と電話の美里。どちらも必要とする本質からずれているように感じて煩わしい。
『……御影先輩はお前を信頼していた。あの人は私の胸で眠らない。寝てくれない。でもお前に抱かれているときは、本当に落ち着いた表情をしていた。あれを見て壊すのは忍びないと思った。あの人が心安らかで居られるなら、私はどんなに惨めな思いをしてもいいと思っていた。私が受けた恩は小さくない。あの人が笑っていたから、今の私は人間として生きていられる。あの人が笑って私の吐瀉物を片付けたあの日、誓った。私はあの人の為に生きている。虐げられた者の気持ちが分かるか。望まぬ事を強要され、人間として見られない悔しさが分かるか。傲慢な秋月や偽善者の深山には到底分からない。私はお前の事も大嫌いだった。でもあの人の事に関する限り、お前はいつだって真摯だった』
美里の呪詛を聞き流す智は、店内の喧騒を嫌って外へ出た。
『……裏切者。私は私自身を不甲斐なく思う。お前を信じ、私自身を貶めた私自身の決断を恥ずかしく思う。あの人に会わせる顔がない。こんなことになるのなら、いっそ私が――』
「――私が幸せに、ってか?」
後ろを見ると、受付のレジで英雄が慌てて精算する姿が目に入る。頻りに屋外の智に視線を飛ばし、慌てる様は父らしくなかった。
「そう思うんが遅いんよ。つまらん。アンタ、言い訳ばっかりやん」
慌てる父が小銭を撒き散らしたのを見て、智は少しだけ笑った。
『喧しい。そのよく動く口を閉じていろ。御影先輩を返せ。隠しても分かる。御影先輩は抵抗しただろう。何度殴った』
「は? 殴っ、た……?」
不意に――
鋭く胸を突き刺された感じがして、智は言葉を詰まらせた。
『惚けるな、黒岩。財布も携帯電話も置き去りのままだ。絨毯に血痕が残っている。杜撰なやり方だ。恥知らずの下衆め。よくもこんなことができたな……!』
「ちょ、ちょっと待ちや。アンタ、さっきから何を――」
智は片耳を塞ぎ、降り頻る雨の中、美里の言葉に耳を澄ました。
『恥知らずの卑怯者。よくも御影先輩の信頼を裏切ったな。御影先輩が何をした。私なんか比較にならないぐらいお前を信頼していただろう。御影先輩は傷付き衰弱している。全身余すことなく傷だらけだ。左手には殆ど握力がない。どんな気持ちで御影先輩を傷付けた』
「…………」
雨が、降っている。
ふらふらと前に進み出ると、現実味のない妙に生温い雨が衣服を透過して身体を濡らしていく。
「なぁ、待ってや……私が悠ちゃん殴る訳がないやろう?」
『黙れ。その汚い口を閉じていろ。お前は今何処にいる。御影先輩を返せ。御影先輩を返せ!!』
……どうせ、間に合わないくせに……
雨を受け止める智の視界が急速に滲んで行く。
「……な、ちょっと待ってや……。私が悠ちゃん傷付ける訳がないやんなぁ……」
『…………』
嗚咽に掠れる智の声に、幾分落ち着きを取り戻したのだろう。暫くの沈黙の後、美里は言った。
『なお悪い。お前は今何処にいる。何処で何をしていた。片時も離れず、なぜ守らなかった。いつから口先だけのヤツに成り下がった』
――あの時もこの時も、間に合わなかったくせに――
「…………ぁ」
――次も、きっとそう。智は間に合わないよ――
「ああああああああああ!!」
智は全身で悲鳴を上げた。
それはまたしても、智の指先を掠めて零れ落ちて行ったのだ。
◇◇
降り頻る雨の中を、全速力で駆けて帰った。
部屋の中は荒れていて、背の高い電気スタンドが倒れて電球が割れている。窓際のカーテンは半ば引き裂かれ、薄暗い室内に鈍い光を取り込んでいた。
「……」
視線を落とすと、美里の言う通り、確かに絨毯に血痕がある。乱雑に拭き取った形跡があり、その瞬間、智は心臓を握り潰されたかのような胸の痛みを覚えた。
鈍い陽光を取り込む室内で、背中を向けていた美里が振り返り、低い声で言った。
「……漸く帰ったか。何処で油を売っていたかはどうでもいい。説明しろ……」
それには返事をせず、智は机の上に立て掛けたままのタブレット端末を手に取った。
タブレットは未だ動画を録り続けていて、バッテリーはまだ半分以上残っていた。震える指先で画面をタップしてファイルを開く。
……撮影していた動画が始まり、ほどなくして悠希は目を覚ました。
タブレットを置いていた机からベッドまでは少し距離がある。その為か音声が小さい。
悠希は電話を掛けて来た誰かと会話を始めた。
その様子を横目に、置き去りになった悠希の携帯電話を開いて着信者を確認する。
一人目は国崎竜也。
キャッチが入り、二人目は御影総太郎。
音声が酷く遠い。
悠希が話している内容は聞こえないが、総太郎からキャッチが入ったと思わしき瞬間は悠希の表情にも変化があった。
悠希と総太郎の会話は五分ほど続き、室内にインターホンの音が鳴り響いた。
ここからだ。
唇を噛み締める智の横で、美里も瞬きすらせず画面を見つめている。
悠希は間近にあったTシャツと七分丈のズボンを履いて来客の対応にあたった。
タブレットの撮影がカバーしているのは部屋の中だけだ。玄関口はカバーしていない。来客の姿は映していない。
智の噛み締めた唇から血が流れ落ちた。
次の瞬間――
『……父さんを悪く言うな!』
悠希の怒鳴る声が聞こえ、智と美里は同時に息を飲み込んだ。
『……ああああああああああ!!』
暫くして、悠希が絶叫した。
『ぼくは父さんの息子だ! 取り消せ! 取り消せぇぇえぇぇえ!!』
智はハッとしてシャツの胸元を握り締めた。
理解できない。だが不意の来客は、どのような意図によってかは分からないが、決して知られてはならない真相を暴いた。
真実に悠希は激昂し――
次の瞬間には来客に殴り飛ばされ部屋の中央部分まで転がり、美里が微かに呻いた。
額の傷が再び破れ、夥しい出血が始まったのも気に掛けず、悠希は直ぐに立ち上がり、玄関口に佇むであろう来客の方に向けて駆けて行く。
『あああああ!』
悠希は何度も殴られ、何度も部屋の中に転がったが、それでも抵抗を止めない。
『わ、分かったから、もう止めい! 止めい!!』
そこで来客の声が耳を打ち、その聞き覚えがある声質に胸を打たれ、智は目を見開いた。
時として、弱者の抵抗は強者の過度の反撃を誘発するおそれがある。
『……糞ガキが! 止めいて言いよるやろうが!!』
スラックスに白いカッターシャツの男は悠希に馬乗りになり、何度も悠希を殴った。タブレット越しに見つめる智と美里の前で、気が遠くなるぐらいの回数悠希を殴った。
やがて悠希は無反応になり――
「お、おお……なんてことを……」
口元を押さえ、それでも視線を背けない美里の瞳に大粒の涙が伝った。
「……」
智の目に涙は溢れない。
いつかの御影総太郎が言った。
――人は自分以外の誰かに、何処までも残酷になれるものなんだよ。
智の目に涙は溢れない。
涙を流す資格がないと思ったからだ。
◇◇
確認の為、何度も残酷な動画を見た後で、表情を消した美里が言った。
「……この男は誰だ」
「お父や……」
一時停止した画面の中で、父英雄が脱ぎ捨てた白いカッターシャツで血塗れの悠希の顔を拭き、壁に飛び散った血痕を拭き取っていた。
「御影先輩の様子がおかしい。心当たりはあるか?」
画面の中の悠希は抵抗を止め、大人しくなっていた。壁に凭れ掛かるようにして座り込み、視線は在らぬ方に向いている。
「……三年前もこんな感じになった事がある。ボーッとして……子供みたいで……すぐに謝る……おそらく、強いストレスが原因の……」
言い掛けて、智は首を振った。
心理学者でなければ心療医師でもない。素人考えでの状況の推察は避けた。
美里は強い口調で言った。
「お前は、もう御影先輩に近付くな」
何処かで聞いた事がある台詞に、智はクシャクシャになった表情で頷いた。
涙は出ない。その資格がない。
川村美里は変わった。
かつての智がそうであったように、逆境は人を強くする。短時間で美里は変身し、何倍も大きくなったように見えた。
「御影先輩が心配だ。心当たりはあるか」
「……」
顔を上げたのは、三年前暴力と報復に明け暮れた残酷な守護天使。悠希以外の誰かには幾らでも残酷になれる。平淡な声で言った。
「そのオッサンに聞いてくるわ」
雨足が強くなり、窓ガラスが小さく揺れる。
心の中で、二度と止むことのない雨が降っていた。