ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
剣道は、日本の剣術を競技化した『武道』である。
剣道部が活動している体育館の道場では、袴姿に面タオルを被った蛍が、正座の姿勢で固く目を閉じ、微動だにしない。
瞑想中の蛍の心境は――
『どんどんユルくなるよ。ほとんど毎日ヤってる。お金もいらないってさ』
1、2年生の女子部員たちは、瞑想して集中を高める蛍に、おどおどと恐怖の視線を送っている。
蛍が、スッと立ち上がった。言った。
「……立ち切りをやる。1、2年は付き合え……」
ひいっ、と1、2年の部員たちから悲鳴の声が上がった。
『立ち切り』とは特殊稽古のことで、一人の選手に対して数十人が交代で掛かり、休む暇を与えず、体力の限界まで追い込む訓練だ。
この稽古に限っては、足払いや体当たり、突き技などの通常では禁止されている荒業の使用が許可されている。
蛍の夏休みに入ってからの稽古内容は尋常でない。
殆ど休憩を取らず、『立ち切り』を行う。計18名の部員がへばれば、瞑想してその回復を待つ。この繰り返しだ。
8月に入り、ここまでの稽古で計四人の部員を潰したが、未だ蛍の体力の底は見えない。
『御影くんは私が買いました。もう貴女には存在の一筋すら渡しません』
深山楓の姿は見えない。
マイペースな彼女は、蛍がやっているような無茶な稽古はやらない。
蛍は面を被り、その下の瞳にちろちろと憎悪の焔を燃やす。
「ぐずぐずするな。さっさと防具を着けろ」
1、2年の部員たちは、皆、表情を青くして、副主将に次いで信頼の厚い一人の部員に視線を送る。
「――主将、もうやめや?」
3年の黒岩智が、困ったように言った。
蛍、楓に次いで段持ちの実力者である智が制止の言葉を投げ掛けると、部員たちは、ホッとしたように胸を撫で下ろした。
「1、2年は怯えとる。これ以上は逆効果やん。強くはならん。インタも近いんやし、流すくらいでええやろ」
「……ふん」
その言葉に、蛍は鼻を鳴らした。
――シュウ。インターハイ、頑張って……
その言葉が、蛍をこの場所に縛り付けている。
暴力は……確かに良くなかったとは思う。だが、何故悪いのかが未だによく分からない。
誰も答えをくれない。
楓の反発は強く、稽古の時間ですら目を合わせない。口も利かない。新城馨は問題外。悠希の父には門前払いを食った。
蛍は踵を返し、この日の稽古を終える。
勘を取り戻すには充分。1、2年を打ちのめして、それなりに気も紛れた。
一人シャワーを浴びて汗を流した後は、更衣室で制服に着替えてさっさと帰る。
楓には少し苦手意識がある。会いたくなかった。
校門を出たところで、原付に乗った一人の女子生徒と目が合って、蛍は目を細める。
エンジン音のうるさい原付に跨がったその女子生徒には見覚えがある。ショートカットの頭に半キャップのヘルメットを斜めに被り、半目で睨み付けて来る。
名前は確か、葛城とか言ったか。下の名前は知らない。スカートが捲れて、その下のスパッツが丸見えになっているが気にしていないようだった。
葛城が言った。
「よう、クソ女」
蛍は、ニッと口元に笑みを浮かべた。
「誰かと思えば、新城の太鼓持ちじゃないか。私と遊びたいのか?」
蛍の恫喝と取れる言葉にも、葛城の半目の視線に籠もる軽蔑は些かも弱まる気配がない。
「こっちは来てやったんだよ、秋月」
上級生に向かってこの言い様。敵意を隠さぬ物言いは、いっそ清々しくすらある。
蛍は嘲笑う。
「なんだ、オマエは。口の利き方も知らないのか」
剣道女子部の主将として期待と注目を集める蛍を前に、後込みする気配は一切ない。
葛城はつまらなそうに言った。
「悠希さんのことで話がある」
「――!」
「おまえ、頭悪いから何も分かってないんだろ?」
ひくっ、と蛍の頬が引きつった。
「一時間後に駅前の喫茶店に来い。少しだけ教えてやるから」
それだけ言って、葛城がアクセルを回す。
「ま、待て――」
エンジンからけたたましい破裂音が鳴り響き、蛍の反論を許さない。
「……」
葛城は行ってしまった。
蛍は、きりきりと歯を噛み締めた。
――『悠希さん』。
そこには、一線を超えた男女の親近感があった。それがどうにも腹に据えかねる。
遠くで蝉の鳴く音が聞こえる。
葛城が行ってしまえば、それがやけに耳障りに感じた。
夏の太陽がじりじりと肌を焼き、額から汗が噴き出す。
「……」
苛立ちも過ぎる。
ぽつん、と独り立ち尽くす蛍を襲ったのは寂寥に似た感覚だった。
新城馨も、深山楓も、そしてあの葛城も知っている。知らない蛍だけが、ずっと同じ場所に留まり、為す術もなく立ち尽くしている。
涙が出そうだった。
悠希に拒絶され、馨には蔑まれ、楓には呆れられ、葛城には馬鹿にされている。
それが蛍の現状だった。
◇◇
◇◇
待ち合わせ場所の喫茶店に蛍が訪れたとき、葛城は既に奥の座席に座っていて、スマホの画面を見ながらニコニコと笑っていた。
蛍は、本格的にムッと来た。
葛城が私服に着替えていたのも腹が立ったが、完全に無視された状況は全く面白くない。
ソッと後ろに回り込み、葛城の手元を覗き込んだ。
「……!」
スマホの画面にいるのは、三角巾を被ったエプロン姿の悠希だった。
小さな台の上に立ち、包丁で野菜を切っている。
こつん、こつん、と包丁の刃がまな板を叩く音がする。
悠希は背伸びして、棚の上にある調味料に手を伸ばすが僅かに届かない。
『ふぅぅぅぅん……!』
悠希が唸って、蛍は僅かに微笑んだ。
――シュウ、笑ってないで取ってよ……。
――うふふ、いいよ。
その光景は、蛍の目に少し滲んで映った。
不意に画面が伏せられて、鼻面に皺を寄せた葛城が振り返った。
「何、見てんだ! 座れよ、でかいだけのグズ女が!」
ここまで面と向かって罵倒されるのも初めてのことだ。
蛍のささやかな意趣返しは、予想外に葛城を怒らせたようだった。
顔を真っ赤にして、睨み付けて来る。
「あんた、マジでデリカシーないね。脳みそまで筋肉で出来てるんだろ?」
「す、すまない……」
久し振りに見た悠希の変わらない姿が、蛍の理性を落ち着かせている。素直に謝罪した。
その後、蛍が席に着き、アイスティーを注文した後も、葛城の怒りは治まらないようで、腕組して警戒を絶やさず、むっつりとして沈黙を守り続けた。
蛍は、ひたすら待った。
葛城は険しい表情で何やら考え込む様子だったが、言った。
「……悠希さんのことは、あたしもそんなに詳しくない。あの人、詮索されるの嫌う節があるし。怒らせたくない」
「……」
「なんで、あたしが助言するんだろ。ま、いいや……どうせ、あんたはまた失敗するんだろうし……」
そんなことを言って、葛城は、ついっとスマホを蛍に押しやった。
「……?」
卓上に置かれたスマホに視線を落とし、蛍は少し首を傾げた。
「黙って見なよ」
「分かった」
勘はとにかく働く方だ。
最適解が強く囁く。
――今は、見ろ!
これが出たときの蛍は百発百中。狙いは外したことがない。
まず、目に映ったのは学校の教室。
周囲の面々は一様に幼く映る。中学生。
それらの情報を素早く咀嚼して、蛍はスマホの画面に映し出された動画に視線を注ぐ。
教室内は酷く騒がしい。
どうやら休み時間のようだった。
画面は忙しなく動き、やがて一人の少年を捕らえて止まった。
『これから、御影きゅんの秘密に迫りま~す』
この動画を撮ったと思われる撮影者の声がして、蛍は得体の知れない恐怖に襲われた。
教室の半ばほどにある座席に腰掛けて、悠希は文庫本を読んでいる。
『は~い、御影きゅ~ん』
おどけた調子の声が、蛍の胸を落ち着かない気持ちにさせる。
今と殆ど変わらない悠希が、面倒臭そうに振り返った。
『なに?』
『御影きゅんは、ちっちゃいとき、虐待されてたって本当でちゅか~?』
どきん、と蛍の胸が鳴った。
◇◇
……
…………
………………
……………………
…………………………
動画が終わり、葛城が言った。
「色々分かったと思う。あんたの携帯出して。一応、動画送っとくから」
「……」
蛍は言葉もなく、ごぞごぞと鞄を漁り、言われるまま携帯を取り出した。
葛城が動画を送信する間、蛍の内心は吹きすさぶ嵐だった。
「…………」
動画の中、悠希は抵抗も虚しく小突き回され、侮辱され、髪を捕まれて引き摺り回された挙げ句、全裸に衣服を剥ぎ取られた。
呆然とする蛍の前で、葛城がパチンと指を鳴らした。
「あんた、自分がどういう人間に暴力振るったか分かった?」
蛍は黙って頷いた。
「この動画撮ったクズとあんたって、大して変わりないよね」
蛍は黙って頷いた。
「新城センパイが無期停食らったの、これが原因だから」
「……」
「で、この動画の最後に映ったヤツ」
――本当だったろ?
「剣道部の――」
その後は蛍が言った。
「黒岩 智」
葛城は厳しい口調で言った。
「あたしと新城センパイは、コイツが動画録らせたって睨んでる。少なくとも――」
蛍は頷いた。言った。
「マスターの動画を所持している可能性がある。或いはその所有者を知っている」
動画は黒岩智が教室に入って来た時点で止まっている。編集されている。
意図的なものかどうかは分からない。
「言っとくけど、極秘ミッションだから」
蛍は黙って頷いた。
この一件を表に出すわけには行かない。悠希にも知られることなく動画を回収する必要がある。
そして、黒岩智に事情を説明させたあと、制裁を加える。
黒岩智はこの動画の存在を知っている可能性が非常に高い。
こうして他者の目に入る状況を知っていて野放しにしているのなら許せない。少なくとも、蛍は許さない。
知らずに放置しているのなら、絶対に許さない。関係がある以上、許さない。許してはならない。
蛍にとって、黒岩智の制裁は確定事項だった。
最後に、葛城が言った。
「成功させても、何の得にもならないけど、あんたはやるでしょ?」
蛍は、黙って頷いた――。