※この作品はR-18です。

ぼくがビッチになったワケ   作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!

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虎退治4

 悠希に逢いたい。

 私は特別だが、完全な存在という訳ではない。それは昨年の夏の経験で熟知している。

 例えば一つの試練を成し遂げたとき、それに見合った達成感が得られなかったとする。私は特別なのだから、それで当然と成果自体をなかったもののように扱われる。

 

 悠希が私を見る目には、強い憧憬の念があった。一つ勝利を重ねる度に、大袈裟なくらいの拍手と喝采で私を迎え入れ、賛美の言葉で誉めちぎる。

 何気なく伸ばした手の先にはタオルが用意されている。

 

 ――御影、見ていたか?

 

 ――うん、カッコよかった。

 

 たったこれだけのことで、私はニヤニヤとだらしない笑みが止まらない。戦果に見合った大きな報酬が得られたと、他愛なく胸が小躍りする。

 

 例えば――

 今、眉を逆立て、怒りに震える黒岩智は文句なしの強敵だ。深山もそれなりにやるが、本気になった黒岩の危険度は群を抜いている。

 

「よう来たな、蛍。楓から聞いたで。御影のこと、どついたんやろ?」

 

「……お前には関係ない」

 

 私は黒岩の本気を見たことがない。恐らく、彼女は最悪最強の敵だろう。二年前は無理だと思った。だが今は――

 

「お前に聞きたいことがある」

 

 黒岩は首を振った。

 

「話し合うんも、もう面倒やと思わんか?」

 

「あぁ、全くだ。その方が随分と話が早そうだ」

 

 私は『完全』な自分を知っている。完全な私なら、この黒岩にだって危なげなく勝利を収めるだろう。だが今は――

 だが、今の私は、たった一つ悠希の存在を欠いている。完全じゃない。

 

「……蛍、お前は許さん。この私が許さん……!」

 

 黒岩が竹刀を構え、僅かに腰を落とした姿勢で改めて私に向き直る。激情を秘めているはずの視線は静かで――

 言った。

 

「天にまします我らの父よ。

 願わくは御名をあがめさせたまえ。

 御国を来たらせたまえ」

 

「な、なんだ?」

 

 黒岩が口ずさんでいるのが『主の祈り』であることは分かる。だが、黒岩がキリスト教徒だとは聞いたことがないし、神を信奉する敬虔な信徒とも思えない。

 

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」

 

 黒岩の発する祈りの言葉から嫌な予感がする。

 最後通告。言葉にするならそれだ。黒岩の背負う『何か』から、強い圧迫を感じて私は息を飲む。

 

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」

 

「…………」

 

 目を凝らすが、何処にも解(こたえ)が見えない。

 こんなことは初めてだ。今、正にこの瞬間、黒岩智という存在には隙がない。身体を半身に開いて腰を落とし、両手に竹刀を持った構えは剣道のものではない。正道からは大きく外れた構えだが、何故か隙というものが存在しない。

 

「なんだ、お前?」

 

 人間か、こいつ? 邪道の構えは隙だらけだ。だが打ち込めない。竹刀の先に真剣と対するような圧力を感じる。

 

「我らに罪を犯すものを我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」

 

 ――不吉。

 びりびりとうなじまで痺れるような圧力に、最適解はこの場からの逃走を全力で示唆している。黒岩が私を見つめている瞳は、何故か泣いているように見え――

 

「我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」

 

「――!」

 

 ハッとして私も構えた。

 見入っていた。今の黒岩からは大きな力を感じる。それは悲壮で、痛ましくて、美しくて、何より心を打つ。抗いようのない不思議な力。

 

 やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。

 

 竹刀じゃ駄目だ。これは『試合』じゃない。今の黒岩はこんな棒切れで止まってくれない。

 

「…………!」

 

 慌てて周囲を見回すと、浮き足立っていたはずの二年生たちは落ち着きを取り戻し、手に手に持った竹刀を下ろし、冷たい視線でこちらを見守っている。

 そこにあるのは信頼だ。

 

「……っ、何で」

 

 全員、黒岩が勝つと信じて疑っていない。

 

「……国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

 アーメン」

 

「あ……!!」

 

 祈りの終わりに、見えた。

 黒岩の背後には悠希がいた。頭を抱え、叩かないで下さいと懇願している悠希がいた。邪道な訳だ。形振り構わず守る黒岩は構えないんじゃない。構える余裕がない。

 嫌な予感がする訳だ。不吉な思いがする訳だ。押し潰されそうな圧力を感じてやまない訳だ。解が見当たらない訳だ。最初から、勝てる訳なんてなかった。

 

 そう悟ったとき、最適解は私に一つの答を与えた。

 

 悠希を竹刀で何度も叩き、今は動画(アレ)を持っている私の存在は、いったいどういうものだろう。ひょっとしなくても、憎むべき敵と呼べるものではないだろうか?

 

 おかしい。

 

 今のこの状況、私はてんで間抜けな敵役そのものだ。

 そこで気付いた。

 動画(アレ)を持ってきたのは葛城だ。元々の所持者は新城馨。つまり――

 

 これは罠だ!

 

 新城新城新城! よくもやったな! アイツだけは何を差し置いても殺しておくべきだった! お陰でこの有り様だ!! 本当なら、黒岩から断罪を受けるのはアイツだったはずなのに……

 

 薄いスープのように間延びした時間の中、黒岩が動いた。撃ち落としの斬撃が、真っ直ぐ私の頭を狙っている。

 

「あっ……」

 

 私の口から漏れたのは、そんな呻き声。咄嗟に竹刀を持ち上げ、受けに回ろうとするが、身体は縛り付けられたかのように動かない。黒岩が守る悠希の姿がそうさせる。

 

 ――違うんだ!!

 

 動画の出所は黒岩だ。それは恐らく間違いない。様々な意思と因果が絡まり合っていて、それが問題を複雑にしているだけだ。

 負けられない!

 ここで退けば、これまでの全てが嘘になる。

 悠希に逢いたい。

 この困難を乗り越えた暁には、何かの報酬が得られるのだろうか。

 

 スローモーションの世界の中、黒岩の斬撃が迫り来る。

 

 刹那、訪れるだろう衝撃に耐えるため、唇を食い縛る。

 私は特別な存在だ。

 

 ――貴女は虎なんですよ。

 

 いつかの深山の言葉が脳裏に過った。

 ああ、そうだ。私は虎だ。障害は全て食い破る。だから今は――解を見せろ、最適解!!

 

◇◇

 

 黒岩は背後に悠希の姿を守っていた。培った技を捨て、形振り構わず守るその姿は胸に迫るものがある。

 刹那、黒岩が動いた。

 視界の端で、深山が痛ましいものを見るように首を振る。

 打ち込まれる瞬間、私は構えを取ることさえできず、僅かに身動ぎしただけだ。切っ先が鋒を変え、左の首筋を打ち据えた。場の空気が撓んだと錯覚する程の衝撃音がして――

 

◇◇

 

 ――ごめんなさいごめんなさいお母さんもうしません二度とつまみ食いしません泣きません大きな声も出しません許してくださいこの通りです。

 

◇◇

 

 ――おまえには此処にいる資格がない! 資格がない者は出ていきなさいッ!!

 

◇◇

 

 全身を駆け巡る衝撃に意識が揺蕩う。身体を幾つもの欠片に打ち砕かれたようにすら感じる程の痛撃。

 

「ぁ――」

 

 堪らず膝を折る私を見届けた黒岩は中段に竹刀を構えつつ動かない。残心。決した後も気を緩めず、反撃に備える。

 

「――去(い)ね」

 

 酷く冷淡に、黒岩が言った。

 

「お前はもう、御影に近寄るな」

 

 私は今、負けている。現在進行形で負けている。一対一の対決なら、為す術もなかっただろう。

 腰紐で挟んで所持していた武田の携帯電話に手を伸ばす。

 

「なんや……?」

 

 怪訝な表情で覗き込む黒岩の目の前で、素早く携帯を操作して手で弾いた。

 武田から借り受けた携帯は道場の床を滑り、正座の姿勢でこちらを見詰める深山の膝に当たって停止した。

 

「……?」

 

 深山が携帯を拾い上げる。

 

 そして――

 

◇◇

 

 最初、深山は笑った。

 携帯から漏れ出したのは僅かな喧騒。ありふれた放課後の教室。悠希がいて、そこにありふれた情景を想像したのだろう。深山は微笑っていた。

 

『これから、御影きゅんの秘密に迫りま~す』

 

 だが、嘲るような男子生徒の声が聞こえると、眉間に皺を寄せ、露骨な嫌悪の表情を浮かべた。

 

 一番強いのは誰だ? と問えば、ここにいる全員が私の名を上げるだろう。だが、一番『怖い』のは誰だ? と問えば、私を含めた全員がこの女の名を上げる。

 

 ――深山楓。

 

 あぁ、黒岩。お前は強い。お前は確かに別格だ。剣道という一つのジャンルでは私の上を行くかもしれない。素晴らしい気迫と覚悟だった。

 

『御影きゅんは、ちっちゃいとき、虐待されてたって本当でちゅか~?』

 

 瞬き一つせず、食い入るように携帯のスクリーンを見つめる深山の眦がつり上がり、ヒクヒクと震える。その背後から何事かと携帯を覗き込む二年生部員が顔色を変え、恐ろしいものを見たかのように口元に手を当てた。

 

 あぁ、黒岩。

 この場の虎は私だけじゃない。お前が勝たなきゃならない相手は私一人じゃないんだよ……!

 

 怪訝な表情で私と深山とを見比べていた黒岩が、ここで漸く状況を察したのか、ハッとしたように目を見開いた。

 

「なんで……それが……!」

 

 遅い。遅いよ黒岩。

 

 流れが変わるぞ――!

 

 スクリーンを凝視して動かない深山の肩は、ぶるぶると全身の力みに震えていた。

 

 

『――すげー、ケン〇ロウみてーだ』

 

 

 その瞬間、深山は立ち上がり、床に置いた携帯を思い切り踏みつけた。竹刀を固く握った右手を震わせ、何度も何度も携帯を踏み躙る。踵が割れ、血飛沫を撒き散らしながら尚、深山は携帯を踏みつけるのを止めない。

 静けさ漂う道場に、深山が携帯を踏みつける音だけが響く。その光景を、皆が息を殺して見守っている。

 

 道場の固い床の上に、スクリーン部分が割れ砕けた携帯が血塗れになって転がった。

 

 深山は満身創痍。背中に幾つもの痣と血痕を張り付け、三つ編みの髪は解け、纏まりをなくしている。せいせいと肩で荒い息を吐き、解れた髪の間から見える瞳は激情の炎に燃えている。

 

「…………」

 

 誰も何も言わない。皆が皆、豹変した深山の迫力に息を飲み込み視線を逸らす。下着姿だろうが、傷だらけだろうが、怖いものは『怖い』。

 深山が歯を剥き出して唸るように言った。

 

「誰が……!」

 

 可笑しくなって私は嗤う。

 

「あぁ、深山。許せないよな? 絶対に許してはならないよな? なぁ、黒岩」

 

「……っ」

 

 深山の視線がぎろりと動き、その形相に怯んだ黒岩が一歩引き下がった。

 

「黒岩智! アレが何か答えなさいッ!!」

 

 僅かにたじろぎ、しかし黒岩は鼻で嘲笑った。

 

「なんや、乳牛。急にいきりよって。あんたみたいな乳だけ女、御影に山ほどフられよったで?」

 

「ふざけるなッ!」

 

 叫ぶと同時に深山楓は飛び出した。一足飛びに距離を詰め、躊躇うことなく突き入れた竹刀は真っ直ぐ喉を狙っている。

 

「――っと!」

 

 殺意すら感じる程の勢いで繰り出された『禁じ手』だったが、黒岩は僅かに首をずらすことで矛先を躱した。

 

「……っぶな! あんたなぁ、私やなかったら死んどるで!?」

 

「……」

 

 深山は油断なく竹刀を構え、顔色一つ変えない。問答無用の殺意をぶつけて尚、眦はつり上がったまま、その怒りが一分子たりとも損なわれていないことを物語っている。

 

 黒岩の弾劾は私がするべきではない。適解。負い目のある私の言葉には誰も耳を貸さない。

 このタイミングで私は立ち上がった。打たれた左の首筋が猛烈に痛んだが、今は泣き言を言っていられない。黒岩を追い詰めるタイミングは、深山が動いた今を於いて有り得ない。

 呼吸を整え、言った。

 

「……黒岩、動画(アレ)について全て説明してもらうぞ」

 

 黒岩は舌打ちした。

 

「アレってなんや。訳が分からん」

 

 始終黒岩に傾いていた流れが変わる。深山と動画を見た一部の二年部員は困惑の色を隠せず、黒岩は額にうっすらと汗を浮かべている。

 

「お前が何を考えているか興味はない。だがアレが新城の手に渡るように仕向けたな」

 

 黒岩が叫んだ。

 

「川村、早う小渡せ!」

 

「――させるか! 深山、合わせろッ!!」

 

 隙なく私が打ち掛かり、殆ど同時に深山も打ち掛かる。私だけでは無理。深山だけでも駄目。二人掛け。

 これが最適解。

 小刀を持ち、黙って様子を窺っていた川村が一瞬でも迷えば間に合わなかっただろう。だが川村は迷わず小刀を黒岩に投げ渡し――

 

◇◇

 

 黒岩が新城に動画(アレ)を渡した正確な理由は分からない。だが、想像はつく。

 

 ……新城馨。

 

 あいつの行動が全てを変えた。あいつさえ居なければ、私たちは仲のいい友人でいられたのだろうか?

 

 右の大刀で深山の打ち込みを、左の小刀で私の打ち込みを受け止めた黒岩の頬に汗が伝って落ちる。色の薄い瞳に浮かぶのは焦り。焦燥。

 ――私がいる。

 今の黒岩には、鏡に映った醜い自分自身を見るような不快感がある。

 

「……黒岩、一つ聞かせろ」

 

 鍔迫り合いの形で竹刀を押し込みながら、黒岩に問い掛ける。

 

「悠希とは、どういう関係だ……?」

 

 同じ中学校に通っていたことは分かる。そして今、黒岩が悠希に並みならぬ執着を持っていることも。だが、それがどういう種類のものなのかが分からない。

 

「……」

 

 私の横で同じように鍔迫り合いの形で黒岩に迫る深山も、この問いに興味を示したのか、若干勢いが弱まる。

 二刀を扱う黒岩は単純な膂力では私たちの上を行くだろうが、二対一のこの状況。私たちが負傷しているとはいえ、劣勢は覆し難い。

 

「はん、どうでもええやろ……」

 

 額に汗を浮かべる黒岩は、追い詰められながらも不敵に笑んで見せた。

 私も鼻で嘲笑った。

 

「……片思いだろ? 自慢できるようなものは何もない。惨めなヤツだ」

 

「……ぐっ」

 

 遂に膝をつき、押し込まれた形になった黒岩の顔が、くしゃりと歪んだ。

 ……ムカつく。

 焦りから短慮に走った黒岩には怒りと嫌悪しか感じない。尚も竹刀を押し込みながら、言った。

 

「昨夜、悠希と寝たよ」

 

「……え?」

 

 この言葉に困惑した表情を浮かべたのは深山だ。眼鏡の奥の瞳は傷つけられたように揺れていて――

 

「なんだ、深山。まだ悠希と寝てなかったのか?」

 

 私は思わず噴き出した。

 悄然とした深山の竹刀から力が抜け、持ち直した黒岩が顔を上げた。

 

「……あんた、醜いなぁ。御影のことも、モノみたいに思うとんのやろ……?」

 

 深山は強さにムラがある。

 ――だらしないヤツだ!

 だが構わない。黒岩は私一人で叩き潰す。そもそもそのつもりだった。

 

「……深山、引っ込んでろ。口先だけの負け犬め。指を咥えて見ているがいい……!」

 

 黒岩は笑っている。片膝をつき、額にびっしりと脂汗を浮かべながらも、不敵な笑みを絶やさない。

 

「何がおかしい!!」

 

「必死やな。あんた、無茶苦茶やん……」

 

 世界中の何処を探しても、悠希ほど私に馴染む存在はない。身体も心も、あいつだけが満たしてくれる。本気になって何が悪い。

 黒岩が私を見つめている。

 心の底まで見透かすような、色の薄い瞳で私を見つめている。

 

 

「御影な、楓からは金取らんかったそうや」

 

 

「…………あ?」

 

 

 その言葉の意味を理解するのに、私は幾ばくかの時間を必要とした。

 

 ……ぼくは、このお話の最後を書き換える……これだけは……これだけは……

 

 悠希は、あの人の良さそうな初老の父親の為に――

 よく、分からない。

 御影悠希は女嫌い。以前からそうじゃないかと思っていたが、動画(アレ)を見て確信した。悠希は女性そのものに、忌避すべき母親の影を見ている。例外はない。ない、はずだ……。

 

 瞬間、黒岩は両手に持った二刀を投げ出し、背中を向けて駆け出した。

 

「…………」

 

 この場の劣勢を認めたのだろう。二年生部員を押し退け、黒岩は脱兎のごとく逃げ出した。その後を竹刀を担いだ川村が追い掛けて行く。

 

「……」

 

 言葉もなく、駆け去った黒岩の背中を見送った。

 例外はないはずだ。

『何故そうするのか』を考えたとき、その例外は許されない。許してはならない。

 

 黒岩が深山を私刑(リンチ)にした理由が痛いほど理解できた。

 

「…………」

 

 下着姿の惨めったらしい深山に視線を向けると、気まずそうに目を逸らされた。

 

 嵐のように黒岩が去り、静けさ漂う道場で、深山がポツリと呟いた。

 

「動画(アレ)は、黒岩さんが……?」

 

 動画のことは、もうどうだっていい。

 新城も葛城も黒岩も、他の女も、もうどうだっていい。全てを打ち砕いてしまいたい。

 

 特別じゃ、なかった私。

 

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