ぼくがビッチになったワケ 作:ピジョン@アスクラピアの子一巻発売中!
この年の春。
桜の舞い散る庭先で、要(カナメ)の叔父は首を吊った。
叔父にとっては兄に当たる要の父と祖父とが発見した時、叔父の身体は既に死後硬直が始まっていて、庭から運び出される様は、棒杭か梯子のような縦長な何かが持ち出される様子に似ていた。
叔父は46才。男盛りと言っていい年齢だが、結婚はしていなかった。
「叔父さん、いい人はいないの?」
要がそう問うと、少し困ったように笑う。
叔父の突然の自殺の原因は分からない。
生前の叔父は少し痩せていて優男の風貌。獣医をやっていて、結婚の引く手はあまたあった。最期まで独り身を通した理由は要には永遠に分からず終いになる。
要の母がポツリと呟いた。
「……やっぱり、あれが傷だったんだねぇ……」
粛々と行われる葬儀の中、胡座をかいた姿勢で、ぼんやりと叔父の遺影を見詰める祖父は、何だか一気に百歳も老け込んだように見えた。
その祖父を横目に、要は母に問い掛ける。
「……傷ってなに?」
「……」
母は険しい表情で首を振るだけで、その問いに答えることはなかった。
と、そのとき。
玄関の辺りで大きな物音がして、一人の女が部屋に突っ込んで来た。
「――!」
その仰々しさに要は慄き、母はギョッとして目を剥き、僅かな間に百歳も老け込んだように見える祖父は大口を開けてポカンとして――
女は化粧の途中だったのか、マスカラを瞼に片方だけ引いていて、その表情は歪んで見える。
全体的に派手めの化粧。おそらく水商売をやっている夜の女。要の感性では『醜い』。電線が走りまくったストッキングを履いた足は素足で親指の爪は割れていた。着の身着のまま、報せを聞いてすぐに飛び出して来た、というような有り様だった。
とてつもなく嫌な予感がして、要は叫び出しそうになった。
――沈黙。
震える声で、女が言った。
「人殺し」
その言葉に答える者はなく。
耳に痛いほどの静寂の中、祖父が畳に額を擦り付けるようにして土下座した。
◇◇
要が生まれる前の話になるから、それは20年以上昔の話になる。
若い頃の叔父とその女は深い関係だったそうだ。
叔父は真剣に結婚を考えていたが、女の素性の悪さと水商売勤めを理由に、当時の祖父は頑強に反対したようだった。
女は潔く身を引き、姿を消した。
後には寂しそうに笑う叔父が残った。
何処かで聞いたような、そんな昔話。
◇◇
女はそれきり喋らなかった。
叔父が自殺した原因は分からない。
女が騒いだところでそれは変わらないし、時間は戻らない。死んだ人間も生き返らない。
要がこの一件をクソだと思う理由は、この場に自分が居合わせたということだ。現実という名のクソゲーは決定的な出来事が起こった後も続くのだ。
土下座の姿勢で動かない祖父。
女は立ち尽くしたまま瞬き一つせず、困ったように笑う遺影の叔父を見詰め続ける。
皆、黒一色の喪服で身を固める中、着崩した派手な衣装の女はとてつもない違和感を放っていた。
それでも葬儀は続く。
酷い冗談だった。現実というクソゲーにスキップモードは存在しない。
女は口元を歪めた表情で笑っていた。目元には僅かな皺があり、もうあまり若くないことを物語っている。マスカラの混じった黒い涙を流す様は異様の一言に尽きた。
だが、この女が、この場の誰よりも叔父の死を悼んでいることは疑いようのない真実だった。
そして誰もがこの女から目を離せない。女の流す切実な涙から目を離せない。深刻な『愛』に視線を奪われる。
詳しい経緯は分からない。要はそれに興味はないし、無理をして知りたいとも思わない。彼女には彼女なりの事情があったのだろうと考える。
その上で思った。
――馬鹿な女。
この女は傷ついたのだ。
たった今、永遠に治ることのない傷を負ったのだ。
叔父のことは知らない。女の要に分かるのは女のことだけだ。
◇◇
――本気だったら、全部捨てて行かなきゃ嘘なんだよ。
◇◇
七月某日。
◇◇
それらは、最初の内、ごちゃ混ぜになっていて気付かない。年を経るごとに選別されていく。そして気付いた時はもう遅い。何もかもが手遅れになってしまっている。
新城馨は言った。
「ダイヤもサファイアも真珠もある。ただの石ころも……」
かつての彼女は、それらのごちゃ混ぜになった原石の一つだったのだ。
「だから、わっかんねーんだな。これが……」
葛城瞳子はいつになく真剣な表情で話を聞いている。
その瞳子の耳元で、佐藤夕子が囁くように言う。
「何、カオルさん、語っちゃってさ。ちょっと鬱入ってんの?」
馨といえば、クラスメイトの小さい少年に夢中で、最近は上機嫌でいることが多かったから、夕子としてはそれがちょっと恐ろしい。
くわえ煙草の馨は、立ち上る紫煙をぼんやりと見詰めていたが、気紛れを起こしたのかフラフラと手を振って、付いて来るなの合図をして――校舎の屋上から出て行った。
ガチャンと金属の扉が閉まるのを待って、夕子は口を開いた。
「行っちゃった」
「新城センパイ、これから補習なんだよ」
「ああ、それで。御影さんとできないから……」
瞳子は片方の眉を上げ、思い出したように言った。
「そ、あたしは御影さん捕まえるように言われてるからそろそろ行く」
「あたしも行く。――瞳子、ガム食べる?」
「……」
いつもなら、「いらない」と連れなく言って去るのが二人の定番のやり取りだったのだけれど、今日の瞳子は気分が違うのか、ピタリと足を止めた。
「C作……一枚……いや、二枚ちょうだい」
「オッケー」
佐藤夕子と葛城瞳子は同級生。知り合ったのは馨を通してだが、それなりに仲はいい。
「御影さんてさ、あたしのことCCサトウとか言うの」
「新城センパイもSHINJOYとか呼ばれてたし。あたしたちのことが――」
――嫌いなんだよ――
瞳子はその言葉を飲み込んだ。
二人は肩を並べて歩いた。
夕子が言った。
「カオルさん、御影さんと居るようになって落ち着いて良かったよ。以前は――」
そこで、瞳子が遮るように口を挟んだ。
「今回、新城センパイの赤点二つだけだってさ」
「へえ! ホンとに!?」
よほど驚いたのか、夕子は鼻息を荒くして捲し立てた。
「カオルさんが進級できたのは、この学校の七不思議の一つだよな!!」
活発そうに見えるショートカットの髪をかき上げ、瞳子はクスッと笑った。
「まったく。春休み前はホンと酷かったよ。山ほど補習のプリント抱えてさ、八人がかりで必死にやって……」
「ホンとホンと!」
二人は一頻り笑い、その後で夕子が溜め息混じりに呟く。
「けど、今日は久々の鬱モードで語っちゃって。かといって荒れてるワケでもなかったし。いったいなんだったんだろ……?」
「う~ん……」
瞳子は唇を撫でながら、考え込むというより、少し迷う素振りを見せていたが、ややあって答えた。
「……多分だけど、新城センパイ、自分の可能性みたいなの見ちゃったんだよ」
「……?」
どうやら難しい話のようだ。夕子は、そばかすの浮いた頬を軽く掻いた。
足を止め、瞳子は首を振った。
「……あたしらの回りって、皆、似たり寄ったりじゃん? 会話は誰それセンパイがどうとか、暴走族の誰がどうとか……中身スッカラカンで、いつも似たような話ばっかして……馬鹿やって……」
「……何、それ? カオルさん、そんなこと一言も言ってないじゃん」
「はぁ……」
と瞳子は大きな溜め息を吐き出して、呆れたように首を振って見せた。
「C作は……今の自分に満足……変わりたいって、思わない……?」
――小学生、中学生の内は、皆一緒くたになっていて気付かない。
頭のいいヤツ、馬鹿なヤツ、スゴいヤツ、つまらないヤツ、悪いヤツ、真面目なヤツ。全員、一緒だから勘違いしてしまう。――これからも、ずっと一緒なのだと。
本当は違う。
選別はもう、とうに始まっている。そして、一度振り分けられてしまえば、道は別れる。これがどういう意味を持っているか。
漠然とだが、未来のことは考える。その瞳子にとって、馨の言葉はあまりにも苦く聞こえた。
――御影悠希は、馨や瞳子の回りにいる誰ともタイプが違う。
皆が煙草を吸い、馬鹿話に明け暮れる旧陸上部の部室で、単語帳を捲ったり教科書に何やら書き込んだりしている悠希が、ヤンキーの馨と一緒にいる。
本来は住む世界が違う二人。
その二人が一緒にいて、その事実がどれだけ貴重なのか。稀少なのか。馨は、そういうことを言っていたのだ。
――当然なんかじゃない。
馨がある種の事実をねじ曲げ、悠希をそこに縛り付けているということに、葛城瞳子だけが気付いていた。
◇◇
◇◇
放課後の空き教室。
馨はクチャクチャとガムを噛み鳴らしながら物憂げに窓の外を見つめている。
――新城さん、今回のテストは頑張りましたね――
担任の坂本敏江の言葉だが、嬉しくも何ともない。
新城馨の18年の短い人生経験の中で、『教師の言うことは聞かない』というこだわりがある。
同じように補習にやって来た生徒が周囲に数人居るが、馨は構わずその場に唾を吐き捨てた。
隣の席に掛けていた女子生徒が嫌悪の混じる非難の視線を向けて来るが、馨がぎろりと鋭い視線を向けると、慌てて目を逸らした。
――最近、御影くんと仲がいいみたいですね――
坂本敏江のことが大嫌いだ。
顔は笑っていたが、内心はニコリともしていない。馨がそこに、悠希と一緒に居るのはおかしいと言っている。
(クソババアが)
ムシャクシャする。
――御影くんのお陰ですか――
期末試験の山を張ったのは悠希だ。
勉強を教われば、悠希はきっと小馬鹿にしてくると思っていたが、そんなことはなかった。やらない、考えないということは軽蔑しているが、分からない、知らない、ということを馬鹿にしなかった。
いい子だ。
つくづくそう思う。
親しげに振る舞って、実際は探りを入れている坂本敏江が、大嫌いだった。
――ユキ、卒業しても会える?
悠希は、なに言ってんだコイツ、という顔をしている。
言った。
「卒業したら、新城とはもう会わないよ」
…………………………
……………………
………………
…………
……
ここまではバレーボールが助けてくれたが、別れてしまえば、それきりだ。
選別はもう始まっている。
バレーボールのない新城馨は、ただのガラクタだということを、他でもない馨自身が誰よりも理解していた。
◇◇
◇◇
この高校は文武両道を校是としており、補習は一般生徒と運動部に所属する生徒に向けた二クラスに分けて行われる。馨は一般生徒対象の補習に振り分けられた。
この学校の『一般生徒』は、基本的には短大や専門学校、大学に進学する。補習を受けるのは馨のような就職組が殆どだ。
周囲は見慣れた顔ばかりだが、去年と比べて随分減ったように思う。その中には馨のような元『B特』も一人いたのだが、姿は見えなかった。
机に座ってやる『お勉強』は得意じゃない。今はもう姿が見えないその生徒も、馨と似たような感じの生徒だった。
頑張らなかったワケじゃない。授業料半額とはいえ、その他の優遇は取り払われる。運動部向けの補習を受けていたとしたら、そうはならなかっただろう。
学校側としては、自然な流れで不用品を処理できるシステム。
――この学校が、大嫌いだ。
例えば、すました顔の坂本敏江の尻を思い切り蹴飛ばしてやれば、どれだけ胸がスッとするだろう?
つらつらと考える馨の頬に不吉な笑みが浮かんだ所で、横開きの扉が開いた。
現れたのは、白い手袋がトレードマークの生物教師――折笠忍。
今日は折笠が補習の担当のようだ。ツいてない。
二十半ばのこの女はボクシング部の顧問をやっているが、いい噂は一つも聞かない。
気性が荒く、言葉づかいは強面の男性教師より遥かに悪い。潔癖性のこの女が生徒を見る目は側溝の汚泥を見るそれだ。堪らなく不潔なものを見るようなそれだ。
折笠は集まった生徒を見渡し、詰まらなそうに鼻を鳴らした。
「ふん、また減ったな。落ちこぼれ共」
この口汚さにも慣れた。
無遠慮な視線で面々を見回す折笠と目が合いそうになったが、馨は俯いてやり過ごした。
悠希がいるから、この豚箱生活を我慢してやっている。
◇◇
数分後、馨の目前に二十枚の分厚いプリントの束があった。
馨の場合、英語と数学の2教科。1教科につき10枚ということになる。
補習は午後6時までの予定だが、到底規定の時間内には終わりそうにない。また適当にやればいいというものでもない。正解率が六割を下回った場合、やり直しになる。
諦める者も少なくない。
唯一救いがあるとするなら、自宅に持ち帰ることが許可されていることだ。
「――新城、どんな手を使った。カンニングか?」
顔を上げると瞬き一つせず覗き込んで来る折笠忍と目が合って、馨は鼻面に嫌悪の皺を寄せた。
この安い挑発が曲者だ。
反応して減らず口を叩こうものなら面倒なことになるのだが……
勿論、馨は面倒に首を突っ込む。
「先生、メッチャ毛穴詰まってる」
「……」
びきりと額に青筋を走らせる折笠が睨み付けて来るが、馨は、ついっと視線を躱し、廊下の方を見やって呟いた。
「……あ、国崎……」
「にょっ……」
と、折笠はおかしな呻き声を出しながら狼狽して廊下の方へ視線を送る。
その様子に、周囲の面々が失笑で応え。
「分かりやす……」
馨は、ゆらっと席を立ち上がった。
身長185cm。ブレザーのポケットに手を突っ込んだまま、見下してこう言った。
「……あんま茶々入れてっと、マジでイジメるぞ?」
冷たく嘲笑う。
「~~~~!」
生物教師の折笠忍と、馨のクラスメイトである国崎竜也は、付き合って『いた』。
あくまでも噂だが、馨は真実だと踏んでいる。
折笠忍は憤慨して眦をつり上げたが、負け惜しみのように鼻を鳴らしてから、白衣の裾を翻した。
◇◇
補習は午後4時から6時までの予定。
補習開始後、間もなくして折笠忍は姿を消した。
各自、それぞれの課題は決まっており、教員がここに留まる意味は余りない。折笠の場合、やらなくていいことはやらない。その辺りは徹底している。
折笠が去り、教室から妙な緊張が消えてしまうと、周囲の面々はおもむろに席を立ち始めた。
見張るものが居なくなってしまえば留まることに意味はない。どこでやっても同じことだった。
手先でシャーペンを回しながら、馨がぼんやりと考えるのは、やはり悠希のことだ。
関係が始まり、二ヶ月経ったが、悠希の冷たい態度に変化はない。
『新城みたいなクサマンの性格げろしゃぶ女と、ぼくが付き合うなんてあり得ないよ』
自分がどう思われているか知っているつもりだったが、ここまで言われるとショックだ。
時間を掛けて懐柔するつもりだったが、見込みが甘かった。いや寧ろ、拒絶の傾向は強くなったような気がする。
このままでは駄目だ。
しかし、以後の手が思い付かない。手持ちの金も底を尽いて来た。
金の切れ目が縁の切れ目。
このままではそうなる日も遠くない。
力ずくでこの関係を維持する、という考えはない。悠希の過去を鑑みれば最悪の選択だ。そんなことをすれば、秋月蛍の介入を招くことになる。なんだかんだ怒りを露にしながらも、未だ悠希に構い続けているのを見れば当然の成り行きと思われる。
『好き』というだけでは駄目。この関係の維持にはそれ以外のものも必要になるのだ。
――変化が必要だった。
周囲の面々が課題のプリントを手に次々と席を立ち、教室を去って行くのだが、思考に没頭する余り、馨は気付かないでいる。
「新城」
課題に手を付ける訳でもなく、その場に佇む馨の肩が、ぽんと叩かれた。
「うん?」
馨はそちらへ向き直るのと同時に周囲に視線を走らせる、続いて腕時計を睨み付けた。
規定の時間まではまだあるが、馨とその女子生徒を除き、全員が姿を消している。
「なんだ、吉河かよ」
肩を叩いたのは、いつもの溜まり場……旧陸上部部室でよく見る女子生徒だ。
馨と同じように脱色の繰返しでパサついた茶髪が目に入り、この時はそれが堪らなく不快に思えた。
「なんか用か?」
突っ慳貪に問い掛ける馨の眉間に険しい縦皺が寄る。
吉河が言った。
「御影ってさ、そんなにいいの?」
「……あぁ?」
馨の受け答えには若干の間があった。
新城馨の目の届く範囲に於いて、御影悠希に手を出してはならないというのが『部室内』での不文律だ。その辺りは周知させるように葛城瞳子や佐藤夕子(C作)に言ってある。
瞳子は悠希が気にかかるようで周囲に目を光らせているし、C作に至っては馨に怯えているため従順だ。役割をサボっているとは思えない。
吉河はヘラヘラ笑っている。
「ナリは小さくても、アッチは――」
最後まで言わせない。瞬間、馨は吉河の茶髪を引っ掴み、机に叩き付けるようにして押し付けた。
「テメーの汚い口で御影のこと言うんじゃねぇよ」
ごく自然に思った。
――殺そう――
いつからか制服の内ポケットに忍ばせるようになったそれに手を伸ばすが、指先にその感触がない。
――新城は女なんだからケンカなんてするもんじゃない。
人気のない教室で、机の上に吉河の顔面を押し付けた格好で馨は固まった。
『ぼくは、新城を犯罪者にしたくない』
悠希に抱き締められ、その小さな胸の中で、『それ』は決して持ち歩かないことを誓ったのだ。
頭から冷水を浴びたように思った。
あのときの馨は、なるべく可愛い女でいたい――可愛い女になりたいと、真剣にそう思ったのだ。
「…………」
馨は吉河を解放し、散らばった補習のプリントをかき集めて鞄に捩じ込む。その間は無言だった。
吉河は大量の汗を流しながら、引きつった笑みを浮かべている。
早く悠希に逢いたい。
馨はその事だけを考える。
命あるものが空気や水を必要とするよりも切実に、馨は悠希を欲している。他のことはどうでもいい。
「……今回は勘弁してやるよ」
馨がそう言うと、吉河は泣き出しそうな顔で中途半端な笑みを返した。
間違いなくビビっている。
秋月蛍のような一部の例外を除き、誰もがビビる。『ヤンキー』の新城馨には、それだけのポテンシャルがある。
ふざけてばかりだが、時々は笑えないこともする『ヤンキー』の新城馨という女。
だが――
「み、御影って、スゴくイイんだろ?」
「……」
馨は黒目だけをギョロリと動かし、未だ口を動かすそれを見つめる。
馨の脳裡を占めるのは悠希のことだ。怒りの感情ではない。だからこそ、この異常に気付く。
吉河は内股になっていて、膝を少し震わせている。ビビっている。この会話の内容が不吉であることを理解している。
それでも続ける。
「あ、ああああたしさ、すっげえいいネタ持ってんだ」
(見逃してやる、つったのに、しつこいな……)
馨は、イラっと来た。
そもそも素行はよろしくない。素質は充分あった。バレーボールを辞めてしまってからは、打ち込む時間も充分あった。
その期間のことは間違っても悠希に知られたくない『ヤンキー』の新城馨という女。
馨は動きを止め、首を傾げた姿勢で吉河に向き直った。
「……下らねぇことだったら殺すぞ……?」
悠希のことを考えているせいか、苛立ちよりも違和感の方が強い。結果としてそれが馨の足をこの場に引き留めている。
「こっ、ここここれ見てよ」
吃りがちに言う吉河が、胸ポケットからスマホを取り出す。
『動画』が始まった。
◇◇
◇◇
「新城、こっち向いて」
何時も冷たく連れない少年だが、時々は気紛れを起こしたように真逆に振る舞うことがある。
「……元はいいのに」
「元は、ってなんだよ」
ムッとして眉間に皺を寄せる馨に、悠希は言う。
「……ちょっぴり怖い。でも、ちょっぴり可愛い」
「……」
可愛い女になりたい。
例えば、もっと小さくなりたい。できるなら、悠希より小さくなりたい。がさつな性格も直したいし、おしゃれにも気を遣いたい。もっと色白になりたい。本当は髪も伸ばしたい。
けど、実際の馨は自身の体格に合う服を見つけるだけでも難儀していて、中学生の弟には女形の巨人と呼ばれている。男勝りと言ってしまえば聞こえはいいが、実際は、がさつで態度が悪いだけだ。肌は陽に焼けて褐色で、脱いでしまえば胸と尻だけが妙に白い。髪もあんまり長くない。伸ばそうにも、毛先が修復不能なほど傷んでいて、理容師には切ったほうがいいとまで言われた。
◇◇
……秋月蛍は色白の肌をしていて、伸ばした黒髪は艶やかで、下ろせば背中の中ほどまである。
快活そのものの性格をしていて男勝りだが、女を忘れている訳じゃない。立ち振舞いには何処かしら気品のようなものを感じる。笑うと頬に笑窪ができる。
◇◇
負けたくない。
◇◇
男は他にもいっぱいいる。だから――
悠希以外の所に行って欲しい。
秋月蛍だけじゃない。女は全員何処かに行って欲しい。
◇◇
右手に掴んだ吉河の傷んだ髪の毛が、メシメシと嫌な音を立てた。
動画の中の悠希は衣服を全て剥ぎ取られ、傷だらけの身体を抱き締めて震えていた。
長い廊下を、髪が千切れる音を立てる吉河と行く馨の胸の内は、激情の熔岩を流し込まれたかのようだ。
吉河は動画を使って悠希を脅すように言って来た。
進学予定の悠希には効果的かもしれない。そう思った自分が堪らなく嫌だった。
気分が悪い。
吐きそうになりながら、馨は懐を探って自分のスマホを取り出す。
「……C作、5分以内に『部室』まで来い」
押し出すようにそれだけ言って、通話を切った。
今すぐ何かを壊したい。
馨は制御不能な破壊衝動に駈られ、手に持った吉河を無茶苦茶に引っ張り回した。
吉河が短い悲鳴を上げる。
頭が痛い。
悠希には嫌われている。蔑まれている。卑しい女だと思われている。
違う!!
全身でそう叫びたい。でも、今の馨がそうしたところで、悠希は毛先ほども感じ入ることはないだろう。
世の中、そんなに甘くない。
馨の恋は、とうの昔に行き詰まっている。
何度身体を重ねようと、想いを募らせようとも、この関係が変わるなんてことはあり得ない。
吉河が半泣きで呻いた。
「なんでそんなに怒るんだよ……御影が2000円て決めたのオマエだろ? ……金なら払う……払うから……」
「――つっ! 黙れよ! 黙れ!!」
狂ったように馨は叫び、右手に掴んだ吉河を遮二無二振り回した。
耳障りな呻き声を上げる吉河と、ヤンキーの新城馨は、何も代わり映えしないゴミクズだ。吉河は知らず知らず、その真実を馨に突き付けたのだった。
◇◇
◇◇
葛城瞳子とは別校舎で別れた。
夕暮れ時の校舎は、陽に焼けたコンクリートの匂いがする。
夕子たちが通うこの高校は、近隣では有名な部類に入る進学校の一つ。馨のような落ちこぼれ組にとって、その敷居の高さが問題になる。進学校卒であるという事実が足枷になり、就職事情はよくない。
夕子も馨と似たようなものだ。未来はそんなに明るくない。なるべく考えないようにしている。来年一年間は馬鹿をやって、それから……
それから……
――C作は……今の自分に満足……変わりたいって、思わない……?
何も思わない訳じゃない。ちょっと考えたくないだけ。
夕子は眩しげに夏の日射しを睨み付け、それから仏頂面になった。
葛城瞳子は、馨や夕子のことを気にするより前に、自分のことを考えた方がいい。
瞳子の場合、馨や夕子より家庭が裕福で進路には幅がある。専門学校、大学、望んだ道に進むことができる。
しかし、それは両親の敷いたレールを進むなら、という話だ。その場合、瞳子は自分で結婚相手を見付けることはできない。進路どころではなく、人生まるごと敷かれたレールを進むことになる。
「そんな人生ならいらない」
そう吐き捨てた瞳子だったが、具体的な指標を持つ訳ではなく、視線は頼りなく揺れていた。
葛城瞳子はまだ若く、自分の人生を見出だすのに今少しの時間を必要としている。
誰もが揺れる。
身体は大きくなっても、自らの人生の決断をするにはまだ早い。それは恐らく、馨なんかもそうだろう。
夕子はそんなふうに考える。
未来のことは、誰にも分からない。
そんな夕子が将来、何者になるかなんて分かりっこない。進路をどうすればいいのかなんて分からない。
夢は? と聞かれれば『アパレル店員』と答える佐藤夕子という少女。
茜色に染まった校舎は、夕子の目には少し滲んで映った。
今の馨は上手くやっている。
黙り込み、鬱屈した表情で苛ついていた去年とは大違いだ。よく笑うようになったし、優しくなった。以前ほど怖くなくなった。
(……御影悠希……)
この少年に何かあるということは分かる。瞳子なんかは、
「あたしらの回りにはいないタイプの人だね」
などと言っていたが、夕子から見た悠希は、なんというか、陰がある。
……秘密がある。
夕子は特別男女関係が豊富という訳ではないけれど、この手のタイプは不味いと思っている。対象を闇雲に魅きつける何かがある。狂おしい何かを感じる。
だから――
馨に任せるのがいい。
もう『本気』になっている馨に任せるのが一番いい。全てを捨てる覚悟のある馨だからいい。
「……で、よいこ持って行ったのね。食い付き抜群だった」
「あの人、ミルクの匂いしそうだよね」
馨の『本気』が状況を引っくり返すのは時間の問題だ。
「……なんか知らねーけど、すっげー素朴な話聞きたがるのね。あたしの婆ちゃんとこのド田舎の話とか。花が咲いたみたいに笑っちゃってさ……」
「あ~、見た見た。あれ見て新城先輩がハマるのも分かった気がしたし」
「そうだよ。あの人、笑えるんだよね……中々笑わねぇから気になってたけど」
何時もの校舎裏。上級生が集まる旧陸上部部室を避けた1、2年のヤンキーは大抵がそこに集まる。
夕子がボンヤリと考え事に沈む中、馨の取り巻きを含めた複数人が思い思いの会話を交わしている。そのこと自体は特別変わったことではない。
「そういえば、アホの皆川とゲス霧島が言ってたアレって……」
「それなら瞳子が調べるって言ってたし」
「あー、瞳子なら正面切って御影さんに聞けるし任せていいっしょ?」
「そうそう、御影さんに『ウリやってますか?』って」
……
…………
………………
……………………
…………………………
「はぁ!?」
その言葉を聞き咎め、夕子は目を剥いた。
「ウリ? はぁ!? 御影さんが売春!? マジで言ってんの!?」
「佐藤はボーッとしてたと思ったら、突然ウルサイね」
応えたのは葉桐 要(カナメ)。
奥まった場所で二人の1年生を連れて、遠巻きに話を聞いていた女子生徒。2年の中では一番顔が利く。馨が卒業してしまえば、自然な形で彼女がそのポジションを占めることになる、というのが夕子の見立てだ。
透き通った鼻筋。視線にはナイフの冷たさが宿る。頭も回れば荒事も得意。しかし馨とは違う種類のワルさがある。
例えば馨なら、薬物はご法度だし、揉め事に男を連れ出すのも禁止している。曰く、クズにはクズのルールがある。しかし、要にはそういう古臭いルールはない。
つまり、葉桐要はなんでもありだ。
その要が口を開くと、周囲も口を噤んで成り行きを見守る。
馨の取り巻きは気分悪そうに、要の取り巻きの二人は眉間に皺を寄せて周囲を牽制するように睨み付ける。
「ワタシは御影くんがウってんのガチだと思うな」
マズイヤツに聞かれた、と夕子も煙るような視線を向ける。
「……なんで?」
要は肩口辺りで不揃いに切り揃えた襟足を気にしながら、何でもなさそうに答えた。
「ちょっと考えたらわかるさ。新城さんと御影くん釣り合ってないだろ? そんな裏でもなきゃ相手しないって」
「……!」
要の言葉で場の雰囲気は一気に険悪になった。夕子を含めた馨と仲のいい四人が立ち上がる。
気にした風もなく、要は言った。
「ワタシは興味ないと言えば嘘になるけど、その件に関してアンタらは口固そうだし、葛城みたく空気読めない――」
夕子の携帯が鳴った。
一触即発の空気の中、夕子は舌打ちしてポケットのスマホを取り出した。
「……カオルさんだ」
要が笑った。
「いいタイミングじゃん。アンタ、聞いてみな。御影くん、幾らですかって」
「……」
言いたいことは山ほどあったが、今は馨からの着信が優先だ。夕子は一際強い視線を飛ばして、それから電話に出る。
「カオルさん?」
沈黙は一瞬。
すぐ通話を終わらせたかと思うと、夕子は困惑した表情になった。
「ヤバい。なんかあった。すぐ部室に来いって……」
「って、瞳子いるじゃん」
「知らねーけど、声が、ちょっと前までのカオルさんだった……」
「……」
夕子の言葉に、要たち3人を除いた4人の顔色が急に悪くなった。
「スクランブル(緊急)……?」
夕子は半泣きで首を振る。
「分かんないけど、多分。取り合えず、あたしは行くけど皆は暫く待機で心の準備だけしといて……」
「……」
馨の取り巻き4人は無言で皆それぞれ苦い表情で頷き。
「……?」
事情を知らない要たちは不可思議な表情だった。
◇◇
他の4人と別れた夕子は部室へ向けて急いだ。
校舎裏から旧陸上部の部室まではそんなに遠くない。歩いても3分といったところだ。目的地が見えて来て――
遠目に、馨が一人の女生徒の髪を引っ掴んだまま、部室内に蹴り込む姿が見えた。
特に後輩の面倒見がよい馨だが、元は短気で非常に怒りっぽい。事が荒事に及ぶとその本性が剥き出しになる。
単純に腕力だけが売りの落ちこぼれなら、新城馨の周辺はもっと騒がしいはずだ。短所がそれだけなら、見られる顔をしている以上、放っておかない男なんかもいただろう。
「新城先輩を女扱い出来るの、ラグビー部のゴリラ野郎くらいなんじゃない?」
というのが瞳子の意見だが、実際連れて来たのはアレだ。
御影悠希。
思えば、先の夕子たちの会話の中心はあの少年だった。昨日も一昨日もそうだった気がする。あの葉桐要も『気にならないと言えば嘘になる』と言っていた。
逃れられない大きなうねりのようなものを感じ、夕子はその場に立ち尽くした。
『部室』の中から大きな物音がして、馨の怒号に混じり悲鳴のようなものまで聞こえて来る。
「うう……」
夕子は呻いた。
馨や仲間たちから、どんな目に遭わされるか分からないが、逃げるならここが最後の機会になる。
夕子は強く首を振る。
御影悠希は不吉だが、新城馨はそれ以上に恐ろしい。
腹を括ったのと同時に扉が開いた。
「――瞳子!!」
出て来たのは葛城瞳子だ。羽交い締めするようにして茶髪の女生徒を抱え、転がるようにして部室から飛び出して来る。
叫ぶように言った。
「C作、手伝え!」
「手伝うって何を!? 何があったんだよ!!」
「見たら分かるだろ!? 新城先輩は御影さんが抑えてるから今のうちに――」
そこで、瞳子は途方に暮れたように黙り込んだ。
力の抜けた腕から離れた女子生徒が地面に倒れ込む。
「……」
夕子も黙り込んだ。
馨の『いつもの』やり口なら、この茶髪は拉致って全裸に剥いて私刑といったところだ。
新城馨は元『B級特待生』だ。バレーボールをやっていた頃なら、この程度のヤンチャは学校が何とかしただろう。実際、去年までは何とかしていた。だからこそ、新城馨は未だに高校生をやっていられるのだ。
特別待遇の者が甘やかされ、それ故に増長して問題児になるケースは珍しくない。馨はその典型だった。
姉御肌で確かに頼り甲斐はある。しかしその反面で怒り出すと止まる所を知らない。バレーボールのない新城馨はゴミクズだ。簡単に捨てられない分、本物のゴミより余計にたちが悪い。葛城瞳子も、佐藤夕子も、本当にそれをよく知っていた。
◇◇
◇◇
◇◇
――校舎裏――
夕子と瞳子を含めた馨の取り巻き4人。計6人は途方に暮れていた。
誰かが言った。
「……こいつ、どうすんの?」
目の前に、馨に張り倒された茶髪の女子生徒が転がっている。吉河瑞希という名前があったのだけれど、この場の誰もそれを知らない。顔は知っているという程度。
「……『いつもの』やんのかな……」
瞳子は力なく首を振った。
「それはヤバい。さっきからコイツ、目ぇ覚まさないし、このままじゃまずい」
誰かが言った。
「……御影さんに入ってもらおうよ。あの人の言うことなら……」
夕子は尤もそうに頷いて、それから大きな溜め息を吐き出した。
「御影さんなら、カオルさんとヤッてる。声が聞こえて来たから、コイツここまで連れて来たんだよ」
その言葉に、周囲の面々は泣き出しそうな顔になった。
疲れたように瞳子が言った。
「……新城先輩抑えてもらってるだけ御の字だし。御影さん巻き込むの、あたしは反対……」
御影悠希は一般生徒だ。しかもどちらかというと優等生の部類に入る彼のことを前面に押し出すのは躊躇われる。
「じゃ、どうすんの? コイツ、このままだったらマズイんじゃね?」
気絶したままの吉河は、この短時間の間に顔が倍近くまで腫れ上がっており、左耳の孔から出血している。
――死ぬかもしれない。
ピンポン玉のように弾け飛ぶ吉河の姿を直に見た瞳子は、険しい表情でその言葉を飲み込んだ。
「先公に突き出す」
口を開いたのは葉桐要だ。
良くも悪くも瞳子たちは強力なリーダーである馨の存在を欠き、纏まりに欠けている。
要は続ける。
「新城さん、やり過ぎたね」
身長185cmを超える馨は、女子とはいえその腕力は超高校級だ。
シャギーの入った前髪をかき上げ、要は眉をひそめる。
「リスクの問題さ。コイツが万が一にも死んじまったり、障害が残るような怪我ならまずい。新城さんを怒らせるよりよっぽどね」
瞳子は激しく舌打ちした。
「葉桐、なんでオマエがいるんだよ。すっこんでろ。それとも、オマエは責任取れるのか? あぁ?」
要は鼻を鳴らした。
「ああ、ワタシが責任取るよ。新城さんには葉桐がやったって言いな」
「……!」
堂々とした宣言に、周囲はグッと引き下がる。
――皆、ホッとしてしまったのだ。
それが原因で馨が退学になってしまっても、葉桐要が責任を取るから大丈夫だと。
その心理を見越して、要は嘲笑った。
内心で呟いた。
(そんなことだから、お前ら全員ザコなんだよ)
要は顎で吉河を指し、背後で顔色を青くしていた1年生二人に命令した。
「ソイツの持ち物、浚(さら)え」
「……」
瞳子は苦虫を噛み潰したような表情だった。
◇◇
◇◇
◇◇
青ざめた表情の下級生二人が、吉河瑞希の所持品を浚っている。要は煙草をくわえ、その様子を横目に見つめる。
「財布に名前が分かるモノあるだろ?」
下級生の一人が財布を抜き出し、そこから学生証らしきカードを取り出す。
「……吉河瑞希」
要は頷いた。
「それ押さえといて」
続いて出てきたのは携帯電話だ。手酷く扱われたのか、画面部分が割れ砕け、油っぽい液体が滲み出している。
「貸して」
要はくわえ煙草のまま、吉河の壊れたスマホを受け取ると、手早くSDカードを抜き出して自分のスマホに差し込む。
「なんかあるかね……」
『動画』が始まる。
◇◇
誰にも知られたくない秘密というものがある。
要は、がりがりと額部分をかき毟りながら、『秘密』を食い入るように見つめる。
――すげー、ケン〇ロウみてーだ――
全く面白くなかったが、要は声を上げて笑った。
本格的にムカついた。
この瞬間まで、御影悠希は可愛い小動物。愛想なし。幸薄い感じがちょっぴり気にかかる少年。年上と知ったときは驚きに言葉もなかった。
「おい、葉桐。どうした?」
葛城瞳子が何か言っているが、言葉が遠い。
要はガリガリと額をかき毟りながら、瞳子にスマホを押し付けた。
ここより、永遠のはじまり。
訝しむような表情をした瞳子が、再び『動画』を再生する。
「……ぅ」
と瞳子が呻く。
黒曜石のどんくりまなこが見る見るうちに涙で潤み、眦に筋が伝う。
ここより、永遠のはじまり。
皆、驚いてスマホのスクリーンを覗き込む。
誰かが苛立ちに唾を吐き捨てる。
誰かが苛立ちに激しく舌打ちする。
誰も笑わない。
ここより――
永遠のはじまり。