本来ならこのくらいで完結できるようにする予定だったんですけど、まだ当分無理そうです!
設営し直した陣屋に、曹操は女を迎え入れていた。
力の感じられる視線。研いだ刃に近しい雰囲気。そのどれもが、自分の隣には欠けていたように思えてくる。
小さく拝礼をした
「まずは、謝罪をさせてちょうだい。与えられた守備の任を、私は果たしきれなかった。処罰なら、甘んじて受けるわ」
桂花の言葉に、驚きはなかった。
呂布軍が自分に牙を剥き、留守居を命じていた桂花がこうして徐州にいる。それが、全ての状況を物語っていると言ってよかった。
兗州での曹家の旗色は、調べるまでもなく悪化している。手当を、早急に考えるべきだった。
「おまえへのつまらん仕置きを考えるよりも先に、俺にはやるべきことがあるのでな。それで、一緒にいたはずの
「風なら鄄城に残ったわ。だけど、あなたを裏切ったわけではないみたいよ、一刀。それと、昂のことなのだけれど……」
呂布軍の叛乱に際して、風なりに思う部分があったのかもしれない。離れていなくては、できないこともある。それをしようと、風はあえて敵陣に身を置くことを決めたのか。
珍しく、桂花が言葉に詰まっている。考えたくはないが、昂になにかがあったのかもしれない。敵方に囚われたのだとすれば、こちらにとって不利な材料となってしまう。それ以上に、桂花にとっては耐え難い苦痛となるはずだ。
思い出す話がある。かつて、師であった橋玄が賊に子を人質とされたことがあったのだ。結局、その子は生きて帰らなかった。師は厳粛に事態を進めることを優先して、交渉などには一切応じようとしなかった。それこそが、正しい道だと信じていたからだ。
小さかった自分には、理解のし難い考えだった。だが、そのおかげで緩みきっていた慣習は引き締まり、同様の事件は減じたのだ。過去の話をしていた師の顔は、ちょっと悲しそうだったように思う。愛していなかったわけではない。それでも、時として手を離すべき瞬間はやって来るものなのか。
自分に、その覚悟はあるのか。桂花の言葉の続きを、曹操はじっと待っていた。
「昂は、冀州に逃したわ。母さまと
「冀州だと。となると、あいつを動かしたのはおまえなのか、桂花?」
「認めてしまえば、そうなるわね。だけど、袁家に話を持ちかけたのはたぶん私だけじゃない。劉備のもとには、諸葛亮もいるんでしょう? だったら、援軍を請わない理由なんてどこにもないもの」
先の闘いのことを、曹操は思い返していた。
袁紹軍の乱入。それも、両軍のぶつかり合いを遮るような動きだった。なにかの示し合わせがあったのかはわからない。それでも、袁紹軍の到来を受けて、劉備は戦をやめてしまったのである。
数里はなれた小高い丘を、袁紹軍は陣所としている。一万ほどの後続がやって来て、合流したという報告も入ったばかりだった。
乱戦の最中、袁紹が必死になって馬を駈けさせているところを眼にしていた。長い付き合いの中でも、見たことのない姿だった。あの女を、なにがそこまで駆り立てているのか。曹操には、袁紹の真意が見えていないままだった。
あんな真似をしてまで、なにをしに来た袁紹。曹操は、心の中で呟いていた。
「そっ……。怒らないのね、一刀。袁紹がどう動くかまでは、私にも予想できなかった。だけど、あの女は確かにあんたと話をしたがっている。仕掛けてこないのは、その証拠ではないの?」
怒りが、なんの役に立つ。ぬるくなった白湯を口に含みながら、曹操は桂花の顔をじっと見つめていた。
袁家との同盟。桂花の狙いは、そのあたりにあるのか。越えるべき壁。連合軍で決別してからは、その思いがより強くなっていた気がしている。それだけに、袁家との融和を考えたことは一度もない。気位の高い袁紹にも、そんな気があるとは思えなかった。
「袁紹は、闘って雌雄を決するしかない孫堅とは違う。そんな単純なこと、わからないあんたじゃないでしょうが。戦をしたいのなら、すればいい。その時には、私も一切の私情を捨てると約束するわ。けど、まずは会ってみてから考えても、遅くはないんじゃないかってね。私の思いは、それだけよ」
自分以外の誰かと、共に天下を戴く。
そんなことで、本当に国は治まるのか。それとも、桂花はもっと別の可能性があると言いたいのか。
「孤独であるから、孤高にもなれる。覇者というのは、そうした存在であるべきではないのか。時々、そんなことを考えてしまうのだよ、俺は」
「悪い冗談はやめてもらえないかしら? 大体、あんたはもう孤独になんてなれっこないっての。見てみなさいよ、ほら」
桂花が、陣屋の扉を指し示す。
わずかに開いた隙間。そこから、誰かがこちらを覗いているようだった。視線が合う。驚いたのか、頓狂な叫びが聞こえている。
前線から戻した
「も、申し訳ない、一刀殿。覗く気なんてこれっぽっちもなかったんだけど、その、さ……」
「お兄ちゃん。翠は、ちっとも悪くないよ。栄華さまが、気になるんだったらちょっとだけ扉を開けてみればいいって……、むぐぐっ」
「な、なにをおっしゃいますの、香風さん!? お兄さま、これはそのう……」
三者三様の言い訳が並ぶ。言い繕いたくなるくらいに、今の自分は虫の居所が悪そうに見えるのか。
香風の軽い身体。抱き上げながら、曹操は桂花の言を反駁させていた。孤独になど、なれるものか。そんなことは、自分が一番よく知っているのではないのか。香風のやわらかな頬が触れる。陽射しをたっぷりと吸い込んだ髪の香り。その甘さも、しばらく忘れていたように曹操は思っている。
「つまらない覇者になんて、一刀殿がなる必要はない。あなたに惹かれて、ここにいるみんなは集っているんじゃないか。西涼の片田舎で槍を振るうしか能のなかったあたしだって、そうなんだ。桂花だって、なっ?」
「ふんっ。馬鹿なこと、言わせようとしないでよね。そんな手に引っかかるのは、
「だってー、お兄ちゃん。シャンは、もちろんお兄ちゃんのことが好き。それは、ずっと変わらないんだと思う。だから、ずっとずーっと、一緒にいさせて?」
香風が小さな手を重ねてくる。翠、栄華、それに桂花まで。重なる手は、次々に増えていく。
自分の進むべき道は、この中にこそあると思えてくる。孤独は、昔から好きではない。そんなことは、はじめからわかっていたはずだった。
「お兄さま。袁紹さんと、お会いになってくださいまし。今のお兄さまなら、きっと悪い結果にはなりません。わたくしが保障いたしますから、どうか」
「確証のないことを言ってくれる。だが、いいだろう。袁紹のところに遣いを出しておけ。明朝、こちらから会いに行くとな」
腹積もりはできた。あとは、袁紹の出方を窺ってみるしかない、と曹操は覚悟を決めていた。
不意に、桂花が肩を寄せてくる。先々の全てに、見通しが立っているわけではない。そしてそこに、微塵も不安がないわけではない。軍師として、母として、弱い部分を見せるわけにはいかない。その思いが支えとなって、桂花をここまで連れてきたのか。
「ン……。おかえり、桂花」
「ふふっ。あなたもおかえりなさい、一刀」
自然と笑みがこぼれていた。
冷え冷えとしていた心。融けた雪のように、どこかへと流れていってしまったのか。
勢いよく何度も頷く翠を見て、栄華がおかしそうに笑っている。その声が、今はたまらなく愛おしかった。
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