今日も今日とて朝の特訓は無事に終わりを告げる。だが、今日は少しだけ違っていた。エンディスは汗を拭かれたリリアにタオルを投げ、「拭け」と宣ったのだ。促されるまま「はいはい」と背伸びをして額に滲んだ汗を拭うがしかし、背中に回った手で力強く抱きしめられる。
「ど……、どうした?」
「今日から夜は堪えてやることにした。触れられない分は昼に補給をする」
「あー、はいはい。好きにしてくれ」
「ああ、そのつもりだ」
囁く声に身じろいだお蔭か、容易く離されたリリアはユーイたちを振り切って中庭に赴いた。隙をついたいまごろは、王城内を探されていることだろう。怒られようがなんだろうが、ひとりでなければ意味がないのだ。両侍従の隙を窺うために、謝ろうと決意してから何日も経ってしまったが。
「いた」
中庭の東側にあたる庭園にお目当ての姿がある。勇気を振り絞るように手のひらに力を込めて、一歩、また一歩と進んでいった。
「あのっ」
「――はい。……え、あ、リリア様っ!?」
薔薇の手入れを手伝っている侍従のうちのひとりに声をかければ、すぐさま顔を上げた。瞬間、驚きに固まり、誰かを理解したのか、声を荒らげる。
「どうしておひとりなのですか!」
「え……いや、あのっ」
土汚れが少しついた白い
「まっ、待ってください! エンディスへの連絡はっ、もう少し待ってください……っ」
「リリア様?」
肩についた土汚れをハンカチで払う侍従も、リリアの叫びに固まった侍従たちも、ついでに来た庭師の夫婦も、そのただならぬ雰囲気に飲まれていた。唯一、リリアの近くにいる侍従だけは声をかけることができたようだ。
「あの、私、その……、あ、謝りたくて……、侍従さんたちに、きちんと、謝りたくてっ」
「えと……、あの……、リリア様……? 私たちはリリア様から謝罪をいただくようなことはいっさいされておりませんよ?」
困惑の果てに愛想笑いを浮かべる侍従は、止まっていた手を動かし始めた。柔らかな肌が擦られ、赤く色づいていく。
「そんなことはあり得ません。私は、皆さんから侍従という立場を奪いました。エンディスから離れたい一心で、周りのことなど考える余裕がなかったんです。ごめんなさい。い、いまさら謝っても遅いと思われるかもしれませんが、本当にごめんなさいっ」
深々と頭を下げるリリアに侍従は驚きに目を丸める。そんなことをする必要はないというのに。
「リリア様、お顔を上げてください。リリア様のお言葉から察すれば、私たちの言ったことがリリア様のご負担になられていたんですね……。謝るのは私たちです。誰に言われるでもなく、好きでやっていることなのですから。前述したとおりに、リリア様に謝られるようなことはいっさいされておりません。――お解りになられましたら、お顔を上げてください」
「ほ、ほんと、でしょうか……?」
「はい。嘘も偽りもない真実ですよ」
侍従の言葉に緊張が解け、目尻に溜まっていた涙が崩壊する。と同時に、その場に力なく座り込んだ。躯に力が入らず、立つことは容易ではない。「リリア様!」という慌てた声に顔を上げたリリアはすぐさま両手で隠そうとしたが、その前にはもう泣き顔となっており、見られたのだからいまさらかと考えを改めて安心したように笑んだ。
「よかったぁ……、ほんとに、よがっだぁ……」
「ああ、リリア様」
伸ばされた指が涙を掬おうとする間際、「触るな!」と怒声が走る。その場にいる誰もが躯を竦め、声の在処に顔を向けた。思ったより近くというべきか、そこには肩を大きく上下させ、息の乱れた男が不機嫌そうに立っている。たったいま見つけたような姿で。
「出過ぎた真似をしてしまい、申しわけありません」
泣き顔に乱された侍従は深々と頭を下げる。エンディスはその横を通りすぎ、リリアを抱き上げてから侍従を一瞥した。
「話はあとだ」
「はい。リリア様の謝罪の件に関してもそのときに」
「ちょっ、下ろしてっ」
「黙れ」
「黙れってなんだ――……」
濡れた瞳で睨むように言い返せば、噛みつくように唇が落とされ、蹂躙される。嫌だと頭を振ろうが、肩や胸を叩こうが効果はない。
「エン、ディス、やだ、も……、嫌だ……」
「口答えをするな」
後頭部を掴まれ、さらに深く重なる。この場にいる者に見せつけるような角度で。舌先で繋がれる糸が切れればまた深い口づけを繰り返していく。
される方はもうなにも考えられなくなる。翻弄されるだけ。長い口づけのあとは「いくぞ」と短い言葉をかけられたが、小さく頷くことしかできなかった。満足げな男の顔を見ることはなく。
□
反発心を喪失しておとなしくしていたリリアだが、寝室のベッドに投げられてしまえばひとこと申したくなる。「なにすんだ!」と声を上げれば、覆い被さるエンディスは淡々と紡いだ。ループタイを緩めながら。
「それはこちらの台詞だ。ひとりでこそこそなにをしているかと思えば謝罪か。まったくもって理解できんな」
「それは、だって、エンディスの侍従としての立場を奪ってしまったと思ったからであって……! いや、うん、ただの思い込みだったんだけどもっ」
「リリアのことだ、まだひとつやふたつやみっつほど勘違いをしていることだろうな」
「そんなに思い込んでませんっ」
「どうだか」
近づく顔から躯を背ければ、肩に唇が寄せられる。竦めた刹那、「左肩が汚れているな」と、シーツを押し潰しているそこを抉じ開けるようにして手のひらで触れてくる。
「あ、朝からなにをしようとしてるんだよっ」
「簡単なことだ。俺を振り回した罰に決まっている」
「振り回してませんけど! ――うあっ!?」
「振り回した自覚がないとはな」
手首を頭上で一纏めにするのと、胸元を覆う布をずり下げたのは同時だ。ご丁寧にもブラジャーごとだったので、ずり下げられた時点で肌が露になってしまっていた。
「お前、な、なにをっ……!」
「解りきったことを聞くな」
驚きに目を丸めつつも、羞恥に頬を染めるリリアの胸の先に舌を這わせ始める。とたん、「ひゃっ」と可愛らしい声が響いた。
「ん……っ、エンディスっ……、朝からするのはっ」
朝からはそこはかとなく後ろめたい。そう絶え絶えに漏らしながら躯をよじるリリアだが、エンディスの舌は休まることはない。挙げ句、指で弄られ、硬度を確かめるように歯を立てられ、強く吸われて果ててしまう。
「胸だけでイッたのか」
「は……うぅ、も、やめ……っ」
「誰がやめるか。自覚が足りない者には、しっかり教えてやらねばならんからな」
「そうだろう、リリア」とエンディスは熱の籠る瞳のまま、リリアの下半身――スカートに手を伸ばす。なかへと侵入したらば躯を竦めたが、リリアができるのはそれだけだった。縫いつけていた手は胸の先端を弄るために外されていたのだが、交差するような形で腕飾り同士が留まっている。これではどう足掻いても、なにもできやしない。今回もされるがまま皮膜越しの熱を穿たれ、泣かされ始めるのだ。――自分は。
「あ、んっ! んぅ……! や……、エンディスぅ! あぁっ……!」
「いいか、リリア。探し回る身にもなれ」
「あ、えっ、なにぃ……?」
なにを言ったのか。甘さに浮かされては解らなくなる。特に呟きでは聞き取れやしない。微かに聞こえたのは「なにをされているのかと、不安に押し潰されそうになる俺のことも考えてくれ」だが、果たして合っているのだろうか。
「も、一回、言って……っ」
「めんどうだ、二度は言わん」
信頼されていないと解ってはいたが、同じ言葉を紡ぎたくないほど信頼されていなかったのか。この分では信用もなさそうだ。たとえ壊れた友情を育んでいても、友人であっても、なにも意味がなかったのか。
淀む悲しみに視界が滲むが、このときでよかったと心から思う。泣いてもなにもおかしいことではないのだから。
それでも、囁きだけは変わらないのかと、頭の片隅で冷静になっていた。『愛してやまない』なんて嘘は、もういらない。自分はただの仲介役でしかないのだから。
□
泣き崩れたリリアの躯を清めてベッドへと運んだあと、エンディスは執務室に足を運ぶ。呼びつけておいた侍従はドアの前に佇み、主の到着を待っていた。
「入れ」
「はい。失礼します」
先に入ったエンディスに続いて足を踏み入れた侍従は、丁寧にドアを閉めて執務机に凭れながら腕を組んでいる男に向き直る。流れる厳かな雰囲気は侍従をさらなる緊張へと導いていく。自分はどうなるのだろう。この仕事をやめなければならないのだろうか。しかし、原因は自分自身だ。自業自得と言われてしまえばそれまでである。
「まずはそうだな、リリアの肩の汚れについては理解した」
「……はい。リリア様はなんと仰っていましたか?」
「『連絡もなしにいった自分が悪いから』と言っていたな。髪を洗ってやっているときだ」
「はい」
「それについては不問にしよう。次にリリアの謝罪だが、これも理解している。リリアの口から聞いたからな」
侍従が頷くと、エンディスは目を細めて見据えた。威嚇をするように。びくりと侍従の肩が竦まる。
「最後に、リリアに触れようとしたことだが――」
「は、はい……」
「リリアは魔性だからな、致し方がない部分もあろう。特に泣き顔は、感情が保てなくなるほどだ」
「はい。僭越ながら、私も乱されてしまいました」
「――ゆえに、残りふたつも不問とする。あまり事を大きくすると、リリアになにを言われるか解ったものではないからな。解ったのなら戻れ」
「寛大な処置に感謝いたします」
深々と頭を下げた侍従を見送ると、嘆息を吐いて腕をほどいた。エンディスとしては半年ほどの減給を考えていたのだが、リリアのお蔭でまったくもって変わってしまった。
『――侍従さんに変なことをするのは許さないからな』
ここに来る前に袖口を掴まれてそんなことを言われてしまえば、甘くならざるを得ないだろう。半年ほどの減給も甘い処罰ではあるのだが、上目遣いに敵うものはない。
自身の情けなさに嘲笑しながらも、胸ポケットから携帯端末を取り出す。発信に出た相手に「今日窺う」と短く言って通話を切り、胸ポケットへと戻して執務机のイスに座り直した。
少しずつだが着々と進む囲いに、リリアはどう反応するのだろうか。いつだって離れている間は、その空想だけが支えとなっている。
□
夜会に招待されてからというもの数ヶ月――。今日という日がようやく来たようだ。
少し早い時間に王城を出発し、着いたのがいましがたである。屋敷内外のきらびやかな空間にリリアは緊張していたが、ユーイたちはいつもと変わらなかった。慣れているのだろうと判断したのち、案内された部屋に自身のキャリーケースを運んでいく。先を歩くエンディスも自分で運んでいるが、ここにほかの目があったら叱咤されていることだろう。
二日ほど前に一泊することを伝えられると同時に、「好きなものを詰めろ」とケースを渡されたのだが、その詰めるものに苦労した。与えられた普段着とメイド服しかないのだから。あとはタオルやハンカチ、肌着の小物類か。アクセサリー類は可愛いと思うが、自分がつけても似合わないのでひとつも持っていない。ゆえに、リリアのキャリーケースにアクセサリーは入っていなかった。
大部屋――ベッドが人数分あり、シャワーもトイレも備えつけられている――の端にキャリーケースを並べたリリアは、「リリア、着替えるからこっちに来て」と呼ばれた声に向かっていく。声からしてユーイだろう。いまこの部屋には偽物の自分を含めて女性しかいないので、『着替える』という単語が出るのだ。いくら侍従であろうとも、主の命なくしては目の前で着替えることはないのだから。唯一の男であるエンディスはといえば、キャリーケースを入り口に置いて早々に「叔母上に挨拶をしてくる」と部屋から消えていた。
「普段着に着替えるのかー?」
「違うよー。リリアのおめかし」
「うん? おめかし?」
なにを言っているのかと首を傾げるリリアはその後、逃げられないようにと脇を固められ、驚きと緊張に百面相をすることとなった。想定すらしていなかったのだ、こんなことは。
□
夜会が始まれば、奇異の目に苛まれて顔を上げることは不可能となる。「アイツは誰だ」や「あの女はなんだ」という、囁きが聞こえてくるようだ。実際には囁きなどはなく、一部の女性陣からは羨望のような眼差しを、これまた一部の男性陣からは胸元へとそういう視線を集めているのだが、不安に溺れるリリアには幻聴が聞こえてくるのだからしかたがない。
俯く先には足下が見えるだけ。磨かれた床が光を反射しているのも解っている。華やかな舞台に合わせたような足下――左足首には宝石がつけられた足首飾りをつけられ、ヒールが低いパンプスを履かされた。履き慣れていないので、引きずられるようにして隅に連れて来られるまでの歩き方がおかしかったかも解らない。
引きずった張本人は「ここにいろ」と言い張ったし、四辺形に切られた色とりどりのケーキを乗せた皿まで持ってきてくれた。その皿も、いまや空であるが。みっつでは足りない。ケーキを食べ終えるまでは、視線を気にしないようにしていたのに。
「お皿をお下げしますね」
「ふわぁっ!? はははっ、はいっ! どうぞっ」
突然かけられた声に弾かれたように顔を上げたが、動揺して声が裏返ってしまう。しかし、声をかけた給仕係であろう男は笑顔を崩さずに、差し出された皿とフォークを「ありがとうございます」と受け取った。トレーに乗せたはいいが、一歩も動かない。
「どうされたのですか……?」
「ケーキはどうでしたか?」
「あ、はいっ! とてもおいしかったです」
「よかった。あなたが召し上がったみっつのうちのひとつは、私が考えたものなんです。あまり手をつけてもらえていないので、――いや、夜会ですからね、場所を考えると当たり前なんですが……、ちょっと不安になってしまって」
「おいしかったので自信を持ってください」
「はいっ」
リリアが笑いかけると男は大きく頷いて、去っていく。足取りが軽いようでなによりだ。
挨拶の傍らでその様子を眺めていたエンディスにとっては、気が気ではなかった。男が近づいた刹那、魔法で影武者を生み出し、挨拶の代行を任せたほどなのだから。自身の周りの空間を歪ませ、そこにはあたかもテーブルしかないようにも見せる。
地を這うような声で「あの男はなんだ?」とユーイたちに問えば、「給仕係ですよ」と返ってきたが、確かに格好はそうだろう。自分としてはリリアを視界に入れた時点で認められないが。「おい、あの給仕係は動かないぞ」と、目だけで殺さんばかりの視線を男に向けていた。挙げ句、リリアに笑いかけられた瞬間に持っていたワイングラスをテーブルに叩きつけて粉砕させる。
「――あの野郎、いますぐにでもぶっ殺して目玉を抉り出す!」
「第四王子であろうお方が、そういうことを言ってはなりませんよ……。リリア様に嫌われてしまいますよ?」
「そうですよ、エンディス様。さあ、早く挨拶を終わらせて、リリア様のお側にいきましょう」
「ああ……、そう、だな……」
侍従たちがさして驚きもしないのは、これが何度めか解らないからだ。宥めるのも慣れてしまっている。ユーイとジルノが殺気だったままのエンディスの背中を押す間、マルカはワイングラスを魔法でもとに戻していた。証拠の隠滅のために。中身も粉砕する前となんら変わらない。それを持たせて魔法を解除させれば一段落である。元は平民のために魔力量が低い三人ではあったが、リリアを守るための特訓を義務づけられたお蔭で、いまや中級と呼ばれている魔導士に近いものとなっていた。三人とも戦いに関してはいまだに不得意であるが、暴漢のひとりやふたりは退治できるまでとなっている。
給仕が消えて俯き始めた数分後、リリアにまたもや声がかけられた。「リリア嬢。一杯付き合ってほしいんだが」と。お酒を飲むなと言われているわけではないので、「大丈夫ですよ」と顔を上げたリリアは目を見開くことになる。なにせ声の主はこの夜会の発案者たるエリアス・マギノリーであったのだから。ほのかに頬が赤いのは、果実酒の酔いが回っているからであろう。
国王たるエゼルバード・クロージスの姉であり、エンディスの叔母にあたる彼女は、弟であるエゼルバードにすべてを負わせて貴族に嫁いだのだった。元来より続いた長子相続をぶち破ったのは、エリアス自身が
「エリアス様」
「おや、私の名前を知っているのか?」
「私だけではなく、この国に生まれる者はすべて知っておりますよ」
「王族の恥さらしとしてな」
「そんなことはありませんよ。エリアス様がおられたからこそ、この国は安泰しているのです」
「それはどういう意味だ?」
訝しむわけではなく、きょとんとした顔がある。年齢よりも幼く見えるその顔に、リリアはふっと笑みをこぼした。やはり様子を窺うエンディスは、本日二度めのワイングラスの破壊に及ぶ。いくら叔母であろうとも、リリアの笑顔を独占するとなれば話は別だ。敵意を剥き出しにしてやる。ユーイたちに引きずられながらも。
「エンディス様が仰っていました。エリアス様が大小問わず数々の国に遊学をした縁で、いろんな交渉がすんなりいったと」
「そんなこともあったかな。まあ、昔のことだ。私が相続をしなかったのは事実なので、如何様に言っても問題ないよ。して、リリア嬢、一杯だ」
傍に控えていた給仕からグラスを受け取ると、エリアスはリリアに手渡した。果実酒を。まずは香りだと言われるままに匂いを嗅げば、芳醇な香りが鼻をくすぐる。
「甘い香りがします」
「昨年度は当たり年でな、香りも口当たりも格別だ」
ひとくち含めば、舌の上で香りが踊るようだ。飲み慣れていなくとも、味がいいことが解るのは言われたとおりに品質がよいからであろう。
「――ん、飲みやすいです」
「飲め飲め。飲んで食え。夜会だからといって、踊らなくとも問題ないからな」
「そうなのですか?」
「ほかはどうかは知らんが、私は私の楽しむことをするだけだ。飲んで騒ぎたい」
「エリアス様がよろしければ、お付き合いいたしますよ」
「リリア嬢はいい子だなあ……。それに可愛い。うちは男ばかりで、華がないんだよー。おばさんに華をおくれー!」
「あ、わっ……!」
わしゃわしゃ頭を撫でられるリリアは最終的に抱きしめられていた。頬擦りをされながら。
「ああ、女の子とはこんなに柔らかいのか」
「お、おそらくは……」
「メイドで確認しようにも、息子や主人に止められて確認できずにいたんだ。それは仕事ではないとね。抱きしめるぐらい減るものではないと思っているが、メイドにしてみれば恐怖以外はないだろうと考え直した。私は一応、仕えられる身だからな。ん、おや……、リリア嬢は足首飾りの意味を知っているか?」
「いえ、今日つけられたばかりですので、意味までは存じ上げません」
「エンディスにか?」
うむうむとひとり頷いていたエリアスの問いに対し、リリアは否定をするように緩く頭を振る。ふむと顎に手を添えたエリアスがふたたび問うと、「違いますよ」ともう一度否定の言葉を口にする。
「つけたのは侍従の方ですが、用意をしたのはエンディス様でしょうね」
「やはりか。あの子はリリア嬢のこととなると張りきるからな。それでだ、足首飾りの意味だが、諸説ある。まあ、とは言っても、意味は似通っているがな。左足首に足首飾りをする意味は――」
「はい……?」
耳打ちされたリリアは目を丸めるが、反してエリアスの方は得意気な顔をする。「この意味が解るか、リリア嬢」と。
「意味は解りましたが、あり得ませんよ。エンディス様はほかに好きな人がいるのですから。おそらくは私の反応を見たいがために、つけるように命じたのでしょう」
「ただ面白がっているだけなのですよ」とリリアは小さく笑うと、残っていたグラスの中身を一気に口へと流し込む。そうでもしないと、どんな言葉が出てくるのか自分でも解らないのだ。「『ほかに好きな人』だと? あの子からは聞いたことがないがなあ」と今度ばかりは訝るエリアスに「もう一杯いいですか?」と、空のグラスを持ち変えながら窺う。その様子に「いい飲みっぷりだな」とエリアスは目元の笑みを深くした。
礼を欠きに来たわけではないが、これ以上はなにも聞きたくないと新しく渡された果実酒を一息に飲めば、エリアスの指が口元を拭った。
「汚れていたのでな」
「ありがとうございま、す」
頭を下げたとたんに足元がふらつくが、支えられていたお蔭で大事には至らない。しかし、どうやら酔いが回っているようだと自覚したそのとき、強い力が躯に加わった。
「うええっ!?」
いったいなにが起きたのかと目を丸めたのち、自分は抱き上げられたのだとすんなりと理解した。視界の端に結わえられた髪があるお蔭だろうが、照明で輝く髪からなにやから、いやに甘ったるい匂いがする。――ああ、これは香水の――『女の人の匂い』だと胸がざわつく間際、視線を動かせば呆れ顔の三姉妹も映った。エリアスがリリアに歩み寄ったときから、三人は『リリア様のお好きなようにさせてあげましょう』と繰り返してきたのだが、エンディス自身は嫉妬を溜めに溜めていたらしい。挨拶もそこそこに切り上げたかと思えば、「リリアの隣は俺の場所だ!」と駆け寄っていってしまっていた。
「叔母上!」
「なんだ?」
「リリアに、なにを、飲ませているのですか?」
「果実酒だが、なにか問題があるのか?」
「リリアには飲ませるなと、先に二回も言いましたが」
「そうだったか? いちいち覚えとらんわ。飲ませたくないのなら、行動をともにすればよかろう。ひとりにさせるということは、変な輩が寄ってきてもなんら文句がないと言っているようなものだぞ。お前がリリア嬢の腕と足首に飾りをつけようが、気にしない者はいるからな。――たとえ私たちが招待したとしても」
「忠告はありがたく受け止めますが、それとこれとは話が違いますよ」
睨むエンディスではあるが、「夜会に参加しないお前が参加したのがすべての原因だ。挨拶に駆り出されるのも致し方なかろう」と饒舌に語る叔母には勝てないようだ。眉間に皺を刻む間に、あろうことかリリアの手が伸び、肩を叩く。諌めるように。
「こら、ケンカすんな。あと、下ろせ。いますぐにっ」
「そんな顔をして、下ろせるはずもないだろう」
「そんなことを言われても、どんな顔か解んねーし! わけの解らないことを言う前に早く下ろせよっ」
「はーやーくー!」と暴れ始めたリリアだが、いつものごとく痛くも痒くもならない。そもそも、可愛らしいとしか思えないのだ。こうして暴れていても。酔いに支配されているお蔭か、普段よりも色香が増している分を考えてもなにも変わらない。なにをしていても、衝動を湧き起こすだけだ。触れたい、抱きしめたい、貪りたい、衝動を。いまはほんのりと色づく晒された肩に噛みつきたい衝動をなんとか堪えているが、そうそうに亀裂も入っている。堪えているのは人前であるためだ。リリアの痴態を楽しむのは自分以外ありえないのだから。
「だから飲ませるなと、あれほど言ったんだ……」
「エンディス様、目が虚ろすぎますよ」
「……なんとでも言え」
過去にたった一度だけ――計画どおりに押し倒してくまなく愛撫し、その生を奪い去る少し前に――一緒に飲んだ機会があったからこそ解った。酔ったリリアの愛くるしさは、どんな言葉にもできないほどなのだと。だからこそ、言外に大変そうですねと滲ませるユーイの言葉には笑いそうになる。本当にそのとおりなのだから。だが同時に、ここで笑ってしまっては、リリアに不審がられてしまうのではないのかと恐れが湧いた。たとえ嫌われるようなことをしていても、リリアからの拒絶はなによりも辛いことを身を持って理解しているからこそ、これ以上嫌われるのは避けなければなるまい。――なんとしてでも。
導き出された結論に対し、気を引き締め直すようにと放った言葉の手前、なにを言われてもしかたがない状況ではあるのだが、「これは面白い」と面白がられるのも気に入らない。それもそのはずだ。リリアを手に入れるための相談として、何度も何度もこの思いを吐露しているのだから。興味深く自身を眺める叔母を睨みつつも、「面白いものはなにもありませんよ。――リリア、いくぞ」と踵を返す。
「ん、おおー、下ろしてくれる気になったのかー」
「なるわけないだろう。部屋に運ぶ」
「うええー」
勘違いをするなと言いたげに放たれた否定の言葉に対し、不満げに唇を尖らせる姿にはもう、衝動が砕かれるだけであった。それこそ跡形もなく。
□
部屋に入るやいなや、ベッドへと押し倒されるまま唇を塞がれたリリアは暴れだした。引き剥がさんとばかりに。それは三姉妹が――ユーイが顔を背けたからである。酔いが回っていても、そこで冷めてしまったのだ。ふわふわとしていた意識ははっきりとした輪郭を表し始めている。口内を犯されたままでも。
「ん、むぅ!」
ダメだと顔を背けようとするが、それを察知したらしいエンディスにより自由が奪われてしまう。金属同士が合わさる冷たい音が響いた先、ようやく気がついた。夜会という社交場であっても、腕輪を外さなかったのはこのためなのかと。
深い口づけの合間にもたらされる「お前は俺のものだ」という掠れた音も、熱に浮かされた瞳も、自分に向けられたものではないのに、心臓がおかしくなりそうなほどに高鳴っている。横髪を撫でる目の前の男に対し、リリアの頭のなかではエリアスの言葉が蘇っていた。
『左足首に足首飾りをする意味は、その者にとって独占したい女性だとされている。つまり、自分のものだと誇示をするのだよ。――この意味が解るか、リリア嬢』
そんなわけがない。解るはずもない。エンディスが独占したい女性は、こうしたいだろう本当の人間は――いま、同じ空間にいる。自分という存在は、触れられない想いをぶつけるのに都合がよかっただけなのだ。一番
ぐるぐる回る世界でも、暗くなる思考でも、リリアはそうだと思い直す。応援すると誓ったではないか。女神に。だから自分のわがままは閉じ込めなければならない。
そうしないといけないのに、あふれるのは想いだ。好きだと強く想う正直な心。
改めて気がついてしまえば、応援したい心が苦しい心に塗りつぶされていく。――苦しい。壊せないほどに大きくなった
目尻からこぼれる涙とともに流れていってほしいとの願いは叶わず、ただの嗚咽になっていくだけだ。エンディスは唇を遠ざけ、荒い息のまましゃくりあげる姿に目を丸めるが、視界がぼやけるリリアには解らなかった。なにが起きているのかと「リリア?」と問う声とともに頬に手を添え、唇に耳を添える。一句も聞き漏らすまいとして。
「苦し……い」
「どうした? どこか痛むのか?」
「痛、い……、苦しい、よ……、こんなのっ……、こんなの、苦しいだけだっ」
「おい、医者を呼べ! 早くしろ!」
切羽詰まった大きな声と「ただいま!」と重ねられた返事に我に返ったリリアは、そうではないと一生懸命に頭を振る。「ちが、違う、から……。オレ、いま、ちょっと変だから……、でも、大丈夫、になるから」と嗚咽を漏らしながらも、固定されたままの腕で涙をぐいぐい拭っていく。これ以上はなにかを言ってしまう可能性がある。ならばここで止めなければ。
「エンディスは、いっ、忙しいんだろ……? 早く、戻れよ……、もう大丈夫だからっ」
「お前の言うことを信用するわけがないだろう。こんなにも泣いておいて、なにが大丈夫だと言うんだ」
ふたたび腕を縫いつけられた先、頬に伝う涙を掬う指先を振り払うようにして左右に頭を動かす。
「オっ、オレが大丈夫って言ったら、大丈夫なんだよっ」
暴れるリリアは最後にふんと顔を逸らして尊大な口を聞くが、そこがまた可愛らしいと解らないのか。いや、解らないからこそこうなるのだろう。あざとさなど微塵も感じられないために、笑っていても、怒っていても、泣いていても、なにをしていても劣情が揺さぶられる。特に泣き顔には弱い。いつもいつももたげたままの熱が暴れ始めていく。もっと泣かせてやりたいと、自分だけに手を伸ばしてほしいと、腕のなかに閉じ込めてやりたいと、自身のなかの悪の心が囁く。
「――リリア」
「バカバカっ! 舐め取るなよぉっ」
舌先で涙を掬う姿にふたたび暴れだしたリリアであるが、どうにかできたのは下半身だけだ。覆い被さられるなか、足をじたばたできただけでも誉めてほしいくらいだ。
「いいか、リリア。お前を泣かせていいのは俺だけだ。ほかはいない。いるはずもない。いったい誰が泣かせたと言うんだ?」
「だっ、誰だっていいだろっ」
「ケーキがどうのこうのと言っていた給仕係の男か?」
「は、え? なに……?」
「その男に、心を奪われたのか?」
なぜか低くなった声に涙は引っ込んでいったが、変な勘違いをするなと、否定するように頭を振る。それだけはあり得ない。自分には、ほかの人間に思いを馳せる余裕などないというのに。
「違うわっ! あるはずもない!」
べちりと胸を叩くと、さらに顔が近づけられた。鼻先すれすれに。マットが勢いを持って沈んでいくのが解る。ひゅっと息を飲んだリリアに対し、感情を消したエンディスはそのまま、艶やかな声を奏でていく。
「本当か?」
「こっ、この状況で、嘘なんか、言うわけないだろ……っ」
涙声のままそう漏らせば、荒々しく唇が塞がれる。それこそ、噛みちぎられるかもしれない勢いをもってして。口内を味わい始めた舌に翻弄される前に引き剥がしにかかるがしかし、胸を押そうが、肩を押そうが、びくともしなかった。リリアはただただ、狂わされていく。覚えさせられた享楽によって。存分に味わった舌が離されると、力なさげに息を整えるしかできなくなる。
「……にゃ、にぃ……、すっ……」
「お前が可愛すぎるのが悪い」
「かっ、可愛くないっ」
もう一度唇を塞がれてしまうが、今度はあっさりと離れていった。「――強情は昔からだな」という呆れているであろう声とともに。それでも、満足げに目を細めている。もちろん、リリアが涙に震えながら「うるさいっ」と顔を逸らしたあとになるが。
ああ――それはダメだ、本当に弱い。この可愛さにはなにをしても勝てはしないのだ。怒りなど簡単に塗り潰されていく。それこそあっという間に。
しかたがない、今回はこちらから折れてやろう。言わせる機会はいくらでもあるのだから。そう、いくらでも。
「もう寝ろ。俺はまだ挨拶が残っている分移動するしかないが、やむを得ん」
のしかかる重さがなくなると、リリアは「し、しないのか?」と問うた。
「リリアが忘れるだろうことをするつもりはない。俺を刻ませるのはお前の意志があった上でだ」
「そういう雰囲気だった、だろ……」
「言っておくが、初めはきちんとベッドに運ぼうとはした。が、理性が切れた」
「いちいち言わせるな、いいから寝ろ」と乱雑に掛け布団にくるまされたリリアは、急激な眠気に支配されていく。ああこれはやられたなと、エンディスを見るが、素知らぬ顔をしている。
だが――。
「――おやすみ、リリア」
重い瞼が落ちる一瞬、それでもきちんと見た。
エンディスがこの上なく幸せそうに笑む姿を。蕩けそうなその顔は、いったい誰に向けられたものなのかはもう解らなかった。
リリアは夢に誘われたあとなのだから。
【 あとがき 】
ここまでがメクるさん及び個人サイトで公開している分になります。
第7話からもちまちま書いて、一話一話がまとまったあとにハーメルンさんに投稿したいと思いますので、次話投稿までしばらくお待ちください。
***この記述は次回投稿時に削除します***