ここ数日、リリアは頭を抱えていることが多い。隙がないならどうすればいいのかと、うんうん唸っているわけだ。寝室のベッドの上で。寝室から出ようとすればなぜか周りに止められてしまうし、トイレに行くのにも三姉妹が後ろに並ぶ。監視と言ってもいい状況では、いい案もなにも浮かぶことはなく、一日が過ぎていくわけだ。窮屈な一日が。
憂鬱な気分になりながらも、リリア自身は城に連れてこられて二日ほど経ってからようやくマルカとジルノの存在を認識し、「エンディスになにもされてないか?」と開口一番問うた。肩を掴みながら。返ってきた言葉は「なにもされていませんよ」であり、ユーイと違いはなく、なら問題がないかと判断した。友人にあんなことをされては気が滅入る。なにもないのならそれが一番だ。三姉妹は誰もが可愛らしいし、エンディス以外なら放っておかないだろうとは思うが。
家族の手前おとなしくしているだけであるのだが、エンディスはそれを見越しているのか、執拗に夜を求めてきた。今日も今日とてベッドに縫いつけられ、昂りを埋められる。背後から。
「ん、ん……! んぅっ!」
涙に濡れた顔を枕に埋めて堪えるリリアのうなじからは、汗が流れ落ちていく。舐め取る舌に躯を跳ねさせながら、リリアは「んぅ……」と小さく息を吐きつつ眉を顰めた。
「顔を埋めていいと言った覚えはないぞ」
「見るな……っ」
嫌だと頭を振るが、呆気なく顎を取られてしまう。この体勢では骨が悲鳴をあげるだけだが、エンディスは離そうとしなかった。耳朶に唇を寄せ、「俺しか見ていないだろ」と囁く。
「それが嫌だって、言ってるんだよっ」
嫌いな男に泣き顔を晒すなんて気持ちが悪い。リリアがとぎれとぎれにそう言えば、エンディスは口端を上げてから手を離す。かと思えば、腰に添え直して、強く打ちつけていく。
「ひっ、あ、あ……っ!」
「その嫌いな男に抱かれても、声を上げるんだな」
「これは、っ、生理現象なんだよ……っ、突かれりゃ声が出るだろっ、決して、気持ちいいからじゃ、ないからっ」
響く水音に混じる声は弱々しいが、それでも本音は言えた。リリアは勝ち誇ったように口元を緩ませる。
「戯れ言は聞き飽きた」
「戯れ言って、いま初めて――!」
いま初めて言ったというのに、戯れ言扱いとはどういうことか。そう声を上げようにも、躯を反転させられて唇を塞がれてしまう。喉の奥に引っかかったままの言葉は飲み込むしかなく、エンディスの腰使いに翻弄されていく。
「ん、んっ……!」
目の前に光る灰色の瞳からは熱が引くことはない。「リリア」と紡がれる声も、穿つ昂りも、抱かれる度に熱が増えているような感覚さえある。どうしてなのかと疑問が湧くが、いつもそれは頭の片隅に追いやられてしまう。快楽によって。
「――リリア、なにを考えているかは知らないが、お前は俺だけを考えろ」
口づけの合間に掠れた声でそう紡がれる言葉に、リリアは息を飲む。やはりこの男は自分の考えを読んでいるのか。これは付き合いが長かった弊害だろう。
「誰が、考えるかっ、変態王子のこと、なんて」
「変態王子と呼ばれる者などどこにもいないぞ」
悪態を吐いたリリアはその後、朝までエンディスに狂わされたのは言うまでもない。
□
昼過ぎに目覚めたそのとき、様子を見に来たであろう男にリリアは迫った。というよりは、引き寄せたのだ。胸倉を掴んで。寝起きで巧く働かない頭でも、微睡みのなかで巡らせた考えを口に出す。逃げないようにと、腕にしがみつきつつ。
「してもらうだけなのはオレには合わない」
恭しくされるのはむず痒くなる。それに、
紡がれる言葉にエンディスは眉根を寄せたが、リリアは見ないふりをして続けていく。
「する側で過ごしてきたから、される側は慣れないんだ。だから、使用人にさせてくれ」
「働く必要はない。直に慣れるからな」
一蹴されてもリリアは粘る。なんとかしようとして。
「働かせてくれるなら、夜もちゃんとする」
「脅しか、それは」
「違う、お願いだ」
「俺から逃げないのなら好きにしろと言いたいが――」
絡まる腕を引き剥がしつつも、引き寄せて腕のなかに捕らえた。刹那、嫌そうに顔を顰めるが、それも一興だ。リリアはどんな顔をしても意味がない。その可愛さを引き立てるだけにすぎないのだから。
「一度逃げたのだから、信用ならんな。願いを叶えたいのであれば、それなりの誠意を見せてもらおうか」
「署名しただろ」
「破り捨てようと考えていたのは誰だ?」
「それは……っ」
反論できない悔しさに噛みしめたであろう唇を親指の腹で撫でたエンディスは、「キスをしろ」と放った。懇願ではなく、命令。その違いにまた唇を強く噛んだリリアだが、やがて諦めたように嘆息を吐く。もちろん、睨みながら。
「キスをしたら……、働かせてくれるのか?」
「考えてやらないこともないだけだ」
「するだけ損だろ、そんなの」
「損かどうかは俺が決める。お前がベッドと仲よくなりたいと言うのならそうしてやるが、どうするんだ?」
密着する躯ごと押し倒されてしまえば抵抗はできなかった。「おわっ!?」と驚くしかない。
「『ベッドと仲よく』ってこういうことかよっ」
「ほかになにがある」とほくそ笑む顔は実に憎らしい。顔がいいのも認めるしかないのも嫌だ。王族はみんな顔がいいと言われているが、遺伝子の働きがおかしいのかもしれない。たとえ顔がいい者同士でも、顔がいい子が生まれるわけではないというのに。
抵抗を示すようにリリアは顔を逸らすが、伸びた手が元の位置に戻した。鼻先が触れるか触れないかギリギリの位置にエンディスの顔がある。目を細めたその顔が。
「焦らした罰があるが、それはあとだ。いまは選ばせてやろう。抱かれるか貪られるか、お前はどちらを選ぶんだ?」
「抱かれるのも貪られるのも同じだろうが」
「そうだな、ゆえに選択はひとつしかない」
「お前は数時間前までなにをしていたか、胸に手を当てて考えてみろ」
「リリアが言うのなら、考えてやろう」と胸に手が添わされる。ただし、エンディス自身のではなく、リリアの胸に。
「な、なにをっ……」
「胸に手を当てているだろ」
「ふざけんなっ」
「ふざけているのは自分の方だとは思わないんだな。焦らせば焦らすほど、逆に追い詰められるだけだぞ」
肩を竦めながらの忠告に対し、怒りに震えていたリリアは「くそー……」と不満げな声を漏らす。唇を尖らせて。
「これが最後だ、リリア。俺にキスをしろ」
「これ以上は待てん。どうなろうと責任も持たん」という悪魔の呟きに、慌てて手を伸ばし、頬に唇を押し当てた。「場所の指定はなかったからな!」と
「まあ、いい。言うとおりだからな。リリアがそこまで働きたいというのなら、願いを叶えてやろう。ただし、こちらにも時間がいるのは解るな?」
「それはもちろん」
「早くて二日後、遅くても三日後、か……? いや、俺ではどこまで時間がかかるのかは解らんが、許可を出すまではおとなしくしていろ。夜の方は今日からでもかまわんぞ」
リリアを解放した男は一度顎に手を添えて考える素振りをしたが、すぐに離して引き起こした。乱れた髪を手櫛で直すことも忘れない。
「なにが『今日からでもかまわん』だ。ひとこと多いんだよ。でも、とりあえずは礼を言っとくからな。ありがとう」
謝辞からの手の払い落としは見事だとしか言いようがない。髪に触れることに成功した者にとっては非情なことだ。その証拠に、「まだ途中だ」と不満げな声が紡がれる。
「自分で直せるから触るな」
「俺のものだという自覚が足りないようだな」
顎を取られて上向かせられるが、リリアは「近い」と腕を突っ張った。
「自覚はあるからなにも心配しなくていい。止めないと流されるから止めてるんだよ。流されるのなんて嫌だからなっ」
尖らせる唇を塞いだあと、エンディスは「キスに免じてなかったことにしてやる」とベッドから下りた。「いきなりすんな!」と吠えるリリアに、「なんだ、いきなりでないならいいのか?」と口端を上げる。
「そんなわけないだろっ! なんでそうなるんだよっ」
リリアは怒りに顔を染めたまま、手近にあった枕を投げる。が、今度は命中することなく掴まれ、投げ返されてしまう。
「同じ手が使えると思ったか?」
「残念だったな。ただでさえリリアの考えは解るんだ」と吐き捨てられた言葉に、「うるせえよ!」と枕をドアへと投げつけた。エンディスによって閉められたドアへと。
次は感謝などするものか。
リリアは床に転がる枕をそのままに、ベッドに寝転がった。「あのくそ王子」と罵りながら。
□
リリア用の制服が用意されたのは、それから二日後である。早いか遅いかの判断は難しいが、働けるのならなにも言うまい。長い髪はひとつに結われ、エンディスと同じように肩に垂らす。動きやすいのはいいなと上機嫌で袖を通して気がついたが、自分が身に纏っているものはほかの者とは違うようだった。
ユーイたちの止める声を聞くことはなく、ノックもなしに執務室のドアを勢いよく開けたのは、憤りのお蔭だろう。
「どういうことだ、これは!」
なにも言うまいと思ったのだが、衝撃が『なにも言うまい』を打ち砕いた。この目立つメイド服がいけないのだ。荒らげた声に顔を上げ、視線が合えば顔を歪ませる。エンディスはそのままリリアを眺め、「なにが不満だ?」と問うた。
「オレだけデザインが違うのはどうしてなんだ!」
「俺の趣味だ。文句があるのなら脱げ」
「ぬ……っ!?」
「昼間に抱くのも悪くはないだろう。脱げないのなら文句を言うな」
頬を染めて固まるリリアは目を泳がせている。なにか変なこと――おそらくはそういうことだろう――を考えているのが手に取るように解り、エンディスはふっと小さく笑う。そういうところが嗜虐心を煽るのだが、リリアは解っていないのだ。
「そっ、そういうことじゃなくてっ、オレだけ目立つのは嫌だって言いたいの!」
「なら、ユーイたちに予備を着せれば問題ないだろう。着替えてこい」
リリアの背後に佇む侍従に視線を遣るが、当の彼女たちは「ですが……」と困惑ぎみである。しかし、リリアの方は「そうか! その手があったか」と手を打ちながら歓喜しつつ、「ユーイたちなら似合うから大丈夫だよなー」とにこにこ笑っていた。同じ服を着ることにどんな意味合いがあるのか知らないだろうリリアの笑顔に負けた侍従たちは、「リリア様が仰るのなら」と踵を返す。「様はいらないって言ってるだろー!」と叫ぶ声を聞きながら。
ふたりきりになれば、さっそく「リリア」と腕を引かれ、覗く胸の谷間――胸元に顔を埋められる。肩出しのデザインのメイド服は、情欲をそそるだけなのだから。
躯を捩る間に左胸から走る痛みに顔を青くさせたリリアは、「おいっ!」と引き剥がそうと必死だった。しるしが濃くなるのは嫌だとして。
「エンディスっ」
「なんだ?」
「これ以上濃いのは見た目に悪いだろ?」
「悪かろうがなにも問題はない」
「ある……っ! 問題がありすぎて困るんだからなっ……」
続けられる行為に酔いしれてはいけない。頭ではそう理解しているというのに、抵抗しようにも与えられる甘さが拒んでいる。どちらのものかも解らなくなるほど、熱を帯びた吐息が生々しい。たった二日ほど恋人のような甘ったるい雰囲気で抱かれていただけだというのに――たった二日、愛を囁かれただけだというのに、思い出してしまうのだ。その甘さを。その言葉を。躯の奥で燻る熱がうごめく気配がする。
「人の話を聞けって、ば」
「聞いている」
「んっ、し、視線がっ、胸元に、くるから」
「やめてほしい――と?」
涙を溜めながら大きく頷くリリアの背中から腕を外し、「ティータイムだ」と立ち上がる。「文句はないな、リリア」と手指を握りしめたが、リリア自身は手を払うこともなく「……ない……」と力なく言った。上気した顔がほっとしたように弛緩する姿はこの上なく扇情的だ。貪りたくなる熱を
「言っておくが、お前がごねようとその服以外は認めんからな」
「変態王子」
「押し倒されたいのか」
「嫌だね」と舌を出しつつ、今度こそ腕を払って逃れたリリアはソファーの端に腰を下ろし、胸元を隠すように両膝を立てる。靴を脱いでから。その座り方の知識をどこで得たかは知らないが、ほうと息を吐く姿はなんという色気を放っているのだろうか。エンディスの方も額を押さえて息を吐いた。湧き上がる情欲を押さえきれる自信がないと、嘲笑しながら。
□
外で待機をしている侍従に声をかけ、ティーセットと木苺のジャム、ジャムを分ける小皿を運ばせる。それらは一目で高いものだと解るほどに、側面に描かれた薔薇の紋章が味を出している。エンディスに与えられた薔薇の紋章が。つまりこのティーセットは、専用のものだ。ほかの手が入ることは許されていない。
慣れた手つきで準備を整える間にも座り方を注意され、割り膝――楽な姿勢に直したリリアは目を瞬いた。不思議そうに。
「いまも自分でやってるのか?」
「ああ、自分で淹れた方が早いからな」
おそらくは予め温められていたであろうカップに紅茶が注がれていく。ティースプーンで掬った木苺のジャムが小皿に移されたあと、「先に飲め」と目の前に置かれる。
「エンディスが淹れた紅茶はうまいよな」
「俺は見よう見まねで淹れているだけだ。うまいのは茶葉のお蔭だろうよ」
「そういうことにしておくよ」
ぶっきらぼうに答える姿に自然と口元を緩ませつつ、ジャムを舐めながら紅茶を飲む。酸っぱさが残る木苺のジャムと紅茶とが合わさって新たな味を生み出している。やっぱりうまいなと、また口元が緩んだ。クッキーを片手に無言でちびちび飲んでいれば、ドアが開いて三姉妹が顔を出す。
「着替えが終わりました」
「おー、似合ってるなあ」
カップを置いて、すぐさま羞恥でもじもじしている三人に近づき、リリアは満足そうに何度も頷く。やはり転成させられた自分ではなく、本物の女の子が着る方が映えると、そう確信しながら。
「わたしたちよりも、リリア様の方がお似合いですよ」
「だから様はいらないって」
「そういうわけにはいきません」
苦笑いするマルカにどうしたものかと思案するが、少ししてから「あ!」と手を叩く。リリアはエンディスと三姉妹を交互に見遣り、「こうやってみんなといるときだけでいいからやめられないか? 敬称をつけられると肩が凝るんだよねー」と進言する。リリアとしても、くだけた喋りはエンディスの前だけであり、ほかの王族の前ではきちんと分を弁えている。平民であるのだ、ほかでもなく。その生まれも地位も変わらない。なにがそうさせるのかはいまいち解らないが、そんな自分が『様』と呼ばれるなど、おこがましいではないか。
「エンディスに言われてるんだろうけどさ、オレはオレでしかないから」
「存じております」と答えるが、三人は頑なだ。痺れを切らしたのか、それとも気持ちが折れそうなのか、リリアは涙ぐみながら「三人とも~」と懇願するような声を出した。エンディスはそんなリリアを引き寄せつつも、「リリアの気の済むようにさせてやれ」と添えることを忘れない。忠言を耳にした三人は目を合わせ、小さく頷いた。
「では、お言葉に甘えさせていただきますね。――ここにいるみんなの前でしか崩さないからね、リリア」
「リリ姉は強情すぎー」
「そうだよー! 無理だって言ってるのに、リリ姉はいっつも様づけやめろしか言わないしさあー」
最後にケラケラ笑うジルノに対し、リリアは「いつもじゃないだろっ」と拗ねたように顔を逸らした。ただ、この温かな雰囲気を失いたくないだけだ。三姉妹が一緒にいるというだけで、息が詰まる日々もどうにかなっていたのだから。
「――リリア、お前の瞳に映すのは壁ではなく俺だ」
エンディスによって顔を戻された刹那、唇を貪られ、躯から力が抜けそうになる。やはりこの男と一緒にいては、身が持たないだろう。
ユーイたちはさすがにこういうことに慣れているのか、すぐさま後ろを向いてくれたが、声は届く距離だ。その羞恥に、リリアは全身を赤く染めてしまう。
「おまっ……、ほんと、ふざけ、な……」
乱れた息を整える間にも、エンディスは額や瞼、頬に唇を落としてくる。やめるようにと何度頭を振ろうとも。
「リリア、お前は俺の侍女だ。俺だけの世話をするメイドだ。そのつもりで許可をだしたのだから、いまさら抵抗などするな。リリアが嫌だと言うのなら、この話しは潰れるだけだぞ」
冷めた声はリリアの鼓膜を抉る。甘んじて受け入れても、嫌だと拒絶をしても、リリアにはなにもいいことがない。どちらにせよ、エンディスからは逃げられないようだ。それでも、リリアは勝ち取った使用人を取る。寝室に閉じ込められるよりかはいいだろうという考えで。もちろん、自由に動き回れることを信じてだが。
「嫌だなんて、誰が言ったよ」
「やる気があるのはいいことだな」
目を細めるエンディスはリリアを引きずるようにして机に向かう。視界に映る引き出しにはあの契約書もあったが、エンディスが手にしたのはその横に置かれた腕飾りのようである。
「俺を不安にさせた罰を受けてもらおう」
「そ、それって……、もしかして……」
「ご名答。そのとおりだ」
金装飾の腕飾りをリリアの顔の前に翳したエンディスは、口角を上げていた。わざわざ薔薇の紋章が彫られていることから察するに、商人かなにかから贈られたものなのだろう。この腕飾りは。服装の一部になり得るような作りであるが、これが『契約の腕輪』であるのなら、身につけたが最後だ。
リリアたちは噂でしか聞いたことがないが、強い主従を望む者のために職人の手により作られたというそれは、いまや『契約』とは名ばかりであった。誰が考えたのかは知らないが、自由を奪う目的で使用されていたのだから。王族や連なる貴族の悪趣味によって。
「ユーイたちには使ってないだろ……?」
「使う必要はないからな」
「オレにだって必要ないと思うんですが」
「署名したし」との震えた言葉は、重なる唇に溶けていく。甘く痺れる感覚を残していく深い口づけに、リリアは生理的な涙を浮かべていた。絡む舌は熱いというのに、頭の方は冴えていくようだ。
自分だけどうしてこんなに扱いが違うのだろうか。逃げたことを根に持ちすぎやしないか。家族を盾にされてしまえば、逃げる気など失せたというのに。
署名のほかになにを必要とするのだろうか。この男は、躯中につけた赤いしるし以外にも見せつけたいのだろうか。
舌先を繋ぐ糸が切れた瞬間、残る感覚を消し去るように唇を拭うが、手首には腕飾りが光っていた。リリアは目を見張り、呆ける。もちろん、反対側にもきちんと装着されており、なんの抜かりもないと言えよう。
「お前、いつの間に……っ」
「簡単な話だ。夢中になる間は隙だらけだからな」
「夢中なわけないだろ!」
机の角で叩き割ってやろうかと腕を振り上げた先、「うあっ!?」と驚きの声が上がる。腕飾り同士がくっついたことにより。どうやら『自由を奪う』とはこういうことらしい。魔道具を使われてしまえば、魔力が劣る平民には勝ち目などない。壊す術など持ち合わせていないのだから。
ひとつに纏められた手首を取られ、背後から覆い被さるようにして縫いつけられる。体勢を崩すよりも前に。机上に整えられていた書類が散らばらないのは、そういう魔法をかけられたあとなのだろう。リリアはわずかに腰を引こうとするが、体重をかけられてしまい叶わなかった。これでは、肩越しに振り返ることもできやしない。
「ぐ……っ、重いっ」
「ほかの人間に靡くことは許さない。お前は俺のものだ。もしもほかの人間に好意を寄せたことが解れば、お前を殺して俺も死ぬ。――覚えておけ」
囁かれる言葉は身勝手なことばかりだ。『二度と失わない』と言っておきながらも、結局は脅しにくるのか。その唇で。
離されたリリアは肘でもって二回りほど大きな躯を押し退け、湧き上がる怒りをぶつけていく。溜まった涙が頬に伝わるのもかまわずに。
「誰が覚えるかっ!」
そう叫んだあと、大股でテーブルへと向かい、飲みかけの紅茶を喉に流し込む。飲みかけはいけないという親の教えは、ここで遺憾なく発揮された。「ごちそうさま!」と空になったティーカップを近づくエンディスへと押しつけつつ、「オレはお前になんか、落ちないからな」と唸るような声とともに睨んで翻った。あとをついていった侍従たち――最後にユーイの手によって閉められたドアを眺め、エンディスは目を細める。ほのかに温かいティーカップを口元に添わせて。リリアが口をつけた箇所に対して、自身の唇を押し当てるのは当然の流れであろう。
「リリアは落ちる落ちないで考えているのか」
そういう問題ではないんだがな。
そう小さく漏らされた声は笑いを含んでいる。
これは単純な話だ。『落ちても落ちなくとも、リリアを離す気はない』というとても単純なことである。リリアの意思など関係なく、自分の世界に閉じ込めるつもりなのだ。――そう、意思は関係ない。気持ちの方はあとでいくらでも追いつくだろう。
なにせ自分たちは、創造神の元に導かれるようにして引き合わせられたのだから。