ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
閑話 井戸の中のサダコ
最初、その娘を見たとき、なんでこんな娘が剣道部なんかに所属してるんだろうって思った。
伸びた髪は全然手入れされてなくて、ちょっとパサついた感じ。前髪で完全に両目の視界が塞がっていて、先輩に注意されても改善しようとしない。本当なら、クラスの一番後ろの席で大人しくラノベとか読んでそうな地味な女の子。やる気なんて全然なくて、稽古中は元気なく、しょんぼりと肩を縮めて視線は下に固定されている。
そんな彼女が気になって、最初に声を掛けたのはぼくの方。
「こんにちは、サダコ」
ぼくは人の名前を覚えるのが苦手だし、それに彼女は後輩でぼくの一つ年下だったから、思い切って彼女に渾名を付けてみることにした。
「………………サダコじゃない」
サダコが口を開いたのは、たっぷり十秒ほど経ってから。
「名字は確か、山村だったよね?」
山村と言えばサダコだ。彼女は誰か呪ってそうだったし、ビジュアル的にもぴったりの渾名だと思った。
「……山村じゃない。川村……」
そんなサダコは胴着の着付けが出鱈目。袴を縛る紐の結びも適当だったし、自然に着れば左が上になるはずの襟は右が上になっている。
「サダコは蝶結び知らないの?」
「…………知ってる……」
「死装束は左前って聞いたことない?」
「…………」
まあ、サダコだから胴着の着付けが死装束と同じ左前でも問題ないんだけど。
でもシュウ曰く、
『着装の悪いヤツで強いヤツはいない』
らしいから、如何にやる気のないサダコでも、せっかく剣道部に所属して鍛える以上、形だけでもちゃんとした方がいい。
「サダコは死人なの? それ、普通に着れば衿は左が上になるはずだよね」
「……る……さ、い……」
「ボソボソ言っても聞こえないよ。ぼくを呪ってるなら止めてよね」
このやり取りを聞いた他の下級生や先輩たちが、クスクスと声を殺して笑っていた。
◇◇
その日、ランニング中のサダコが嘔吐した。
他の娘が言うには珍しいことじゃないらしい。ぼくはゲロゲロやるサダコの背中を擦りながら、周囲に漂う酸っぱい臭いに酷く居たたまれない気持ちになった。
そんなサダコは運動音痴。
打ち込み稽古では代わる代わる打たれ役をするのだけど、胴着と同じように防具の着装も手を抜いたサダコは、頭頂部を強打され気絶した。
気絶したサダコは艶のない黒髪を道場の床にばら蒔くようにしてぶっ倒れ、前髪の間から露になった目は焦点がずれていて写輪眼ぽくなっていた。
ぼくはちょっとワクワクした。
サダコって、凄く面白い。
その後の練習でも、サダコは捨て身のギャグで笑いを取りに来た。
筋トレ中は鉄アレイ(1kg)を足の甲に落としたし、地稽古では必ず滅多打ちになった。
「サダコ! 大丈夫!?」
ぼくはサダコの芸に夢中だった。
「サダコ! 今のはすごく面白かったよ!!」
最初のうち、ぼくに構われると嫌そうにしていたサダコだったけど、三日もすれば様子が変わった。そもそもサダコは孤立していたし、心身ともに疲れきっていた。例え、ぼくが面白がっているだけだったとしても、その手を振り払う余裕なんて微塵もなかった。
「こんちは、サダコ」
「……うん」
ぼくらは、はぐれ者同士。運動神経もやる気もなくて必然的に部内で浮いてるサダコと、シュウに無理矢理連れて来られてやる気がないマネージャーのぼく。打ち解けるのはすぐだった。
後から思ったことだけど……シュウ以外に馴れた人のいない女子剣道部の中で、サダコは、ぼくにとっても一等親しみ易い存在だった。
運動音痴のサダコは先輩たちに見捨てられているようで、剣道に関する全てが出鱈目だった。竹刀の持ち方は何故か逆だったし、防具の付け方は手を抜いているんじゃなくて、本当は知らなかった。ぼくも剣道のことは何も知らなかったから、強くなる云々以前にこのサダコをまともな剣道部部員として機能させるために、まずは知識を身に付ける必要があった。
「ねえ、シュウ。聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「ん、胴着の着方? それじゃ私の着るの手伝って」
シュウは、ぼくが剣道に興味を持ったことが嬉しかったみたいで、細かいことまで丁寧に教えてくれた。
「ほら、サダコはちゃんと胴着着る。袴は腰紐を腰板の部分に……そう、そこに滑り止めあるから……」
まずは、ぼくがシュウに教わり、それをぼくがサダコに指導する。そんな風にして、ぼくとサダコの剣道が始まった。
「……よく分からない。お手本見せて……」
「あのねえ、サダコ。この前パンツ見えてたから、袴くらいちゃんと履けるようになった方がいいと思う」
サダコは少し頬を染めて、それでも口元に緩い笑みを浮かべている。
「しょうがないね、サダコは……」
ぼくはサダコの腰に抱き着くようにして、袴の腰紐をしっかりと結んで行く。
「……で、一周して前で二回固結びにする。余った紐は折り曲げて横の部分に入れ――」
稽古が始まる五分前。着装チェックのために人目を避けた道場裏で、その日、ぼくはサダコに抱き締められた。
「どうしたの……?」
「……好き」
女の子に好意を告げられることは度々あったし、ぼくに焦りみたいなものはない。サダコは、お腹の辺りに押し付けるようにしてぼくの頭を抱き締めて、頬擦りしたり髪の匂いを嗅いでみたり。
うっとりしたように言った。
「……私のこと、好き……?」
ぼくは頷いた。
「うん、サダコは面白いしね。ピン芸人としてはレベルが高い方だと思う」
「…………げ、ゲイ人?」
ぼくが噴き出して、サダコも笑った。
「さ、馬鹿言ってないでサダコは面タオル付ける」
実際に胴着を着てみる訳に行かないぼくは、サダコの着装を手伝うことで正しい胴着の着方を学んだ。
サダコを座らせ、パサついた黒髪に櫛を入れて均して行く。
「ここ絡んでるよ? サダコは髪の手入れくらいしな。せっかくの長い髪が勿体ないよ」
「……うん、頑張る」
サダコは機嫌よさそうに頷いて、胸の前で拳を握り込む。ぼくが髪をとかす間、大人しくしていた。
「……よし、できた。立ってみて」
サダコの身長は160cmくらい。ぼくが来るまで胴着の着方とか出鱈目で、見るからに落ちこぼれ部員だったけど、この一週間くらいで見た目だけはシャンとした。
「OK。カッコよくなった」
「……」
面タオルで目を覆う前髪を上げてしまうと、想像以上に鋭く尖った眼差しのサダコと目が合う。
「……へえ」
そこにいたのは、きりりと目元が引き締まった純和風美人。
「サダコは一応美少女の部類に入るのに、勿体ないね。人間性がルックスを駄目にしている感じ?」
ぼくが素直な感想を述べると、サダコは思うところがあったのか、口元を引きつらせてニチャリと笑った。
「……うわあ、気持ち悪い……」
「……くふふ」
サダコは、ニタニタと嬉しそうに笑っていた。
◇◇
お茶くみ、ビデオ撮影、審判、備品の管理……マネージャーとして雑務に励む傍ら、サダコ以外の一年生の面倒も公平に見なきゃならない。
一年生たちが、ぼくとサダコの関係をどう思っているのか分からないけど、掛け離れた実力を持った先輩たちに囲まれて、ぼくらに構っている暇なんて微塵もない。ランニングで嘔吐するのはサダコだけじゃない。いつも他の誰かが具合を悪くしたし、反吐を撒き散らした。
そんな一年生たちを介抱して、励ましの言葉を掛けて行く内に、よく分からないけれど、不思議な空気が一年生の間で生まれた。
連帯感。
一言で言うとそう。この苦行を力を合わせて乗り切る。そこには、なんとなくやる気を見せ出したサダコの姿も含まれていて。
「川村、防具付けるの手伝ってよ~」
「……わかった」
最初、サダコは戸惑っていたけれど、ぼくが笑って頷いて見せると安心したみたいで、おっかなびっくり同級生たちの輪に入っていった。
(よかったね、サダコ……)
その背中を見送って、ぼくは自分の仕事に戻る。
サダコが巣立った瞬間だった。
それからのぼくは、何故か一年生の間で引っ張りだこになった。
「マネージャー、あたしも防具付けるの手伝って下さい!」
「いいよ」
「マネ、マネ……喉が渇いて死にそうです……」
「10kmくらいのランニングじゃ死なない」
「マネ……転んでお尻を打ったんです……少し擦って――」
「馬鹿」
一年生たちは、見た目が幼いぼくをからかって遊んでいるみたいだったけど、それで部内の雰囲気が良くなるなら悪い話じゃない。黙って受け入れた。
「御影のお陰で、一年生は大分元気になったよ」
シュウはご機嫌。
男子のぼくが女子剣道部のマネージャーを務めることには反対意見もあったみたい。この成果に満足そうだった。
「御影が来る前の一年生は、毎日がお通夜みたいな雰囲気だったけど、今は笑ってる。全体的に雰囲気も良くなった。でも……」
一応の成果を出したぼくのマネージャー業にシュウはご満悦。でも、事の終わりに厳しい表情でこう言った。
「御影、連帯感には良いものと悪いものがある。こんなことを言うと、心配し過ぎだって笑うかもしれないけど、少し不安なんだ」
「うん、なに?」
「一年生『だけ』しか居ない場所に、一人で行かないでほしい」
「…………」
真剣に諭す様子のシュウに、ぼくもちょっぴり不安になった。
……連帯感には幾つか種類がある。協力的で前向きなものと、全体で調子に乗って他者を疎外したり迫害する後ろ向きなもの。シュウが後者のものを警戒するように言っていることはすぐ分かった。
「…………」
ぼくは二年生で、一応彼女たちの先輩にあたる。けど、ぼくに向けられる視線は上級生に対するそれじゃない。親しむのはいいけど、面白がっている感じ。ナメられてるみたいで、そういうのは、ぼくも好きじゃない。
考え込んでいると、シュウがぼくの肩に手を置いた。
「御影が分かってくれてるようで良かった。でも、不安に思わなくていいんだ」
シュウは優しく笑って、ぼくの肩を引き寄せる。
「いつも私の目が届く範囲に居てほしい。何かあれば必ず駆け付けるから」
「……」
「いつだって私を呼んでほしい。私は、いつだって御影の味方なんだ」
ぼくは頷いた。
「あんがとね、シュウ。分かった。頼りにするね」
「うふふ、いいんだ」
ちょっぴり照れ臭そうに頬を掻いて、シュウは笑った。
◇◇
それからのぼくとシュウは、仲良しの二人組になった。
部活中、ぼくはなるべくシュウから離れないようにして、シュウの方でもぼくを気に掛けてくれている。着替えや防具の着装に始まって、一緒に柔軟体操もする。竹刀を持って素振をしたり、効率的な練習メニューを考えたり。ぼくらは何でも二人でやった。
インターハイを控え、シュウは自ら万全の仕上がりだと言った。
「……御影、今年の私は絶対にトップを取る。見ていてくれ」
「うん、シュウならできると思う」
シュウは深い溜め息を吐き出し、静かにぼくを見つめた。
「……私は、今、完璧になった……」
シュウには不思議な力がある。
最も正しい答を導き出す力。直感を限界まで突き詰めたような……説明は難しいのだけど、絶対的中の閃きのようなもの。そのシュウが自信たっぷりで言うんだから、それはきっと確実なことなんだと思う。
そして――
この夏、シュウは自ら宣言した通り、ぶっちぎりの実力でインターハイを制することになるんだけど、それはもう少し後のこと。
◇◇
インターハイを間近に控えたある日、ぼくはサダコに呼び出された。
教室まで一年生の娘たちが10人ほど大挙してやって来て、道場横にある体育館の倉庫でサダコがぼくを待っているという。
シュウからは、気を付けろって注意された後だったけど、サダコがぼくを好きなことはもう知っていたし、特に危機感を覚えることはなく、この呼び出しに応じた。
少し埃っぽい体育倉庫では、電灯も点けずにサダコが待っていた。
「うわ……」
薄暗い倉庫で、息を潜めて佇むサダコには凄く雰囲気があった。
「サダコ、まるで幽霊みたいだ。新しいネタ?」
サダコは口元を歪めて不気味に笑い、するすると音もなくすり寄って来て、ぴったりとぼくに抱き着いた。
「好き……」
サダコに抱き締められることは始めてじゃなかったし、ぼくは黙って受け入れた。はね除けるほどの不快感はない。サダコの吐瀉物の始末をすることも度々だったし、気絶しているときに髪の間から見えた写輪眼ほどの不気味さはない。
「サダコ、石鹸変えた?」
サダコの身体からは、妙に甘ったるい匂いがした。
「トリートメント……いいのに変えた……」
掠れた声で言うサダコはとても興奮しているみたいで、呼吸を荒くしてぼくの首筋に鼻面を突っ込んでくる。これには堪らず言った。
「うわ……凄く気持ち悪い」
「うん……ごめん……ごめん……ちょっとだけ……」
拒絶の言葉にもお構い無しに、サダコは犬みたいに鼻を鳴らしてぼくの匂いを嗅いでいる。
「……もう、サダコは悪い娘だね……」
この程度で済ませたのは、サダコが下級生で、部活中はぼくを当てにしてくれたから。よく笑わせてくれたし、ちょっと間抜けな彼女を身近な存在に思っていたから。
「こんなことがしたくて、ぼくを呼び出したの……?」
サダコに身体をまさぐられながら、ぼくは、ぼくを呼び出した一年生たちのことを考える。
あの娘たちは、サダコがこんなことをするって知ってたんだろうか? 知ってたとしたら、これはちょっと根深い問題のような気がする。
「……文武両道」
サダコが、ぼくの耳元でポツリと呟いた。
「うちの父さんと母さん、この学校の卒業生なんです。剣道部に入ったのは、私の意思じゃないです」
「……そう」
つまり、サダコは文武両道を信奉する両親に、無理矢理剣道部に入部させられたということだろうか。
サダコはぼくをマットの上に押し倒した。
「御影マネが悪い。私は嫌がったのに、優しくて、小さくて、可愛くて。マネがいなかったら、今頃は、今頃は……!」
息遣いも荒く、内心を吐露するサダコは、いつになくよく回る舌で囁き続ける。
「三日で好きになりました見捨てなかったのも美少女とか言ったのもマネだけ口はキツいのに隙だらけおかしい絶対おかしい秋月先輩はマネ独り占めズルい超ズルいマネは皆のマネージャー」
ここまで来れば、鈍いぼくでも流石に気が付く。
サダコは、頭おかしい。
映画みたいに井戸からやって来たのかもしれない。だとしたら、ぼくの命は一週間ということになる。
サダコが言った。
「マネがいなかったら、今頃は自殺してました」
ぐい、とぼくの両肩をマットに押し付け、サダコが顔を上げた。顔に吹き掛けられる吐息は生臭く、散らばった髪の間から覗く瞳は赤く充血していて瞬き一つしない。
狂おしく、乱暴に言った。
「責任とれ」
サダコ相手に怖じ気付くほど、ぼくは弱くない。
「すごい、迫真のネタだ」
「Hしたい。Hしよう」
「サダコ、キモいし。息臭いから遠慮しとくね」
サダコは口元を歪めてニチャリと笑った。それと殆ど同時に体育倉庫の横引きの扉が開いて――
「何をしている」
低いハスキーボイスで呼び掛けてきた女の子の正体は――
身長181cm。剣道、薙刀、柔術、空手、合気、弓道。修めた武道の段を全部足したら20段を超える『武人』。豪傑と呼ばれる類の女の子。優しくて強い、ぼくのクラスメイト。
A級特待生、秋月蛍。
僅かに開いた横引きの扉の向こうに、必殺の黒いオーラを漂わせ、シュウが立っている。
「御影に、何を、していると、言ったんだ」
マットに押し倒されたぼくからは見えないけれど、シュウが現れた方を見つめるサダコの顔色が青ざめて行く。
ぼくは呆れて溜め息を吐く。
(しょうがないね、サダコは……)
体育館の方から光が射して来て、その表情は分からないけれど、シュウがとてつもなく怒っていることは理解できた。途切れ途切れ呟く一言一言に怒りが滲み出している。流れに任せ、シュウにこの問題を解決させたら、とんでもないことになる。
ぼくは、今ものし掛かるサダコの腰に手を回した。その次の瞬間――
「――ヒギャアアッ!!」
サダコは火が点いたみたいに叫び、跳ね上がった。
「…………」
シュウは驚いて、それからキョトンとした表情で、もんどり打って転がり回るサダコを見つめた。
「あ、あれ? 御影? えっと、その、大丈夫?」
「うん、平気……」
乱れた衣服を直しながら、ぼくは脂汗を浮かべて苦痛に悶えるサダコを見下ろして宣告した。
「減点5億点」
何が起こったか。正確には、ぼくが何をしたか知っているのは、ぼく以外ではサダコだけだ。
サダコは苦しそうに、それでも口元を歪めて笑う。
「ご、ごほうび……?」
「変態」
お尻の穴に、思いっきり人差し指を突っ込んで捻ってやった。スカート越しに根元まで行ったから、サダコは凄く痛かったと思う。
人差し指が汚れた気分。
やれやれ、と肩を竦めるぼくの目の前でシュウは首を傾げ、険しい表情で考え込む様子。ぼくを気遣いながらも、この状況を持て余している。
鬼門。
そんなことを考えながら、困惑しているシュウの手を取った。
「シュウ、ボーッとしてないで行くよ」
「あ、うん……」
シュウは口をへの字に曲げて、納得できないという表情。ぼくに手を引かれ、一瞬鋭い視線をサダコに向けて小さく舌打ちした後、ぼくに続いてその場を後にした。
◇◇
その日のシュウはおかんむり。体育倉庫で何が起こったか、大体のことを察しているようだ。放課後、ホームルーム終了直後の教室で、ぼくはお説教を食う羽目になった。
「私は、気を付けろって言ったよね」
「うん、言った……」
駄目な子ほど可愛い。そもそも、最初にちょっかいを掛けたのはぼくの方だ。それを勘案すると、間抜けでちょっぴりおかしいサダコは、ぼくの弱点だったりする。
シュウは眉を寄せて、いつになく厳しい表情だ。
「……前から思っていたけど、御影には少し隙がある」
「ごめん……」
一年生の女の子たちは鬼門。神妙にシュウの小言を受け止めながら、そんなことを考える。
「あの一年生……川村とか言ったか? その、御影は、気になってるの?」
「……カワムラ?」
ぼくは人の名前を覚えるのが苦手だ。困った顔をして見せると、シュウは頭が痛いのか、眉間に寄った皺を揉みながら首を振った。
「……サダコだ」
「ああ……今日はとびきり気持ち悪かったけど、それがどうかした?」
「なんなんだ、それは……」
シュウは複雑な表情。怒るのと呆れるのを同時にしてる感じ。机の上に頬杖を付き、困ったものを見るようにぼくを見つめた。
弱みそサダコはぼくの弱点。
「あの娘、弱いから……消えちゃいそうだったから……」
「…………」
シュウは大きな溜め息を吐き出した。
「……分かった。今回は不問にするけど、次は気を付けるんだ。川村だけじゃない。一年生は全員」
この場合、不問にすると言ったのは、ぼくじゃなくて、サダコやぼくを呼び出した一年生に向けてのことだ。
「今日のことで、よく分かったと思う。女の子だからって、油断しちゃ駄目だ。そもそも御影は――」
頬杖を付き、足を深く組んだ姿勢で、何故か口元に微笑みを湛えるシュウのお説教が続く。
「――いいね。女の子に呼び出されたら、先ずは私に相談するんだ」
「分かった」
こうなったシュウのお説教は長い。逆らうと余計にお説教が伸びるので、ぼくは神妙な態度で反省するフリをしておいた。
◇◇
――エピローグ――
◇◇
体育倉庫での一件以来、部活中のサダコは、ぼくにセクハラを仕掛けて来るようになった。
すれ違い様、身体を触られたり、耳に息を吹き掛けられたりは序の口で、
「お尻に稲妻が走りました」
とか、
「次のごほうびは?」
とか、いやらしいことを耳打ちしてくる。シュウが気付くギリギリ限界を狙ってくるので、ちょっと質が悪い。
サダコはよく笑うようになった。友達もできたみたいで、今はもう孤立してない。好んで独り、深い場所にいたサダコはもういない。
剣道部を去ってしまう前に、サダコと最後に口をきいたのは、道場近くのお手洗い前。
「サダコ、剣道部は楽しい?」
いつものサダコなら、ぼくを見付けると嫌らしい笑みを浮かべてすり寄って来るんだけど、このときは何か感付いたのか、ちょっと浮かない表情。
「文武両道、頑張れる?」
「どういう……」
「ぼくが居なくても、一人でやっていける?」
「……!」
インターハイが終われば、ぼくは居なくなる。シュウとはそういう約束。
「これからいっぱい、いっぱい、いいことあるよ」
「…………」
明確に別れを感じ取ったのか、くしゃくしゃと顔を歪ませて、弱みそサダコは泣きっ面になった。
湿っぽいのは苦手。ぼくは慌てて言った。
「サダコは、ちっぱいね」
泣きそうになりながらサダコは胸元を隠し、口元を不気味に歪めて笑った。
「……形と感度に自信あり」
「……サイズに不満あり」
そこで、ぼくは噴き出した。サダコは泣いていたけど、それでも飛びっきりの笑顔で応えてくれた。
――10億点の加点。
これなら、終われる。
振り返らずに行ける。
「BYE-BYE、サダコ。やらしいことされないうちに、逃げるね」
笑ってぼくは踵を返す。
サダコが、殆ど聞き取れないくらいの小声で呟いた。
「今度、二人きりになったら、マルカジリにしてやる……」
やれやれ、とぼくは肩を竦める。
シュウが怖い癖に、懲りないというか、学ばないというか……。
間抜けでやらしくて。暗がりにぼくを引きずり込もうと狙ってる甘えん坊。ちょっぴり怖くて気持ち悪い。
井戸の中のサダコ。