※この作品はR-18です。

リリアの復讐   作:白千ロク(玄川ロク)

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第 5 話

 悩む日々は悩んだだけ過ぎていったが、今日という日はどんな日になるのだろうか。胸の痛みが走るのか。泣きたくなるのか。押し潰されそうな感情が渦巻くのか。増した恋心がさらに膨らむのか――。

 

 もしやこれは、この世界を創造したとされる女神・エーレスが導いたことなのだろうかと考えたこともある。しかし、エーレスは慈愛の神だ。慈しむ神の導きでは質が悪すぎる。信仰心は忘れていないが、その考えははやばやと破棄していた。

 

 相も変わらず気分が晴れそうにもないが、それでもするべきことをするために重い躯を動かさなければならない。どうにかこうにかして。そして、やはりと言うべきか、朝はエンディスがいないことから始まるようだ。

 

 優雅に流れていた曲が止まると、すぐさま手が離れていく。肩からも、指先からも、呆気ないほどにすばやく。温もりが離れた切なさに胸がしめつけられるが、リリアは振り払うように身形を直した。といっても、なんとなしに胸元を払っているだけであるが。その間、ユーイには「動かないでください」と額に滲んだ汗を拭われている。エンディスの方はといえば、マルカにタオルを手渡されているところであった。

 

 「ありがとう、もういいよ」との言葉に手が離されれば、エンディスの視線が逸らされる。ユーイを眺めていたであろう熱い眼差しが。

 

「今日はここまでだ。リリアは部屋に戻る前にやるべきことをやれ」

「やるべきことってなんだよ?」

「着いたら解る」

 

 滲んだ汗を乱暴気味に拭ったタオルを投げ寄越されるが難なく受け止めつつ、リリアは疑問を口にした。しかし、返ってきた言葉はなんともそっけないものである。

 

 態度を変えてはあからさまで怪しく見えると、なんら変わらずに接しようと努力しているが、本当になにも変わっていないのかは解らない。いままでどうしていたのか解らなくなってしまったのだから。

 

 片づけ――物を端に寄せるだけだが――を終えればそれぞれに背中を向け、エンディスは執務室に向かい、リリアの方はユーイに手を引かれていた。その後ろを洗濯籠を片手に抱える双子――籠はジルノが手にしていた――が固めている。やがてとある部屋の前で立ち止まり、「こちらですよ」とユーイは空いている方の手でドアを開けた。視界に広がるのは、巻き尺を手にした三人の使用人(メイド)である。その奥には腰の位置であろうテーブルがふたつ並んで見えた。

 

「な、なに……?」

 

 にじり寄るメイドの気迫に怯むリリアは引きずられるようにして部屋へと足を踏み入れる。並べられたテーブルの両端――ちょうどテーブルひとつ分ほどずらされた位置――にある大きな窓からは、たっぷりと日差しが入っていた。さきほどまでいた広間よりも狭く感じてしまうが、それなりの広さがあるだろう。なにせ王城であるのだから。

 

 ドアを閉めた女性が向き直れば、一度頭を下げた。「ご足労いただき感謝します」との言葉とともに。

 

「いまから採寸を始めますので、メイド服をお脱ぎください」

「採寸、ですか?」

「ええ、冬用のメイド服を作りますので」

「そうですか。脱ぐことに抵抗はないのですが、その、なんといいますか、脱いだあとが大変といいますか……」

「ご心配には及びませんよ」

「そういうことならば」

 

 笑顔を崩さないメイドの言葉に、リリアは慣れているのだろうと考え直した。着る順番とは逆に手をかけていく。肌着姿の前――脱いだ瞬間から息を飲む気配はしていたが、やはりこの躯はひどいもののようだ。

 

 なにせ、鬱血痕と言われなければ解らないほどにしるしが広がっている。首の後方――うなじから足の先にかけて。誰のものでもなく、誰かのものであることを知らしめるように。なにも知らない者にとっては、なにかの病気にしか見えないことだろう。

 

「やっぱり、見苦しい、ですよね……。すみません、変なものをお見せして」

「そんなことはありませんよ。少し驚いてしまっただけですから。エンディス様の激しい一面に」

 

 所在なさに反対側の二の腕を掴んでいたリリアの手がやんわりと外される。

 

「エンディス様はそれほどまでにリリア様を思っているのでしょうね。羨ましい限りです」

 

 それはあり得ないとの反論は喉の奥でつっかえていた。名前も知らないメイドの笑顔によって。そのまま飲み込むしかなく、言葉としては発せられずに終わる。柔らかな笑顔の前では、反論してはいけないような気がしたのだ。

 

 反論を苦笑いへと変えたリリアの手を離せば、彼女は「では、失礼して……」と、握っていた巻き尺を伸ばしていった。もちろん、目の色を変えて。どうやら仕事の状態に入ったようである。

 

 

    □

 

 

 手慣れた様子に感心していた採寸が終わったのは、時間にして三十分もしないうちであった。テーブルの上にある横長の用紙に書かれた文字も、自分とは比べられないほどにきれいだとふたたび感嘆する。

 

 採寸の間に解ったことだが、三人はエンディスの侍従らしい。当然のように驚きを隠せなかったが、曰く『私たちがいては邪魔ですので』ということであった。普段は王城の掃除やほかの侍従や使用人の応援、庭師による剪定・庭園の草むしりに手を貸しているようである。

 

 邪魔だと言ったが、果たしてそうなのだろうか。いくらエンディスが自分自身でなんでもできるといっても、必要なときがあるだろうに。そう思えば、それは違うなと、直感が騒ぐ。刹那、そうかとまた気がついた。最悪な事実に。

 

 ――もしかしなくとも、自分が『侍従』という立場を奪ってしまったというのか。

 

 そうであるのなら、なんてことをしてしまったのだろう。道理でエンディスが渋るはずだ。だが、いまさら感づいてどうするというのか。謝っても遅いほど、時間は過ぎてしまったというのに。

 

 なぜこうも気がついてしまうのだろう。鈍感なままでいたいとは思わないが、まさか自分が奪う側に回っていたなんて思いもよらなかった。

 

 自分のことばかりで、周りのことを考えないからそういうことになるのだろうか。やはりそれなりの学がなければ、王城での使用人は務まらないのだろうか。

 

 大きくなる不安と緊張で心臓が早鐘を打つなか、「では、メイド服を着てください」との声が響いた。

 

「メ、イド服……」

 

 自分にはこのメイド服を着る資格があるというのか――。

 

 震えだした躯には三人が三人とも反応する。「リリア様?」と声をかけるのは、一番近くにいたユーイだ。

 

「ああ……、大丈夫、だから」

 

 変わらないようにしなければならない。怪しまれては終わりだ。「言え」と言われて、吐き出してしまえば、混乱しか招かない。自分の思いは隠さなければならないのだ。視界が歪んでも、どんな状態であろうとも、バレないようにしなければ。

 

 畳まれたメイド服に手を伸ばしたそのとき、ドアが開かれた。「採寸はどうだ?」との声とともに。エンディスが部屋に訪れれば、女神の助けとばかりにメイド服を抱えてすばやく隅に逃げたリリアだが、着替えることなく会話に耳を傾けていた。

 

「終わりましたよ。これがリリア様のサイズになります」

「袖は腕飾りを考慮してゆったりめの素材にしたいんだが、いいのがあるか?」

「ゆったりめですか……? そうですね――……」

 

 いらないと作らなくていいと叫べないのは、口が乾くから。躯が震えるのは、奪い取ってしまったという覆らない事実があるから。涙が浮かぶのは、男だったときよりも涙腺が弱くなったことにもあるが、愚鈍な自分自身が腹立たしいから。いくら相手を思っていても、簡単に他人を蹴落とす自分など好かれるはずもないだろう。

 

 ――自分は『ここ』にいていい人間ではない。本来なら、王城に近づくことさえできない平民だ。しかも『第八区』の人間である。ひとつの立派な町であったとしても、言ってしまえば、王族の温情で生かされているような存在なのだ。そんな人間が第四王子たるエンディスの傍にいることは、彼の評判をも落としてしまうも同然だろう。

 

 身分違いの――身分が違いすぎる恋など、最初から叶うはずもない。いや、叶えてはいけないのだ。エンディスには相応しい人がいるのだから。もちろん、自分ではない人が。家柄や性格、その他もろもろ含んだ釣り合いのとれる多くの人が手を伸ばしている。そのなかから選び取ることができる立場なのだ。

 

 理解したその現実に、足元が崩れるような感覚があった。膝が折れる間際、腕を引かれたような気がする。

 

「窓を開けろ! 早く!」

 

 抱きしめられるような感覚のあと、背後から悲痛な叫び声が届く。どうやら横抱きにされたようで、見下ろす男の瞳とかち合った。混乱する頭でも、目の前の男は不調に気がついたのだと理解をするのにそう時間はかからない。

 

 なぜ自分ごときに膝を折るのか。なぜ自分ごときの躯を支えるのか。それこそ必要がないというのに、なぜだろう。どんな理由があるというのだろうか。

 

「リリア、俺が解るな?」

「うん、解るよ……。ちょっと、考えごとをしてただけ、だから」

「考えごとは顔色が悪いときにするものではないだろうよ。閉めきった部屋にいるからそうなるんだ、気をつけろ」

 

 誰が窓を開けたのか確認のしようがないが、部屋のなかへと吹き込む風が髪を靡かせる。ひとつに纏めた灰色の髪を。金装飾の髪飾りに彫られた薔薇の紋様が日差しに煌めいていることだろう。反して自身の髪は、横髪以外は風に乗らなかった。なぜなら、採寸のためにお団子型に結わえられたからである。

 

「……なに言ってるんだ。大丈夫、オレは、大丈夫、だから……」

「喋るな」

 

 起き上がろうとしたが肩口に顔を押さえつけられてしまい、一瞬、呼吸が止まる。「水を持ってこい」との命令を聞きながら、リリアは荒い呼吸をようやく察した。何度か新鮮な空気を取り込み、ほうと息を吐く。

 

「本当に大丈夫、だから」

「黙れ」

 

 さらに強く押さえつけられ、鼻の頭に痛みが走る。リリアが見上げた先には、眉を顰める顔しかない。不快ならさっさと離せばいいのに。しかしその言葉は、震える唇から紡がれることはなかった。頬にかかった横髪を払う指先の熱さに驚いてしまったから。意味が解らないと、落ち着いた思考がまた騒ぎだしていく。

 

「本当に大丈夫だから!」

 

 なにかに気がつく前に落ち着かなければ、また現実が降りかかる。重たい事実が。そんなのはごめんだと、振り払うように同じ言葉を叫んだリリアに対し、呆れたように嘆息を吐いたあと、エンディスは結わえられた髪に手を伸ばす。飲み込むように、手のひら全体でお団子を掴んでいた。

 

「なにが大丈夫なのか言ってみろ。顔色が悪いままだというのに、どこが大丈夫だ。大丈夫な根拠はなんなんだ」

「いたっ、ちょっ、痛いっての! ちょっと気分が悪くなっただけだろ! 着替えるから離せって」

「離す機会は俺が決める」

 

 お団子攻撃がいまだ止まないなかの囁き。と同時に、腕に込められた力の意味も考えなければならないらしい。どういうことだと考えに耽る間に、水差しやグラスを抱えたユーイたちが駆け込んできた。

 

「リリア! これお水、早く飲んでっ、早くっ」

 

 言うが早いか、水差しからグラスに注がれた中身は並々だ。口元に宛がわれる振動でこぼれ落ちるが、ユーイは「早く」とただそればかりである。自分の手が濡れようが。

 

「わ、解ったから落ち着いて――」

「これが落ち着けるもんですか! なんで早く言わないの!? リリアはおバカさんですか!?」

 

 ユーイの後ろから双子姉妹が「そうだよー!」と援護する。三人が三人、怒りを表しているであろう手振りが同じだった。横に広げた手を大きく上下させている。鳥の羽ばたきのような動きがリリアの不安を溶かしていき、やがてふっと笑みを浮かべさせた。エンディスには自分より、彼女が似合う。そう確信した笑みを。

 

「ごめん。心配かけさせたな。もう大丈夫だから、ありがとう」

 

 いまだユーイの手のなかにあるグラスを受け取れば、中身を飲み干してエンディスに視線を遣った。いまなお躯を支えるその男は不満げなままだが、「着替えるから」と半ば強引に引き剥がして部屋から追い出す。残りの侍従たちとともに。

 

 エンディス以外はそれはそれは驚いた顔をして「心配ですから」となんとか残ろうとしたのだが、「ひとりで大丈夫だから」とドアを閉めた。断ち切るように、勢いよく。言い含められてはいけないとして。気持ちを整理しなければならないのだ。心を鬼にしようとも。

 

 募る思いは言葉にはしないと決めた。ふたりの恋を応援することも誓う。いま、ここで。エーレス神に。

 

 それがいい。それしかない。自分は侍従に徹していればいい。『身代わり』だとしても、それはただの性欲処理だと思えばいいのだ。――思わなければならない。

 

 思い起こせば、自分自身が言ったはずだろう。『オレはお前になんか、落ちないからな』と。その言葉とおりにすればいいだけだ。壊れてしまった友情であっても、繋がりは『友人』のままで――。それでいい。

 

 叶えてはいけない恋の幕引きは、自分でも驚くほどに呆気なかったようだ。頬を濡らす涙はいまだけ。着替える間だけだ。

 

 もそもそとメイド服に身を包んだあとは涙を拭い、部屋にある姿見の前に立つ。たとえ着る資格がなくとも、いまはこうするしかないだろう。肌着のままではなにを言われるのか解らないのだから。涙のあとを隠すように袖口でふたたび拭けば、「よし」と小さく頷いた。大丈夫、自分ならできると、言い聞かせるように。そうして口角を上げ、笑顔の練習をする。怪しまれないように、繰り返し。

 

「着替え終えたなら終えたと言え。人を待たせるな」

「おわっ!? ななななっ、なんでっ!? おっ、驚かせるなよな!」

 

 突如響く声にリリアは躯を竦め、勢いよく振り返る。垣間見た姿見に映る姿は眉を寄せていたが、やはり本人も不機嫌そのままだ。壁に躯を預けつつ、腕を組んでいる。

 

「驚いたのはリリアの勝手だろう。なにをしているのかと思えば、笑顔の練習とは恐れ入るな。誰のためだ?」

 

 近づく男の空気は鋭利でしかない。冷ややかなそれは、日差しをも凍らせていきそうな気配を滲ませている。

 

「え、いや、誰かのためというわけじゃなくて――」

「言ったはずだ。ほかの人間に靡くことは許さない。お前は俺のものだ」

 

 返答の間に伸ばされる腕が目の前に迫ったかと思えば、姿見に押さえつけられてしまう。頭上で纏められたらしい手首からは痛みが走り、「痛いって」と顔を歪ませたリリアの耳元に、端然としたそれが寄せられる。思わずいつものように目を伏せれば、耳朶を軽く食まれたようだ。とたん、甘い痺れが躯を駆け抜け、「んんっ……」と上擦った吐息が漏れる。「リリア」という熱の籠る声とともに笑んだような気配がするが、おそらくは余裕の笑みであろう。

 

「もしもほかの人間に好意を寄せたことが解れば、お前を殺して俺も死ぬ。――そう言ったはずだ」

「へ、変な勘違いするなって! 自分のためにしてるだけなんだからなっ」

「……本当に自分のためか?」

「ほかになにがあるって言うんだよ。本当のことだから、信じてほしい」

 

 真意を悟られまいと疑うままのエンディスにおずおずと視線を遣れば、なぜか顔を逸らして舌を打つ。瞬間、「リリアが言うのなら、信じてやる」と手が離され、濡れたタオルが顔へと押しつけられた。いや、濡れたタオルではなく、いつも用意される蒸しタオルだ。

 

 まさかの驚きに「ふあっ!?」と高い声を上げたリリアを意に介さずに、エンディスは顔を拭いていく。呼ぶ手間も惜しむように、召喚魔法で召喚したタオルである。外に出されたあと、ユーイたちはどこかに走っていってしまい、戻ってきたらばこれを手にしていたというわけだ。正確には、トレーの上にみっつ乗せられていたのだが。熱すぎず冷たくもない温度は手にも顔にもちょうどよい。

 

「泣くほど気持ちが悪かったのなら早く言え」

「そんにゃことは……っ」

「言えないと言うのか? なにを遠慮することがあるんだ。俺のものであるリリアは、遠慮をする立場ではない」

「意味が、解らないからっ。も……、じ、自分でやるからっ、エンディスは、ユーイといろよ」

「それこそ意味が解らんな」

「いたっ……!」

 

 腕を掴もうとする手を払われたあとは軽く額を叩(はた)かれ、もう一度顔全体を拭かれたあと、最後に顎を撫でられた。

 

「これでいいだろう」

 

 満足そうな声とともに離れた手はしかし、後頭部へと伸ばされる。強引に唇を重ねるのかと身構えるが、なんのことはない。キスをされるどころか、お団子を崩しにかかっている。だが、片手では巧くいかないようで、タオルを床に投げ捨てて両手を使い始めた。そんなに気に入らないと言いたいのか。

 

「その髪型、気に入らないのか……?」

「そうだな。俺の手が入っていないというのは、どうも腹立たしい」

「でもこれ、ユーイがしてくれたんだぞ」

「それがどうした。採寸は終わったんだ、もう用はない。――ああ、ようやく外せたな」

 

 髪飾りの留め金が外れた瞬間、髪が舞いながら落ちていく。泣いているときも上に引っ張られるような感覚があったのだが、なくなるとものすごく楽なようだ。髪型に慣れてしまえば、どうということもないのかもしれないが。緊張から解けたように口元を緩ませれば、目の前の男は乱暴気味に腕を掴む。「いくぞ」とそうひとこと紡いで。たったそれだけのことだというのに、胸が張り裂けそうになっていることに気がついたリリアはスカートを握りしめ、息を吐いた。落ち着けと言い聞かせるために。皺ができようが、直す暇はない。

 

 ダメだと思いつつも、髪飾りをテーブルに置く姿も、ドアノブを握る手元も、しっかりと目が追いかけていた。一挙一動を逃すまいとして。廊下で待っていてくれたユーイたちに囲まれたあともそうだ。「大丈夫ですか?」との言葉には「大丈夫」とだけ返し、あとはひとり鑑賞会である。「エンディス様、それではまた」と挨拶を済ませた侍従たちは部屋へと戻っていったが、後片づけをするのだろう。自身がしなければならないというのに、申しわけなさが湧き上がる。だが、この手を振り払いたくはない。

 

 エーレス神に誓ったというのになんて情けないことかと、振り切るように空を眺めることにした。澄み渡る空を。これならばちゃっかり追うこともないし、心情も穏やかになる。思考も心もゼロにできたらどんなに楽になるだろうか。悩みがない人間などいないだろうが、いまは心からそう思う。

 

 胸の前で手を握るリリアを「リリア」と引き寄せたエンディスは、あろうことかそのまま担ぎ上げた。またもやまさかの展開に、リリアは目を丸めしかない。

 

「おおうっ!?」

「なにをのろのろ歩いているんだ、お前は」

「ええー! ちゃんと歩いてますけど! のろのろに見えるのは、オレとエンディスの歩幅が違うからだろっ」

「いいや、のろのろ歩いていた。いい加減、考えごとをしながら歩くのはやめろ。転けても知らんぞ。それはそうと、好みに変わりはないか?」

「転けたことはありませんけど――って、ちょっと待て。待て待て。いきなりなんの話だ?」

「男と女では脳の大きさが違うようだ。ゆえに、好みも異なるらしい」

 

 話の論点が解らずに首を傾げれば、エンディスは淡々と語り出す。つまり、男だったときと女になったときと好みが違うかどうかを聞きたいのだろう。目線だけで訴えるのは、傍にユーイたちがいるからか。

 

「変わってない、な」

「好みの色もか?」

「そうだな、変わってない。食べ物も、飲み物も、色も、そのままだ」

 

 好みや考え方はなにも変わってはいないようだが、顔つきや躯つきは変わりきってしまったし、心の方は言いたくもない。

 

 難しい顔をするリリアを一瞥した男は「そうか」と短く返しつつ担ぎ直し、寝室まで足を進めていく。ベッドへと下ろしたのち、「今日は休め。また倒れられるとめんどうだ」と頬を撫でてそんなことを紡いだ。

 

「めんどうごとを増やして悪かったな」

「そう拗ねるな。明日から昼は早めに切り上げるぞ。そのあとは好きにしろ。そうだな、書庫にでもいくといい。時間潰しには最適だろう」

「拗ねてないから!」

 

 「唇を尖らせておいてなにを言うか」と一蹴されるが、リリアは「拗、ね、て、な、いっ」と睨む。一瞬置いて、咳払いをするように喉を鳴らしたエンディスは、「解ったから睨むな」と頭を撫でて踵を返した。ドアが閉まると、ユーイが「ふふっ」と軽く笑う。

 

「エンディス様はリリアに甘いなあ」

 

 マルカとジルノは「ねー」と同意をするが、リリアだけはその声に答えることなくベッドへと横になった。そう見えるだけで、事実は違うことを知っている。ユーイがいるから、甘くならざるを得ないのだ。

 

 ――好きな人に嫌われたくないから。

 

 

    □

 

 

 エンディスが宣言したとおり、翌日から昼は早めに切り上げることとなった。夜会が近いからだろうか、王城全体が忙しなく感じる。

 

 昨夜はめんどうごとを避けたいがためだろうか、泣き腫らした目に置いてくれたタオルを替えただけで、指一本触れられることなく明けていったのだが、却って決意が萎んでしまったようだ。性欲処理に情はいらないという決意が。だが、諦めきれるまで何度も決意を新たにしようと考え直した。こうでもしないと諦められないから。

 

 タオルのお蔭か、目も腫れずにいた今日は、ジルノに書庫へと案内されたが、曰く『今日からは日替わりで案内させていただきます』らしい。エンディスの用もあるが、リリアをひとりにはしておけないという理由で日替わりに落ち着いたようだった。聞いてすぐさま「ひとりで大丈夫だ」と掛け合ったが、「倒れたらどうするんだ」と言われてしまえば引き下がるしかないだろう。

 

 ジルノの隣で本を開いていれば、「ジルノ、交代だよー」とマルカがやってきた。その後ろにはローブにつけられたフードを外したミスロクがおり、「やあ」という挨拶とともに軽く片手を上げている。日差しに輝いた金色の髪はとてもきれいだ。『ミスロク様が一緒なのはどうしてなのか』とリリアを代弁するようにジルノが訪ねていたが、マルカ曰く『途中で会いましたね。どうやらリリア様に用があるようなので連れて参りました』ということだった。リリアは「久しぶりだな」と返したが、半笑いだった。元凶はエンディスとミスロクのふたりなのだから。――それ以外の理由ももちろんあるのだが。

 

 寄宿舎時代に遡ってしまうが、ミスロクもエンディスとは違って顔がいいのでモテていた。そして、エンディスと対になるように物腰も柔らかく、ふたりがいればそれでいいと完結されており、リリアは一時劣等感を覚えていたのだ。いまもある意味で劣等感があるのだが、埋められないものはしかたがない。

 

「倒れたと聞いて心配していたんだ」

「それはどうも。どうせエンディスから話がいったんだろうけどさ、ちょっと倒れただけだからな。オレは元気だし、変わったことはないよ」

「本当に?」

「本当に」

「それならよかったよ。じゃあ、僕は戻るから。あんまり長くいるとエンディスが怒るからねー」

 

 意味ありげな笑みとともに「じゃあ、またね」と残して戻っていく背中が消えれば、リリアは恋愛小説に集中した。雑念を消し去るように。

 

 

    □

 

 

 諦めきれるまであと何日必要だろうか――。

 

 夜になってもそればかりを考えていたが、「リリア」との呼びかけにはっとする。揺れる瞳で男を見上げれば、「なにを考えていた?」と不満げな声で囁かれた。胸の高鳴りは引くことはなく、さらに増していくだけだ。どうしようもないくらい。

 

「なんでもない。なんでもないから」

「俺以外の誰を考える必要があると言うんだ」

 

 緩く頭を振れば、エンディスは眉を顰める。不機嫌をそのままに、今日は容赦がないらしい。熱を埋められた瞬間に深くなかを抉られる。

 

「あ、あっ! にゃれっ……! ん、あぁ……っ!」

「ほかの者を考えていた罰だ。お前は俺だけを考えろ」

「ほ、ほかの人なんて、考えてないっ! んぅ! やだぁ……!」

「確証がないだろう。口でならなんとでも言えるからな」

 

 キスの最中に弱いところを擦られ、リリアの躯は震え出す。首に回した腕は、とうに自由を奪われていた。爪を立てないように――傷つけないように握った手のひらに力が籠る。情はいらなくとも、この男を穢すことは許されない。たとえ、エンディス自身がなにを言おうとも。爪を立てろという掠れた声も、噛みついてもいいという荒い言葉も聞こえないふりをする。自分の気持ちに蓋をするために。

 

 唇を食まれる間、目を閉じては決意を固める。性欲処理に徹するように。一度巧くいけば、あとはどうとでもなるだろうから。

 

「あ、のなっ……、きょっ、今日は、エンディス、の、気が済むまで、していいぞ?」

「誘っているのか?」

「うん、誘ってる……。あんまり、色気とか、ないけど、な」

 

 甘さが残るなかでも囁いた瞬間、強く抱きしめられ、また唇が貪られていく。取り繕うだけの笑顔は見られてはいないだろう。

 

「誘われても我慢ができるほど、俺は人間ができていないんだ。ゆえに、どうなるかは知らんぞ。――誘ったのはリリアだということを、覚えておけ」

 

 「愛してやまないのはお前だけだ」という常套句の囁きとともに視界が変わる。覆い被さる男は、もう一度口づけから始めるのだ。軋む音を聞きながら、リリアは枕に顔を埋めた。エンディスは怒るだろうが、なにかを言ってしまうかもしれない危険を回避できるのなら、どうなってもいい。

 

 甘い夜に失言は似合わない。ただそれだけを思って。

 

 

    □

 

 

 日替わりになって三日目に、ようやくユーイの番となる。読みかけの恋愛小説は横に置き、「あのさ、ユーイ」と隣に向き直った。

 

「どうしたの?」

「ユーイはエンディスのことどう思ってるんだ?」

 

 推理小説から顔を上げたユーイは不思議そうにリリアを見ていたが、紡がれた言葉には「それは侍従としてか、それとも個人としてかどっち?」と答えた。

 

「両方で」

「そうねー、侍従としても、私個人としてもかっこいいと思うよ。目の保養にもなるし」

「まあ、王族だしなー」

「私のことはいいとして、リリアの方はどう思ってるの?」

「え、と……、オレは……、その……、うん、そうだな。ユーイと同じで、かっこいいと思う」

 

 ユーイとしても、リリアと同じように純粋な疑問なのだろう。どう言ったものか悩む間はしどろもどろであったが、ここは立場をはっきりしなければならないと、リリアは覚悟を決めるように小さく頷いた。

 

 男であったときも、自分にはないものをたくさん持っているエンディスに憧れがあった。憧れるなと言う方が難しいだろう。顔のよさに背の高さ、頭のできに運動神経のよさ、魔力の量や人を操る術など、数えきれないほどに人を惹きつける要素があるのだから。なにやら女神は王族にだけは二物も三物も与えているようだ。近くにいればいるほど敵わないと気がついたけれど、それでも憧れはいまだに残っていた。いまにして思えば、そんな理由から早くに落ちてしまったのだろう。

 

「――嘘」

「どういうこと?」

「リリアはそれだけじゃないよね?」

 

 なにを言うのかと言いたげに問えば、ユーイは秘めた恋心を見透かしているのだと言うように軽く笑う。「私はリリアには幸せになってほしいの」と紡いで。さすがは友人と言ったところか。

 

「オレだって、ユーイには、いや、ユーイたちには幸せになってもらいたいよ」

 

 嘘も偽りもない本心。小さなころから一緒にいた友人たちの幸せを、誰よりも願う。だからこそ、自分は身を引くことにしたのだ。

 

 「同じだね」と、ふたたび笑みをこぼしたユーイはジルノに「お姉ちゃん、交代」と呼ばれて「はーい」と席を立つ。ジルノの横を通りすぎる刹那、振り返ってこぼした言葉はリリアには届かなかった。

 

 ――そんなに暗い顔をしていたら、なにかあるのがまる解りだよ、リリア。

 

 肝心の『なにか』が解らないから厄介だ。原因を取り除かなければ、リリアは囚われたままだろう。

 

 このままいけばエンディスが力尽くでなんとかしようとするだろうが、自分たちにも悩みを打ち明けてほしいというのは贅沢な悩みだろうか。

 

 残されたリリアは、応援を頑張ろうと気合いを入れるようにして両手のひらを握りしめている。だがその前に、もうひとつの胸のつかえを取らなければならない。

 

 いまさらの謝罪など受け入れてもらえないのかも解らないが、それでも謝りたいのだ。自分のした過ちを。

 

 

 

 

 

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