ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
「あり得るか、2000円だぞ?」
眉間に嫌悪の皺を寄せ、秋月蛍が苛立ちを吐き捨てた。
◇◇
御影悠希が、2000円で売春をやっている。蛍のその話に、女子剣道部は俄に沸き返った。
「うそ……! 御影マネが!?」
一際大きい身体を怒りに震わせ、蛍は口汚く罵った。
「あんなヤツとは思わなかったよ……!」
秋月蛍が、どれだけ御影悠希に期待していたかが伺い知れる言葉だった。活動を終え、この更衣室に至るまでの間に、この愚痴が蛍の話題に上るのは、これが七度目になる。
「あの、御影マネって誰のことですか?」
現在の一年生部員に御影悠希を知る者はいない。騒ぎ、囃し立てるのは主に2、3年生の部員たちだ。
「マネ? 超小さい男の子で、去年のインターハイはマネージャーとして手伝ってくれたんよ」
3年生の部員が答え、それに2年生の部員が相槌を打つ。
「そ、面倒一手に引き受けてくれて。もう、お茶汲み、審判、テーピング、ビデオ撮影、なんでもやってくれたの」
現2年生部員の悠希に対する信頼は厚い。
当時は一年生だった彼女らは、面倒な役割の殆どを悠希に任せていた。本来、実力差のある先輩部員たちに揉まれ、怪我やメンタル面で大きな負担を強いられるこの時期を楽に乗り切ることができたという自覚がある。
「けど、マネが……2000円ですか……」
「そういうことするように見えんし、理由あると思うんが自然かもね……」
2、3年生の会話に聞き耳を立てながら、内心で楓も同意する。
新城馨に付きまとわれて、悠希はとても迷惑そうにしているのを実際にその目で見た。
更衣室は、その一件で持ちきりだった。
「マネが、2000円……」
「…………」
蛍のような軽蔑や嫌悪の言葉はなく。皆、深刻な表情で考え込む様子だった。
誰かが言った。
「理由によっては……」
――買うかも。
その言葉を飲み込む。
「マネ……」
誰かが溜め息混じりに呟く。
2000円は破格と言ってよい。心が動かないと言えば嘘になる。
誰も、はっきりとは明言せずにいるが理解している。そして周囲もそれを咎めない。
問題は深刻だった。
女子剣道部の副主将として、楓は大きな溜め息を吐き出した。
楓自身、これを大きな問題と捉えてしまうのは、ある意味この問題に迎合する風潮の部員たちと、考え方を同じにしているという認識があるからだ。
その程度には彼は可愛らしかったし、献身的だった。
「……あいつは淫売の屑さ」
蛍が言って、金属製のロッカーの扉を叩き付けるようにして閉じた。
派手な音がして、下級生の部員たちは肩をすくませる。
楓は眉間に皺を寄せた。
蛍だけが、この問題の深刻さを理解していないように見えた。
怒りに震える蛍を慮って、皆、何も言わないが、一度、箍(たが)が外れれば大変なことになるかもしれない。その程度には、悠希の献身は魅力的に思える。少なくとも、2000円で投げ売りにしていいものじゃない。
女の貞操観念は、男の軽いそれとは違う。今はそれが歯止めを掛けている状態だ。
新城馨は、それを踏み越える何かを持っていた。或いは、悠希が女の貞操観念を狂わせる何かを持っている。
秘密の小箱……。
興味がないと言えば嘘になる。
ずかずかと物音を立て、蛍が立ち去るのを待って、楓は口を開いた。
「……御影くんの件は私も気掛かりです。一度、事情を確かめた方がいいかもしれませんね」
ここ一番で粘り強く、勝負強さに定評がある楓が言うと、周囲は、ほっと安堵の息を吐いた。
「そうやね。マネが困っとるんやったら、話くらいは聞いてあげんと……」
楓は頷く。
「この件は私が預かるんで、皆は手出し無用でお願いします」
内心、楓は腹立たしい思いだった。
蛍が悠希に並みならぬ好意を抱いていることは一目瞭然で、それ故に怒りが大きいことは理解できる。しかし、主将の蛍が何度もその問題を取り沙汰することで部内に波紋を起こしたのは事実だ。
黙っていればいいのに。
楓なら、その事情を確かめ、ゆっくりと吟味する。気になる小箱の中身によっては……
「まぁ、副が動くんやったらそれでええよ」
団体戦では中堅を努めることの多い3年の黒岩がまとめ、この日はお開きになった。
楓は少し考える。
1年生はいい。悠希を知らないから影響は少ない。3年も主将の蛍の手前、慎むだろう。
問題は2年の部員だ。
蛍と楓を含む3年はインターハイが終われば引退してしまう。現役である今は抑えが利くが、それ以降はどうなるか分からない。
「…………」
思考に沈む楓が気付いたとき、更衣室には自分の他に黒岩しか居なかった。
黒岩 智(クロイワ トモ)。楓と同じ3年の女子部員。
「2年は危ないな……主将が怒りながら話しとん見て、嬉しそうに笑とるヤツもおった」
楓は酷く嫌な気分になった。
「まぁ、主将があの調子やったら遠慮はいらん思ったんやろう」
実際、蛍は気が向いたら使ってやれとまで言ったことを思い出し、楓は、益々、気分が悪くなった。
黙っていればいいのに。
智が言った。
「私な、マネと中学校同じなんよ」
黒岩智は父親が転勤族で、関西、九州、四国地方を転々とした経歴を持っている。その為か、言葉使いは独特な訛りがある。高校に上がる一年前、中学3年の時に父親が出世して、漸くこの地域に腰が座った。
その智が悠希と同じ中学校だったとは初耳だ。何より彼女が悠希と話しているところも見たことがない。
智が苦笑した。
「中学のとき、告ってフられたんよね……あはは……」
「……」
それは御愁傷様だ。なんと言っていいか分からず、楓はへの字に口を曲げて黙り込む。
「それから気まずくなって、口利いとらん」
「……」
「どうせ主将は東京の大学行くやろうし、マネとはそれからやと思っとったんやけど……」
訛りのある独特な口調と、ざっくばらんな性格から誤解されがちだが、智は頭を使うタイプだ。団体戦では主に中堅を努めることが多い。
この中堅というポジションは、団体戦では非常に戦略的な立場に位置する。確実に勝ち星を拾う、場合によっては引き分けを狙って後に勝敗を委ねる。団体戦ではこのポジションに一番強い者を置くとするのが正しいと言われることもあるほどだ。
智は、がしがしと短い髪をかき回した。
「新城か……まぁ、コイツは死んでも許さんとして、頭つこたなぁ……」
言った。
「余計なことしよって……! アホが……アホがっ……! 何が2000じゃ……!!」
圧し殺すように言って、智は激情のままロッカーを殴り付けた。
「人の初恋、ワヤにしよって……!」
「……」
「アイツは絶対に許さん!」
何時も冷静で、斜に構えた智が感情を剥き出しにしている。
へこんだロッカーは、扉の部分が内部に押し込まれる形になった。
智は深呼吸して、それから首を振った。
「……まあ、私のことはええやろ……」
「……」
「蛍は意外に使えん。虫除けにもならん……!」
智が激怒している。楓はその事に強い興味を覚えた。
「一応、副のメンツは立てたる。インタ終わるまでは、まぁ――」
そこで抑えきれない感情がまた爆発したのか、智は思い切りロッカーを蹴り飛ばした。
大きな衝撃音の後、更衣室は静寂に包まれた。
楓は言った。
「……買うんですか」
智は鼻を鳴らした。
「たったの2000なら、行かなウソやん……」
それに、と智は付け加える。
「……御影、泣いとるかもしれん。めちゃ強がりやん。ほっとけん……」
激情を押さえ付け、鼻声で智が呟く。
「ほっとけん。ほっとけんよ……」
◇◇
◇◇
黒岩智は頭を使うタイプだ。冷静で、考えることを第一に置く楓とは気が合う。
その智が感情を爆発させて思いやる少年。
小箱の中身は、何が詰まっているのだろう。
楓は漠然と思う。
秋月蛍にしても、新城馨にしても、黒岩智にしても、やり方は違えど、皆本気なのだ。
羨ましい。
楓にはそこまでの激情がない。四十からの情熱もない。魂を震わせるものが何もない。
秋月蛍に勝利を譲り渡したとき、大事な何かも一緒に譲り渡したのだ。
小箱の中身に対する期待が大きくなる。
こうして、楓は体育館の倉庫へ向かうことになる。
小箱の中身を確かめるのだ。どんなに素晴らしいお宝が眠っているのか、その目で見てみたい。
お宝が本物なら、それは楓を解き放つ素晴らしい何かを秘めている。狂おしい何かを秘めている。
見たい見たい見せろ見せろ。
小箱の中身は、いったいなんだ!?
そして――
◇◇
◇◇
楓は、涙に濡れる悠希を抱き締めることになった。
やはり、御影悠希は献身的で、我が身を削ってでも父に報いたいのだと言う。
ああ……。
楓は内心の落胆を隠せない。
確かにこれは綺麗なものだ。でも、楓の為に用意されたものではない。他の誰かを狂わせても、楓の老いた心は震えない。
だがそこに。
秋月蛍が現れた。
言った。
「淫売が……!」
その瞬間、ざわっ、と楓の心は震えた。
秋月蛍――お前に何が分かっている!!
悠希に突き飛ばされ、楓は思ってもいない方向からの衝撃によろめき、倒れ込む。庇われた。
「屑め……!」
そう吐き捨て、蛍は何度も悠希を打擲した。
楓の目の前で、何度も何度も打擲した。
「ごめんなさいごめんなさいお母さんもうしません二度とつまみ食いしません泣きません大きな声も出しません許してくださいこの通りです」
楓の感情は爆発した。
絶対に許せないと言った黒岩智の激情を完全に理解した。
何処かおかしい新城馨の貞操観念も、手に取るように理解した。
――たったの2000なら、行かなウソやん……。
それも完全に理解した。
「御影くんは私が買いました。もう貴女には存在の一筋すら渡しません」
秋月蛍には渡さない。
この場にいない黒岩智も同じことだ。
後悔は微塵もなかった。