※この作品はR-18です。

ぼくがビッチになったワケ   作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!

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第104話

 危険を控え、おかしな事にぼくは高揚していた。

 よくない兆候。

 今のぼくは精神的に高揚していて身体が疲労を忘れている。このツケは後々倍付けで支払う事になるだろう。

 

「ユキナが帰ったら、すぐ出発するよ。忘れ物はない?」

 

 双子の引き渡し場所であるラブホテルの近くにコンビニがあるけど、そこではあまり買い物をしたくない。

 ……事件になった際の目撃情報を残したくない。

 こんなことを考えるなんて、ぼくもいよいよ悪くなった。一丁前の悪党だ。カナメの事はとやかく言えない。

 そのカナメが、思い出したように眉を釣り上げた。

 

「すみません。少し買い出しに行って来ます」

 

 カナメは険しい表情で、静かに言った。

 

「薬買ってきます。後は手袋とか、懐中電灯とか……まぁ、ちょっとしたもんです」

 

 市販の薬だ。効果は、ないよりマシという程度のもの。手袋は……指紋を警戒しているのだろうか。

 ここにも悪党がいる。

 カナメは双子が傷付いている事を前提にしているし、男たちと直に交渉になった場合、最悪は実力行使もあり得ると踏んでいる。

 無論、それは避けたい。しかし、それは実際に『あり得る』可能性の一つだ。

 

 カナメが店内に姿を消し、浮かない表情のシオリがぼくの肩を引き寄せた。

 

「その、やっぱり止めにしません……?」

 

「……次言ったら、外れてもらう。約束も無しだ」

 

「……」

 

 怯えたようにシオリは息を飲み、それきり黙り込む。惰弱。自ら身を切る覚悟のない人間に、ぼくは止められない。

 ぼくは高揚している。

 ヒロイズム。英雄崇拝。英雄願望のようなものが、ぼくの中にあるのだろうか。だとしたら笑える。

 ぼくは特別じゃない。自分が人より弱い事を知っている。ツキがない事を知っている。神さまに嫌われている事を知っている。掴もうとしているものが泥塗れの報酬である事を知っている。

 いつだってそうだ。

 この手に掴んだものの全てが泥と埃に塗れている。だがそれでいい。何もかも空虚な絵空事。真実なんてものも――

 

「人によって、幾らでも姿を変える。まやかしさ……」

 

 自嘲の思いが口を衝き、シオリがぼくの顔を覗き込んで来る。

 

「何か言いました?」

 

「いや、ユキナとカナメ遅いなって……」

 

「……そうですね。買い物してる葉桐はとにかく、皆川さんは少し遅いですね……」

 

 暫くして、カナメが帰って来た。

 

「……お待たせしました。皆川さんは……」

 

「まだだけど、いいよ。もう出よう」

 

 ぼくが躊躇なく言って退けると、カナメは溢れんばかりの笑みを浮かべた。

 

「さすが、ユキくんだ」

 

「って、それはちょっと酷い……」

 

 ユキナの馬鹿っぷりはミサキに通じるものがある。その友人のシオリとしては引っ掛かるものがあるのだろう。口の中でモゴモゴ言った。

 

◇◇

 

 ユキナは出入口近くのベンチに腰掛け、スマホ片手に話し込んでいた。

 

「…………あ、ユッキー来たから切る。んじゃ委員長、そういう事だから」

 

「……」

 

 緊張感の欠片もないユキナの様子に、シオリは凄く嫌そうな顔になった。

 

「ユキナ、行くよ。それとも残る?」

 

「イクイクイク」

 

 ユキナが嫌らしく言って、カナメはニヤニヤ笑っていた。

 

「……車回しますんで、ここで待ってて下さい」

 

 『車』と聞いて、ユキナは嬉しそうに笑った。

 

「おーっ、車かぁ。いいじゃん!」

 

「……」

 

 カナメはニヤニヤ笑っている。

 絶対に良くない事を考えているのは分かったけど、今は何もしない事も分かっている。ぼくは関知しなかった。

 

「なになに、どったのオマエら。雰囲気悪いぞ♡」

 

「いえ……」

 

 シオリは眉を寄せ、カナメは降り頻る雨も気にせず、駐車してある車の方に歩いて行った。

 

 再びぼくらは車中の人になり、土砂降りの雨の中を目的地のラブホテル跡地に進む。

 

「ボロいけど、中はまずまずじゃん」

 

 ユキナは平常運転。ぼくを抱き寄せ、耳に噛み付いたり、すりすりと膝に触ったりと好き放題。

 

 シオリは無口になり、ミラー越しにぼくに視線を送るカナメは口元に浮かべた笑みを深くして、少し不吉だった。

 

 静かな車中を、ワイパーの動く音とフロントガラスを打ち付ける雨の音だけが聞こえる。ぼくはネットで手に入れた新館の見取図を見て、構造を頭に叩き込んでいた。

 不意に、ユキナが言った。

 

「ユッキー、ちんちんなめたい……」

 

 馬鹿げているけど、少し震えている手先を見て、これがユキナなりの緊張の解し方だって事は分かったので、無下に応じるのは違う。ぼくは悩んだ。

 

「うーん……少し触ってあげようか?」

 

「それもいいけど……ちょっとハズいかな……」

 

「ぼくだって恥ずかしいよ」

 

 狭い軽自動車の中に四人の人間がいる。この場でフェラされるのは結構な勇気がいる。

 

「おいで、ユキナ」

 

 狭い車中で、ぼくはユキナを抱き寄せた。

 

「うわ」

 

 胸に耳を押し付ける格好になったユキナは一瞬驚き、それからすりすりとぼくの胸板を擦った。

 

「……ちっちゃい。やわらかい……」

 

 そんな事を言うユキナのつむじを、シオリが穴が開きそうな勢いで睨み付けている。

 

「心臓の音が聞こえる……」

 

「生きているからね」

 

 ユキナは落ち着いてしまったのか、それきり黙り込んでしまった。

 

◇◇

 

 目的地に到着した。

 通りを挟み、ラブホテルの向かいにあるコンビニの駐車場に停車して、ぼくはポンチョタイプのレインコートを着込んだ。

 

「……それじゃ、行ってくる」

 

 ズボンの後ろポケットにユキナから借りたスマホを押し込み、手には使い捨てランタンとペットボトルのジュースが二つ入った袋を下げて、三人が見守る中、ぼくは風雨が打ち付ける車外に出た。

 

 山であることも関係しているのか、街中より天候が荒れている。ごうごうと風が吹き、横殴りの雨が打ち付ける中、ぼくは通りの前で立ち止まって左右の確認をした。

 

 車の通りは一切ない。振り返ると、車中の三人が窓に張り付くようにしてぼくを見守っている。

 

 二車線の道路を渡り、傾いた『立ち入り禁止』の看板を越えてラブホテル跡地の駐車場に入った。

 

 豪雨と強風に晒され、街灯一つない。見通しは最悪で、それでも駐車場に二台の車が入っているのが見えた。

 

 一台はフロントガラスが割れていて、中に人が乗っているとは思いづらい。盗難車だろうか。一応確認の為、車内を覗き込んで見たけど、やはり誰も乗っていなかった。

 

 もう一台は、これも盗難車だろうか。ナンバープレートがない。足を止め暫く観察して見たけど、車内で人影が動く様子はない。

 

 スマホを取り出して時間を確認すると、車から出て七分の時間が経過していたので、カナメにメールを送った。

 

 ――異常なし。十分以内にまた連絡する。

 

 返信はない。もし、ぼくからの連絡が途切れれば、警察に通報してカナメたちは去る。そういう取り決め。

 

 更に五分様子を窺うけど変化はない。意を決したぼくは身を低くした姿勢で小走りに車に駆け寄り、車内を確認した。

 無人。もぬけの殻だ。

 懐中電灯を照らして見ると、車中に、うっすら積もった埃が見えた事からして、乗り捨てられた車のようだ。これも普通じゃない。『車』っていうのは、一般のゴミとは違う。簡単に捨てられるような代物じゃない。

 

 ここまでで特別な異常は見当たらないけど、ぼくは警戒を新たにして、再びカナメに『異常なし』のメールを送った。

 十分延長。

 荒れ狂う豪雨の中、ぼくは頭を庇うようにして新館の入り口に向かった。

 

◇◇

 

 出入口の自動ドアが見えて来て、いよいよ新館に近付いた。

 

 付近のアスファルトは割れていて、そこから丈の長い雑草が伸びて強い雨風に揺れている。人の手が入った形跡はなく、廃墟の趣があった。

 

 懐中電灯は点けない。闇の中、目を凝らして見ると、新館の入り口にある自動ドアが少し開いているのが見える。

 誰かが入った形跡がある。

 勿論、警備員なんかの全うな種類の人間じゃない。廃墟でいかがわしい何かを行う『何者』かが侵入した形跡だ。

 

 清掃されてない自動ドアのガラスは埃で曇っていて、中の様子は分からない。ぼくは用心深くここでも足を止め、更に五分観察した。

 変化なし。

 接近して、カナメの用意した手袋を嵌めると自動ドアを横に開くように押した。電気の通わない自動ドアの扉は重く、焦れったいぐらいゆっくりとしか開かない。

 

 徐々に扉が開き、風の流れが変わる。空気が裂け、びゅうびゅうと物凄い音がする中、ぼくは新館に入った。

 微かに埃の匂いが鼻を衝く。

 荒れ狂う風の中、ぼくは力を入れて自動ドアの扉を押して閉めきった。

 

「…………」

 

 自動ドアを閉じてしまうと、一気に風音は逃げ去り、妙に静かになった。

 淀んだ重い空気。換気されてない建物。埃臭く、足下の床は薄汚れている。だだっ広いホール。

 

 ――異常なし。新館に入った。

 

 その旨、メールする。これでカナメとユキナが動き出す。当初の取り決めでは十分後に職員専用の裏口から侵入の予定だけど、変更があるようなら向こうから連絡があるだろう。

 

 ぼくは全身の神経を尖らせて警戒している。五分ほどランタンを点けず、息を殺して気配を探る。

 

 埃臭い、蒸すような淀んだ空気が流れる。じっとりと汗が噴き出し、レインコートを静かに脱ぎ捨てた。

 

 ほんの僅かに開いた自動ドアから、小さく風が吹き込む音がする。特別な変化はない。

 妙に喉が渇き、手持ちの袋からペットボトルの飲料を取り出して一口含んだ所で後ろポケットのスマホが震えた。カナメからの連絡。

 

 ――異常なし。

 

 ただ、カナメもぼくと同じように警戒していて、まだホテルの内部には入ってないようだ。このメールは車で待機中のシオリも受け取っている。

 ぼくは大きく深呼吸して、カナメとシオリに返信した。

 

 ――こちらも異常なし。双子を探す。

 

 カナメが用意したランタンのスイッチを入れる。

 懐中電灯よりずっと明るい50Wのテーブルランタンの明かりが闇を切り開いて行く。

 一階ホール。

 さて、この新館は一般ラブホテルとは随分違う構造をしており、一階ホールにはカフェラウンジが存在する。

 このカフェラウンジは出会いを意図していて、気が会えばそのまま……という経営者の強すぎる商売意欲が見え隠れしている。高級志向で、一般ラブホテルより随分単価が高かったらしい。まぁ結果としては振るわず、廃業するに至っている。

 

 ぼくは知らないけど、父さんが言うには『バブル』ってのはおかしな時代だったそうだ。好景気ってやつ。何でも飛ぶように売れて、皆、景気がよかったらしい。そんな時代の経験があるオーナーの意欲的な建築物が、この不良債権だ。使い出がなく、今は放置されている。

 ネットの情報を見る限り、稼働していたのは僅かに二年程度の事。既に放置されている方が長い。建物自体は綺麗だけど、内装は大分傷んでしまっている。壁紙が剥がれ、剥き出しになった内壁に赤いラッカーで落書きしてあった。ランタンの明かりを向けると――

 

 

 ――優樹菜のばか――

 

 

 と描いてあった。

 

「?」

 

 どのユキナだろう。ぼくの知ってるユキナだろうか。偶々だろうか。偶々、ぼくの知ってるユキナ以外にも、馬鹿なユキナが存在していたのだろうか。

 

 ぼくは何かが引っ掛かり、落書きを見つめたまま足を止めた。

 何か失念している。何か、大切な事に気付いていない。そんな気がする。

 ここまでで、男たちが仕掛けた罠は存在しない。ただ双子を穏便に返す為の方便でこの場所を利用したのだろうか……。

 おかしい。

 ぼくなら、そんな面倒な真似はしない。しかし――

 双子が既に『死んでいる』か、もしくは『それに準じた状態』であるなら話は別だ。その場合、絶対に人目に着く訳には行かない。

 ぼくは強く頭を振った。

 

(急ごう)

 

 双子は『それに準じた状態』である可能性が高い。湧き出した不安に胸騒ぎを覚え、ぼくはラウンジ目指して歩を進めた。

 

 カナメからメールがあった。

 こちらも無事にホテル内に入ったようだ。ユキナを向かわせると連絡があった。

 

 ここまで予定通り。シオリに返信して、以降は三十分おきの定期連絡に移行する。ここでユキナを待っても良かったけど、今は時間が惜しい。ぼくは慎重に、しかし大胆に進むべきだった。

 

 カフェラウンジは厨房機器を備えているからだろうか、シャッターを下ろして厳重に封鎖されていた。一応、上に押し上げて確認してみるけどびくともしない。

 

 ぼくは窃盗目的で侵入したチンピラじゃない。ラウンジに固執せずその場を後にした。

 

 通路にはベッドシーツやタオル、歯ブラシ、バスローブ等のホテル特有のアメニティが散見している。それらはホテル名が刻まれていて使い道がなく、放置されたのだろう。無粋な侵入者により、遊び半分に散らかされている。

 不意に思い出したのは、いつかのあの人の言葉。

 

 

 ……悠くん、考えるのは『武器』だよ。

 

 

 分かっている。

 カナメより先に、ぼくの方が双子を見付ける可能性が高い事や、先行する事の危険性。全部、分かってやっている。

 ランタンを掲げ、長い通路の先を見つめる。

 

「……!」

 

 そして、ぼくは通路の先に『それ』を見付けた。

 曲がり角付近の床に、緑色に光るケミカルライトが落ちてある。ここまで来れば、きっとあると思っていた。釣具なんかで見掛けるあれだ。長さ3cm程の小さいケミカルライトが数mおきに落ちてある。これ見よがしの導線。

 怪しさ満点。

 でも危険性は、ぐっと減った。わざわざ双子までの導線を引いたのは、男たちは居ない事の証拠だ。

 

 ぼくは足下に転がるケミカルライトを一つ拾い上げ、二階に通じる階段付近に投げた。これを見れば、ユキナもぼくを追って来るだろう。

 

 点々と薄く光る導線を辿って行く。恐怖は感じない。ふと思い出したのは、以前あの人と交わした会話のワンカット。

 

 

 ……悠くんってさ、ホラー映画見ても平気そうだよね。怖くないの? 何で? 父さん、内臓とか出ちゃうシーンとかもうダメ。おしっこ漏らしそう。

 

 ……ぼくの内臓(モツ)じゃないし。

 

 ……悠くん。父さんが悪かったから、内臓の事、モツって言うのやめようよ。

 

 ……モツ!

 

 

 建物の電気は落ちている。環境保全の為の空調すら効いてないせいか、身体にまとわりつく空気に粘りのようなものを感じた。

 

 導線の終点になっている部屋の扉には『リネン室』というプラカードがあった。病院やホテルなんかで枕カバーやシーツ等を保管する部屋をそう呼ぶケースが多い。ドアノブを掴み、躊躇わずリネン室内に入る。そして――

 

◇◇

 

 色褪せたタオルやシーツ等が散乱する室内で、衣服を剥かれ、全裸になった双子が無造作に転がっていた。

 

 その光景を見て、ぼくは首を振った。

 

 それしか出来ない馬鹿みたいに、何度も何度も首を振った。

 

 テーブルランタンが照らし出したのは、ぼくの想像から離れた悪夢だった。二人とも、元の顔が分からなくなるぐらい殴り付けられていて、顔の形が変わっている。長時間放置されたのだろう。辺りは尿の匂いがして酷く臭った。

 

 ランタンの明かりを向けても、二人とも反応らしいものを返さない。

 

 金髪の娘の開けっ広げになった股間から細いゴム管が伸びていて、それが尿道に挿し込まれてあるのが見えた。そのゴム管から、尿がぽとりぽとりと滴っている。お腹に大きく、『廃棄処分』と描いてあった。

 

「……」

 

 殺すつもりだったのだろうか。ぼくは言葉もなく、その悲惨な光景に何度も首を振った。

 

 茶髪の娘の方は、金髪の娘と比べて幾分マシなように見えた。

 彼女も金髪の娘と甲乙付け難い程度には殴られていたけど、ここ数日はそうでもなかったのか、傷に瘡蓋が張っている。股間からの出血が赤黒い瘡蓋になって内股に張り付いていた。

 

 ぼくは呆然として、積み重なったシーツの上に転がる双子を見つめていた。

 

 じっとりと暑い淀んだ空気の中、噴き出した汗が頬を伝って落ちる感触がしても、ぼくは視線を外す事すら出来ず、口中に湧き出した生唾を飲み込んだ。

 

 思い出したのは、いつかの霧島沙織の姿。白目を剥いて笑っていた。股間にマイクを突っ込んで、笑ったまま、死んでいたあの姿。

 

 双子は、死んでいるのだろうか。

 

 男たちが居ない訳だ。彼らは、手に負えなくなった『これ』をカナメに押し付けたかった。

 ぼくは、へなへなと、その場に座り込んだ。

 目の前の光景が酷すぎて、何も考えられない。ぼくは殆ど瞬きすらせず、双子を見つめ続けた。

 

「……ぅ……」

 

 そのとき、双子の片割れ。茶髪の娘の方が僅かに呻き声を上げて、ぼくは心臓が停まりそうなぐらい仰天して――我に返った。

 

「だ、大丈夫……?」

 

 ぼくの口を衝いたのは、そんな気遣いの言葉。大丈夫な訳なんてないのに。

 茶髪の娘の口が、もごもごと動いた。

 

「……み、かげ…………?」

 

 呼ばれた。

 ぼくの名前。

 瘡蓋が張り付いた唇は脱水症状のせいかひび割れている。そこから絞り出すように吐き出した言葉は、酷く嗄れていた。

 ぼくは震える手で、ナイロン袋の中にあったペットボトルのスポーツドリンクを取り出した。

 

「……じゅ、ジュースあるけど、の、飲む………?」

 

「……」

 

 茶髪の娘は返事をしない。殆ど分からないぐらい小さく頷き、腫れて潰れた目から一筋の涙が溢れた。

 

 ぼくはよたよたと駆け寄り、茶髪の娘の唇にペットボトルを押し付けるようにして一口ジュースを含ませた。

 

「……ゆ、ゆっくりね……」

 

 茶髪の娘は静かに涙を流しながらジュースを飲もうとして、激しく咳き込んだ。吐き出したスポーツドリンクは今しがた口に含んだばかりなのに、血液で真っ赤だった。

 

「……落ち着いて、まずは口を濯いで……そう……えらいね……」

 

 スポーツドリンクで口を濯ぎ、吐き出す。口中を湿らせ、それから茶髪の娘はジュースを飲もうとして、また激しく咳き込んだ。

 

 前歯が上下とも全て折れてしまっている。痛みか衰弱のせいか分からないけど、上手く飲み込む事が出来ないようだ。

 

 どうしていいかなんて分からない。でも、ぼくは出来ることをしたくて。

 

「嫌かもしれないけど、我慢して……」

 

 スポーツドリンクを口に含み、口移しで茶髪の娘の唇に流し込んだ。

 

「……!」

 

 噎せ返り暴れる腰を抱き寄せ、抵抗を押さえ込む。ややあって――

 ゴクッ、と大きな音を立てて、茶髪の娘は漸くスポーツドリンクを飲み込む事ができた。

 

 それを何度も繰り返した。

 

「あり、かとう……」

 

 幾分、はっきりとしたお礼の言葉だったけど、前歯がないせいか、その言葉は掠れて聞こえた。

 

 ぼくは頷き、気が付くといつの間にか泣いていた。

 なんでこんな事に……。

 ぼくは休むべきじゃなかった。休んでいる場合じゃなかった。後悔はあまりにも遅すぎて――

 

 バイブ設定にしてあるスマホが震え、着信を知らせてきた。

 

「ごめん、電話だ。もう大丈夫だから、心配しないでいいよ。……出るね」

 

 カナメからの着信。双子……茶髪の娘の頭を軽く撫で、スクリーンをスワイプする。

 見付けた。ぼくがそう伝えるより早く、カナメが言った。

 

 

『ユキくん? マナとヨリ見つかったよ。怪我はないみたいなんだけど……ちょっと来てくれるかな?』

 

 

「…………え?」

 

 

 ぼくは、どうしてもカナメの言葉の意味が飲み込めず、息を飲む。

 

 なに言ってんだ、コイツ。

 

 なに言ってんだ、コイツ。

 

 双子が居たのは二階? だったら、ぼくの目の前にいるこの娘は誰なんだ?

 

『ユキくん? ちょっと聞いてる?』

 

「……」

 

 目の前にいるこの茶髪の娘は、いったい誰だ? 身動ぎせず、『それに準じた状態』にある金髪のこの娘は?

 

 想像を超えた何かが起こっている。

 

 思い出したのは霧島沙織。

 

 彼女は、ぼくの記憶の中で、白目を剥いたまま笑っていた。

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