夢を、見ているのだろうか。
幻想的な景色。それが、あたり一面に広がっている。
匂い立つ。そんな表現が似合うと思えるほど、四方には花が咲き誇っていた。桃の花。草花にはあまり造詣が深いほうではなかったが、そのくらいであれば判別がつく。しかし、夏侯のふたりともこのような場所には出かけたことがなかった。だから、これは夢なのだと曹操は思ったのである。
ひとの姿が見える。男が一人と、女が三人。その男の容姿は、自分と瓜二つだった。
朧気に光る、純白の衣。見たこともない、着物だった。
口が動き、なにごとかを発している。ほかの三人は、女というよりも少女といったほうがしっくりとくる年頃のように見えた。磨きをかければ、さらに映える。そんな美貌を、持ち合わせているのだ。
もっと、近くでよく見せろ。曹操は、苛立たしげに叫ぼうとした。だが、夢のなかでは自分は一層無力なのである。ならば、と視線を動かそうとしてみる。動きはしたが、自分の意思によるものなのか定かではなかった。
三人の少女。なかでも、黒髪の少女のことが特に気になっていた。力の宿った瞳。それは、
それに、である。着物にくっきりと浮き出るほどの乳房もたまらなかったが、輝くほどの艶がある長髪に触れてみたいと思ったのだ。ぼんやりとしている意識。どうにか手を伸ばせないものかと、曹操はもがいた。自分は、夢のなかでさえも女を欲しているというのか。どれだけ足掻こうとも、少女に手が届くことはなかった。
鋼の擦れるような音。四人がそれぞれの武器を掲げ、寄り添わせている。自分に似た男というか、あれは自分そのものなのではないか。なんとなく、曹操はそう感じていた。
懐かしい風景、などではないはずだった。顔も知らない、三人の少女。この夢は、自分になにを示そうというのか。
一瞬視界が真っ暗になったあと、場面がすぐに切り替わっていく。先よりかは、身体を自由に操れるようになった気がしていた。
頭を振ってみると、白い袖が見えた。感覚がはっきりとしているわけではないが、着心地は悪くないように思える。すぐそばに、あの三人の姿がある。今度こそ、曹操は手を伸ばしてみた。黒髪の感触。指に、さらりと抜けていく。極上の絹に触れても、このような気分にはならないのではないか。夢だというのに、そのくらいの感動があった。
そんな曹操を見て、少女はおかしそうに笑っていた。控えめな笑顔が、心に強く刻まれていく。
ご主人様。夢のなかで、自分はそう呼ばれている。
「一刀。なあ、一刀」
「髪……。あの、黒髪なのか」
意識が引き戻されていくような感覚。薄くまぶたを開けてみると、長い黒髪が目の端に落ちた。もしや、これは先ほどの夢の続きなのだろうか。曹操は、手の甲で髪に触れてみた。
「あ……、ふふっ。もう、くすぐったいではないか」
「ン……、
「ううん? さては、熟睡しすぎてまだ寝ぼけているのではないか? ふふん、だがそれも仕方があるまい。なにせ、わたしの膝をずっと貸してやっていたのだからな」
「この惚けた感じの声は、間違いなく春蘭だな。うん、俺の居場所はやはりここだ」
曹操が、春蘭の膝のうえで寝返りを打った。頬と手のひらで、腿の柔らかさを確かめてみる。頭に触れてくる春蘭の手が、温かかった。
「ああ、もう! 曹操さん、曹操さんはどこですの? このわたくしがわざわざこのような屋敷にまで来てあげたというのに、出迎えすらしないなんて……。よくもまあ、こんな無礼ができますわね」
耳につく甲高い声。それが、屋敷の入り口のほうから聞こえていた。足音が、無遠慮に近づいてきている。数人は、いるようだった。
「ちっ……。やかましい奴め」
小さな呟き。
身体を起こさなくてはと思いはしたが、腿の感触を味わっていたいという欲望には勝てなかった。足音と声。同時に、向かってきている。相変わらず騒々しい女だと、曹操は面倒そうにあくびをした。
「ええっと……。殿、袁紹殿が来ているようですが」
「わかっている。春蘭、お前が適当に相手をしておけ」
投げやりな命令。春蘭は、心底困っているのだろう。嫌そうな声を出しながら、曹操の身体を揺すっている。
「あなたも変わりませんわね、曹操さん。客が来たときくらい、もう少ししゃきっとなさいな。ほら、起きるのです!」
「も、申し訳ございません、曹操殿。
「はあ……。なにも、
袁紹の螺旋状に巻かれた金髪が目に入る。派手な色使いの着物と相まって、つい目を閉じたいと思ってしまいそうになる。
無理やり身体を引き起こされながら、曹操は田豊を労った。たわわに実った女の証。それを眺めていれば、多少のことくらい許せるようになるというものだ。
奔放な主君。それとは対照的に、田豊は生真面目そうに腰を折っている。その後ろには、文醜と顔良のふたりの姿も見えている。ふたりは、馬賊の出身なのだという。どういった経緯で袁紹の配下に迎えられたのかは、曹操もよく知らなかった。
後漢屈指の名門。そのことを声高々に謳っている袁紹だったが、意外と面倒見は悪くないのである。だからふたりのような武官を得てもいるし、田豊のような士大夫たちからも心を寄せられていたのだ。
「お邪魔しています、曹操さん。ほら、
「へへっ、久しぶりだなー。アニキ、また朝っぱらからいいことでもしてたんじゃないのかー?」
田豊は、まだ辛そうに腹のあたりをさすっている。対して、文醜と顔良のふたりは袁紹の行いに慣れきっているといった感じである。
ようやく立ち上がり、曹操は屋敷の使用人に声をかけた。これでも袁紹は、名門の誉れ高き袁家の当主なのである。立ち居振る舞いには、さすがに堂々としたものがあった。
広間。すすんでやって来たのは、曹仁だけだった。他の従妹たちは、給仕の手伝いに回るといって聞かないのである。
なんとなく、曹家側だけが寂しい宴席となっている。そのことを袁紹が気にしている様子はなかったから、曹操はそのまま席についた。
「おまえからすればつまらんものだろうが、まあゆるりとしていけ。しかし、いつも通りといってしまえばそれまでだが、相変わらず急な来訪だな、袁紹」
「ええ。だってここに寄ったのは、ほんとうについでなんですもの。うふふっ。郷里からすぐ都に戻ってもよかったのですけど、引きこもっている曹操さんのお顔を見ていくのも悪くない、とふと思いまして」
話し終えると、袁紹は高々と笑ってみせた。今度は田豊だけでなく、顔良も申し訳なさそうに頭をさげている。とはいえ隠棲しているのは本当のことだったから、曹操はなにも気にしてはいなかった。
曹操と袁紹は、互いに真名を許し合っている仲だった。けれども、最近はそちらで呼び合うことは少なくなっている。それは、どちらから始めたことだったのか。そのことすら、もう曖昧になってしまっている。
対抗心、とでも言えばいいのだろうか。
曹家からみて、袁家はやはりとてつもなく大きな存在だった。
自分が力をつけて、曹家が袁家を凌ぐような時代を築いていかなければならない。そんな風に、意気込んでいるのかもしれなかった。それに、意識しているのは、多分袁紹だって同じなのだろう。そうでなければ、わざわざ遠回りをして
太尉、司徒、司空。現在の漢王朝における、権威ある官職だった。それらのことを合わせて、三公と呼ぶ。
袁家は、その三公を四世代に渡り輩出しているのである。宮中において高い地位にのぼれば、それだけ多くの人間と誼を結ぶことにもなるのだ。その関係は、簡単に途切れるものではなかった。代々受け継いできた絆は、袁家を強者たらしめている。
もし袁紹が挙兵でもすることがあれば、数万の兵が参集してくるはずである。それに比べて、自分はどうなのか。金はあっても、曹家の名声というのはそこまであてにしていいものではなかった。恐らく、五千程度が集まればいいほうなのだろう。
「主、少しよろしいか」
「なんだ、
「むむっ、そうですか? ……っと、いまはそんなことを言っている場合ではありませぬ。ともかく、一度席を離れていただけませぬか」
廊下から、声がかかった。星の様子をみるに、なにか急な用件でもあるらしい。
「袁紹さん、袁紹さん。その話、もっと聞かせてほしいっす!」
「ふふん、いいですわよ。曹操さんと違って、あなたはよほど気持ちがいいお方ですわね。ほら、もっと近くに来なさいな」
文句をつけながらも、袁紹はそれなりに饗応を楽しんでいるようである。
席を立ち、曹操は私室へと向かった。室内に入ると、
「
「うむ。楽しんでおられたところを申し訳ありません、殿」
「それは皮肉っているつもりか、秋蘭。ともかく、何用だ」
「ふっ、そうではありませんよ。
隠密はうなずくと、少しだけ前に出た。名を、
ほんとうの名は、とうの昔に捨てたのだという。自分に拾われるまで、奴婢のごとき扱いを受けてきたせいなのかもしれない。生まれは、西域だと聞いている。異民族の血が混じっているからなのか、肌にはちょっと浅黒さがあった。
長くて紅い毛髪。闇のなかだと、それが一際ぼうっと浮き上がって見えるのである。波打つように揺れる紅い髪。それで、曹操は女に紅波と名づけてやったのだ。
身のこなしが軽いうえに、やらせてみると意外なくらいに剣をよく使った。紅波を武官として登用することを曹操は考えたが、それは本人から固辞されてしまっている。どうやら、群れて動くのはあまり得意ではないらしい。
であれば、曹操に情報をもたらす隠密として働きたい。紅波のその一言から、いまの関係は始まっている。
不要な質問をしてこない紅波のことは、気に入っていた。黙々と、与えられた任務をこなしていく。それが、よい隠密の条件だと曹操は思っている。
「荀彧殿が、婚姻を結ばされてしまったようです。かなり、宦官側からの圧力があったのではないかと」
「なに?
曹操の顔色が変わる。
宦官が、名のある士大夫の家と縁戚関係を結びたがるのは、そう珍しいことではなかった。
とりわけ、桂花は王佐の才と評されるほどの智謀を備えているのである。それに荀家の持つ名声のことを考えれば、候補にあげられてもなんら不思議はなかった。
「なんでも、相手はかつて権勢を振るった
「言うな、秋蘭。紅波、婚姻が決まったのはいつの話だ。事と次第によっては、急がねばならん」
「拙者が情報を得たのが、三日ほど前です。しかし、内々にはずっと進められてきたことでしょうから……」
「うむ……。となれば、あまり悠長にしている時間はないのやもしれませんな。主よ、わたしは
「ああ、頼むぞ。秋蘭、おまえは栄華たちに事情の説明を。俺のやりたいことくらい、すでにわかっているのだろう?」
「はっ。念のために確認しておきますが、曹嵩さまに働きかけをお願いしてもよろしいのでしょうか、殿」
「使える手段は、なんだろうと使う。いまは、体裁を気にしている場合ではないのだよ。相手が父だろうと、それは同じことだ」
さながら、戦を前にしての軍議である。
使える手段。それは、すぐ近くにもあるのだ。袁紹たちが飲み食いしている広間に戻る曹操。その双眸は、静かに燃えていた。