ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
朝早く、カオルより先に起き出して朝食の準備を開始する。
鮭の切り身を三つ焼いて、小松菜のお浸しを作った。
後は買い置きしてある漬物を出して、それからお味噌汁。
お味噌汁の美味しそうな匂いが漂い始めたところで、背後から抱き締められた。
「おはよう」
「はい、カオル。おはようさん」
カオルが言った。
「……昨夜、変な夢を見たんだ」
「……うん」
ぼくは、お味噌汁が沸くのを待っている。
「ユキ、部屋の隅っこで寝てなかったか……?」
「……」
火を止める。
少し考えて、言った。
「昔の夢を見たんだ。そういう時は、あそこが落ち着く。ごめんね……」
「……っ。そうかよ」
ぶっきらぼうに言って、カオルは鼻を啜った。
「今度はアタシも一緒に寝るから……」
「……そう」
同情はいらない。
「一緒に耐えるから……」
「……可哀想?」
「アタシ、欲張りなんだ。何でも半分ほしい」
「…………そう」
カオルは少し泣いているみたいだった。
涙が、ぽたっと床に落ちる。
流れた涙の価値に、どの程度の恩で報いればいいのか。
負債がまた増える。
◇◇
◇◇
カオルがアルバイトに行ってしまうと、入れ替わりになって父さんが帰って来た。
「おはよう、父さん。ご飯できてるから」
「おーっ、悠くん乙!」
父さんはいつも賑やか。
笑う門には福来る。そういうことらしい。
その後は、父さんの朝ごはんの準備をして。
洗濯、掃除を済ませてから図書館に向かうことにした。
父さんは朝のニュースを見ながら、ちょっとだけ心配そうに言う。
「悠くん、受験勉強やってるか?」
「ん……今日はこれから図書館に行くつもり」
「おーっ、そうかぁ。今日、父さん休みだからさ、夜はお寿司食べに行こうよ」
「……いいね!」
生きて行く為には、ゆとりも必要。節約は当然するけど、たまには贅沢もする。
父さんに見送られ、家を後にしたところで携帯を確認する。
トウコから、おはようメールと早速次の予定。また泊まりがいいらしい。
パッパラパーの皆川優樹菜からもご機嫌伺いのメールが一件。
――すっげー、よかった! またしようネ☆
それはいいけど、ネカフェは少し嫌だ。監視カメラが気になる。
――OK、いつでも。
素っ気ない返信をしておいて携帯を閉じる。
お昼は勉強。今夜は父さんと過ごす。
カオルは、まだ父さんに会う度胸がないらしい。今夜はお休み。
予定を確認してから、ぼくは図書館に向かうことにする。深山と鉢合わせる可能性もあるけど、逃げるのは馬鹿らしい。
そして――
◇◇
◇◇
いた。
――深山楓。
白いワンピースに麦わら帽子。今日もやっぱり清楚系。正面玄関で開館まで待っているようだ。
ぼくは物陰に隠れて少し観察してみる。
深山は、あっちキョロキョロ。こっちキョロキョロ。ちょっぴり不審。眼鏡を直したり、時計を見たりと忙しない。
何時からそうしているのか知らないけど、避けて通るのも面倒。
開館時間になった。
駐輪場に自転車を停めて、ぼくは正面玄関に向かう。
取り合えず無視。黙って通り過ぎようとして――
「おはようございます。御影くん。ちょっといいですか?」
ぼくは言った。
「おはよう、深山。今日も上から目線のボランティア? ちゃんと小銭持ってる?」
「――つっ」
麦わら帽子に手をやった姿勢で、深山は固まった。
「お話もいいけど、おまえの眠気を覚ます冷たい飲み物が必要だね」
「……っ!」
深山の顔が赤く染まった。ぷるぷると肩を震わせ、俯く。
「……で……」
麦わら帽子のつばで隠れた深山の表情は分からない。
「聞こえないね、小銭女。はっきり喋りなよ」
「なんで……」
深山が麦わら帽子を脱ぎ捨てた。
「……なんでそんなに悪ぶるんですか?」
うっすら眦に涙を浮かべる深山と目が合った。
「そういうおまえは、いい子ぶるんだね」
ずいぶん分厚い面の皮だ。
「募金箱ならエントランスの受付にあるから行きなよ。それから――」
コイツはぼくを見下している。そう思うとイライラした。
「二度と話し掛けるな」
「なっ……」
深山の下がった眦が、みるみるうちにつり上がった。いい貌(かお)になって来た。
でも、シュウに立ち向かったあの時の修羅じゃない。あの時の深山楓じゃない。
「ぼくは勉強しに来ただけだから、おまえと遊んでいる暇はないんだ」
これ以上つきまとうなら、薄っぺらい化けの皮ひっぺがしてやる!
◇◇
◇◇
怒りに震える深山を置き去りにして、2階の閲覧スペースに向かった。
もちろん、小銭女用に冷たいスポーツドリンクを購入しておく。
個人の閲覧席に着いて幾らも経たないうちに、深山がずんずんと足音を立ててやって来た。
まるで落ち着かない。
ぼくは舌打ちして、向き直った。
「なに……?」
「……!」
バン! と大きな音を立てて、深山が卓上に2000円を叩き付けた。
「これでいいんですか! これで!!」
「……」
ぼくは呆れて首を振った。
予想していた行動の中で、一番詰まらないものがこれだった。
深山は肩を震わせて、大きく息を荒げている。
「……しょうがないね、おまえは……」
「なにが、しょうがないんですか! なにが!!」
早朝ということもあり、ぼくたち以外の人影はまだない。大声を出しても注意されることはないけど――
エキサイトした深山の手を掴み、長い廊下を進む。
「何処に行くんですか! 自分で歩けますから!!」
怒りに我を忘れてる。
激しい怒りすら完璧に制御したあの深山じゃない。がっかりだった。
小規模のゼミなんかに使用されるラボラトリーに深山を押し込むと、後ろ手に鍵を下ろした。
深山が喚き散らした。
「なんで貴方は私を拒絶するんですか!」
耳の奥がツーンとした。超音波かと思う程の金切り声。
「また着信拒否しましたよね!? 二回目です! 二回目!!」
完璧にヒステリーを起こした深山に歩み寄った。
「な、なんですか?」
僅かに戸惑いの色。
目前に迫ったぼくに、警戒するだけの理性はあるようだ。言った。
「キスしようか」
「……えっ?」
瞬間、深山の表情が素に戻った。
「逃げたらおしまい。抵抗してもおしまい。次に大声を出してもおしまい」
「なんでそうなるんですか……!?」
ごくっ、と深山が息を飲む。怒りにまた眉が逆立つ。
でも逃げない。
ぼくは一歩近付いた。
あんまりはあげないけど、考える時間はある。
深山はやっぱり逃げない。
「ちょっと、待っ……」
「大サービスだよ」
噛みつかれたり、突き飛ばされたりしたくない。ぼくはもう一度立ち止まって、上目遣いに深山の顔を覗き込んだ。
「近いよ」
「……っ」
深山の頬が赤く染まった。
今度は怒りじゃない。羞恥と期待。お金を出す以上、少しはこの可能性も考えたはずの深山は逃げない。逃げられない。
伸ばしたぼくの手が、紅潮した頬に触れた。
ぺろりと唇を一度舐め、情感たっぷりに笑って見せる。
深山は腰が抜けたのか、背後の椅子に、すとんと腰掛けた。
表情を強張らせ、酷く困惑しながらも、それでも逃げない。その唇は戦慄いて――
「待っ……!」
――キスした。
唇は、柔らかい蕾のよう。
さてここから。
おまえをメチャクチャにしてあげる。