ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
カオルは、ずっとぼくのことを抱いていた。
自転車を捨ててでも、逃げてやろうとした鬼ごっこは、ぼくの惨敗。
カオルは、ぼくを抱いていて、耳を舐めたり髪の匂いを嗅いだりしている。ちょっと嫌だけど、敗者に文句を言う権利なんてない。
「……エッチしたいの?」
ぼくが問うと、カオルは熱っぽい息を吐き出して、
「……違う。ちょっと愛でてるだけ……」
そんなことを言う。
カオル曰く、ストレッチパンツは無敵でどんな服とでもコーディネート可能らしい。そのストレッチパンツの前が、少し湿っているのは指摘しないでおく。
「……好きなだけしていいけど、父さんが帰る前に帰りたい……」
「わかってる」
夏の盛りにあるにも関わらず、車の窓が曇っていて、カオルの身体はストーブみたいに熱かった。
……おそらく、トウコとのことも、ユキナとのことも全部バレてる。
ぼくは言った。
「霧島、死んだよ」
遅かれ早かれ、カオルにはバレる。そのとき大騒ぎするくらいなら前以て言ってしまう。
「……!」
カオルは一瞬だけ固まって、それでもぼくに対する愛撫は止めないみたい。
ぼくの首筋に顔を埋め、静かに頷いた。
「……そう、分かった」
凄く嫌な予感がしたけど、もうどうにもならない。負けたぼくにカオルを止める権利なんてない。
散々、好き勝手やらかして、裏切って、それでもカオルの忍耐の枠を出なかったぼくの記録的大敗。
カオルが言った。
「ユキ、もうやめよう? 後はアタシが何とかするから」
勝者の権利。
ぼくは敗者の義務を受け入れなきゃならない。その程度には、カオルの勝利は意味がある。
「……」
でも卑怯者のぼくは口を噤んでいる。
始まりがどうであれ、もう後戻りできない所まで来てしまっている。
ユキナは、ぼくを庇って警察に嘘をつき、トウコはぼくに執着している。きっとシュウもそうなる。深山は……どうなるだろう。ちょっと分からない。
「……」
カオルは黙っていた。
怒っているというより、少し悲しそうな横顔から、ぼくは目を離すことができなかった。
◇◇
それからカオルは、2回電話を掛けた。
一人目はアオイ。
ぼくが小学生の時のクラスメイトらしいけど、全然、思い出せない。
「……皆川が捕まった?」
カオルは、チラリとぼくを見て、考え込むように視線を伏せた。
「ソイツのツレで霧島ってのがいて――よくわかんないけど、死んだみたいだ」
『……!!』
少し距離があるのに、携帯からアオイっていう娘の悲鳴が聞こえたような気がした。
「うわっ、うるせえな。急に大声出すんじゃねー」
それが当然の反応だと思う。平然としているカオルの方がおかしい。
「アオイ、サンキュな。……ああ、分かってるっての……うん……うん……それはC作に任せてるから」
C作……カオルの後輩で二年生の女の子。
栄作もB作もいるからC作になった佐藤って娘。下の名前は、なんだっけ……。とにかく、何人かいるカオルの取り巻きの一人。
カオルはトウコを可愛がっていて、今回、当てにしてないっていうことは、『そういうこと』なんだと思う。
……トウコが危ない。
ユキナに関しては警察に出頭して正解だった。一時的にだけど、これでカオルの追求から逃れることができる。
シュウは……心配ない。彼女にぼくの心配はいらない。
深山は……よかった。
この問題には関係ない。巻き込まずに済んだ……。
トモは――
続いて、カオルはもう一度電話を掛けた。
「あ、C作? アタシ、カオル……うん……あぁ、そうだな、任せるわ……」
「……」
ぼくと目を合わせ、カオルが言った。
「黒岩のことは予定通りだ」
――ギクリとした。
ぼくにあれだけいたぶられて、それでも喋らなかったトモのことに言及した。
ぼくに――遠慮する必要を感じなくなった。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい――トモが危ない!!
疲れてるけど、今のぼくに休んでる暇なんてない。すぐにでもトモに警告して――
カオルが顔を寄せて来て、囁いた。
「……キスしたい」
「……」
するりと伸びて来た手が、ぼくのポケットから携帯電話を抜き出した。
「預かる」
ぼくの裏切りを咎めることもしなければ、怒ることもしない。でもその声色に、これに関しては譲らないという強い意思が滲んでいる。
「……ん、……んん」
舌を絡め、ぼくの唾液を吸い上げる。
いつになく、カオルは優しいキスをして――でも、ぼく以外のものは赦さないという意思が、はっきりと感じ取れた。
長いキス。
カオルは何度も喉を鳴らして、ぼくの唾液を飲み込んで、離れる。
ぺろりと唇の回りを舐め、言った。
「……なんかおかしい。ちょっといつもと違う……」
去り際に交わしたユキナとのキスを思い出した。
カオルはスマホで時間を確認して、それから車の窓を全開にした。
「……」
ぼくは喋らずにいた。
何とかカオルを止める方法を考えるけど、何も思い付かない。
カオルは煙草を咥え、けど思い直したのか、それを窓の外に投げ捨てた。
「トウコをどうするの?」
「……」
カオルは答えなかった。
「トモに何をするつもり?」
「……」
フロントガラスに映るカオルは何だか複雑な表情。チラチラとぼくに視線を向けながら、考え込む様子。
「……まだ少し時間あるから、何か食べない?」
カオルは海の方向へ車を走らせた。
ドライブは好き。
車窓を少し開くと、潮の匂いと一緒に朝の新鮮な空気が入って来て、絶え間ない眠気が和らぐ。
暫く走り、カオルは漁港近くの屋台で、たこ焼きを二人前買ってきて、一つぼくにくれた。
「これ、すげぇ、うまいんだ。試してみて」
「……うん」
美味しそうなソースの匂いが鼻に衝く。
……そういえば、昨夜から何も食べてない。父さんが作ってくれた晩ご飯は冷蔵庫に入れたままになっている。
くぅ、とお腹が不平を鳴らして、カオルが可笑しそうに笑った。
少し誤魔化されてる気がしないでもなかったけど、取り合えず目の前のたこ焼きを一つ口に運んだ。
「……むっ!」
一口噛んだ瞬間、旨味を含んだ汁がたこ焼きから溢れ出し、あまりの美味しさに、ほっぺたが落ちるかと思った。
「……」
後はもう、夢中で食べた。
「あは、アタシのも半分食べる?」
「うん」
「うふふ、ほっぺにソース着いてる」
……
…………
………………
……………………
…………………………
◇◇
これまでにも、ピンチを迎えたことは何度もあった。
例えば、今、ぼくが通っている高校受験のときのこと。
この時は、引っ越しをしたり車を乗り換えたり。テレビの故障なんてこともあって、お金のかかることが山ほどあった。当時、中学三年生だったぼくが入院して、そのときの費用も響いている。
父さんは優しいけど、ちょっと適当なとこがある。お金の管理は男のどんぶり勘定で、結構いいかげん。
その年の冬、父さんが山ほど宝くじを買ってきた。
総額三万円。
慢性的に貧乏なウチにとって、結構な負担だった。
ついに父さんが自棄になった。
この時はそう思った。まさかそれが百万円になるなんて、ぼくはこれっぽっちも思わなかった。
就職も覚悟していたぼくにとって、それは青天の霹靂。
「うぉい、悠くん! 百万円当たっちゃったぞ!!」
「……」
ぼくは信じないけれど、神さまというヤツが実際に存在したとして――
「どうした、悠くん! 驚きで言葉もないか!?」
――そいつはきっと、父さんみたいな人が大好きなんだと思った。
「悠くん、今の父さん、超イケてるだろ!? イケメンって呼んでいいよ!!」
「イケメン!!」
「おうっ! オウよオウよ!」
お父さん……
出来ることなら――
――あなたのように、生きたかった――
◇◇
…………………………
……………………
………………
…………
……
たこ焼きがおいしい。
ぼくは、何だか無性に泣きたくなってきた。
父さんの支えになりたい。
カオルを裏切りたくない。
たこ焼きがおいしい。
カオルは笑いながら、親指の腹でぼくの口元に着いたソースを拭ってくれた。
負債がまた増える。
空になったたこ焼きのパックを見つめていた。
空いたままの車窓から心地よい潮の匂いが漂って来る。
「……カオル、大事なお話があります」
ぼくが改まって言うと、カオルは一瞬、焦ったように視線を泳がせた。
「な、なに?」
「これから、幾つか我儘を言おうと思います。聞いてくれますか?」
カオルの顔から笑みが消え、ゴクリと息を飲む音が聞こえた。
「な、何で敬語なの? ちょっと怖いんだけど……」
敬語なのは、ぼくがお願いする立場だから。
そもそも、ヤンキーの新城馨と、一般人であるぼくとの間に接点なんてない。
「……トウコをいじめないで下さい」
「……」
それを聞いて、カオルは何故か少しホッとしたように溜め息を吐いた。
「ああ、それくらいなら、ゼンゼン」
カオルは、何でもないことのように言って笑う。
……多分、カオルにとって、トウコとのことはその程度のことなのだと思った。
気分次第。
トウコのことはいつでも解決できる。ぼくが嫌がるなら、そこまで気にすることもない。その程度の問題。
だから怖い、新城馨。
「トモ……黒岩さんと何があったのか分からないけど、彼女に手を出さないで下さい」
「……何で?」
問い直すカオルの表情に苛立ちはなかった。単純に疑問に思ったことを口にしただけに見えた。
「黒岩さんには恩があります。中学生のとき、色々とよくしてくれました。もし、カオルが彼女に何かするというのなら――」
ハッキリ言った。
「ぼくは、全力で黒岩さんを守ります。カオルにも全力で抵抗します」
「恩」
カオルは意外そうに言った。
「恩、なんだ。好きとか、そういうんじゃなくて……」
「……? 黒岩さんとは疎遠です。高校生になって、一度も口を利いたことがありません」
「そっか……」
カオルは納得したように頷いた。
「そういうことか……なら……アレはやっぱり……」
「……?」
なんだかよく分からないけど、カオルの中で何かが繋がったみたいだった。
カオルは頷いた。
「わかった。アタシからは何もしない。それでいい?」
「……」
意外。
カオルは軽く答えたけど、嘘は言ってないと思う。
これはまずい。
カオルにとって、トモのことはもう終わったことのように見える。つまり、何もする必要がない。もう何かした後……?
「そんだけ?」
「え、あ、うん……」
カオルは笑う。
「ユキがそう言うなら、『アタシは』何もしない」
「……」
「なんだってしてあげるよ」
カオルは、いつだって優しい。
でも其処に、ぼくは底なしの泥濘を連想して――
少し、寒気がした。