原野を三頭の騎馬が駈けている。
「しかし意外だな。お主のような女が、陣を引き上げることを容易く受け入れるとは。もう少し、粘って見せるものかと思っていたぞ」
「ふんっ。それは私だって、まだ戦をし足りないと思っているに決まっているではないか。徐州軍の急ごしらえを抜けなかったのは、私の失策でもあるからな。それに、叔父上の仇を、なにひとつ討てていないのだ。悔しくって、当たり前だ」
風に乗って、春蘭の無念が流れてくる。
たぶん、自分に聞こえているのがわかっていて話しているのだろう。胸の内に留めておけるような思いではない。誰かに聞かせることで思いは昇華し、天にすら昇っていけるのかもしれない。
父には、今の自分の姿がどう映っているのだろうか。考えても意味がないが、そんなことがふと頭を過ぎっていく。春蘭が溜めに溜めた感情を吐き出し、それを星が静かに聞いている。袁紹の陣まで、あと二里(約八百メートル)もないはずだった。到着までに、心のわだかまりにけりをつける。それがわからない春蘭ではないと、曹操は知っている。
「殿が、われらに帰って来いと命じられた。私には、それで十分だったのだ、星よ。というか、むしろ貴様はそうではないのか? まさか、殿がもういいとおっしゃられているのに、闘いを続けるというのではあるまいな」
「おかしな勘繰りはよせ、春蘭。主の御意志のない戦場に、わが槍は輝かぬよ。短くない付き合いなのだ。そのくらいは、わかってくれているものだと決めつけていたのだが」
「む、無論ではないか! ……っと、あれがそうか」
春蘭の発していた気勢が、段々と小さくなっていく。
前方に見えているのは、無数に並んでいる『袁』の一字の旗。この旗の間を通り抜けるのは、連合軍の一員として董卓と闘った時以来だった。
殺気立つような雰囲気はない。
「アニキ! 曹操のアニキじゃんか!」
厳粛だった雰囲気を突き破り、文醜が走り寄ってくる。
尻尾があれば、きっと縦横に振りまくっている。そのくらいの機嫌の良さを、文醜は見せていた。
「姫ってば、起きてからずっとそわそわしちゃってさ。アニキが来るの、待ちきれないんだよ」
「信じがたい話ではあるが、おまえが言うのだから嘘ではあるまい。案内を頼めるか、文醜」
「へへっ、もちろんだっての。ほら、こっちだぜ」
早足気味の文醜を追って、陣の中を縫うようにして進んでいく。
袁紹とは、長らく顔を合わせていない。書簡のやり取りを時々していたくらいで、それも極めて事務的な内容だった。
「さて。どう出てくるかな、あいつは」
特徴的な金髪が見えてくる。丁寧に巻かれた長い髪だけは、いつ見ても見事なものだった。
具足をつけていないのは、こちらに合わせてのことなのか。周囲にいる兵はまばらで、意識して近くにいるのは顔良だけという状態だった。
足を止める。手を伸ばせば、触れられるくらいの距離に袁紹がいる。気さくに声をかけようとは思わなかった。袁紹もそうなのか、ちょっと出方を伺っているような感じがする。
「あの、姫?」
たまらず、顔良が背中を押す。
それで、乳房を押し上げるように腕を組んでいた袁紹がようやく口を開いた。
「みじめですわね、曹操さん。考えなしの戦をして、領土まで失ってしまわれるなんて。ほんとうに、みじめだとしか言いようがありませんわ」
「ここへは俺を嗤いに来たのか、袁紹。だったら、すぐに兵をまとめて冀州に帰るがいい。領土を回復したら、今度はおまえを叩き潰す。守りを固める時間くらいくれてやってもいい。かつて友誼を結んだ仲だ、その程度の加減はしてやるさ」
それまで和やかだった雰囲気が、急速に冷え込んでいく。
顔良と文醜もわけがわからないといった感じで、顔色を青くしてしまっていた。
やはり、こうなってしまうのか。決別するならするで、構わないと思っていた。所詮、自分たちは相容れない仲だった。それさえはっきりしてしまえば、あとはなんの躊躇もいらなくなる。
失ったのは鄄城だけではない。報告通りであれば、兗州の半分ほどを奪われてしまっているような状況だった。呂布軍が主体となってできるようなことではない。叛乱勢力の中心になっているのは、あの張邈だった。
「ふうん。もっと暗く沈んでいるとばかり思っていましたけど、意外と元気なのですわね。ふふっ、わたくしちょっと安心いたしましたわ。あなたの辛気臭いお顔なんて、正直見ていられませんもの」
「なにを考えている、袁紹。荀彧から話は聞いている。徐州の諸葛亮からも、援軍を請われているのだろう? それなのに、どうして両軍とぶつかるような真似をした。漁夫の利を狙えるような器用な女ではあるまい。おまえの性格なら、俺もよくわかっているつもりだ」
「むっ……、失礼なお人ですわね。ですが、まあ許して差し上げましょう。せっかく、あなたから会いに来てくださっているんですもの」
袁紹が、指に巻き癖のついた毛先を絡めている。
なにか躊躇っている言葉がある。その仕草を、曹操はそのように捉えていた。
場の空気が和らいでいる。もう少し、話を続けてみてもいいと思った。袁紹の視線。地面と自分とを交互に見つめている。剣呑さはとっくに消え去っていて、あとにはどこかあどけない迷いの表情が張り付いているだけだった。
「あの日交わした約束のこと、忘れていませんわね、曹操さん?」
「荀彧をさらった時のあれか。それならば、覚えている。おまえの言うことを、俺がひとつなんでも聞く。確か、そんな約束だったな」
「ええ、その通りですわ。そ、その約束、今ここで果たしていただこうではありませんか。異論があるだなんて、言わせませんわよ」
言いながら、麗羽はますます自慢の金髪を絡め取っていく。
約束は約束で、反故にしてしまうつもりはなかった。事実、袁紹の助力がなければあそこまで上手く桂花を奪えなかっただろうし、宦官たちもずっと食い下がろうとしてきたはずだ。
控えている春蘭と星が、こちらをまじまじと見つめている。簡単に言うことを聞いてしまってほんとうにいいのか。そんな危惧を、二人は感じているのだろう。
「いいだろう袁紹。おまえの望みを、ひとつ聞いてやる。遠慮など不要だ。気にせず、言ってみるがいい」
「わ、わかりましたわ。それではいきますわよ、曹操さん?」
袁紹が、巻き付けた髪をようやく解放する。
なにか心に決めていることがあるのか。その眼差しは真剣で、訴えかけてくるような迫力が存在していた。
「んっ、こほん……。その……、わたくしを娶ると、この場で誓いなさい。よろしいですか? わたくしを、あなたのお嫁さんにするのです。か……、一刀さんの、お嫁さんにです」
一瞬、袁紹がなにを言っているのか判別できなかった。
それは文醜たちも同じだったようで、それぞれ似たような呆れ顔で固まってしまっていた。
わたくしを娶りなさい。袁紹は、確かにそう言ったのか。眼の前には、顔を真っ赤にしている女がいる。その姿を見ていれば、自分の解釈が正しいのだと嫌でも理解できてしまう。
次の瞬間、腹の底から曹操は笑っていた。こんなことが、現実としてあり得てしまうのか。予想の範疇を越えるといった意味では、袁紹以上の女は存在しないのかもしれない。
自分の返答を、袁紹は小さくなって待っている。約束は守る。そう言い聞かされていても、不安が上回ってしまうのか。かわいい女だ、と素直に思えた。
「はははっ。自分を娶れとは、おそれいった。なるほど、それでこそ袁紹本初ではないか。まったく、これほど愉快なことが、世の中にあるとはな」
「な、なんですの、曹操さん。わたくし、決死の覚悟で告白しましたのに。それを笑うだなんて、あんまりです」
袁紹が、
決意のどこにも嘘はない。美しい涙だと思った。一歩近づき、麗羽の肉付きのよい身体を抱きしめる。そして、有無を言わさず口唇を奪った。
「んっ、んんっ、ふむぅううっ……」
麗羽が驚いたようにくぐもった声を洩らしている。
ここにいる全員に、見せつけてやるつもりだった。曹と袁。この時をもって、二つの家は結びついたことを知らしめる。恥ずかしがって出て来ない舌先。吸い上げ、唾液を塗りたくった。麗羽は、自分がなにをされているのかよくわかっていないのかもしれない。あるいは、夢の中にいるとでも思っているのだろうか。
甘い吸い付き。ゆっくりと顔を離すと、麗羽の口からだらしなく涎が垂れ落ちた。顔良と文醜の二人は喜びを爆発させている。麗羽の家中の大半は、自分たちが結びつくことを望んでいたのか。反対するような騒ぎはどこにもなく、祝福するような声が多く聞こえている。
「徐州との戦をやめろ、などとのたまうのであれば、おまえを斬ってしまうつもりだった。しかし、はははっ。さすがに、袁家当主ともなれば言うことが違う。敗けたよ麗羽。この戦、俺の完敗だ」
「ふえっ……? んんっ、一刀さん……」
身体に上手く力を入れられないのか、麗羽は自分にもたれかかったままになっている。
ずっとこうしているわけにはいかない。意図を察してくれたのか、顔良が奥に向かって歩いて行く。陣屋でひと休みすれば、麗羽も冷静さを取り戻すのだろう。落ち着いてからしか、できない話もある。まだ、帰ってしまうわけにはいかなかった。
「やれやれ、とんだ強敵の出現ということですか。主よ、私と夏侯惇は先に帰陣してもよろしいですかな? どうせ、夜まで乳繰り合うおつもりなのでしょう、袁紹殿と。いや、明日の朝までと言った方が正しいのでしょうか」
「そうしてくれ。迎えは……、たぶん寄越さなくていい」
麗羽が耳もとで、うわ言のように自分の真名を繰り返し呼んでいる。
情欲の炎が揺らめき立つ。すぐにでも熱をぶつけ合いたいと思わされてしまうくらい、かわい気のある声だった。豊満な女体。そして、複雑に入り組んだ心までもが、自分のものになったというのか。
まだ、どこかに信じられないという気持ちが残っていた。一夜を深く過ごせば、そんな疑心もきっと消えてなくなる。
愛おしい重み。全身で感じながら、曹操はひとりでに笑っていた。
袁紹
幼少期からの友である曹操に恋心を抱くが、反董卓連合の離脱以来、二人のすれ違いは長く続いた。
曹操の徐州攻めに対し、軍勢を送り込むことを決意。劉備軍との戦に割って入った袁紹は、やがて思いのすべてをぶつけて、曹家を支える柱石のひとつとなった。
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