ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
その日の悠希は、廊下の壁にスプーンを押し付けて何やら唸っていた。
「ふんっ! ぬぬぅぅぅぅ!」
その悠希を、蛍が柱の壁から覗き見ているという構図。
「ぶぷっ!」
口に手を当てて噴き出した蛍だったが、この時は智の存在に気付いていた。
「黒岩、隠れろ! こっちこっち!!」
囁くように言う蛍に倣って、智も物陰に身を隠す。
「うぉりゃぁぁぁぁ!」
隠れて見守る二人に気付かず、悠希は渾身の力でスプーンの壁に押し付けている。
「何やっとん、あれ……」
「スプーン曲げだよ! ぶぷっ!」
(そのネタ、まだやっとったんかい)
「アレ、そんな難しないやろ」
「不器用だから出来ないんだよ!」
可笑しくて堪らないという様子で、蛍は声を殺して笑い続けている。
「……」
智は笑えなかった。
以前、悠希の家でアルバムを見たことがある。
今の悠希の姿は、三年ほど前から殆ど変わらない。
何者にも平等に時は流れる。
誰が決めた?
この現実が、どうしようもなく胸を灼く。
(A特か……)
いつも自然体。先の一件が智に対しての印象を変えるかと思ったがそうでもない。
卑屈になることもなければ、斜に構えることもない。
泰然自若とした様子。
相変わらず秋月蛍の存在は不快だが、悠希との関係は健全そのものだ。中学生のような二人の関係には、苦笑いしか浮かばない。
今のところは好きにさせる。
それが、智の方針。
◇◇
この年のインターハイはそれなり。
今年、一年生の智は団体戦は三年生に譲り、個人戦では準決勝で負けた。
『一本』しか持たなかった割りによく行った。
驚きなのは深山だ。
団体戦の席を三年に譲り、個人戦ではあっさり二回戦で負けた。
やはりムラがある。
顧問から話があり、それが大幅に気勢を殺いだのは間違いない。三年生が引退してからは内面に変化があったのか、周囲に合わせる素振りを見せるようになった。
「黒岩さんは、何で本気を出さないんですか?」
「……そやな……」
――力を振るっている自分の姿を悠希に見られたくない。そういう意味では力を忌避している。だがその反面で、理不尽を跳ね返すのにこれ以上適した方法があるか? という自問の思いもある。
「……必要ないんやろうな」
「他人事みたいに言うんですね」
答えたのは、すっかり変わってしまった楓の様子に罪悪感を覚えたからだ。
智は、ムッと眉間に皺を寄せた。
「私が欲しいもんに、強さは全然関係ないんよ」
それが問題を複雑にしている。
「思いが強かったら、人は放っといても強うなる」
「……」
その『強さ』は既に手に入れた。悠希を害するものは何人たりとも赦さない。鬼の剣。
「でも、それだけじゃいかん。足りん」
自分に足らないものが分からない。それが何か分からない限り、黒岩智は『特別』にはなれない。
「足らんのよ……」
「……」
楓は力なく項垂れて、独白の趣がある智の言葉を聞いている。
呟くように、ポツリと言った。
「……敵わない訳です……」
◇◇
◇◇
◇◇
時は流れる。
あるものには優しく。
あるものには残酷に。
季節が巡り、また春がやって来た頃、悠希はよく笑うようになっていた。
それは中学生時代の智が、決して与えることの出来なかったものの一つだ。
智は、それがどうしようもなく嬉しい。
同時に――
それを与えることが出来た秋月蛍が妬ましい。
「おはよ、シュウ」
「ああ、御影。おはよう。今度、食堂のメニューが一新されるって知ってるか?」
「ウソ!?」
「本当だよ。早速、試しに行こう」
「いいね!」
憎い。
叩き殺してやりたいくらいには。
A級特待生。
剣道部の顧問の話では、今後の活躍次第で東京の大学に進学する可能性がある。
必ず活躍してもらう。智がそうさせる。そして悠希とは離れてもらう。――必ず。
(……今の私、思い出やんな……)
自分で選んだ道だ。
でも、上手く行き過ぎると不安になる。腹が立つ。蛍の場所に、智が居ても何の不思議もなかったのだ。
悠希とは同じ学年である以上、すれ違うことくらいはあるが、今はもう、チラリと視線を向ける程度だ。そして隣には、いつも――秋月蛍。
この一年で、秋月蛍は強くなった。他の武道をやっていた下地もあるためか、成長著しい。着実に王者の階段を上っている。
(天辺まで行って、そのまま消えてなくなれや)
智の望みはそれだけだ。
高校生活も二年目に入ったが、蛍との関係は良好だ。いずれ居なくなる強敵ならば、敢えて対峙する必要はない。
個人的な思惑は別にして、悠希と秋月蛍の関係は理想的と言ってよい。一年間、不自然に見えない程度に観察を続けた智の感想はそれだった。
見た目のか弱さに反し、はっきりと物を言い過ぎる悠希はトラブル体質だが、蛍の存在が他者の悪意の介入を許さない。そういう意味では、安心して見ていられた。
陰になり、日向になり、蛍の存在は上手く悠希を支えている。――いい『お友だち』。
(さて、ここからやん)
意地悪く智は考える。
ここまでも決して容易くないが、ここからは更に茨(いばら)の道が予想される。
着実に友人としての地盤を固めた蛍がここから先、どうやって『恋人』の位置に駆け上がるのか。
大失敗をやらかすのは、分かりきっていた。
◇◇
◇◇
そして、その日がやって来る。
この日、蛍が悠希を伴って剣道部の稽古にやって来た。
「……」
蛍はニコニコと上機嫌で、悠希は嫌そうな仏頂面で、顧問に先導される形でやって来た。
思い切り頭をぶん殴られたような衝撃が走り、智は目眩すら覚え、その場に倒れ込みそうになった。
(――嘘や!)
「え~っと……秋月さんの推薦で、この剣女のマネージャーをやることになるかも知れないこともない御影くんです。皆、仲良くするように……」
奥歯に物が挟まったような物言いの顧問を強く睨み付け、智はギリギリと歯を噛み鳴らした。
(何やっとんじゃ! ぼんくらサラリーマンが!!)
A特の蛍にとって男女関係の問題は、ありがちでそれでいて危険な問題であり、それだけにこの展開を顧問が許す訳がないと思っていた智には驚愕の出来事だった。
悠希が言った。
「二年の御影悠希です……。暫く皆さんの活動をサポートすることになりそうです……?」
言いながら、悠希は隣に立つ蛍の顔色を窺っている。
ニコニコと上機嫌の蛍は、やはり笑みを絶やさない表情で頷いていた。
かーっと頭が灼熱する。
蛍のやっていることは、元々、自分がやりたかったことだ。そう思うと、この怒りは生半可なことでは収まりそうにない。
(この役立たずが!!)
「……!?」
灼けつくような智の視線を受け、ぎょっとした表情になった顧問は、口の中でモゴモゴと何やら言って、足早にその場を去った。
◇◇
◇◇
◇◇
この夏、秋月蛍の強さは正に鬼神だった。
稽古でも打ち合うことを禁止されている智には確かめる術はないが、隙というものが窺えない。
楓はこう述懐した。
「今の秋月さんは、ちょっと手に負えませんね……」
「……」
――なあ、黒岩。秋月和修って知ってる?
アキツキ ワシュウ。
78才。現財務大臣。20年以上も昔の話になるが、総理大臣をやったこともある。
――A特ってさ。全部持ってるヤツのことなの。分かる? 運動が出来るだけなら、B特で止まってるの。
秋月家自体は、旧くは東北地方の大名の旗本出身。実家は鉱山を所持していて、戦時中の徴用工の問題で取り沙汰されたこともある。
――ケイはさ、そのワシュウさんの娘。全部持ってんのね。
戦後は度々総理大臣を輩出する名家で、婚姻で意図的に当主の名前を変えることもある為、表に出ることは少ないが、知る人ぞ知るフィクサーの一人。
――問題? ならないよ。ケイが本気で欲しがれば、何でも手に入る。何があっても些細なことなんだよ。
(クソがッ!)
――まあ、今は自分の力で手に入れたいみたいだね。
(クソクソクソクソクソクソクソクソ――クソがッ!)
――ホント、何でこんなヤツがこの学校にいるのか、先生もよく分かんないんだよ。
(何なんじゃ、オマエみたいなヤツが何で……!!)
――嫌になるよな――